インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

脱いだらすごいんです

不定愁訴(ふていしゅうそ)」という、文字面のインパクトが半端ではない言葉があります。特にこれといった病気ではない(らしい)ものの「なんとなくしんどい、体の調子が悪い」という状態のことです。いちばん有名なのはいわゆる「更年期障害」だと思いますが、これは女性のみならず男性にもあるらしく、それが常態化すると本当に辛い。じわじわじわじわ……と体の不調が続くのです。ちょうど2年前の私がその状態でした。

偏頭痛や肩こり、腰痛は若い頃から時々悩まされて来ましたが、「更年期」に入ってそこに体のだるさや膨満感、頻繁におこるあくび(といって眠いわけではない)、のぼせのような症状が加わりました。さらに肩こりが悪化して夜も寝られないほどになり、腰痛治療のためのカイロプラクティック通いが頻繁になり、だるさで仕事の効率が目に見えて落ちるに至って、ようやく決心しました。「運動しよう。これはもう身体を動かすしかない」と。

もともと運動やスポーツが苦手で、身体を動かすのが億劫で仕方がありませんでした。通勤途中、申し訳程度にひと駅分やふた駅分ほど歩くというようなことはやっていましたし、食事もほとんど自炊で食材にも気をつかってはいたのですが、もうそんな程度では解消しないくらい不定愁訴がひどくなっていたのです。それで、人づてに知った小さなトレーニングジムに通い始めました。基本的には運動選手の調整を行なっているジム兼治療院なのですが、運動選手以外の私みたいな人にも一対一で体幹レーニングや「筋トレ」を指導してくれるのです。

それからは最低でも週に二回、多いときは三回も通うほど「ハマって」しまいました。ひとつにはマンツーマンだから「相手がいる」ということでサボりにくくなるのが良かったのだと思いますが、なんと言っても不定愁訴がみるみる解消されていくその爽快感が大きかったと思います。最初は「全く動いていません」と言われた肩甲骨が、現在では「気持ち悪い」と言われるくらいぐりぐり動くようになり、気がついたら肩こりがほとんどなくなっていました。

中年のおじさんに特有のぽっこりしたお腹はなかなか引っ込みませんが、それでも多少はジーンズやパンツの腰回りがゆるくなりました。トレーナーさんによると、お腹は一番贅肉がつきやすく、かつ一番贅肉を落としにくい部分なのだそうです。確かに腕や足と違って、大きく大胆に動かすことができないですからね。

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https://www.irasutoya.com/2018/10/blog-post_87.html

不定愁訴が鳴りを潜めてからは、「何歳になっても筋肉は成長します」というトレーナーさんの甘言(?)に乗せられて、筋トレもはじめました。筋トレをして多少なりとも筋肉がついてくると「せっかくあれだけ苦労してつけたんだから」という心理が働くのか、食べるものも「高タンパク低糖質」を心がけるようになります。家族の分も一緒に作っているのであまり極端なことはできませんし、する気もないのですが、ご飯や麺類を「ど〜ん」と食べることはなくなりました。

先日、職場の健康診断があったのですが、この1年で体重が5キロ近く増えていました。ジムに通っていて、炭水化物の摂取を減らしたのに太っちゃ世話ないわと言われそうですが、お腹周りはさほど変わらないのです。つまり筋肉がついた分だけ体重が増えたんですね。なのに昔からの中肉中背という外見はほとんど変わっていないところが面白い。だから周囲からも「そんな、ボディビルみたいなことやって、マッチョになってどうするの」みたいなツッコミは全く入りません。外見的にはほとんど変わらないのですから。

それでも、先日スポーツマッサージみたいなのを受けたときには、施術してくださった先生から「着痩せするタイプですね」と言われました。外見からはあまりわからないけれど、肩や胸や背中にけっこう筋肉がついていますねと。おお……これからもトレーニングを頑張ろうと思います。そしていつか、一度言ってみたかったこのセリフを言うのです。「私、脱いだらすごいんです」。

「通訳訓練でマスクを外さない」のは是か非か

あちこちの学校で教える立場に立っていると、いろいろな生徒さんに出会います。私が奉職してきたのは主に職業訓練的な学校で、仕事に直結させるスキルを訓練する場所なので、そこに通う生徒さんたちは当然「その職業につくためにはどうすればよいか」を真剣に考えているはずです。ところが、ときどきそれとは真逆の学び方をしている――つまり、とてもその職業につきたいと思っているようには見えない方がいらっしゃるのです。

でもまあこれは、あまりにも功利主義的な見方かもしれません。そして私自身が、かつてそうした職業訓練的学校に通った際、その仕事になんとしてでもつきたいとガツガツしながら学ぶことを良しとしてきた人間だから、そう感じるのかもしれません。例えば通訳学校だったら、通訳者としてデビューできるためにはどうすればよいかを考える。そのために私が重視したのは「講師の先生の覚えがめでたくなる」ことでした。というわけで、私は先生方の様々なアドバイスを素直に愚直に実行していました。

「日頃から現場に出ているつもりで訓練してください」と言われたので、学校には必ずスーツ姿で通っていたというのもそのひとつです。通訳学校の授業は週末に行われていることが多く、生徒さんたちは大概ラフな格好で登校してきます。そのほうがリラックスして訓練できそうですし。でも私は毎回スーツにネクタイで登校していたのです。Tシャツにサンダル履きではいい訳出ができないような気がして。先生のアドバイスを素直にどころか、その先生すら「そこまで言ってない」とおっしゃりそうな勢いですが、通訳者デビューに一歩でも近づけることならすべてやってみようと必死だったのです。

しかも、あわよくば授業後に「今日は午後から現場に出るけど、あなたも来る?」と誘われたい、そのためには常にスーツで望むほうがイザというときに慌てなくて済む……とまで考えていたのは、ここだけの秘密です。まあ、結局そんな機会は一度も訪れなかったんですけど。とまれ、昨今の生徒さんにここまでガツガツした方はいません。みなさんもっと常識的というか、よく言えば自分なりのペースで淡々と、わるく言えば「石にかじりついても」というハングリーさがない、という感じです。

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https://www.irasutoya.com/2016/10/blog-post_719.html

学習のスタイルは人それぞれですから、私がとやかく言うことではないのですが、ひとつだけ昔から解せないのが、通訳訓練なのにマスクをしてきて、それを授業中も外さない方がときどきいらっしゃることです。通訳という作業はまず第一にサービス業ですし、第二に「人様に自分の声を届けてナンボ」の世界なので、マスクをしたままではその作業に大きな支障があると考えるはずなのですが、なぜかマスクを外さない。なかにはかなり大きなマスクで顔の大部分を覆って、目だけ出しているような方もいます。

これは非常に興味深い現象だと思っています。もちろんマスクをするのは、現在風邪をひいているからとか、乾燥気味の気候から通訳者にとって大切な喉を守るためとか、あるいは単に恥ずかしがり屋さんだからとか、その方なりの合理的な理由があるのでしょう。あるいは、ここは訓練の場であり、仕事の現場ではないのだからマスクをしていても構わない(仕事に行ったら当然はずす)と考えているのかもしれません。

でも私は、その「通訳訓練でもマスクを外さないというその方なりの合理的な判断」には何か非常に大きなものが欠けているような気がします。それは通訳という作業が、基本的には人と人とのコミュニケーションの仲立ちをする作業であり、通訳者はコミュニケーションを成立させることに対して人一倍貪欲であるべきだと思うからです。顔の全体を覆ってしまうような大きなマスクの後ろに隠れている姿勢からは、目の前にいる人の言っていることを何としてでも違う言語の人に伝えてあげたいという「熱」のようなものが感じられないのです。

とはいえ、それも私の一方的な決めつけであるかもしれません。先日は、ついに「大きなマスク+深々とかぶった帽子」という方に出会いました。以前はそういう方に対して「訓練なのでマスクと帽子をとってください」と注意していましたが、最近は言わないようにしています。たぶんその方なりの理由があるのでしょうし、あるいは何かの病気の療養中であるとか、そういったケースも考えられますからね。

料理に合わせるノンアルコールの飲み物・その3

歳を取ってあまりお酒が飲めなくなったので、食事の際に飲めるノンアルコールドリンクをあれこれ探している……というお話の続きです。

qianchong.hatenablog.com
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これまで、スーパーなどで見かけるノンアルコールのビールはほぼ全種類、他にも「酔わないウメッシュ」やら「のんある気分」やら、ありとあらゆるノンアルコールドリンクを試してきたのですが、ひとつとして(開発者のみなさま、本当にごめんなさい)、どれひとつとして「おいしい」と思えたものはありませんでした。甘すぎたり、やたらに「ケミカル」な味わいがしたり……いまのところ、スパークリングミネラルウォーターを超えるものには出会えていません。

……と、昨日は「cakes」でいつも拝見している林伸次氏の「ワイングラスのむこう側」で、こんな話題が紹介されていました。

cakes.mu
この記事では、プロのバーテンダーでワインバーの店主でもある林氏が「ヴィンテンス・シャルドネ」というベルギーのワインを推しておられます。「シャルドネの味、すごくします」って。早速ネットで検索してみたら、Amazonでも売ってました。

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ヴィンテンス・シャルドネ

でも、レビューを読んでみると、やはりけっこう甘めのよう。ノンアルコールドリンク、それも「ワイン系」で甘くないのを探しているので、ちょっと落胆しています。まあ、ぶどうの糖分が発酵によってアルコールに転化したものがワインなんですから、そもそも「ワイン系」で甘くないノンアルコールを、というのが詮無い望みなんですけど。

林氏は「note」でも、実際のお店で出しておられるというノンアルコールドリンクを紹介されています。
note.mu

しかし、そもそもの話として「cakes」の記事でも林氏がおっしゃっているように、ノンアルコールドリンクはあまり多くを飲めません。言い換えれば、食事に合わせてお酒を何杯も飲めるのは、実はアルコールの作用があるからなんでしょうね。よくビールで太るといいますけど、あれは実はビールが食欲を刺激して、ビールに合わせてたくさん食べ過ぎちゃうからだという話を聞いたことがあります。

ならもう、いいかげんお酒に対する煩悩はきっぱりと断ち切ってしまえばいいんですけど、なんだかこう人生の大きな楽しみみたいなものがバッサリと切り落とされてしまうようで、いまだに未練がましくあれこれ探しています。

フィンランド語 46 …単数形の入格と複数形の入格

複数形については、これまで二種類の形を学びました。ひとつは主格や対格の複数形で、目印は「t」。例えば「kuka(花)」なら複数主格が「kukat」、複数対格も「kukat」です(複数形の主格と対格は同じ形)。もちろん「ie子」の語幹変化や「kpt」の変化(子音交代)も起こるので、例えば「kirkko(教会)」なら「kirkot」、「kieli(言語)」なら「kielet」、「suomalainen(フィンランド人)」なら「suomalaiset」などとなります。

もうひとつ学んだのは、内格・出格・所格・離格・向格・変格・様格の複数形で、目印は「i」。これらは「ie子」や「kpt」の変化を済ませたあとに「i」を足し、さらに「母音交替」が起きるのでした。

qianchong.hatenablog.com

そして今回新たに学んだのが、入格の複数形です。まず、入格の単数形を復習しました。

単数入格

基本的には単語の最後の母音を伸ばして「n」をつけるという作り方ですが、大きく三種類に別れていました。また入格は「kpt」の変化をさせないというのも特徴でした。

●kirkko(教会)※語幹の最後が短母音の場合。
①語幹はそのまま「kirkko」。
②最後の母音を伸ばして「n」をつける。つまり「kirkkoon」。

●maa(国)※語幹の最後が長母音で単音節の場合。
①語幹はそのまま「maa」。
②最後の母音を伸ばして「n」をつけると「maaan」になる。
③「aaa」と三重母音になってしまうので、間に「h」をはさむ。つまり「maahan」。

●lentokone(飛行機)※語幹の最後が長母音で複数音節の場合。
①語幹は「e → ee」なので「lentokonee」。
②この場合は「seen」をつける。つまり「lentokoneeseen」。

ただし、長母音でも二重母音でもないと見なされる「io」や「eo」は「i/o」「e/o」と考え、最後の母音を伸ばして「n」をつけるだけです。例えば「museo(美術館・博物館)」は「museoon」になります。

複数入格

これらが複数になると、まず語幹を求め、さらに「i」を足すことで母音交替が起こります。「kpt」の変化がないのは同じです。

●kirkko(教会)
①語幹はそのまま「kirkko」。
②「i」をつける。母音交替の法則により語尾の「o」は不変化なので、母音を伸ばして「n」をつける。つまり「kirkkoiin」。
③「oii」と三重母音になってしまうので、間に「h」をはさむ。つまり「kirkkoihin」。

●maa(国)
①語幹はそのまま「maa」。
②「i」をつける。母音交替の法則により語尾の「aa」は前の母音が消えるので「mai」。母音を伸ばして「n」をつける。つまり「maiin」。
③「aii」と三重母音になってしまうので、間に「h」をはさむ。つまり「maihin」。

要するに「hin」をつけるということかしらと思いますけど、例えば「pieni(小さい)」は「piene → pienei → pieniin」となるから油断は禁物です。「saari(島)」は「saariin」、「uusi(大きい)」は「uusiin」になるので、語幹が「e」で終わるものは結局辞書形の最後を伸ばして「n」ということになりそうです。

辞書形 単数入格 複数入格
pieni pieneen pieniin
saari saareen saariin
uusi uuteen uusiin ※複数語幹は「uuse」。

●lentokone(飛行機)
①語幹は「e → ee」なので「lentokonee」。
②この場合はさきに「siin」をつける。つまり「lentokonee + siin」。
③語幹の最後に「i」をつける。母音交替の法則により語尾の「ee」は前の母音が消えるので「lentokonei」。というわけで「lentokoneisiin」

同じように「osoite(住所)」は「osoitteisiin」、「vieras(見知らぬ)」は「vieraisiin」なので、要するに複数音節以上の言葉で、語幹の最後に長母音が出てくるものは「isiin」をつけるということですか。

先生によると入格はことのほか多く用いられるそうで、それは目的語に入格を取る動詞があるからなんですね。例えば「tutustua(知り合う)」もそのひとつで……

Hän tutustui moniin mielenkiintoisiin ja hauskoihin ihmisiin.
彼女は多くの興味深くて面白い人々と知り合いました。

……などと、目的語が入格のオンパレードになります。「moni(多くの)」「mielenkiintoinen(興味深い)」「hauska(面白い)」「ihminen(人)」が全部複数入格になっているんですね。「人」が「人々」と複数になるのは分かりますけど、それにつられて他の形容詞も全部複数になるというのが日本語にはない発想で面白いです。「多々の、興味深々い、面白々い、人々」という感じ?

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Minä kävin moniin pieniin kauniisiin kirkkoihin viime kuussa.

語学と教養は裏切らない?

いま勤めている学校では「クラス担任」というものを拝命しております。うちは専門学校でして、通っている留学生諸君は全員二十歳代から三十歳代の成人です。義務教育ではなく、大人が自分の意志で学びを選択する場所なので、いわゆる生活指導的な役割を果たす「クラス担任」などいらないんじゃないかと個人的には思っているのですが(進路指導や、在留資格などの事務手続きについては別の専門職員がいます)、まあそこはそれ、学校全体の教育方針もありまして、様々な通知や出欠管理など日常的な業務の他に、学習や生活上のお悩み相談的な役割も受け持っています。

現在担当している留学生のみなさんは、とても真面目でほとんど手がかからないのですが、ひとりだけ出席率の芳しくない台湾人留学生がいまして、先日教員室へ「呼び出し」ました。最近の休みがちな状況について「どゆこと?」と問いただしてみたわけです。学生時代にはちょくちょく「呼び出され」ていた私が「呼び出す」立場になるなんて感慨深いものがあります。とまれ、ご承知の通り、留学ビザで日本に在留している外国籍のみなさんは学業が本分ですから、学校の出席状況や資格外活動(アルバイトなど)についてはけっこう厳しい規定なり縛りなりがあるのです。

話を聞いてみて分かったのは「とある資格試験を受けるために勉強していて、さらにアルバイトもやっているので、忙しくて……」ということでした。それでちょくちょく遅刻したり、欠席したりしていたわけです。その資格はアルバイト先の業務に関連するものだそうで、さらにはそのアルバイト先の会社が卒業後の就職先になるかもしれないということで、いま必死で頑張っているとのことでした。

なるほど、と背景は理解しました。しかしまだまだ日本語も拙くて(だいたい上記の状況説明も「センセ、中国語で話していいですか」だったのですから)、だからこそ学校に通って、仕事に使えるレベルの日本語までブラッシュアップしようとしているのに、それもそこそこに資格試験を目指し、アルバイトを就職先にしようと画策している……焦る気持ちはよくわかりますが、ちょっと二兎も三兎も追いすぎじゃないかな、と思いました。

日本の社会や経済がこんな「体たらく」でも、卒業後は日本に残って働きたい、あるいは日本と関係のある母国の企業に就職したいと希望してくださる留学生は多いです。ありがたいですが、そうした留学生が日本で就職活動をする際に、一番大きなアドバンテージになるのは何だと思われますか。それは、聞き手にストレスを与えない日本語ではないかと思います。

もちろん専門の知識やスキルも必要ですし、本来であれがそれこそが重視されるべきなのですが、実際には専門の知識やスキルよりもまず、自然でなめらかな日本語のアウトプットが重宝される傾向にあることは否めません。日本社会は、社会全体をほぼモノリンガルで回すことができ、したがって「外語を学び、複数の言語をスイッチしたり母語と外語の往還をしたりする、その難しさや奥深さを分かっている」という方が圧倒的に少ない。そんな日本では表面的な日本語の聞きやすさに偏って採用を決めるケースがけっこう多いように思われます(決して良いことだとは思いませんが)。

qianchong.hatenablog.com

くだんの留学生は、日本語の実力的にはまだまだ発展途上で、お世辞にも流暢とは言えません。だから「もっと腰を据えて日本語力を強化したほうが、あとあと自分のためになりますよ」と分かってもらいたかったのですが、とにかく就職先の「内定」が欲しくて資格試験突破に前のめりになっている彼には、あまり通じなかったようでした。こうした二兎も三兎も追う、あるいは虻と蜂を同時に追うような方は存外多いです。

大学の教員をしている知人によれば、現在は大学生でも、一年次からダブルスクール的に資格試験の学校に通っている人がまま見られるとのことです。非正規雇用の増加など、就活生が前のめりになる要素が満載のこの時代ならではとは思いますが、学生時代に養うべきなのはそんな小手先のスキルなのでしょうか。

かつて、故・瀧本哲史氏が『僕は君たちに武器を配りたい』で喝破されたように「コモディティ化」した資格で予防線を張るよりも、日本語(留学生の場合)や、教養(リベラルアーツ)を深めることこそ大切なのではないでしょうか。それが一見迂遠なようで、実は自分の将来を大きく開くための「武器」になるのではないかと思うのです。

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僕は君たちに武器を配りたい

資格試験に前のめりになる学生に話を聞いてみると「なぜその資格なのか」を考え抜いている方が少ないことに驚きます。就職に有利だから、みんなが目指しているから、人気の資格だから……理由は様々に語るのですが、AIの進化で、かつては就職先人気ランキングのトップだった銀行や証券会社の斜陽が伝えられ、医師や弁護士、会計士といった難関資格でさえその現在と未来が決してこれまでと同じではないことは、ちょっと新聞や最新の書籍にあたってみれば分かることです。

それに比べて語学(資格の数やスコアではなく、本当に使える「肉体化」された語学)と教養は、一生あなたを裏切らないと思いますよ……と言ってあげたいのですが、「高学歴ワーキングプア」などという言葉まで生まれている現在の日本社会を前にした学生のみなさんには、うつろに響くだけなのかもしれません。

惰性で塩辛いものを食べている

昨夜のNHKで放映されていた『ガッテン!』、たまたま見たのですがとても面白い内容でした。テーマは「減塩」。私はここ数年高血圧気味で、なおかつ東京の外食や加工食品の塩辛さがつらくてほとんど自宅で自炊しているので、その点でも興味深く見ました。

www9.nhk.or.jp

英国の総合学術雑誌『Nature』に掲載された、「塩を振るという行為は習慣であり、人々は惰性で塩をかけている」という研究結果や、減塩食品の美味しさのカギが「納豆のネバネバ成分」だという話題も面白かったのですが、一番興味をひかれたのは、英国政府の減塩に対する取り組みです。

英国では、国民の健康対策という観点から塩分摂取量を減少させる取り組みを続けてきたそうで、例えば意外にも多いというパンの塩分含有量を、パン業界とも協力して少しずつ(国民に気付かれないように)減らしてきたとのことです。またスーパーなどで売られている加工食品などの成分表を、信号機のように色分けして表示する方式にして、視覚的にもナッジ(nudge:人々が強制によってではなく自発的に望ましい行動を選択するよう促す仕掛けや手法)を効かせるようにした結果、心筋梗塞脳卒中の死亡率が四割も減るなど効果を上げているよし。

www.asahi.com

上記の記事によれば、英国のこの「信号」方式は食品100gあたりの含有量に基づいているため、摂取量が一般的にそれほど多くないと考えられる食品については赤信号が出やすいといった注意点もあるようです。それでも、ひと目で成分含有量と1日の摂取基準に占める割合がわかるこのシステムはとてもいいなと思いました。

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※日本高血圧学会「栄養成分表示における食塩相当量(g 単位)の表示義務化要望について」より。
https://www.jpnsh.jp/data/salt05.pdf

日本でも「改善」が進んでいないわけではありません。かつて日本高血圧学会は「食塩相当量」の表示義務化を求めていましたが、これは2015年に「食品表示法」が施行されて、実現しています。加工食品などのパッケージを見ると分かりますが、「熱量(カロリー)・タンパク質・脂質・炭水化物」に加えて「食塩相当量」の表示が義務化されています。あとはここに、英国のような信号表示が加わるといいですね。でも、消費が抑制されるとメーカー側が反対するかもしれませんが。

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https://www.irasutoya.com/2014/09/blog-post_82.html

番組でも指摘されていましたが、一般的に日本人は塩分を摂りすぎなんだそうです。これは外食や加工食品の塩辛さ・味の濃さにほとほと困っている私にはとてもうなずけます。外国のお客さんを案内しても、みなさん気を使ってあまりおっしゃらないけれど、本音のところでは「ちょっと塩辛い」と感じている方が多いように思います。

とりあえず私は、番組で紹介されていた醤油用のスプレー容器を購入することにしました。これを使うと、通常の十分の一ほどの量でも美味しく食べることができるんだそうです。「惰性」で塩辛いものを食べている習慣をちょっとした工夫で避けることができるわけです。

というわけで早速Amazonで渉猟してみましたら……多くの商品がすでに「在庫切れ」や「入荷まで1〜2ヶ月」などとなっていました。テレビ番組の影響力は依然ものすごいものがあるんですね。そしてみなさん減塩に関心を持ってらっしゃる。なのに東京の外食がどうしてあんなに塩辛いままなのか、謎です。

▼これなど、なかなか素敵ですね。
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有田焼白磁減塩スプレー醤油差し

図書館のリサイクル本から拾った『中国故事』

先日、勤め先の学校の図書館に行ったら、入り口のところに「ご自由にお持ちください」と「リサイクル資料」が何十冊も並べられていました。文献としてすでに古くなったものや、時代遅れになったもの、新版が出て要らなくなったものなどを処分しつつ、定期的に書籍を処理して書架のスペースを確保するためだと思いますが、その中に角川選書の『中国故事』という本を見つけました。飯塚朗氏の著作です。

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中国故事 (角川選書 71)

お名前を拝見して、あれ、もしや……と思いネットで検索してみると、はたして余華の『活きる』など中国文学の翻訳でも有名な飯塚容氏のお父様でした。それはさておき、この『中国故事』には、長い歴史の中で日本語にも入ってきた様々な故事成語や諺などが軽妙な解説とともに収められています。「膾炙」「杜撰」「推敲」などに始まって、「漁夫の利」や「日暮れて道遠し」「覆水盆に返らず」、さらには能楽にもなっている「王昭君」「楊貴妃」「邯鄲の夢」などなど、普段使っている様々な日本語の語源をたどることができて、とても面白い。この本を除籍にしちゃうなんて、もったいないなあと思いました。

とはいえ、確かに現在から見るとやや古いトピックが使われているなと思う部分もあります。一般向けの軽妙な解説なので、その時々の世相を反映した記述が色々と出てくるのです。例えば高度経済成長時代の終わりあたりに流行した言葉の「過保護」をはじめ、「何十年ぶりで南の島のジャングルから帰った元日本兵」とか「集団就職」とか「スモッグ」とか「最高裁があるんだ!」とかですね。それもまあ面白いのですが、ひときわ目を引くのは「日中友好」とか「中国人民」とか「新中国」という言葉のほかに、「文化大革命」などに触れた記述が時々あることです。

急いで奥付けを見てみれば、この本の初版発行は昭和49年、つまり1974年。日中共同声明によって「国交正常化」がなされた1972年からほどない頃で、中華人民共和国はいまだ文化大革命(の長い惰性のような)時代でした。ですから例えば「大義親を滅す」の項では「最近でも中国語の文化大革命後、林彪が失脚したが、お嬢さんが密告したというような噂があった。これまた『大義親を滅した』のかも知れない」と結ばれていたりして「時代だなあ……」となかなか感慨深いものがあります。

さらに面白いとおもったのが、「最近の中国の書物では」とか「最近の中国書が教えるところでは」などの記述があちこちに見えることです。そこでは例えば「杞憂」の項で「この寓言の意味するところは、憂いとするに当たらぬ憂い、ということにかぎらず、当時の人が天地現象に関心をもち、それを解こうとしていることを描いていて、それこそ素朴な唯物観点の表現である、と書いている」と「最近の中国」の解説を紹介しています。そして飯塚朗氏自身はそれに「はたしてそうだろうか?」と疑問を呈しておられるのです。

「朝三暮四」の項でも、「最近の中国書」から「狙公の愚弄は、搾取階級の用いるものだ」という見解を紹介していて、それに飯塚氏は「そうなると狙公がブルジョアで、猿がプロレタリアか。あるいは狙公がインテリ、猿が愚民とも考えられ……」と大真面目にツッコむような解説が入っています。飯塚氏はきわめて温厚な筆致で書かれていますが、やはりこれは当時の「イデオロギッシュ」な中国の研究書に対する困惑と批判が込められたものではないでしょうか。

当時の書籍は、例えば有名な子供向け科学解説書シリーズの『十万个为什么(十万個の「なぜ」?)』でさえ、プロレタリア文化大革命的価値観で自然科学を論じるというような、現在から見れば非常に興味深い現象がありました。飯塚朗氏のこの古い本からも、そうした時代の背景を垣間見ることができて、本題の「故事」解説ともども楽しく読みました。そしてまた、研究者の健全な批判精神というものについても、色々と考えさせられるものがあったのでした。

芸談としての『言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』

現在、留学生向けの「東アジア近現代史」という授業を担当しているのですが、先日は古今東西プロパガンダに関する生徒の発表でした。みなさんとても興味深いプレゼンを展開していて逆にこちらが勉強になるほどです。そのなかで、参考資料としてYouTubeの映像を見せたいという留学生がいたので、私が自分のパソコン画面をスクリーンに投影してYouTubeのトップページを開いたところ……最初に出てくる「あなたへのおすすめ」映像が軒並み漫才コンビ・ナイツの動画になっていて、ちょっと恥ずかしい思いをしました。

そう、私はナイツの漫才が大好きで、よく通勤電車で聴いているのです。特に仕事で疲労困憊して帰るときなど、ナイツの話芸に引き込まれることで疲れを忘れるんですね。それほど頻繁に聴いているので、YouTubeが「おすすめ」してくれたというわけです。そんなナイツ・塙宣之氏による『言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』を読みました。

塙氏が普段から漫才の技術論について語っているのは知っていましたが、ここまで細かく自分の芸を、そして他人の芸を研究しているとは……あらためて人気のあるプロ漫才師の力と、その舞台裏での努力のほどを知りました。これはひとつの、とても秀逸な「芸談」だと思います。

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言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか (集英社新書)

私はお笑い芸が好きですが、なかでも「正統派」の「しゃべくり漫才」が大好きです。とはいえ昨今の、大声と超早口で、派手な奇矯なふるまいと言動による、ツッコミがボケを叩きながら行われるような漫才はあまり好みではありません。

中国語圏の漫才とも言われる“相聲”は、一人で演じるもの、二人で、あるいはそれ以上で演じるものなど様々なパターンがありますが、基本的には言葉の芸術というスタンスを崩しておらず、そこが大きな魅力です。“語言精華(言語の精華)”という形容もあるくらいで、言葉の可能性を徹底的に研究し、練り上げた、素晴らしい話芸。私はナイツの、どちらかというとローテンションで、暴力的なところがほとんどない漫才にも同じようなスピリットを感じます。

芸人は自分の芸を語るな、芸を極めることにだけ専念していればいいんだ、という意見もあるでしょう。でも、私はちょっと違うなと思うのです。そりゃ駆け出しの芸人さんが「芸とは……」などと語りだしたらおかしいかもしれないけど、ある程度の実績を積んだら、自分の芸を言語化する試みをしてほしい。それが次世代への責任ではないかと思うのです。世阿弥だってそうやって『風姿花伝』などの伝書を残したわけですし。

また芸能や芸術は、それがどんなに新しく創造的な表現であっても、必ずそれまでの歴史の流れに立脚しているものです。それはあらゆる学術が先行研究を踏まえて新たな地平を開いていくのと同じです。よくアートの世界には、歴史なんて関係ない、己の唯一無二の個性を発揮するだけだと誤解している方がいますが、それはあまりにも傲慢な態度であり、もっとはっきり言っちゃうと「頭悪すぎ」です。優れた芸能や芸術は、先人の成果を研究し、批評し、その上でその時代の価値観や世界観を教養として取り込んだのちに現れてくるものではないかと思います。

その意味で塙氏のこの著書は、先行研究を踏まえて新たな漫才の地平を切り開こうとする野心的な論文のようにも読めます。そしてまた、素人の我々がうかがい知ることの難しい漫才という芸能のメカニズムを言語化しているという点で、優れた鑑賞案内にもなっています。実際私はこの本を読みながら、例示されている数々の「歴史的な」漫才をYouTubeで視聴してみて、深い感動を味わいました。優れた漫才とは、かくも驚くようなダイナミズムを秘めたものであるのかと。

私は能楽師芸談を読むのが好きなのですが、それはひとつの芸事をとことんまで突き詰めた方の語る内容に、その芸事を越えた何か普遍的な真理のようなものが垣間見えることがあるからです。優れた芸談は、芸のことを語っているようで、実はきわめて普遍的な内容を含んでおり、自分の暮らしや仕事にもなにがしかの啓示を与えてくれるものなのです。この本は「さくっ」と読める軽い体裁ですけど、そこで語られていること、いや、それを語るナイツ・塙宣之氏の漫才に対する姿勢から、多くを学ぶことができます。

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武井壮氏と北の富士勝昭氏のコントラスト

昨日大相撲の秋場所が千秋楽を迎えました。私自身は相撲にあまり興味はないのですが、細君が大ファンで、休日の夕刻はたいがいテレビにかじりついています。私も夕飯の支度をしながら中継の音だけ聴いているのですが、いつも気になって仕方がないのが解説をされている北の富士勝昭氏です。

音だけ聴いているからよけいに際立つのかもしれませんが、よくよく聴いてみるとほとんど内容がないのです。他愛ない印象や感覚的なことをフィーリングに任せて口にしているだけ、といった場面が多すぎるように思います。解説者であれば、もっとプロの視点から技術的なことや戦術的なことや、素人が理解しにくい事柄をわかりやすく説明すべきだと思うんですけど、北の富士氏が語っている内容は、それこそオジサンたちの居酒屋談義の域をほとんど出ていません。

同じ解説者で、よく一緒に登場する舞の海秀平氏のコメントには中身があるなあと思うことが多いです。また舞の海氏は、時にはアナウンサーにプライドを傷つけない言い回しでやんわりと「ダメ出し」していたりして、なかなか聴き応えがあります。これは素人の邪推ですが、舞の海氏も内心「北の富士氏には困ったなあ。もう少し『解説』してほしいなあ」と思ってらっしゃるんじゃないでしょうか。

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https://www.irasutoya.com/2014/01/blog-post_4710.html

そんな「コントラスト」がとてもよく表れていたのが、去る5月18日、元陸上選手でタレントの武井壮氏がゲストとして招かれていた大相撲五月夏場所の7日目でした。YouTubeを検索したら、ちょうどその音声が入っている動画がありました。0:41あたりからをお聴きいただきたいと思います。

youtu.be

アナウンサー:武井さん、この鶴竜という横綱のことは、どんなふうに見ていますか。


武井壮氏:うーん、まあ、あの、モンゴルのね、出身の力士の方は、やっぱり日本の相撲の技術とはまた違う、全く違うその、相手を起こしたりとか、相手を崩したりする技術を持ってらっしゃるんで、それはもう朝青龍関もそうでしたけれども、本当にこう、相撲に新しい何か型を持ち込んでくれたような、そういうのがモンゴル力士の特徴だと思うんですけれども、その中でも白鵬関と僕は胸を貸していただいたことがあるんですけれども……


アナウンサー:白鵬関にもあるんですか?


武井壮氏:はい。あの、体力だけではなくて、ほんとにあの、まわしを持つ場所が、ほんとに指一本分違うだけで、押し出せたり出せなかったりすることがあるんだよってことを教えて頂きましたし、ほんとにまわしを切るにしても、ほんとにあの、切り方が、ほんとに腕の位置が、ほんとにもう一センチ違うだけで切れないことがあるんだよとか、そういったあの体力とかそういった相撲の力以上の細かい物理的な検証みたいなものもされている方で、そういったものも脈々と受け継いでいらっしゃる方がモンゴルの力士の方々だと思うので、そういう意味でこう、その相撲の力と、科学的なそういった力と、そういったことが融合された、あの横綱が多いので、非常に技術的にも高くて、アスリートとしても能力の高い人が多いなと思います。


アナウンサー:そうですか。またすごい経験談と、それから見方をいまうかがったような感じです。


武井壮氏:だから歴史のある相撲と、やっぱり最先端の科学みたいなものを、こう融合させている姿ってのは、僕らもほんとに非常に勉強になりますね。

「あの」や「ほんと」という冗語が多いのはご愛嬌ですけど、アスリートという専門の立場から、ご自分の考えや経験から学んだことを視聴者にフィードバックされていますよね。これこそ解説じゃないかと思うのです。この武井壮氏の発言と、そのあとに水を向けられた北の富士氏の「解説」は、非常に鮮やかな(?)コントラストを成しています。

アナウンサー:まあ北の富士さん、確かにこの鶴竜は、非常にやっぱり上手さのある横綱だとは思いますけれども、そういった技術面ですね。


北の富士勝昭氏:そうですね。組んでよし、跳ねてよしですよね。あの、穴のない力士だと思うんですけどね。そしてまたタイプも、性格的なものもね、白鵬でもない、朝青龍でもない、日馬富士でもないね、うん、どっちかというと、まあ性格としては非常に温厚なタイプで、穏やかですよね。非常に穏やか。

ここだけ取り出して「解説」の質をうんぬんするのも公平ではないかもしれません。でも同じ鶴竜という力士について聞かれたその答えがここまで違うとは(放送時間の制限もあるのでしょうけれど)。

ここ数年、細君につきあって私が聴いてきた中では、北の富士氏はほとんどこうした印象論の域を出ない、あるいはフィーリングでしゃべる「解説」しかなさっていないように思えます。もう少し中身のある、プロの視点からの解説が聴きたいなといつも思いながら夕飯の支度をしています。

スポーツと暴力

昨日の東京新聞朝刊に「eスポーツが五輪競技になる日」という記事が掲載されていました。eスポーツ、つまりコンピューターゲームを使った競技の大会が世界各地で行われるようになり、アジア大会では正式競技となることが決まったそうで、そうした現状をどう捉えるのかについて識者三人が語っています。

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www.tokyo-np.co.jp

私自身はコンピュータゲームを一切やらない人間なので逆に興味深く読みましたが、お三方のなかではスポーツ文化評論家・玉木正之氏の意見にとても共感しました。特にスポーツと暴力との関係です。

スポーツ社会学者のノルベルト・エリアスによれば、五輪競技などのスポーツの多くは古代ギリシャと近代英国から生まれています。それはどうしてか。共通するのは民主主義ですよ。要するに非暴力。暴力的な要素をゲームにして実際に傷つけ合ったりしなくていいようにしたのがスポーツなのです。eスポーツにはその暴力性をよみがえらせる恐れはないでしょうか。

確かに、個人がそれぞれの目的でそれぞれに楽しむスポーツは別にして、「競技」と呼ばれるスポーツはそれが「競う」ものである以上、勝敗や優劣がはっきりと示されます。その勝敗や優劣をもたらすものは本来「暴力」なんですよね。それをゲームという形に昇華させて「非暴力化」させたのが人類の知恵であったというわけです。

私は自分で体を動かすことは大好きで、今も「週五」でジムに通っているような人間ですが、幼い頃から体育の授業などで行われる競技が苦手で大嫌いでした。それはたぶん、この「競技≒暴力」という本質にどうしても馴染めなかったからだと思います。競技スポーツをされている方には申し訳ないけれど、どんなに崇高な理念で説明されても結局は一方が一方を「力でねじ伏せる」ことには違いない。私はそこに、かつて古代の「戦い」が本質的に有していた暴力の匂いを嗅ぎ取ってしまうのです。

もちろん、現代のスポーツが暴力による決着とは全く異なる理念で動いていることは分かります。それでも時折起こる反則や「乱闘」、さらには熱狂的でファナティックなファンによる「場外乱闘」などを見るにつけ、多くの心ある人々によって非暴力性が保たれているスポーツの、その裏の側面が垣間見える。私はそこにどうしても馴染めないのです。オリンピックや、今日本で開催されているラグビーのワールドカップにも、同様の「匂い」を感じます。

オリンピックや各種競技のワールドカップは、もちろん個々のアスリートや大会を支える人々の、暴力からは遠く離れたところにある「健全」な思想によって行われる営みなのでしょう。それを疑うものではありません(巨額のカネが動いているという側面はありますが、それはまた別の話です)。だがしかし、そこには常に国家間の勝敗や優劣が、あるいはランキングがつきまといます。勝敗や優劣やランキングがつかなかったらなんの競技か、面白くもなんともないじゃないかと言われそうですけど、それがこと国家間の競い合いになれば、やはり私などは「引いて」しまう。どんなにアスリート個人のスキルに注目し、国家間の争いを高邁な理想と言葉で糊塗しても、暴力の匂いが抑えきれていないと感じるのです。

一昨日など、ラグビーワールドカップの開幕ということで、たまたま夕飯の支度をしながらテレビをつけていたんですね。そしたら、初戦に臨む日本代表チームのこれまでの歩みや、選手の努力、さらには家族のサポートなどが次々に紹介され、見る者の感動を煽っていました。そして私は、自分でも驚いてしまったのですが、そんな煽りに乗せられて感情がたかぶって行く自分に気がつきました。知らず知らずのうちに「アツく」なっていたのです。

私が単純すぎるだけなのかもしれません。でもおよそ暴力というものは、つい「カッとなる」その感情のたかぶりが発端になるものです。その意味でも、個人競技はまだしも、やはり国家同士の争いを楽しむことはできないと思いました。スポーツは暴力を非暴力化したものであるという本質から逸脱しかかっているからです。

Spotifyもやめちゃった

これまで、音楽ストリーミングサービスのSpotifyを「プレミアム」、つまり広告なしで聴き放題できるというプランで利用してきたのですが、先日無料プランに戻しました。追って退会手続きもしようと思っています。

Spotifyはポップスやロックはもちろん、私の好きなクラシックやC-POP、さらにはフィンランドの流行歌から「懐メロ」まで聴けるという素晴らしいサービスで、一時期は自分でプレイリストも作るくらい使い込んでいました。ところが最近ふと、そんなに「ときめいていない(こんまり氏みたいですね)」ことに気づいたのです。

ありとあらゆる楽曲が聴けるし、同じ曲でも様々なアーティストによる演奏を聴き比べることができる。当初はそんな環境にワクワクしていたのですが、それが随分色あせて感じられるようになりました。飽きたといえばそれまでですが、何かこう、そうやって大量のコンテンツにいつでもどこでもアクセスできるという状態そのものが、暮らしのありようとして過剰なのではないかと思うようになったのです。

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例えばバッハの『ゴルトベルク変奏曲』、その最初に出てくるアリアは私にとって一種の精神安定剤みたいなもので、殺人的な込み方の満員電車に乗っているときなど、よくこれを聴いて現実逃避をしています。それで、Spotifyを検索して見つかるありとあらゆる『ゴルトベルク変奏曲』のアリアを集めて、プレイリストまで作りました。ピアノやチェンバロはもちろん、弦楽四重奏版や金管楽器版、ジャズ風のアレンジからコーラスによるもの、ギター版、オルガン版などなど、様々な演奏があって面白いのです。……でも。

やっぱり私が好きなのは、若い頃から何百回・何千回と聴いてきた「座右の名盤」ともいうべき、グレン・グールドによる演奏で、結局ここに戻っちゃう。だったらもうそれでいいんじゃないかと。もちろん、Spotifyであれこれ聴いたからこそそう思えるようになったのですから、これは必然のプロセスだったのかもしれません。そしてまた一方で、新たな出会いへの道を封じてしまったら、頑迷固陋なお年寄りまで一直線じゃないかとも思うんですけど。

ただ、上述したように「大量のコンテンツにいつでもどこでもアクセスできるという状態」を保有していることが、逆説的なようですが一期一会的な作品との出会いを遠ざけてしまっているのではないかと思います。書店や図書館に行くと、世の中には自分の読んだことがない様々な本が膨大にあって、自分が生きている間に読めるのはその何千分の一・何万分の一(あるいはそれ以上)なんだという一種の目眩というか焦燥感みたいなものに襲われますが、だからといってそれらの本すべてが自宅にあって、いつでもアクセスできる状態を作りたいかといえば、そんなことはないんですよね。

すべてを読めるわけはないし、だからこそ本との出会い、というか「ご縁」みたいなものを大切にしたいと思う。実際、自分の人生になにがしかの糧を与えてくれた幸せな読書体験というのは、何か本の方から呼ばれるような不思議な邂逅から始まっていることが多いのです。そのために私はネット書店だけでなく、実店舗の本屋さんにもできるだけ出向くようにしています。そして実店舗では全部の本を手にとって開いてみることはできないから(ネット書店でもできませんけど)、アンテナの感度を上げるような、嗅覚を鋭くさせるような、そういう「体制」を意識して本を手に取るようになります。

Spotifyで次々に音楽を聴いているときに感じたのは、その「体制」が取りにくいということなのです。音楽という形のないものだからかもしれませんが、ついつい聴き流してしまう。リストにある楽曲はすべて同じようなフォーマットで並んでいますから、一つ一つの特徴がありません。いきおい、ポンポンとクリックして聴き流すようになるのです。いま聴こえている音楽の向こうにまだ無尽蔵のコンテンツがあるというその設定が、音楽に対してとても粗雑な態度を許してしまうような気がするんですね。

そういえば、私はiTunes Storeで米津玄師氏の楽曲をいくつか購入してスマホで聴いていますが、それはもう歌から演奏から、演奏の例えばベース音の推移から電気的な装飾音まで、くり返し深く聴き込んでいます。こういう聴き方のスタンスをSpotifyで配信される音楽には取っていないなと。米津玄師氏は現在のところSpotifyに楽曲を提供しておらず、その理由も知らないのですが、ひょっとしたら私が感じたようなスタンスで作品を聞き飛ばされてしまうことに納得がいっておられないのではないか、そんな勝手な想像を巡らせました。

以前にもご紹介した、林伸次氏のコラム『ワイングラスのむこう側』(cakesで連載中)にこんな記述がありました。

あるいは河井くん、まだレコードを買ってるんですね。それは僕が教えたからだそうなんですけど、今僕はSpotifyでばかり音楽を聴いているので、「Spotify便利だよ」って勧めたんです。河井くん、朝ご飯の時にグルダモーツァルトピアノソナタを聞くらしくて、僕が「Spotifyがあったらグルダ以外の色んなピアニストのモーツァルトピアノソナタをその場で聞き比べできるんだよ」って言ったら、「なんでそんなことするのかわかりません。僕、グルダの演奏気に入ってるんで」って言うんです。いやあ、ほんとそうです。
cakes.mu

いやあ、ほんとに……そうですね。

中国語圏の映画が熱かった時代

職場の図書館で見かけた雑誌『キネマ旬報』9月下旬号が「1990年代外国映画ベスト・テン」という特集を組んでいました。表紙の写真からして楊德昌(エドワード・ヤン)監督の『牯嶺街少年殺人事件』だったものですから、「おおっ!?」と惹きつけられて読んでみたのですが、なんと同作が『キネマ旬報』の連載陣103名によるアンケートで第1位に輝いたのだそうです。

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キネマ旬報 2019年9月下旬特別号 No.1819

たしかにこの作品、私も思い出深い映画ですし、名作だとも思いますが、洋画も邦画も含めた当時(1990年代)のあらゆる映画の中で映画人が推すナンバーワンというのはちょっと意外でした。……にとどまらず、第4位には王家衛ウォン・カーウァイ)監督の『欲望の翼(阿飛正傳)』、第8位に陳凱歌(チェン・カイコー)監督の『さらば、わが愛/覇王別姫覇王別姫)』、同率第9位にやはり王家衛監督の『恋する惑星重慶森林)』と、ベスト・テンに4本も中国語圏の映画がランクインしているのです。

元『キネマ旬報』編集長の関口裕子氏は「90年代は、興行でも、日常の話題でも、ハリウッド映画が圧倒的存在感を示した」と書かれています。ベスト・テンにランクインしている『許されざる者』『ファーゴ』『ショーシャンクの空に』『羊たちの沈黙』など、確かに今でももう一度観たくなるハリウッドの名作揃いなのですが、その一方で中国語圏の映画が当時こんなにヒットし、今に至るまで語り継がれているというのは、ちょっと感慨深いものがあります。今や何語圏の映画だとか、ましてや洋画だの邦画だのという「くくり」はあまり意味を持たないとは思っているものの……。

アンケートの詳細を追ってみると、他にも多くの評者が中国語圏の映画をベスト・テンに挙げています。『エドワード・ヤンの恋愛時代(獨立時代)』『太陽の少年(陽光燦爛的日子)』『愛情萬歲』『熱帶魚』『ブエノスアイレス(春光乍洩)』『宋家の三姉妹(宋家皇朝)』『乳泉村の子(清凉寺的鐘声)』『秋菊の物語(秋菊打官司)』『憂鬱な楽園(南國再見,南國)』『初恋のきた道(我的父親母親)』『一瞬の夢(小武)』……などなど、どれもこれも当時自分が貪るように見た作品の数々で、とても懐かしく思いました。1990年代という「くくり」をもう少し前の時代にまで広げれば、『紅いコーリャン(紅高粱)』や『芙蓉鎮』など、さらに多くの中国語圏の名作映画が挙がってくると思います。そういう熱い時代だったんですね。

いや、熱い時代だったというのは日本の観客である私の一方的なものいいでしょう。ご存知の通り、その後も中国語圏の映画は様々な名作を生み出してきましたし、最近ではハリウッドを凌ぐような、あるいはハリウッドがその存在を無視できないような作品が作られ続けています。さらにはハリウッド映画が巨大な中国市場を意識せざるを得ない状況も。そう考えるとむしろ興味深いのは、なぜ1990年代の私たち日本人の心に、あれほどまでに中国語圏の映画が「沁みた」のか、そしてなぜいまはそれほど「沁みなくなった」のかという点です。

先日も書きましたが、これは音楽の世界でも似たようなことが起こっています。もちろん現代でも人気の中国語圏アーティストはいますから、そうしたアーティストのファンからは叱られるかもしれないけれど、1990年代の一時期、C−POPブームは今とは比べ物にならないくらいの盛り上がりがあったと記憶しています。規模がまるで違うという感じ。

それまでレコード店(CDショップか。いずれにしても死語に近いですね)では「ワールドミュージック」としてひとくくりにされ、それも琴や琵琶などの伝統音楽か、そうでなければテレサ・テンジュディ・オングかといったレベルの品揃えから、いきなり棚のひとつ分、ふたつ分、みっつ分……というようにC−POPの売り場が増えていった、香港の大物歌手が相次いで日本ツアーを行った、そういう時代があったのです。

当時中国語の小さな新聞社に勤めていて、主に日本人の中国語圏カルチャー好きのための記事を作っていた私は、そんな盛り上がりを肌で感じながら仕事をしていました。映画やコンサートで来日する明星(スター)の取材でも、取材者同士の熱気や「我先に感」がひしひしと感じられたものです。そこへ行くと現在は、もちろん台湾のドラマなど一部で人気ではありますが、当時の盛り上がり、特に中国大陸発の文芸作品に見られた「なにかとんでもないことが起こっている感」はかなり薄まってしまった、ほとんど感じられなくなってしまったという気がします。

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これはどうしてなんでしょうね。もちろん現代においては、ネット動画などの発展で映画という娯楽自体がかつての位置づけから変容してきていますし、中国や台湾など中国語圏の社会や経済も1990年代とは大きく異なっています。特に中国は、端的に言って、もはやあの圧倒的な文芸映画・芸術映画の数々を生み出した「うねり」のようなものが失われ、ある意味映画の規模は拡大しても、映画の作り方は政治的・経済的な背景からきわめて「内向き」になってきたからかもしれません。

そして一方で受け取る側の私たちの、中国語圏に対する見方・考え方、そして感じ方が大きく変容したことも関係あるかもしれません。私自身、ここ十年ほどは中国語圏の映画の忠実な鑑賞者ではなくなっているのですが、あれだけ夢中になっていた中国語圏の映画にときめかなくなったのは、そういう社会の雰囲気と自分がリンクしているからなのかなと思うのです。変わらず夢中で楽しんでおられる*1方々からは単なる牽強付会だと言われるかもしれませんが。

*1:私も、例えば賈樟柯ジャ・ジャンクー)監督の作品など公開されるたびに観に行ってはいますが。

Twitterをやめてよかった

平日の早朝は、ほとんど毎日ジムに行って体を動かしているのですが、トレーニングのあとにシャワーを浴びて、サウナを利用するのが日課になっています。出勤時間を考えると、サウナ室にいるのがちょうど朝の8時前後になるのですが、サウナ室内で放映されているテレビ番組を見ていて気づいたことがありました。

こちらのサウナのテレビは、日替わりで『スッキリ』と『ビビット』と『どくダネ!』と『羽鳥慎一モーニングショー』が放映されています(なぜかNHKは一度も放映されません)。普段こうしたニュースバラエティをほとんど見ないので知らなかったのですが、こうした番組では最初の5分から10分ほどの時間を、ネットで話題の動画をいくつか流して、コメンテーターと軽いやり取りをして場を暖め(?)、それからその日のメイントピックに入っていくというのが最近の定番のようです。

毎度毎度、変わった癖のあるネコちゃんの萌え姿やら、交通事故で危機一髪の光景やら、命知らず野郎のアドベンチャーやら、街に出没するトホホな困ったちゃんやらの動画が紹介されては、司会者とコメンテーターの他愛ない寸評が続きます。これらの動画はいずれもTwitterなどのSNSに投稿されたネタのようなものらしいのですが……正直、ど〜でもいい情報です。

まあ私は、できるだけ静かで薄暗いサウナでひとり沈思黙考するのが好きだからというのもあるんですけど、この「ど〜でもいい情報」にはほとほとうんざりしています。と同時に、朝のニュースバラエティもネットの投稿で時間を埋めるほどネタに不足しているのか、ここまでくると報道でも論説でもなんでもないじゃないか、と思うのです。

そういえば、他愛ないニュースどころか最近は突発的な事故や災害についてもSNSの投稿画像や映像をニュースに用いることが多いようですね。テレビの凋落が伝えられて久しいですが、これはますます「終わっているなあ」と思わざるを得ません。

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https://www.irasutoya.com/2014/09/blog-post_2.html

……と、ここまで書いてふと考えました。そういう「終わっている」としか思えないメディアの番組を、少なからぬ割合で形作っているSNSの投稿画像や映像が、そも自分にとっては「ど〜でもいい情報」だったんです。なのになぜあんなに時間を費やしてそういうコンテンツに一喜一憂し、つぶやき、書き込み、時間を潰していたのかと。

そういう情報についつい無駄な時間を過ごしてしまうような私は、やはりTwitterをやめてよかった、と改めて思うのです。

わたしの台所

沢村貞子氏の『わたしの台所』を読みました。きっかけは新潮社のビジュアル入門書シリーズ「とんぼの本」の『沢村貞子の献立日記』を読んだからなのですが、このビジュアル本はもちろん、エッセイとして名高いこの『わたしの台所』にはしみじみと共感できる文章がたくさん詰まっていて、たちまち付箋でいっぱいになってしまいました。


わたしの台所 (光文社文庫)


沢村貞子の献立日記 (とんぼの本)

名脇役として数々のドラマに出演されていた沢村氏は、その一方で二人暮らしの夫のために毎日献立を考え、食事を整える「兼業主婦」でもあったそうです。食事の他にもぬか床や「梅仕事」など、お母様ゆずりの生活の知恵を存分に発揮され、忙しい毎日を切り盛りされていたよし。現代の感覚からすれば、女性ばかりがこんなに家事を担当して夫に尽くすなんて……と、眉をひそめる向きも多いかと思います(私も多少そういう気持ちになりました)が、当の沢村氏はそんな暮らしを心底いとおしんでいたことが文面から伝わってきます。

ことに老境にいたって、身体的な衰えから様々なことが以前と同じように回らなくなるなかでの暮らし、特に食に対する感慨は自分にも大いに重なって共感できる部分が多く、それもまたこの読書体験をより味わい深いものにしてくれました。私はまだ「老境」というには若すぎるというか、早すぎる年代ですが、それでもこのエッセイを十年前や二十年前に読んだとしたら、ここまでの深い味わいを感じることはなかったかもしれません。

うちのこしらえ方、うちの味のおそうざいを、黙って食べている家人の満足そうな顔を見ていると、料理したものは苦労を忘れる。

本当にそうです。私自身は炊事全般、買い物から後片付けまで含めて「苦労」と思ったことはほとんどありませんが、外食や出来合いのものに極力頼らず、長い時間をかけて身についてきた「うちのこしらえ方」が暮らしの楽しみ(より口幅ったい言い方をすれば「しあわせ」の)かなり大きな部分を占めているのだと最近よく思うようになりました。

料理は一秒ごとに不味くなる、という。
自分が台所に立って煮炊きしていると、この言葉が身にしみてよく分かる。

これも、ホント身にしみてよく分かるなあ。おもてなしとかじゃなくて、家族のために日々作っている毎度毎度の食事だからなおさら、出来上がりのそのタイミングで食べてもらいたいと思うんですよね。なのにうちの細君ときたら、食事が出来上がっているのに長々と電話で話したり、風呂上がりの髪を延々乾かしていたり、トイレに籠ったりするんです。しくしく。「すべて、ころあいこそが大事」とおっしゃる沢村氏だったら、同情してくださるかしら。まあ私がタイミングを合わせて作ればいいだけの話ですけど。

また女性として家事全般を一手に引き受けていながら男性にもその素晴らしさを味わってほしいと願う一節や、親は自分のできる範囲で子育てをしたあとはなるだけ早く子離れをして「ひとりで生きる」工夫をすべきといった一節には、いま読んでも、いや、いまだからこそよりその言葉に重みが感じられて、沢村氏の先見の明に驚かされるのです。ご自身はたびたび「老女優」「明治おんな」と自嘲されるのですが、いえいえどうして、当節の「おひとりさま」や「老活」あるいは「終活」に先駆けること何十年、すでにここまで目の開けていた人がいたのですね。

それから、下町の浅草で生まれ育った沢村氏の、お母様の言葉がなんとも心にしみます。まるで落語に出てくる、ちょっと間の抜けた亭主をぴしりとたしなめる気丈な女将さんのような風情なのです。「冥利が悪い」なんて言葉、いまではもうほとんど聞かれなくなっているでしょうね。

沢村氏が愛したという「こざっぱりとした暮らし」。その「こざっぱり」は食事や家事にとどまらず、人付き合いや生き方や人生観にもつながっていたようです。没後は遺志に従って墓所を作らず、夫のお骨とともに海に撒かれたそうですが、私も自分の最期はそのように「こざっぱり」でありたいものだと思います。

傘の修繕

中秋節を過ぎて、ようやく朝晩がしのぎやすくなってきましたが、今年の夏もその暑さ、いえ蒸し暑さにほとほと参り果てました。もとよりその人の多さで人々のイライラ感が充満している東京に、あの殺人的な蒸し暑さ。もうここ何年も「これ以上は耐えられない」と思いつつ、なんとかやり過ごしてきましたが、あと五年も十年も毎年やり過ごしていける自信がありません。本気で、どこかへ逃げられないだろうかと考え始めています。

少しでも夏の暑さから逃れようと、今年は流行に乗って(?)「日傘男子デビュー」しました。私、普段着はほとんどがユニクロで十分という人間ですけど、靴や傘などはあまり手を抜かないようにしています。大きなお世話なんですけど、往来で見かけるサラリーマンのみなさんも、スーツのシャツにぱりっと糊が効いているのに革靴がすり減って曇っていたら目も当てられないですし、そこに錆の浮いたビニール傘など持っていたらほとんど泣きそうになります。

それで日傘も、雨天兼用の割合上質なものを買い求めました。薄い色なので、日傘として使っていてもあまり目立ちません。目立たない……そう、「実際暑いんだから人目なんか気にしていられない」と日傘を使い出したものの、やっぱりまだどことなく恥ずかしい気持ちが残っているんです。男性が日傘を差しているってのが物珍しいんじゃないかとか(誰も気にしちゃいないのに)。染み付いた固定観念というのは本当に頑固なものです。


綿100%晴雨兼用折りたたみ傘

ところでこの日傘、使い始めてからほどなくして、某所でビル風か何かの突風を受けたあおりで骨のジョイント部分にある「ハトメ」がひとつ外れてしまいました。えええ、けっこうな値段がしたのになんだよ、と思いながら、糸で応急処置をしようと思うも、これが老眼でどうにもなりません。悲しすぎる……。といって、いまどき傘の修繕なんてやっているところはあるんでしょうか。

傘の修繕で思い出したのですが、子供の頃は日曜日になると朝から傘の修繕をする行商の声が聞こえたものでした。「竿や、竿竹〜」の声は覚えていますが、傘の修繕屋さんはどんな物売りの声だったか、記憶に残っていません。でも確かに毎週のように回ってきていました。それだけ需要があったというか、傘は壊れたら修繕するというのが普通だったのです。コンビニでビニール傘を買い求め、雨の後は道端に打ち捨てられているのを目にする現代では想像もつかないでしょうね。

ともかくネットで「傘 修繕」と検索をかけてみたら、もちろん専門店でもやっていましたが、靴の修理や鍵の複製などをやっている某チェーン店が傘の修繕もやっていることを知りました。職場近くの地下街にも一軒あるのでさっそく仕事の前に寄ってお願いしたら、その日のうちに修繕してくれました。費用は千円ちょっと。

www.minit.co.jp

傘の骨一本に千円も払うなら、コンビニのビニール傘でいいじゃない、と思われるかもしれません。革靴も、年に数回は踵や爪先の張替えに出していますが、それだって数千円はかかります。それでも、使い捨てにするのはどうしても抵抗があるんですよね。もったいない、というのもあるけれど、なんかこう、靴や傘を使い捨てで済ませるのがすごく貧相な感じがして、悲しい気持ちになるのです。そう思いつつ服は安いものばかり着ているので矛盾しているのですが。