インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

リアルな「秋の夜長」について

いつも楽しみに読んでいる、東京新聞朝刊の塩村耕氏による「江戸を読む」。今日は「朝夕(ちょうせき)」という言葉が取り上げられていました。江戸時代の日本ではこの「朝夕」が朝晩二回の食事の意味で用いられたのだそうです。一日三食が習慣になったのは江戸時代の中期、元禄の頃だったそうですが、それ以前は一日二食が普通だったんですね。

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私も現在ほぼ一日二食に近い形なので興味深かったのですが、それ以上に面白かったのがかつての人々の時間感覚です。昔は不定時法で、日の出と日の入りを基準にして、昼夜をそれぞれ六等分したものが「一時(いっとき)」でした。つまり夏は昼が長く冬は夜が長かったわけですね。そういえば東京の国立科学博物館でこの不定時法に対応した和時計を見たことがあります。文字盤の「時」を示す表示が手動で調整できるようになっている「割駒式文字盤」が使われているものです(その後自動で調整できるものも登場したようですが)。

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http://db.kahaku.go.jp/exh/mediaDetail?cls=col_z1_01&pkey=1753435&lCls=med_z1_01&lPkey=198056

この時代の時間感覚(間隔)に従えば、「時」を表す文字盤が等間隔で並ぶ(つまり現在の時計と同じ)のは夏と冬が交互に入れ替わる春分秋分だけで、夏は昼間の「時」の間隔が広くなり、逆に冬は夜間の「時」の間隔が広くなります。そして塩村氏によれば「殊に秋の彼岸を過ぎると、夜と昼の長さが逆転し、急に夜の時間進行が遅くなったように感じられる。その感覚を秋の夜長という」とのこと。なるほど、私たちはなんとなく「日が伸びたねえ」とか「夜が長くなったねえ」などと時候の挨拶的な会話を交わしますが、昔の人々はそれをもっとリアルに感じていた・感じられたんですね。

そういえば、むかし九州の熊本で農業の真似事をしていた頃は、日の出とともに目覚めてその日の作業をはじめ、日の入りとともに仕事を終えて焼酎など飲んでいました。畑には照明もないから、日が暮れると自然に作業終了となっちゃう。塩村氏も「くやしいことに時計に支配される現代人には真似るのが難しい」と書かれていますが、たしかに等間隔で「時」を割った世界に生きている私たちにはすでにリアルに感じ取ることが難しい世界があるのです。

不定時法と割駒式文字盤については、こちらのサイトの解説がとても面白くわかりやすいものでした。リンクを張っておきます。

www.543life.com

「開いててよかった」から離れて

この夏、フィンランドでなかば「暮らすように」旅をしていて印象深かったのは、かの地のお店の営業時間が短いことでした。いえ、短いというより普通といったほうがいいのかもしれません。要するに「9時−5時」であったり週末や休日には閉まっているというだけであったりするのですから。でもその普通のことが、日本の、特に東京に暮らす私にとって印象深く思える――ことほどさように、私たちの働き方や暮らし方はかなり特殊なのかもしれないと思ったのです。

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フィンランドにもあちこちにコンビニ(キオスキ)やスーパーがあって、その品揃えや利便性は日本とさほど変わりません。ただコンビニであっても終夜営業というところはほとんどなく(皆無ではないもよう)、早朝や深夜などは当然のように開いていませんでした。スーパーも平日はおおむね朝の9時か10時ごろから開き、深夜まで営業しているところは一部のみでした。休日になるとこの営業時間がもっと短くなります。

お店では、たいがい入り口などに営業時間の表示がしてあって、「ma−pe 10:00−17:00 / la 10:00−15:00」などと書かれています。「ma」は「maanantai(月曜日)」、「pe」は「perjantai(金曜日)」、「la」は「lauantai(土曜日)」で、だいたい週末は営業時間が短くなるか、お休みのところが多いようでした。飲食店は逆に週末に長く営業して平日は午後や夜だけとか、色々なパターンを見かけましたが、日本の私たちからすると総じていずこも営業時間が短いなあという印象。でもこれが人間の、本来の働き方のような気もします。

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もうずいぶん前のことですけど、コンビニエンスストア最大手のセブンイレブンで、加盟店のオーナーが人手不足や過労などを理由に営業時間の短縮を申し出るも断られ、それでも短縮を強行して本部側と争いになっているというニュースがありました。結局本部側も現状を一部認めて、営業時間の見直しや無人店舗の導入など改善に乗り出したようですが、私自身は(コンビニが登場する以前の社会を知っているからということもあるでしょうけど)24時間営業なんてしなくていいんじゃないかと思っています。

セブンイレブンの社長・永松文彦氏は雑誌のインタビューに答えて、深夜のコンビニ利用客は全体の1~2割ほどだが、病院や警察、深夜営業の従業員など深夜にしか買い物ができない人にとって24時間営業は大切だと述べています。でも一方で、コンビニ利用客の年齢層が高齢者にシフトしつつあり、その点でも深夜営業や24時間営業の必要性は低下しているという調査もあります。これは意外でした。コンビニといえば若い方々というイメージでしたけど、変わりつつあるんですね。

www.nippon.com

私はフィンランドで、ついつい日本の、それも東京の生活感覚でいたために、コンビニやスーパーなどお店が開いていなくて、あるいは公共交通機関が動いていないか極端に少なくて「困ったなあ」と思った場面がありました。土日はますますその傾向が強まって、予定が狂ってしまったことも。でも冷静に考えれば、いつでもどこでも誰かが自分のためにサービスを提供してくれるという状態のほうが異様なんですよね。そしてあらかじめ「そういうものだ」との意識さえあれば、特段不便だとも思わない(すぐに慣れちゃう)自分にも気づきました。

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また先日は、稽古用の浴衣を買おうと思って、ネットの呉服屋さんで注文したのですが、それがちょうど金曜日の夕方でした。その後そのネットショップから一向に連絡メールが来ないので、私は「なんだよ、このお店は……」と少々不満に思ってしまったのですが、サイトで営業時間を確認してみると、土日や祝祭日はお休みと書いてありました。つまり注文したのが金曜の夜だったので、返事は週明けになるわけです(実際、月曜日の午前中にメールが来ました)。

そりゃそうですよね。Amazonなど大手ネットショップはすぐにレスポンスがありますが、個人営業や中小企業などのサイトは、いくらネットショップだからと言ってもスタッフだってお休みしなきゃなりません。Amazonみたいな対応に慣れちゃってそれがデフォルトになっちゃってますけど、それはもともとかなり特殊な状態なんですよね。くだんの呉服屋さんのようなまっとうな、「人間味」のある営業スタイルを想像できなかったくらい、私も昔懐かしい(というより忌むべき?)「24時間戦えますか」的マインドに染まっていたわけです。

かつてフリーランスで翻訳の仕事をしていた頃は、金曜日の夕方に原稿を送ってきて「月曜日の朝イチで納品をお願いします」というクライアントに、内心「翻訳者には週末や休日がないとでも?」などと憤慨していたというのに。いやはや、まことにお恥ずかしい限りです。

知らぬはオヤジばかりなり

先日の東京新聞朝刊「本音のコラム」で、斎藤美奈子氏が「知らぬはオヤジばかりなり」と書かれていました。小学館の『週刊ポスト』が「韓国なんていらない」という特集を組み、「怒りを抑えられない『韓国人の病理』」などの差別を助長する記事の掲載で批判が集まっている件をはじめとして、大手マスコミが嫌韓報道に血道を上げる現状を異常だと指摘し、その元凶に「嫌韓感情を煽る政治家と文化に疎いオヤジ系のメディア」を挙げています。

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嫌韓感情を煽る政治家」は老若男女いずれにもいますし、政治家以外の老若男女にも(残念ながら)あまねく一定数が存在します。一方の「文化に疎いオヤジ系のメディア」は『週刊ポスト』に代表される週刊誌をよく読んでいるような、まさに「オヤジ」たちの価値観なり世界観なりものの見方考え方なりを反映したくくり方だと思います。

でもコラム冒頭の「知らぬはオヤジばかりなり」と合わせて読んでみれば、政治家にせよ、出版人・放送人にせよ「三度目の韓流ブーム」の現状を知りもしないで視野の狭い嫌韓感情を拡散しているのは「オヤジ」たちだというカテゴライズの上での批判が読み取れます。そしてその対極にいるのは市民、なかんずく「オンナコドモ」であると。

斎藤氏があえて「オンナコドモ」とカタカナ書きの呼称をご自身をも含む人々の総称として使われたのは、もちろん「オヤジ」たちの旧態依然たる価値観を揶揄してのことですよね。総じて軽んじた、上から目線で使われることの多い「女子供」。それを使う「オヤジ」たちよりも、よほどフラットで公平な価値観を「オンナコドモ」は持っているぞと。

私自身はその「オヤジ」ど真ん中に属する人間なのですが、斎藤氏が挙げているK-POPも韓国グルメも韓国文学も大好きなので(オルチャンやコスメにはちょっと疎いけど)、一読、一緒にしないでほしいなあと思いました。でも一方で、たしかにこの国は(韓国もそうかも知れませんが)固陋な「オヤジ」、あるいは「オヤジ的価値観」が依然のさばっているなとも思うのです。

上述の『週刊ポスト』を私も読んでみました。週刊誌なんて買ったのは本当に十何年かぶりでしたが、改めてその「オヤジ」目線に驚きました。というか、一種の嫌悪感さえ抱いてしまいました。率直に申し上げて気持ち悪い。くだんの特集もさることながら、巻頭や巻末のセクシーグラビア、ゴシップとスポーツと“黒社会”、ゼニカネに、中高年男性の身体の悩み……私はこの雑誌を混雑した電車内で開く蛮勇は持ち合わせていません。

こうした固陋な、旧態依然たる、昭和の価値観を今に引きずる「オヤジ」がのさばる社会は、いずれその高齢化と引退によって変わっていくのでしょうか。そう願いたいところですけど、じゃあその後に控える私たちや、さらに若い世代の人々、特に男性に期待できるかというと、やや心もとないです。

家事や育児ひとつとっても、日本の男性の参加率は各種の調査で軒並み先進国最低レベルだそうですし、政治や行政における女性の参画も、日本はかなり立ち遅れています。もちろん、若い世代の方々の中には胸のすくようなフラットで公平な感覚を持っている方もいます(私の周囲にもいて、とても眩しく仰ぎ見ています)が、その一方で「オヤジ」的価値観をしっかり受け継ぎ、再生産しているような方もけっこういる。

私の友人の、そのまた友人の話ですけど、彼女の夫はこの典型的な「オヤジ的価値観」の体現者で、共稼ぎなのに家事は一切担当しないそうです。先日など、彼女が仕事で遅くなり、それでも夕飯を作ったものの、後片付けまで手が回らずに寝てしまった由。そしたら夜中に夫に起こされたそうです。夫いわく「まだ洗い物が残ってるよ」。

う〜ん。これが一般的な状況だとは思いませんけど、似たような話は他にも聞きますし、ネットで上でもよく見つかります。こういう話を見聞きするにつけ、「オヤジ」的価値観の一掃はなかなか難しいのではないかと思うのです。どうやったら、この体たらくから脱出できるんでしょうね。

「エレガントで、丁寧で常に笑顔」な日本人

最近、都営地下鉄に乗ると、車内のスクリーンで「都営交通」の宣伝映像を見かけることがあります。著名な国際的写真家グループである「マグナム・フォト」に所属する写真家、ゲオルギィ・ピンカソフ氏の写真と、氏へのインタビューをもとにしたスクリプトが投影されるものです。

project-toei.jp
youtu.be

この国の人はデリケートだと思います。親切で、丁寧ですね。弱いものを守る精神があります。それはとても感じます。人はとてもオープンで、素直ですね。そういう意味では、日本の社会を羨ましく思います。ここにいると自分自身も変わり始めて日本人のようにエレガントで、丁寧で常に笑顔ですね。

う〜ん、どうかなあ。あまりネガティブなことは書きたくないですけど、ここまで称賛されると、私などはちょっと引いてしまいます。ピンカソフ氏ご自身にそんな意図はまったくないであろうことは十分に想像できますが、毎日人々のイライラが充満したような電車に乗って通勤している身としては、ちょっと素直には受け止められないのです。

いえ、たしかに私たちは「デリケート」なんです。だからこそあの殺人的な混み具合の電車内においてさえ、ほとんど息を殺すようにしてその不快さに耐え、だれも不満を口にしません。その意味では「親切で、丁寧」でもあるのかもしれません。だけどそんな自己抑制に耐えきれなくなって、思わず暴力を振るっちゃう方が絶えない(だからこんな「人をぶっちゃだめなんだよ」という広告さえ作られる)のもまた私たちの実情なのです。その意味では「オープンで、素直」とはとても言えないじゃないですか。ましてや「羨ましく思」われるなんて。あ、オープンで素直だから思わず「人をぶっちゃ」うのか……。

ごめんなさい、嫌味が過ぎました。そうは言っても私は、日本のある種の「秩序」をとても好ましく思っているのです。行列や電車の乗降口に並ぶ律儀さ、赤信号をきちんと守ろうとする従順さ、大地震の翌日でも会社に向かおうとするバカ真面目さ……日本人に「公徳心」が失われて久しいなどとおっしゃる向きもあろうかと思いますが、諸外国と引き比べてみれば日本のそれはかなり高いレベルでなお維持されていると思います。それは認めざるを得ない。

だからピンカソフ氏の称賛を、多少は面映ゆく思いながらも素直に受け止めればよいのですが、やはり私は最初にこの広告に接した時、どうしても「どうかなあ」という思いを抑えきれませんでした。それは最後の「日本人のようにエレガントで、丁寧で常に笑顔」という一節にとどめを刺されます。私は今の日本人に(というより東京の日本人に限定したほうがいいのかもしれませんが)何より乏しいのが「エレガントさ」であり、なにより「笑顔」であると思うからです。

……と、ここまで書いて改めて思いました。エレガントさと笑顔に欠けているのは、自分なのです。ピンカソフ氏は日本で自分自身が「日本人のようにエレガントで、丁寧で常に笑顔」に変わるのを感じたそうですが、同じ環境に身を置いていながら彼我のこの差は一体どうしたことなのでしょうか。

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フィードバックをもらえるありがたさ

通訳学校は現在、秋学期の生徒募集時期ということで、どちらの学校も無料公開講座セミナーなどを開催されています。eラーニングやネット動画を使った教材も増えている昨今、毎週毎週教室に足を運んで訓練する昔ながらのやり方じゃなくてもいいんじゃないかと思われる方もいらっしゃると思うんですけど、私は、自分がかつてこうした学校に通った、あるいは現在も別の言語で毎週語学学校に通っている実体験に照らしても、通学には通学の大きなメリットがあると思います。もっとも私がこう語ると、単なる営業トークになってしまうんですけど。

通学するメリットのひとつは「フィードバックがもらえる」という点です。もちろん講師の先生からのフィードバックも貴重なんですけど、それと同じくらいクラスメートからの意見がとても参考になるのです。特に通訳学校や語学学校などは一般的に習熟度が同じレベルの方と一緒のクラスになっています。そういうほぼ同レベルで“志同道合(志を同じくする)”のクラスメートに、自分でも気づいていなかった弱点なり欠点なりを指摘してもらえる、これは本当にありがたいことでして。

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https://www.irasutoya.com/2015/09/blog-post_79.html

例えば私のクラスではよく「サマライズ」という訓練を行います。これは中国語なり日本語なりのまとまった音声や映像(五分間くらい)をメモを取りながら視聴して、その後すぐに別の言語で(難しければ同じ言語でも)一分間ほどに圧縮(要約)して話す、という訓練です。初めて見聞きした内容の、その骨子となる部分や重要な理路の流れを素早くつかみ、目の前にいる人にわかりやすく話すという訓練で、リスニングやスピーキングはもちろん、理解力や記憶力、当意即妙の表現力などが鍛えられます。

かつて私が通訳学校に通っていたときにもこの「サマライズ」訓練をやりましたが、そのときにクラスメートから指摘された多くの事柄は今でもよく覚えています。いわく「あなたは話すときに体が揺れている」「押しつぶされた猫みたいな声で喉がつらそう」……などなど、いずれも自分ひとりで練習しているときには全く気づいていなかった欠点を指摘してもらったのです。こうした欠点はそのままクライアント(お客様)の前でも出てしまうわけで、それはデリバリー(通訳の訳出)の評価にも直結します。

日本人にしろ華人にしろ、遠慮してはっきりした批評を述べたがらない方が多いので、この訓練を行うときは「自分のことは棚上げで」と繰り返し助言しています。目の前でサマライズをしているクラスメートを自分がお金を出して雇った通訳者だと仮定して、その上でそのクラスメートのパフォーマンスにお金を払えるかどうかという観点で批評してくださいというわけです。「自分のことは棚上げ」にしないと、お互い「何よ、じゃあアンタはできるの? やってみなさいよ!」ってな感じで険悪なムードになりかねませんから。

ともかく、こうやって「自分ひとりでは気づかなかった欠点を他人に指摘してもらえる」というのが、学校に通うメリットのうちでもかなり大きなものだと思います。人は誰しも自分に甘くなりがちですし、それにひとりで練習なり訓練なりをしていても「だからどうした」という気持ちになりがちなんですよね。例えば市販の通訳教材を使って録音を聞き、それを訳し終わっても……「で?」という感じがしませんか。何もフィードバックがないというのは、とても虚しい気持ちになるものなのです。

そこへ行くと教室では講師やクラスメートがフィードバックをくれますし、それ以前に他人に自分のパフォーマンスを聴かれている、見られているというだけで緊張感なりプレッシャーなりが、自宅でひとりで訓練しているときとは全く違います。

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https://www.irasutoya.com/2013/07/blog-post_314.html

そういえば、筋トレだって、自分一人でベンチプレスしていても、なんだか張り合いが少ないです。自分なりに目標を定めてやっているとはいえ、やり終わってもなんのフィードバックがないというのは、なかなかに虚しいものがあります。以前ひとりで一年半ほどジムに通っていた時期があるのですが、終始ひとりでやっていたためか、驚くほど効果が(ダイエットにしても筋肉増強にしても)ありませんでした。

これがパーソナルトレーニングだと、常にトレーナーさんが声をかけてくれますし、意識をすべき体の部位を触って教えてくれますし、終わったあとには声をかけてくれたり、課題点を指摘してくれたり、褒めてくれたりする。お世辞だとはわかっていても「ナイスファイト」とか「素晴らしい」とか「体幹が強くなりましたね」とか言ってもらえると、モチベーションも上がる。人間ってそういうものですよね。

中島敦の『名人伝』に出てくる弓の達人・紀昌みたいに、一人で山にこもって黙々と修行を重ねて高みに到達する孤高の方もいらっしゃるでしょうけど、私のような意志の弱い凡人は、やはり誰かにフィードバックをもらいながらでないと上達は望めないみたいです。

レイパユースト

この夏はフィンランドの田舎をレンタカーで旅行して、よく沿道のスーパーで食材を買い込んでいました。そのときに偶然買って食べたチーズがとてもおいしくて、すっかり気に入ってしまいました。見た目は「焼いたはんぺん」みたいなこのチーズ、名前は「leipäjuusto(レイパユースト)」。フィンランド語で「ieipä」がパン、「juusto」がチーズなので、「パンのようなチーズ」ってことなんでしょうか。おもしろい名前です。

ウィキペディアに「レイパユースト」の項目があって、そこには「噛むと『キュッ、キュッ』と音のするような弾力のある食感が特徴」と書かれていました。たしかにそのとおりの食感で、それも魅力のひとつだと思います。カッテージチーズをギュッと固めて、表面に焼き目をつけたという感じです。

ja.wikipedia.org

レイパユーストは料理の食材というよりお菓子やお茶うけの分類なのでしょうか、フィンランドの湖でカヤック遊びをしたときも、休憩時間にガイドさんがレイパユーストに黄色いベリーのジャムを乗せて出してくれました。レイパユースト自体はなんのクセもなくごくごくほんのりと薄い塩味がするだけなのですが、それが甘いジャムによくあっているような気がしました。

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この黄色いジャムは「lakka hillo(ラッカヒッロ)」といって、クラウドベリー(ホロムイイチゴ)のジャムです。ガイドさんによると、中央フィンランドや南フィンランドではレイパユーストによく合わせるジャムだそうで、そのお話の通り、街の市場などではこの黄色いベリーのジャムが大きなバケツみたいな容器でたくさん売られていました。

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一方このレイパユーストは、フィンランドのスーパーなどではだいたいどこでもパック入りで売られている、いたって安価な食材ですが、要冷蔵であまり日持ちがしないみたい。というわけで、たくさん日本に持って帰りたかったのですが、今回はあきらめました。

それでも東京に戻って、あの味が忘れられず、試みにネットで「レイパユースト 東京」と検索してみると……なんと自宅近くにこのレイパユーストを販売しているお店があるではないですか。さっそく昨日、仕事帰りに寄ってみました。


http://www.lammas.jp/

店頭のショーケースには並んでいなかったのですが、お店の方に聞いてみると「ありますよ」とのこと。冷凍されていますけど、懐かしの(?)レイパユーストです。しかもこのお店には、あのカヤックのガイドさんが供してくれた黄色いクラウドベリーのジャムまで売られていました。輸入品なのでフィランド現地に比べるとかなりお高いですが、せっかくなのでどちらも買い求めて帰ってきました。

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こんなマイナーな食材まで売っているなんて、すごいですね。さすが食に貪欲な、というか、他の国々の方から見ればほとんど「節操がない」と言われそうなくらいクロスオーバーな食生活――朝はご飯に味噌汁、昼はカレー、夜は中華といったような――を展開する日本ならではです。

フィンランド語 45 …複数形登場

ほとんど「ボケ防止」で始めたフィンランド語の学習は細々と続いています。先日フィンランドを旅行して、多少なりとも看板が読めたり、単語の羅列程度であっても話が通じたりすると、やっぱり楽しいものですね。

学校での授業はどんどん進んで、複数形が登場しました。これまでにも「複数主格」というのだけは学んでいて、例えば「kissa(猫)」が「kissat(猫たち)」と、「t」が目印という認識だったのですが、フィンランド語はその他の名詞や形容詞の格も全て複数形になるのです。しかも格によって複数形の作り方が異なるという……さすがに「悪魔の言葉」と言われるだけのことはあります(褒めてます)。

ただ複数の「属格」「分格」「入格」以外は同じ作り方だということで、まずはそちらから学びました。目印は複数主格(対格も)の「t」に対して「i」です。あれ、「i」は過去形の目印でもあったんじゃないの……ということでまた混乱しそうな予感がしますが。

基本的には単数の活用語幹(つまり「ie子」やkptの変化を済ませたあと)に「i」を足し、さらにそれぞれの格語尾(つまり内格なら「ssA」、出格なら「stA」など)をつけるんですけど、重要なのは「i」が入ることで「母音交替」という現象が起きることです。この現象は過去形でも起きました。

①活用語幹の最後が o ö u y の場合、母音交替は起こらない。
talo(家):talossa → talo i ssa → taloissa

②活用語幹の最後が e ä の場合、e ä が消える。
joki(川):jokella → joke i lla → jokilla
tytär(娘):tyttärestä → tyttäre i stä → tyttäristä

③活用語幹の最後が a の場合、単語の最初の母音が o u なら a が消え、それ以外なら a が o になる。
koira(犬):koirasta → koira i sta → koirista
kirja(本):kirjassa → kirja i ssa → kirjoissa

④活用語幹の最後が i の場合、 i が e になる。
pankki(銀行):pankissa → panki i ssa → pankeissa

⑤活用語幹の最後が長母音の場合、短母音になる。
maa(国):maassa → maa i ssa → maissa

⑥活用語幹の最後が二重母音の場合、最初の母音が消える。
työ(仕事):työssä → työ i ssä → töissä

⑦三音節以上の単語で、活用語幹の最後が a ä の場合、名詞は a ä が o になり、形容詞は a ä が消える(例外あり)。
ravintola(レストラン):ravintolassa → ravintola i ssa → ravintoloissa
ihana(素敵な):ihanassa → ihana i ssa → ihanissa

⑦番はいろいろと例外があるようで、例えば「omena(リンゴ)」は「omenoi-」と「omeni-」のどちらもOKみたいです。でもまあこれで、よりヴィヴィッドな表現ができるようになりますね。私は以前こんな例文を作ってみたことがあるのですが……。

Miksi sinä opiskelet suomea?
Koska minä pidän suomen metsästä ja järvestä.
なぜフィンランド語を学んでいるの?
フィンランドの森と湖が好きだからです。

なんだか質問と答えが噛み合っていない稚拙な例文ですが、それ以上に、これだと「森」と「湖」が単数形なので、フィンランドのある特定の森や湖が好きということになっちゃうんでしょうね。正確に表現するなら「森たち」「湖たち」と複数形にしなければならないと。このへんは日本語とぜんぜん違う発想で面白いです。

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Miksi sinä opiskelet suomea?
Koska minä pidän suomen metsistä ja järvistä.

「まあいいか」の練習

先日「オーウェル思考」という言葉を知りました。『1984』や『動物農場』『カタロニア讃歌』などを書いた作家のジョージ・オーウェルを連想したんですけど、全く違っていて、英語の“Oh, well(まあいいか)”なんだそうです。

gendai.ismedia.jp

日頃から「まあいいか」と思うようにすると、イライラが減り、自分の仕事に集中できます。(中略)大切なのは、自分と相手との「価値観・考え方・やり方」は違うのだということを知っておくことです。

なるほど。私は最近、東京の「ストレスフル」な環境に耐え難くなってきていて、その原因は東京の人の多さと、その多くの人が互いに発信している「イライラ」あるいは「不機嫌」にあるんじゃないかと思っているのですが、それは人々が(自分も含め)「まあいいか」と他人を許容することができない、つまり互いに寛容になれていないからなんでしょうね。

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この記事は講談社の『現代ビジネス』というサイトに掲載されているので、主に仕事の効率や生産性向上という観点で書かれていますけど、この「まあいいか」は暮らし全般にあてはめて考えてもいいのではないかと思いました。

以前東急電鉄が電車内マナーに関する一連の広告を作成して話題になったことがありました。「歩きスマホ」や「電車内での化粧」に対して、「ありえない」「みっともない」とそうした行為を諌める内容で、賛否両論がネットなどで飛び交っていました。

youtu.be

私は当時このCMを留学生のみなさんに見てもらい、この内容についてどう思うか、また自分の国でこうした啓蒙活動(?)がなされているかをたずねてみました。そこでの大半の意見は「別にいいんじゃないですか」というものでした。つまりそこまでマナーの徹底を求めなくてもいいのではないか、求めても仕方がないのではないかというわけです。

qianchong.hatenablog.com

中でも、とある台湾人留学生の意見は、シンプルだけれどとても心に残りました。「みっともないかも知れないけど、そういう人なんだと思うだけ」。つまり世の中には色々な人がいて、自分の想像を超えたような人もいるのは当たり前のことで、それを変えさせようとか糾そうなどとは思わないというわけです。まさに「まあいいか」ですよね。

世の中の不合理や不条理に対して、すべてを「まあいいか」で済ませてしまうのはどうかとも思います。おかしいことはおかしいと言わなければならないこともある。でも身の回りすべてのことに異議申し立てをしていたら、上記の記事にもあるように相手に自分の「価値観・考え方・やり方」を当てはめようとしていたら、それはイライラしますし、疲れてしまいます。

オーウェル思考」の対局にあるのは「マスト思考」なんだそうです。マストは“must”、つまり「〜すべき」という考え方で、その例が上記の記事にもたくさん書かれていますが、これにあてはめれば私など典型的な「マスト思考」の人間です。そしてその「〜すべき」を自分にだけ適用しているならまだしも、他人にも期待していなかったかと自問自答したのです。答えは……していたなあ。そりゃイライラも亢進しようというものです。

私は昔から「自分に厳しい人」というのを一種の褒め言葉として認識してきたんですけど、その厳しさが漏れ出して他人にまで無制限に及ぶようになったら、これはもうパワハラ紙一重ですね。そしてそこには「イライラ」や「不寛容」や「不機嫌」の種もたくさん播かれていたわけです。東京の人の多さは当面どうしようもないけれど、自分のスタンスは変えることができます。というわけでいま、「不機嫌」の真逆にある「上機嫌」を自分に課すべく努力して練習しています。

……あ、こうやって「課すべく努力する」ってのが、そもそも「マスト思考」なんでしたね。

マンガ サ道(第2巻)

タナカカツキ氏の『マンガ サ道』第2巻を読みました。

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マンガ サ道~マンガで読むサウナ道~(2) (モーニングコミックス)

今年はサウナがとても人々の話題にあがる年なんだそうで、このマンガをもとにしたテレビドラマが放映中なのに加え、もうひとつ別のサウナをテーマにしたドラマも放映中です(私はどちらも見ていませんが)。さらに「サウナの本場」フィンランドと日本の外交関係樹立100周年ということで、サウナを始めとした様々なフィンランドの文化がメディアに載ることも多いみたいです。来月にはフィンランドドキュメンタリー映画『サウナのあるところ』もロードショー公開されるよし。まさにちょっとしたブームですよね。

www.tv-tokyo.co.jp
www.asahi.co.jp
www.uplink.co.jp

かくいう私も、そんなブームに乗ってサウナ好きになったひとりですが、そんな自分に驚いてもいます。だって私は生来の「あまのじゃく」で、人気があるとか流行しているとかブームになっているとか、そういうものには近づきたくない! という性格だからです。なのにどうしてサウナにハマってしまったのでしょうか。現在は朝活で毎日ジムに行っているので、平日は毎日サウナを利用しています。

朝からサウナに入ると、もうその時点で仕事をしたくなくなりそうですが、4、5ヶ月間ほど続けてきた実感からいえば、仕事をしたくなくなるというより、仕事に向かう気持ちがよりわいてくるという感じです。うまく言語化できないのですが、とても気持ちがスッキリとしているので、仕事にスムーズに入っていけるというか。空腹のときは頭が冴えているような気がするものですが、アレに似た感覚です。そう、適度にお腹が空くのもサウナの効用のひとつです。

こうしたサウナのあとの爽快感や開放感や、もっと進んだ多幸感みたいなものを、タナカカツキ氏は「ととのう」と表現されています。この「ととのう」「ととのった」はすでにサウナ・スパ業界では標準的な用語というか惹句のように用いられているようで、サウナに貼ってあるポスターなどにもよく使われています。この『マンガ サ道』にも、そうやって「ととのった」人々(作者を含めて)の様々な物語が並んでいて、読んでいるこちらもほんんわかと多幸感に包まれます。

実際のサウナはむくつけきオジサンばかりで、正直私はあの雰囲気はちょっと苦手です。オジサンを十把一絡げに語るのも失礼ですし、自分も紛う方なきオジサンなので語る資格すらないですが、まあ場の雰囲気からいえば、そんなに上品で静かで心安らぐような空間ではないんです。タナカカツキ氏も折りに触れ描写している、マナーのあまりよろしくない方々もいらっしゃいますしね。それでも、サウナと、それから水風呂と、さらに外気浴などの休憩を経た後に自分の中に生まれるのは、ちょっと信じられないくらいの爽快感であり開放感であり、なにより多幸感なのです。このギャップはなんなんでしょう。

思うに、サウナという一つの文化は、これまであまり文字や映像などに表現されてこなかったのかもしれません。いや、もちろん、これまでにもその魅力なり効能なりを言語化する試みはたくさんあったはずですが、それが広く認知されるまでには至らなかった。銭湯文化についてはかなり広く認知されていると思いますが、サウナ文化についてはまだまだですよね。それがいま時宜を得ていっせいに発信され始めたのかもしれません。

この点で、『サ道』のタナカカツキ氏を日本でただひとりの「サウナ大使」に任命した「日本サウナ・スパ協会」は、まさに炯眼であったというべきでしょう。私は昨日も、この第2巻の巻末に載せられていた「ととのいすぎちゃう全国のサウナ厳選50(第2弾)」にあった都内某所のサウナに行ってきました。ここはフィンランドのサウナ同様に自分でサウナストーンにお湯をかける「セルフ・ロウリュ(すごい和製芬語!)」ができるのです。もちろんしっかりと「ととのい」ました。

「失礼しました〜!」に見る日本人的な心性

飲食店内で時々「失礼しました〜!」って声を聞きますよね。店員さんがお皿やお盆やなどを落としたりして大きな音を立てたときに、すかさず言うアレです。私はアレ、とても日本らしい風景だなと思います。少なくともこれまでに訪れたり住んだりした海外では聞いたことがありません(もし日本以外での例をご存じの方、ぜひご教示ください)。

いきなり大きな音を立てるとお客さんがびっくりする。そうやってお客さんをびっくりさせてしまったことに対して、お店として謝る。「失礼しました〜!」にはそういう意味があるんでしょうけど、私が興味深いなと思うのは、この「失礼しました〜!」が結構な大声で、店内じゅうに響き渡るように発せられる点です。

もちろん、何かを落とした音が店内じゅうに響き渡っている手前、それに対する謝罪も店内じゅうのお客さん全てに聞こえなきゃ意味がないという理路なんでしょうけど、あの「失礼しました〜!」はお客に対する謝罪もさることながら、落とした自分への免罪も多分に含まれているような気がします。普段きわめて内向的な日本人がここまで素直に、即過ちを認めて大きな声で謝罪している以上、それ以上のクレームはもう受け付けません的な。これで最前の過ちは帳消しみたいな。

いえ、落として、すぐに謝るのは、とってもいいと思いますよ。大きな声も清々しいと思います。実際、私も若い頃飲食店でアルバイトをしていて、この「失礼しました〜!」を言った(叫んだ)ことがあります。でも言ったときに感じたんです。あ、これは免罪符だなって。物を落とした痛恨のミスを、とっさの大声で跳ね飛ばすような突破力(?)があるんですよね。ここまで素直に率直に大胆に謝罪しちゃっている以上、店長もそれ以上「お前、何やってんだよ」的な叱責を飛ばしにくい。せいぜい「ほら、さっさと片付けちゃって」と指示するくらいが関の山でしょう。

だから「失礼しました〜!」にはどことなく「ズルさ」が潜んでいるような気もします。何でもかんでもすぐ水に流してなかったことにしちゃう心性が隠れていると言ったら、言い過ぎでしょうか。あと、店内じゅうに響く声で一度言ってしまえばそれで済んじゃうというのも、考えてみればとってもお手軽ですよね。たぶん超高級レストランだったら、それぞれのテーブルを回って「先程は失礼いたしました」などと謝るのかもしれません。

私自身は、うっかり物を落とすのは仕方がないことだから、いちいち謝らなくてもいいと思っています。でも先日、昨日も書いたようにカウンター内がほぼ外国人労働者で占められている「丸亀製麺」で、厨房からかなり大きな音がしたんですね。大きなお盆かバットみたいなものをひっくり返したような。

その音にかなりびっくりして、おもわず身がすくむくらいだったんですが「失礼しました〜!」はありませんでした。そのときに私は一瞬「っとにも〜、なんだよ〜」と不満を感じてしまったんです。ふだん「いちいち謝らなくても」と殊勝なことを言っておきながら、実際にその場に出くわすとやはり謝罪を期待する。こういうパターン化された日本人的な心性からはなかなか自由になれません。

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余談ですけど、この「丸亀製麺」で私は「釜玉の並、温玉で混ぜて」と注文したんですが、多分中国系と思しきチーフ的な店員さん(釜からうどんを引き上げる担当)がインド系か中東系とお見受けした店員さんにうどんの丼を手渡しながら手短に「釜玉温玉混ぜ」と指示しました。そしたらその指示を受けた店員さんはなぜか「明太釜玉」を作っちゃった。するとチーフ的な店員さんが「違う!」と叱責して丼を奪い、中身を「ばあっ」と後ろのゴミ箱にあけちゃったんです……。

私はこの一連の流れを見ていて、なんだかとても複雑な心境に陥ってしまい、改めて作って差し出された「釜玉」もあまり美味しくいただけませんでした。これも日本人的な心性からすると、せめて客の見えないところで「ばあっ」ってやってほしいなと思っちゃう。

でもそれはこうやって外国人労働者に頼らざるを得ない社会になりつつある日本社会では詮無い望み、あるいはオーバースペックな接客への要求ということになるのでしょう。感性の異なる(そこに「良い・悪い」はありません)人々と一緒に暮らすというのは、ひょっとしたらこういうことなのかもしれません。

「外食の味が濃すぎてつらい」のその後

以前「外食の味が濃すぎてつらい」と独りごちたことがあるんですけど、最近はますますその傾向に拍車がかかってきてしまいました。特に東京は、どこで何を食べてもほとんどの場合味が濃すぎるというか塩辛すぎてつらいのです。いえ、これはお店のせいではなくて私個人のせいです。歳を取って、味の濃いもの、塩辛いものが本当に苦手になりました。血圧が高めだから塩分を控えなきゃ……という心理的なものも後押ししているのかもしれません。

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そこへいくと台湾は、もちろん例外もあるものの、どこで何を食べても東京に比べて格段に薄味で「ほっ」とします。特にここのところ毎年訪れている離島の澎湖諸島は、薄味の台湾料理の中でもさらに薄味で、本当においしいです。ここまで来るともう台湾料理とか、ましてや中華料理というカテゴリーとはまったく違う料理のような気がするほどです。

今回も、その薄味かつ奥深い味でうなったのが、毎回訪れている「福台排骨麵」の排骨混沌意麵。スペアリブとワンタンが入った麺ですが、こってり・ぎっとりの代名詞みたいなスペアリブがこの上なく上品で薄味です。あっさりしているのは、たぶん蒸しているからなんでしょうね。お店ではでっかい蒸籠から常に蒸気が上がっていて、その中にアルミの筒がたくさん並んでおり、そこに一人分ずつ衣をつけて揚げたとおぼしきぶつ切りのスペアリブと、なぜか大根がひとかけら。ここでホロホロになるまで蒸されたスペアリブと「ひだひだ」の多いワンタンが、麺の上に乗っかっているわけです。

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これがもう、見た目からはまったく想像できないほどのあっさり味・薄味で、何度食べても飽きません。お店の中は至って庶民的で雑然としていて、目の前でおかみさんがワンタンを包んでいるようなシチュエーションなんですけど、そういうのもまたこの飾らない味に一役買っているような。

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私がその「薄味+しかしながら奥深い味」に感動して、おかみさんに「本当においしいです。こんな麺料理、東京じゃ味わえません」と言ったら、「うちは麺も具もすべて自家製の手作りなのよ」と胸を張っていました。ワンタン作りを観察していたんですけど、普通よりかなり大きめの皮に薄くのばすように餡を塗って、ぺたんと折ったらそのままぐーっと指の跡がつくぐらい握り込んでいました。なるほど、そうやってできる「ひだひだ」にスープが絡んでまたおいしくなるわけですね。

qianchong.hatenablog.com

こういうのが東京でも食べられたらいいなあ。東京にも数多ある台湾料理屋さんで、特に台湾人御用達のようなお店を発掘してみようかなあ(在京台湾人の中には、やはり「東京の味は塩辛すぎる」とこぼす方が多いんですよ)。

そういえば上掲のエントリでは「丸亀製麺」の味が濃すぎてつらいという話を書いたのでしたが、最近いいことに気づきました。「釜玉」を頼めば、塩辛さを回避できるのです。ご案内の通り釜玉は、麺と卵を混ぜただけのいわば「味つけをしていないカルボナーラ状態」で、卓上の醤油を回しかけて全体を混ぜ、いただくものです。つまり回しかける醤油の量を自分で調整できるわけですね。これは助かります。なぜもっと早く気づかなかったかなあ。

ちなみに職場近くの「丸亀製麺」は、カウンターに居並ぶ店員さんのほとんどが外国人労働者であることに今日気づきました。「釜玉の並、温玉で。混ぜてください」などという注文に素早く応じるみなさん。自分が外国でお昼のピーク時にこういう注文を次々にさばけるだろうか……と想像すると、そのスゴさに頭が下がります。

よーく考えよう、お金は大事だよ。

新聞の朝刊を読んでいたら、こんな保険の全面広告が載っていました。新聞の広告は、その読者層を如実に反映してか、もはやお年寄り向けの健康食品・アンチエイジング・強精&回春・団体旅行・保険などなどばかりでうんざりしてしまうんですけど、この「月々ワインコインでお葬式代程度の保険金がもらえる死亡保険」というのはなかなかにインパクトがあります。

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隅のほうに小さな文字で書かれていますが、この保険は保険期間が1年間の掛け捨て型で、保険料は5歳刻みで変更になるとのこと。ワンコインというキャッチフレーズが有効なのは50〜54歳の女性だけで、その後は年齢が上がるほど保険料も上がっていくのですぐに「ワンコイン」じゃなくなっちゃいます。それはまあいいんですけど、私が興味を引かれたのは、これが保険会社にとってものすごくおいしい商品だなと思ったからです。

例えば現在の私が「大した蓄えもないし、いま自分が死んだらお葬式代も出せないな。よし、月々わずかの出費で万が一に備えられるなら」と毎月880円を払ったとしますよね。これは50〜54歳男性の月々の保険料です。一方で、この年代の男性の死亡率はというと、ちょうどうまい具合に厚生労働省の人口動態統計が五歳階級別に公表されています。ウェブサイトで誰でも見ることができます。

https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/nengai18/dl/h5.pdf

これによると、最新の統計である平成30年における男性50〜54歳の死亡率(概数)は10万人あたり303人。つまり、仮にこの年代の10万人が保険に加入したとしたら(実際にどれだけの加入者がいるかは知りませんが)保険会社には1年間で10億5600万円(880円×12ヶ月×10万人)が入るのに対し、加入者の死亡に際して支払われるであろう保険金は3億300万円(100万円×303人)で、還元率は約29%です。宝くじの還元率が約45%、競馬は約75%などと言われますけど、それらに比べてもかなり低いですね。

同じように考えると、この広告に載っている死亡率が最も高い年代の60〜64歳男性でも還元率は約38%。もちろん保険会社の人件費や広告宣伝費など様々な要素は省いていますし、実際の収支はもっと複雑ですから、これはかなり単純化した計算ですけど。こんなギャンブルに手を出す方がいるのかしらと思いますが、保険会社がこうやって新聞に高額の全面カラー広告を打てるくらいですから、けっこう多くの方が手を出してらっしゃるのでしょうね。

作家の橘玲氏はブログで「年金で生活できる高齢者に保険は必要なく、金融リテラシーの高いひとはそもそも保険に加入しません」と書かれていました。私は金融に関して「リテラシー」と呼べるほどの知識はほとんどありませんが、それでも民間のこうした保険には一切加入していません。そして、新聞でこういう広告を目にするたび、なにかこう、とても落ち着かない気持ちに襲われます。老後が不安だからではありません。知識を学ぶことの大切さと難しさをいまさらながらに痛感させられるからです。

東京の「促イライラ性」について

北欧や台湾の、人が極端に少ない田舎ばかり巡って東京に戻り、仕事に復帰してみて自分でも驚いたことがありました。というか、以前から気になっていて改めてそれを確認したという感じなんですけど、それは東京にいる自分がなぜかいつも「イライラしている」ということでした。

もとより人が多い東京。さらにこの時期はまだ蒸し暑い東京ですから、イライラするのも当然だと思うんですけど、何かそれだけではない「イライラの小さな種」がそこここに散らばっているような気がするのです。それは例えば、駅のコンコースで目の前に少しゆっくり歩いている(周りの歩行者とのリズムが違う)人がいるとか、やんちゃ盛りの子どもが嬌声を上げているとか、電車の中で(主におじさん方の)タバコ臭や加齢臭が漂ってくるとか、まあ何とも他愛ないというか「そんなことでイライラするのもどうよ」というような些細なことばかりです。

それに同じようなことは北欧や台湾の都会でも遭遇するのです。でもその時はちっともイライラしていない。そりゃまあ当然かもしれません。異国にいるときはそれは旅の楽しく刺激的な体験の一部ですし、それに私自身、異国つまり「よそ様の国」にいるときは自分の行動を日本にいるときの八割から七割程度に抑制しようと心がけていて、何でもかんでも日本にいるときと同じような便利さや快適さを求めないと決めているからです。

そう考えると、日本の東京で私がいつもの「イライラ」に戻ってしまうのは、ひとえに自分が元々暮らす国だからということになるのかもしれません。オレの縄張りなんだからオレの好きにさせろというちょっと傲慢な心性が、それを阻む(というほどのものでもないけど)ものに対して「イライラ」をつのらせているのでしょうか。

しかし……この東京の「ストレスフル」な環境は、どうもそれだけではないような気がします。それが何であるかは分からないのですが、人の多さとか気候などだけではない何か独特の仕掛けなり存在なりがあるように思えて仕方がありません。最近、鉄道車内や駅構内などにこんなポスターが貼られているのをご存じでしょうか。こんなに「イライラ」をつのらせている人が多いというのは、ちょっと異常じゃないかと思うのです。

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https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2019/sub_p_201907088646_h_01.pdf

そういえば以前Twitterにこんなツイートに接しました(距離を置きたいといいながらまだ依存していますね)。

この方は普段アメリカに住んでいらして、時々日本に滞在されるようですが、日本の、特に東京における不快感の理由を、人の多さ、空間の狭さ、気候、雑然とした環境、そしてそれらに対する人々の内面に求めておられます。いわく「山ほどある小さな不快に我慢を重ねすぎて収拾がつかない状態になっているというか」。

なるほど、私だけではなく、もうほとんどのみなさんがそれぞれ「山ほどある小さな不快」にイライラしているのですね。そして大部分の方はそれを我慢しているけれども、我慢しきれない人が暴力に訴えて、その割合が看過できないほどに大きくなってきたので上掲のポスターのような対策も講じられるようになったのかなと。「人の生気を吸い取る何かものすごく強力な力」というのは、そうした人々の我慢が発するオーラみたいなものなのかもしれません。

私はオカルト的なものは一切信じない唯物主義者ですけど、この東京の不思議な「促イライラ性」にはまだちょっと合理的な説明を与えられないでいるのです。

SNSは「有用」だからこそ振り回される

Think clearly』で「心に響いた2、3個」のうちみっつめは、というかこれも「ふたつめ」に連なるんですけど、やはりSNSについてです。

SNSで、とくにTwitterで心かき乱されるのは、あまりにも悪意のある意思表示が、それも匿名で無責任に投げつけられていることが多いからだと昨日書きました。でも、タイムラインに流れるのはむろん悪意があって無責任な意思表示ばかりではありません。善意の責任ある立場やスタンスからの意見表明もたくさんあります。それらは例えば様々な社会問題であったり、国際的な問題であったり、あるいは自分の仕事や趣味に深く関わる貴重な情報であったりします。

以前の私は、そういう貴重な情報を惜しみなく共有しようとするSNSのあり方に強くひかれていました。そして私もそういう共有の一端に連なりたいと思って、積極的にツイートをしたこともありました。しかしここに来て、それが私にとってはやはり「承認欲求」と深く結びついた行為だと感じるようになりました。そしてまた、自分の生活リズムとはまったく関係なく飛び込んでくる(しかしそれはそれなり有用な、あるいは有用だと思わされてしまう)情報に振り回されてしまっている自分を見いだしたのです。

上述の本には、こんな記述がありました。

私たちの脳は、意見を吹き出す火山のようなもの。ひっきりなしに何かに対する意見や個人的な見解を発信している。訊かれた質問が自分に関連があろうがなかろうが、複雑だろうが単純だろうが、答えられる質問だろうが答えられない質問だろうが、そんなことに関係なく、能は答えを紙吹雪のようにまき散らす。


私たちには、質問が複雑な場合は特にそうなのだが、「即座に直感で答えを出す傾向」がある。そして意見を表明した後になってようやく頭で理性的に考え、自分の立場を裏づける理由を探しだす。(中略)こうした直感はほとんどの場合正しいのだが、複雑な質問の場合には、直感的に正しい答えを出せるものではない。ところが私たちは、それを正しい答えと勘違いしてしまう。


そして、直感があっという間に出した答えをどうにか「正当化」しようと、脳の中を大急ぎで探して、裏づけとなる理由や例やエピソードを集めてまわる。すでに自分の意見は述べてしまった後だからだ。

これは、TwitterなどSNSによく見られる感情的あるいは脊髄反射的な応酬の、ひとつの原因ではないかと思います。そしてまた文字数制限があるツイートに独特のあの、どこか高みから決めつけたような物言いの根幹にあるものではないかとも。そして筆者は、「現代が抱える問題点は、情報の過多ではなく、意見の過多だ」として、こう問いかけるのです。

思考の対象にするテーマは、意識して自分で選ぶようにすればいい。あなたがいま考えるべきテーマを、なぜジャーナリストや、ブロガーや、ツイッターのユーザーに決められなければならいのだろう?

もちろん優れたジャーナリストや、ブロガーや、SNSのユーザーの意見表明には、こちらの目を開かせてもらえるもの、それまでその存在に気づいてさえいなかった様々な問題についての有用な視点を与えてくれるものも多いです。それでも、そうした視点はなにもSNSだけで得られるわけではありません。ふだん新聞や雑誌や書籍を読んでいるなかで、もっとゆっくりと(ここが大切)、自分の頭で思考することに大きく軸足を置きながら(ここも大切)接して行くことだってできるはずです。

SNSには「意識の高い方々(イヤミで言っているわけではなく、本当に世の中の様々な事象に対して積極的に関心を寄せているという意味)」が多いからか、そこに流れてくる情報に思わず興奮や憤りや感動や落胆や笑いや……などなどを覚えてそのたびに血圧が上がります。そして私の脳はすぐにそうした一つ一つのメッセージに対して何か自分が旗幟鮮明にしなければならないような焦燥感を抱くのです。本当は誰もそんなこと求めていないのかもしれないのに。

そうした事象に無関心でいればいいとも思いません。社会の中で、人とつながって生き・生かされている以上、今後も積極的に関心を持ち続ける態度は必要でしょう。それでも、一個人がコミットできる範囲には限界があります。誠実であろうとすればするほど、そうした一個人の限界を超えて、過剰に思考を強要される——これはかなり心乱される環境です。これもまたSNSの負の側面ではないかと思うのです。

上述の本には、「個人ができることには限界がある」として「世界で起きている出来事に責任を感じるのはやめよう」というアドバイスもあります。これも「心に響いた」点でした。

世界で起きていることは、あなたの責任ではない。冷酷で、無慈悲に聞こえるかもしれない。だが、これが真実なのだ。(中略)各地で起きていることすべてに心を痛め、そのたびにああすればよかった、こうすればよかったと考えていたら、罪悪感であなたのほうがまいってしまう。あなたが精神的な苦痛を覚えても、現実に起きていることは何も変化しないのに。

SNSには、とくにTwitterには「拡散性」が高いという特徴があるため、そこでの意思表示がなにかの問題解決につながるかもしれないというある種の手応えや実感があります。それがますますTwitterでの情報収集と、それによる思考と、その結果の発信(ツイート)に走らせるのですが、そこまで自分の思考とSNSの力を過信してはいけないのではないかと思います。

またSNSではその時点におけるリアルな(と思われる)問題提起が次々になされるため、そしてそれに対する反応や動向もリアルで素早いため、ついついそれに何からのコミットをしていないと取り残されたような、あるいは後ろめたいような気持ちにさせられてしまう仕組みを含んでいます。でもそうした事々にいちいち反応していたら、結局自分の思考までも奪われてしまうんですよね。

私は時々、様々な団体や時には個人にも寄付をすることがありますが、世の中への、特に様々な問題や課題へのコミットの仕方としては、それが一番よいのではないか、あるいはそれが「せいぜい」なのではないかと思いました。私は私で、目の前の自分が直面している、あるいは自分が解決しなければならない問題に集中して取り組み、その結果稼いだお金の一部を世の中に還元すればよい(実質的にそれしかできないのかもしれない)のだと。

SNSとつきあいながら、そうした適度な距離感を保てる人もいると思いますが、私は根が単純なのか、瞬間湯沸かし器的な性格だからなのか、どうも極端に走りがちなんですよね。そういう人間にとって、あまりに意見や見解があふれているSNSはあまり近づき過ぎてはいけないのではないか、そう思うようになったのです。

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SNSの「毒」について

Think clearly』で「心に響いた2、3個」のうちふたつめは、SNSについてです。私はかつて中毒と自覚していたくらい(自覚できていたくらいだからまだ重症ではなかったのかもしれませんが)頻繁にSNSを使っていましたが、最近ではほとんどやめてしまいました。LINEは家族との連絡にだけ、FacebookもMessengerでの連絡機能だけ、Instagramは完全に退会し、Twitterもこのブログの投稿とそのリプライへの反応だけ。

Twitterにブログの更新を投稿しているのと、リプライに反応しているところにまだ「未練」を感じさせますが、もう自分からTwitterでつぶやくことはやめようと思っています。それならInstagram同様に完全に退会しちゃえばいいんですけど、Twitterは情報の鮮度が半端ではなくよいので、なかなか手放せません。それでもタイムラインをいったん見てしまうと、もともとは見る気もなかった新奇な情報につきあわされて時間がどんどん消費されてしまう(それだけ面白い、というかキャッチーな情報にあふれているんですね)ので、利用する目的意識を明確にもって使うようになりました。

具体的にはTwitterの検索機能で知りたい情報のキーワードを入れるという使い方だけ、ということなのですが(例えば電車の遅延情報など。鉄道各社の公式サイトよりずいぶん早いです)、そのためにはスマホTwitterのアプリを入れておく必要があります。これが非常によろしくない。スマホTwitterが入っていると、ついつい開いてタイムラインを眺めてしまうんですね。これをもうほとんど無意識のようにやるに至って「これはまずい」と思うようになりました。やっぱり、紛う方なき中毒ですよ、これは。

というわけで、スマホTwitterアプリは削除してしまいました。こうなるとTwitterで自分的には最後まで残っていた情報検索という使い方のメリットもなかば失われてしまったことになります。これはもう、完全にやめてもいいかなと思っています(こうやってグズグズしているところがまた中毒っぽい)。

『Think clearly』の「SNSの評価から離れよう」にはこんなことが書かれています。

「自分の内側にある自分自身の基準が大事か、それとも周りの人の基準が大事か」ということである。(中略)「周りがあなたをどう思うか」は、あなたが思っているよりもずっと、どうでもいいことだ。(中略)周りがあなたを褒めちぎろうが、反対に中傷しようが、そのことがあなたの人生に与える影響は、あなたが思うよりずっと小さい。あなたのプライドや羞恥心が大げさに反応しすぎているだけだ。

そうそう、SNSはフォロワー数やリツイート・リプライの数、「いいね!」や★の数など数値化された形で自分の「承認欲求」を満たす(あるいは損なう)機能が満載です。いったんこの仕組みにとらわれてしまうと、ものすごく心をかき乱されてしまうんですよね。少なくとも私の場合は。それだけ自分がプライドや羞恥心、いや虚栄心の強い人間なのだろうと思います。そうではない方にはSNSがとても有用なのでしょうけど、私のような人間には中毒をもたらす「毒」なんだなと思ったわけです。

SNSのような(自分にとっては)他人の評価や基準ばかり気にするように仕向けられるシステムからは足を洗って、自分の内側にある基準をもっと豊かにしたいと思いました。自分の内側にある基準を豊かにするためには様々な情報に接する必要があって、SNSもそのためのひとつのツールじゃないかと思いますけど、SNSは(特にTwitterは)あまりにも悪意のある強烈な、それも匿名の無責任な意思表示が多すぎます。それらにも心がかき乱されます。それよりは様々な本を静かに読む方ことのほうが自分には、特に心の健康にとっては大切だと思うのです。

SNSの利弊について考えるときに、こんな記事もとても参考になりました。どちらも有料記事ですがとても示唆に富んでいると思います。

cakes.mu

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