インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

しまじまの旅 たびたびの旅 93 ……古い教会

田舎道(といっても舗装された幹線道路ですけど)を走っていると「Vanha kirkko(古い教会)」なる看板と矢印を見かけました。そこで脇道に入ってしばらく進むと、こんなに美しい石造りの教会が建っていました。1920年代に建てられたルーテル教会だそうです。ちょうど百年ほど前の建築ですね。

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隣にある小さな建物は鐘楼だと思いますが、てっぺんの木造部分もまた美しいです。日曜日でしたが午後だったからか扉は開いておらず、教会の中は見ることができませんでした。ネットの情報によると、美しい絵画や彫刻、ステンドグラスなどで飾られているそうです。

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https://tampereenseurakunnat.fi/kirkko_tampereella/kirkot_ja_muut_tilat/kirkot/aitolahden_vanha_kirkko

それからまたしばらく走った先にルオベシ(Ruovesi)という小さな街があって、ここにも古い教会がありました。こちらは木造ですが規模がとても大きく、案内係の方がいて、中も見せてもらうことができました(リーフレットをもらいました)。簡素な作りですが、とても美しいです。立派なパイプオルガンまで設置されていました。ここで弾いたらどんな音がするんでしょう。このルーテル教会は1778年に完成し、中には千人以上もの人が入ることができるそうです。北欧はルーテル教会キリスト教ルター派)の信徒が多いんですね。

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https://fi.wikipedia.org/wiki/Ruoveden_kirkko

幹線道路から脇道にそれて、ほとんど対向車のいない、しかしこのうえなく美しい道を走ってハーパマキ(Haapamäki)という静かな街に着きました。ここにもルーテル教会があります。こちらは1950年代のモダンなタイプの教会でした。石積みを模した斑点状の模様が、上に行くほどまばらになっているのがとても軽やかな印象。

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https://fi.wikipedia.org/wiki/Haapam%C3%A4en_kirkko

さらに、ケウルー(Keuruu)という街の隣り合った二つのルーテル教会。古い木造のほうは1752年、新しいレンガ造りのほうは1892年の建設だそうです。「新しい」といっても、もう200年以上前の建物なんですね。木造の「古いほう」は開いていて中を見られそうだったんですけど、私が「新しいほう」を見にいってもどったらすでに「店じまい」をしているところで、結局見られませんでした。

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https://www.keuruunmuseo.fi/index.php/kohteet/keuruun-vanha-kirkko/keuruun-vanha-kirkko-250-vuotta

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教会建築にそれほど興味があったわけじゃないんですけど、こうして間近でつぶさに観察してみるとそれぞれに個性があってとても面白いです。しかし圧巻はペタヤヴェシ(Petäjävesi)という街にあるこちら。世界遺産に登録されている(と、後で知りました)とても有名な教会建築だそうです。

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ログハウスのように太い木材を組み合わせて作られています。フィンランドの伝統的な農村建築は、まんまログハウスみたいなのが多いんですけど、こちらは教会というだけあって、かなり洗練された造りです。それでも近づいてみると、ほかの「古い教会」に比べてプリミティブな印象が強い。この「洗練されたプリミティブ」といういささか矛盾した状態がこの建築の魅力かもしれません。

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https://petajavesioldchurch.fi/

入り口の受付で、かわいい木のおもちゃがお土産として売られていました。こういうのは手を出すと止めどなく欲しくなりそうなので、ぐっとがまんしました。

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教会の周囲はあくまでも静かでのどかです。

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しまじまの旅 たびたびの旅 92 ……森と湖と小麦畑

タンペレの空港で借してもらった車は、オペルのコルサ(Corsa)でオートマ車でした。ウェブ上で予約したのはフォルクスワーゲンのアップ(up!)という軽のマニュアル車だったんですけど、まあいいか。左ハンドルの右側走行ですが、台湾でさんざっぱらスクーターに乗っていたからか(台湾も日本と逆です)、ほとんど抵抗がありませんでした。

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フィンランドの車は昼間でもヘッドランプかスモールランプをつけっぱなしにしているので、操作しようとしたら、昼間でも自動で点灯させるモードがついていました。そりゃそうですよね。あとは曲がるときに時々間違ってワイパーを動かしちゃう(方向指示器のレバーが右ハンドル車と逆)くらいで、とても快適に運転できます。

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高速道路ばかり走っていると面白くないので、スマホのGoogleMapで適当な小さな街を目標に設定して経路を表示し「ナビ開始」でカーナビにして走りました。とても正確かつ詳細にナビゲーションしてくれて(それも日本語で)今さらながら驚きました。フィンランドによくあるロータリー式の交差点でも「ロータリー○番目の出口です」などと教えてくれるのです。私は東京では車に乗らないので疎いのですが、これはすごいです。高価なカーナビなんてまったく要らない時代になっちゃったんですね。

スマホをカーナビにするつもりでいたので、Amazonで買ったスマホ固定用のラック(エアコン吹き出し口にクリップで挟むやつで、角度が自由自在につけられてものすごく便利です)と、シガーソケットに差し込んで使うUSBチャージャーを日本から持ち込みました。


車載ホルダー Ossky


USBカーチャージャー

でも、シガーソケットを使おうと思って気づいたのですが、その横に何とUSB用の差し込み口がありました。そうか……いまの車では標準装備なんですかね。長い間自家用車を持っていなかったので、知りませんでした。

フィンランドは「森と湖の国」ですが、田舎道を走ると森と湖に加えて麦畑が延々と連なっています。二毛作なのか、すでに何かを刈り取った後の畑は緑色で、小麦が実っている畑との淡いコントラストが美しい。対向車が5分も10分も現れないような道を、ひたすら美しくて「平凡」な風景を眺めながら走りました。ああ、誰もいない風景って本当にすてきです。

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途中でアメリカのロードムービーに出てきそうなドライブインがあったので、お昼を食べに入ってみました。屈強なおじさんたちが昼間からビール飲んでる(それにしてもフィンランドの男性、黒っぽいヘビメタ系のシャツを着てる方が多いのはどうしてなんでしょうね)いかにもな場所でしたけど、コーヒーもピザもおいしかったです。ただビザは大きすぎて食べきれず、少し残しちゃいました。ごめんなさい。

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しまじまの旅 たびたびの旅 91 ……「プア」な英語でも旅は進む

タンペレでは民泊(Airbnb)を利用したのですが、ホストが到着日時を勘違いしていたらしく、宿泊場所についても誰も応答してくれませんでした。仕方がないのでAirbnbのアプリからホストに電話するもつながりません。何度電話してもつながらないのでおかしいなとおもったら、フィンランドの国番号を加えてかけていたのでした(アプリの仕様がそうなっています)。それで、国番号を取って、0を加えてかけたらつながりました。

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……が、こちらの状況を英語で説明するのは何とかなったものの、相手の早口の英語が聴き取れません。う〜ん、やはり顔が見えないコミュニケーションは、私の「プア」な英語だと難しいです。それでも友人に部屋の鍵を持って行かせるから待っててということになり、何とか部屋に入れました。民泊はずいぶん利用していますが、到着日時をホストが間違えていたというのは初めてです。それでもかなり恐縮した様子で対応してくれましたから、不思議に腹は立ちませんでした。こういうアクシデントもまた旅の味わいのひとつですよね。

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次の日は朝の10時にタンペレ空港まで行って車を借りる予約をしてあったのですが、空港へのバスなんて何本もあるだろうと思うも、念のためにGoogleMapで路線を検索してみると一日に数本しかなく、しかも午後の遅い時間ばかり。ここで気づいたのですがタンペレ空港はかなり小さいローカル空港なので、そもそも人があまり行かない場所のようなんですね。ポツポツとある発着便の時間にだけ、バスは運行しているらしい。それで仕方なくタンペレの鉄道駅からタクシーで空港に向かいました。このタクシーの運転手さんはあまり英語が得意ではないらしく、フィンランド語(こっちは片言以下ですが)でぎこちない会話をしました。

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案の定、空港は小さくて閑散としていて、しかもレンタカー会社のブースにも人がまったくいません。う〜ん、こういうのは台湾の離島などで経験済みだったはずなのに、なぜこの展開を予想していなかったのか。仕方がないのでブースにあった名刺の電話にかけると、なぜかヨエンスーという別の街の担当者にかかり「今日は日曜日だから休みなんだけど」。それでも「プア」な英語で状況を説明すると、タンペレの担当者の電話番号を教えてくれて、そちらにかけると「今から行きます」とのこと。

なんでも、10時40分にストックホルムからの到着便があるので、10時の予約というのはその客だろうと予想してゆっくりしていたんだそうです。日本人的な感覚だと、客がいようがいまいが営業時間内の予約時間前からずっとブースにへばりついているような気がしますが……でも彼の言うことの方が合理的というか人間的な気もします。で、ようやく車を借りることができました。

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車を借りる手続きは、面と向かってのコミュニケーションなので電話より数倍楽でした。申し込んでいたのと全然違う車でしたけど、これも気にしない。

旅先ではこういうアクシデントがつきものですけど、切羽詰まると「プア」な英語でも何とかなります。それでも今回は、もう少しちゃんと英語を使えるようにしたほうがいいなと思いました。あれこれの予約はネットでできるので簡単な読み書きは大丈夫なんですけど(ネット翻訳もあるし)、やっぱり話す聴くは英語の筋力みたいなものが求められますね。

それに今回ネット翻訳を色々試して気づいたんですけど、英語・中国語間がけっこう使えます。やっぱり語順など共通している要素が多いのと、あと使用者が桁違いなので、そのフィードバックで「よってたかって」改善がはかられるからなのでしょうか。

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それともうひとつ、こんだけ頼っておいてこんなことを言うのも何ですけど、機械翻訳は現在のところ音声もテキストに変換して翻訳というプロセスが取られているみたいですが、この先が難しいのだろうと思いました。生身の音声をきちんと処理できるようになるというのは、テキストの変換に比べてかなりの階梯があるというか、桁違いに難しい課題が残っているような気がするのです。語順の前後、言い直し、曖昧な発音、冗語、声のニュアンスなど文字ベースでは表れない、もしくは対処しきれない要素があまりにも多いからです。

だから人間の口頭による通訳は、それも高度で複雑な内容のそれは、まだ当分必要とされるのではないか。そんなことを自分のプアな英語の、音声でのやりとりで四苦八苦したことから感じたのでした。

しまじまの旅 たびたびの旅 90 ……タンペレでもサウナ

ヘルシンキを後にして、列車でタンペレ(Tampere)へ向かいました。夏の観光シーズンなのであらかじめネットでチケットを予約しておいたんですけど、車内は割合すいていました。例によって駅の改札等は皆無。列車上で検札があって、スマホのメール画面にあるQRコードを読み取ってもらうだけです。

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窓からは麦畑や湖、そして森が次々に見えてきて、フィンランドらしい風景に。私は都会もきらいじゃないけど、やっぱりこういうほとんど誰もいない風景が好きです。

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タンペレに着くとかなり肌寒く感じました。昨年の夏は猛暑で大変だったという噂を聞いていたんですけど、日本の晩秋ぐらいの気候です。Tシャツやポロシャツぐらいしか持ってきていないので、これは参りました。仕方がないので、スポーツ用品店で適当なウインドブレーカーや薄いコットンセーターなどを買い込みました。

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タンペレに来たら行ってみたかったのが、有名な「Rajaportti sauna」です。ここはフィンランドで現在も残る公共サウナのうち、最古参の場所だそうです。バス停を降りてすぐ、道路脇に普通の住宅みたいな建物があって、SAUNAの看板が出ていました。

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ロッカーすらなくて、私物はサウナ室手前の部屋のベンチに置いておくだけ。私は営業開始時間の直後に行ったので、最初はあまり人はいませんでしたが、すぐにお客さんでいっぱいになりました。いろんな言語が聞こえていたから、私のような旅行客も多いのだと思います。

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シャワー室もないのですが、サウナ室は二階建てというかロフトがついた部屋みたいな構造になっていて、ロフトに当たる部分が熱いサウナで、下の階はほとんど熱くありません。そこでぬるま湯や水を浴びてから外へ涼みに行くという寸法のようです。草花がたくさん植わった庭にベンチが並んでいて、ここも涼んでいると至福の気分を味わえます。

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併設のカフェもあったので、コーヒーを一杯飲んで帰りました。「Saanko kupin kahvia?(コーヒーを一杯もらえますか?)」と聞いたら通じたのでうれしかったです。

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しまじまの旅 たびたびの旅 89 ……サウナハットを買う

公衆サウナがあまりに心地よかったので、もうひとつ行ってみました。これも住宅街の中にぽつんとある「Kotiharjun Sauna」です。普通に人や車が行き交う(とはいえすごく少ないですけど)通りにバスタオル巻いただけのサウナ客が涼んでいるというのもなかなかの光景です。ここもカードで支払いができました。しかしこの「番台」みたいなカウンターがあって、みなさん飲み物を片手に涼んでいる光景、やっぱり日本の銭湯の雰囲気を思い出します。

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ロッカーは鍵のついているところが空いているので、どこを使ってもいいとのこと。その奥にシャワー室、そのまた奥にサウナがありました。壁に薪が積んであって、20〜30人くらいは入るんじゃないかというくらいの、かなり大きな部屋です。ここは石を熱するタイプじゃなくて、薪を燃やす巨大なストーブというか「かまど」みたいなのでサウナの熱気を作っているみたいでした。客はその巨大な「かまど」の壁面に直接水をかけて「ロウリュ」をしていました。

かなり急な階段状になっている一番上だけは「すのこ」が敷いてありますが、そのほかはコンクリートの床で、入り口近くに置かれている小さなひとり用の「すのこ」を使って座るみたいです。この床がかなり熱いので、私は足置き用にひとつ使いました。それでもかなり足の裏が焼ける感じがします。ロウリュ用のブリキのバケツに水を入れて自分のそばに置き、何度も床に水を撒いているおじさんもいました。

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開店間もない時間帯だったのでお客さんは少なかったですが、みなさん涼むときはロッカールームの大きなテーブルで談笑していました。私はひとり外に出て涼みましたが、不思議に恥ずかしくないんですね。なんというのか、地域の文化として当たり前の光景なので、誰も驚かないし、自分も別に気にならないという感じです。

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ロウリュをされると、耳の先が痛いくらい熱いです。横にいたおじいさんはサウナハットをかぶっていて、アレがほしいな〜と思い、サウナからの帰り道にスーパーやデパートで物色しました。さすがサウナの国だけあって、サウナ用品コーナーがありました。おじいさんがかぶっていたのとたぶん同じと思われるサウナハットを見つけ、ついでにサウナマット(座る場所に敷くもの。公衆サウナでは持ってない方がほとんどでしたが)も買いました。

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しまじまの旅 たびたびの旅 88 ……はじめての公衆サウナ

フィンランドで一度公衆サウナに行ってみたいなと思っていました。それでスマホGoogle Mapで「public sauna」と検索してみたらたくさん見つかったので、そのうちのひとつ、少し校外の「Sauna Hermanni」に行ってみました。アパートの一階にある公衆サウナです。

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小さな看板と、最初は通り過ぎてしまったくらい地味な入り口の奥に小さな窓口があって、12.5ユーロを支払いました。日本円で1500円くらいですか。カードでも支払いができ、レシートをスマホに送ってくれました。公衆サウナは日本の銭湯そっくりですけど、けっこう高いですよね。バイクの後ろのドアが入り口です。

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でもはじめて行ったこの公衆サウナはとにかく気取ってなくて、素晴らしかったです。ロッカーの鍵を受け取るときに「タオル持ってます?」と聞かれましたが、私は持参したので借りずに済みました。どういう感じのサウナだか分からなかったので一応水着(海パン)を持って行ったのですが、こちらのサウナは日本の銭湯同様に全裸です。サウナから出て休憩するときだけバスタオルを腰に巻くという感じ。

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サウナ自体はとても狭くて六〜七人も入ればいっぱいという感じでしたが、この日は先客が三人ほどしかいませんでした。「どこから来たの?」「観光?」などと少し話をしましたが、あとはみなさんゆるゆると過ごしているといった風情。サウナ室内は薄暗くて、わずかにスモークっぽい香りがしました。「ロウリュするけど、いい?」と聞かれたので「どうぞ」と言うと、長い柄のついた柄杓で二度三度。とたんにものすごい熱気がきました。こうやって、タオルで仰ぐ熱風ではなく、実際に焼けた石に水をかけるロウリュも初めての体験でしたけど、こんなに熱くなるものなんですね。

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受付に小さな犬がいて、ロッカーで服を脱いでいるときにお客さんのひとりが「ここで飼われてる『Sauna dog(サウナ犬?)』なんだよ。あいつもサウナに入るんだ」と教えてくれました。「ホント?」と半信半疑だったんですけど、一度サウナから出て涼んで、もう一度サウナに入ったら、この犬が中で寝てました。扉の下に15センチくらいの隙間があるんですけど、そこから入るみたいです。冗談じゃなくてホントに「サウナ犬」だったんですね。

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ここのサウナには水風呂はないですけど、サウナから出て、冷水を浴びて、それからアパートの外にしつらえてあるベンチのところまで裸足で歩いて行って涼みました。みなさんビールを飲んでいるので、私も(2ユーロでした)。周りは普通のアパートが建ち並んでいる団地みたいな場所なんですけど、誰も気にしないこの「ユルさ」がいいですね。こうやって、一度フィンランドでサウナに入って、外で涼んでみたかったのです。でも時差ボケが続いているせいか、ビールを飲んだら急速に眠くなってきました。

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しまじまの旅 たびたびの旅 87 ……ふたたびのフィンランド

ふたたびフィンランドにやってきました。フィンランド語は言語的に英語などの語族とは大きく異なるそうで、ラテン語系の単語からの類推がしにくいので、以前旅行したときは街のそこここに書かれているフィンランド語がまったく分かりませんでした。でもあれからフィンランド語を学び始めてずいぶん単語を覚えたからか、今回はあちこちに書かれてある言葉のうち、読めるものが多くてかなり新鮮な感覚でした。

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スーパーの外壁。「kaikki hyvä on lähellä.(すべてのよいものは近くにあります)」という感じですか。

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ピザ屋さんの看板。「Olemme avoinna perjantaina ja lauantaina kello 5 asti !(私たちは金曜日と土曜日の5時まで開いてます!)」。おお、読める読める。

街中でバスやトラムに乗って現地の人のおしゃべりを聞いたり、民泊で借りている部屋のテレビをつけたりすると、もちろんほとんど聴き取れないものの、知っている単語やフレーズがぽつぽつと出てきて、これもなかなか楽しいです。これで自分からも自由に話せるようになるとさらに楽しいのですが。でもイミグレーションで「どれくらい滞在しますか」と聞かれたのでフィンランド語で答えてみたら、「Puhutko suomea?(フィンランド語を話せるの?)」と言われ、「Puhun, mutta vähän.(はい、でも少しだけ)」と会話が成立してうれしかったです。

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空港で公共交通機関のチケットを買いました。以前はSuicaみたいな緑色のカードを買ったのですが、現在は廃止(?)されてスマホアプリになっていました。アプリをダウンロードしておいたので、カード決済で簡単にデイチケットが買えました。

www.hsl.fi

電車やトラムは検札時(滅多にないけど)に見せるだけ、バスは乗るときに運転手さんに見せるだけ。チケットがアクティブな時は乗れるエリア(ABCなど)が画面に大書され、なおかつ下の歯車みたいな模様(HSLヘルシンキ交通局のロゴ)がくるくる回るアニメーションになっています。なるほど、これならバスの運転手さんも一目で確認できますよね。

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民泊もネットで予約しましたが、鍵は近くのコンビニに預けてあって、そこでピックアップする方式。レジで名前を告げたらすぐに鍵の入った封筒を渡してくれました。これは他の都市でもやってますけどとても便利です。日本のコンビニではこうしたサービスはやってるのかな。実情は知りませんが、規制だなんだでたぶんできないでしょうね。民泊自体もあまり普及していないですもんね。

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話には聞いていましたが、さすが緯度の高い北欧の夏、とっても涼しいのに加えて、夜がいつまでも暗くなりません。夜の10時くらいになっても、まだ夕方の明るい頃という感じ。民泊の部屋はカーテンがないので、かなり明るい中で寝ることになりましたが、時差ボケ対策のために飛行機内で一睡もしなかったのですぐに寝ることができました。

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フィンランド語 44 …ふたたび時制について

フィンランド語の学習も「現在形」「過去形」「現在完了形」「過去完了形」を学んで、ずいぶん複雑なことが表現できるようになってきました。先生が繰り返し強調されるのは、特に過去形と現在完了形の違いです。

Minä kävin Suomessa viisitoistavuotiaana.
私は十五歳の時にフィンランドへ行った。(過去形)
Minä olen käynyt Suomessa.
私はフィンランドへ行ったことがある。(現在完了形)

日本語だとどちらも「行った」という過去形的(?)な表現になるのでちょっと混乱するのですが、フィンランド語の過去形は「過去の一点における叙述」というのがポイントで、ゆえに過去の一点を表す単語が入っていれば過去形として動詞を動かす(過去形にする)と。「viisitoistavuotiaana(十五歳の時に)」とか「kaksi vuotta sitten(二年前)」とかいうのが「過去の一点」ですね。

一方現在完了形は、その行為なり事象なりが今に至るまで続いているというのがポイントで、「フィンランドへ行ったことがある」というのは、フィンランドに行ったという事実が今に至るまで続いているので現在完了形で表されていると。今では行って戻ってきてるんだから過去形になるんじゃないのと思っちゃうんですけど、そこがネックなんですね。これは英語でも同じ考えだと思います。

先日は第三不定詞を使って、こんな作文をしました。

Minä olen aina tottunut juomaan vihreää teetä ruoan jälkeen.
私はいつも食事のあとに緑茶を飲む(ことに慣れている=習慣にしている)。

これも「olen tottunut」で現在完了形が使われていますが、今に至るまでその習慣が続いているからだと。なるほど。中国語には明確な過去形や現在完了形はなくて、アスペクト(態)を使ってそれらを表現するのが普通です。

我十五歲的時候去過芬蘭
私は十五歳の時にフィンランドへ行った(ことがある)。

これは「過」というアスペクトを使って「行った」とも「行ったことがある」とも言っています。じゃあ中国語では明確な現在完了形はないのかと言えばそんなことはなくて、例えばこういうふうに言えます。

我學芬蘭語學了兩年了。
私はフィンランド語を学んで二年になる。

最後にある「了」ひとつで「これまで二年学んできて(たぶん)これからも学び続けていく」という現在完了形を表しています。最後の「了」がないと「我學芬蘭語學了兩年(私はフィンランド語を二年学んだ)」となって、過去のある時期における二年間に学んだとも、今に至るまで学んできたとも取れるやや曖昧な表現になります。これは過去完了形とも言えるし、過去形とも言えますね。

まあ言語が違うんですから引き比べてもあまり意味がないんですけど、フィンランド語も中国語も「非母語話者」である私はそういう違いが面白くて仕方がないのです。ちなみにフィンランド語に明確な未来形はなく、未来を表す言葉が入っていれば即未来形(「形」というのもおかしいけど)になるそうです。これは中国語といっしょです。

Minä käyn Suomessa huomenna.
明天我去芬蘭
私は明日フィンランドに行きます(訪れます)。

「huomenna」や「明天」が入っているだけで、文章自体は現在形なんですけど、これで未来形になると。この点は英語などのほうがよほど複雑で難しいですね。

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Sinun kannattaa käydä Suomessa.

左派ポピュリズムかもしれないけれど

昨日の朝、フジテレビのワイドショー情報番組『とくダネ!』で放送されていた「れいわ新選組」の国会議員お二人の特集を見ました。とても考えさせられる内容でした。YouTubeにもいくつか映像が上がっていますが、これらはすぐに削除されてしまうかもしれません。

youtu.be

重度の障害があるお二人の当選が決まってからの国会の動きは素早いもので、来月の臨時国会開会に向けてバリアフリー化が一気に進められています。番組でも紹介されていましたが、かつて八代英太氏が初めて車椅子で登院した当時、国会はほとんど無対応だったそうですから、隔世の感があります。それだけ人々の意識が変わり、社会がより成熟したことの表れでしょう。それだけにその原動力となったお二人の当選には単なる当選以上の大きな意味があったと思います。

今朝の新聞では、国会議員として報酬を受け取ると停止されるとされていた公費による介護サービスについても、その費用を当面参議院が負担し、なおかつ厚生労働省参議院からの協議要請を受け「重度障害者が就労する際の介助のあり方を検討する姿勢を示した」とのことです。

この急速な変化はとても大きなインパクトを持って有権者に受け止められるのではないでしょうか。誰に投票してもどうせ同じと異様なほどの低投票率が続いている中、少数野党である「れいわ新選組」への一票がこうして国会を動かす力になった・それぞれの一票が積み重なると国会は動くのだという実感を持てるからです。

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番組では、お二人が国会議員として活動する上でどういった環境が必要なのかについて、様々な角度から紹介をしていました。この部分もとても勉強になりましたが、特に印象深かったのは上述した舩後靖彦氏が質問に答える際の「間」と、その発言の方法でした。ALSを発症している舩後氏は、文字のボードを見てその眼球の動きを介護者が読み取って伝えるという形で発言されるのですが、当然ながらその過程にはある程度の時間がかかります。

質問をして、舩後氏の答えを介護者が伝えるまでに、一つ目の質問は約20秒、二つ目の質問は約2分近くかかりました。その間テレビはほとんど無音状態の「間」に。普段ほんの数秒の無音さえも忌避するようにとにかく言葉や音を流し続けるテレビにあって、これは本当に印象的かつ象徴的な場面でした。

またその介護者の方が、どのように文字盤から発言を読み取るのかについての細かな技術についても説明されていて、これも深く印象に残りました。キャスターの小倉智昭氏が「弱者に国の予算を多く割ける国ほど、僕は民主国家だと思うのね」とおっしゃっていましたが、本当にその通りだと思います。

山本太郎氏や「れいわ新選組」の動向を「左派ポピュリズム」と批判する方もいますが、少なくとも私は日本の政治の現状に対して少しでも異なる意見や多様な意見をぶつけ、少しでも健全な民主主義を取り戻すためには、多少のポピュリズムに訴えてでも問題提起を図り、より多くの有権者に訴えかけていく必要はあると思います。現状はそれくらいの「毒」も必要なほど「安倍一強」による弊害が蔓延していると思うからです。

「GLOBE+」のこちらの記事では、政治学者の山本圭氏がこのように述べています。

近年でも、「#MeToo」(ミー・トゥー)運動や、LGBTの権利を求める動きなどは、従来の多元的社会の中で埋もれてきた課題です。これに対して「おかしいんじゃない?」という声が上がり、問題として可視化され、現状を変えることにつながった。このような声を引き出す機能はどこかに必要です。ポピュリズムは、その役割を果たす可能性を持っていると思います。

globe.asahi.com

もちろん現実の政権運営は、理想通りに行かないことも多いでしょう。アメリカのトランプ政権を見るまでもなく、ポピュリズムが行きすぎた結果の混乱もあり得るでしょう。だからこそ他の野党や、また与党の心ある人たちとも協同してこの動きを真面目に見据えることが大切ですし、「小異を捨てて大同につく」を実践して今の政治状況を変えていってほしいと思います。

特集の最後で小倉智昭氏は「こういう時間をなんでいま、選挙の前に持てないんだろうね。テレビの番組ってのはこういうことを積極的に選挙前に取り上げていかなきゃいけないと思うんですが」とおっしゃっていました。本当にそうです。でも遅きに失したとはいえ、こういう報道ができる・できたというのは、最近まれに見る壮挙じゃないかと思いました。

私は、選挙こそ棄権したことはないものの、支持政党などはなく、その都度候補者の主張を比較して、時には積極的に、時には「鼻をつまんで」投票をしてきました。れいわ新選組についてもその主張に全面的に賛成ではありませんし、今後の活動をより注視したいと思いますが、今回の参院選とその後の展開には拍手を送りたいと思います。私は、自分の記憶にあるかぎり初めて政党や政治団体に対する「献金」をしました。

紙幣の「1」をめぐって

いつも「巡回」して読んでいるブログの一つに『JUSTFONT BLOG』というのがあります。台湾の「就是字(Just Font)」というフォントベンダー企業が運営しているブログで、中国語の漢字のみならず、日本語の漢字も含めたフォントのあれこれが記事になっていて、毎回楽しんで読んでいます。

blog.justfont.com

先週は、五年後に予定されている日本銀行券(紙幣)のデザイン一新について特集されていました。特に漢数字やアラビア数字の字体について細かい分析が行われていて、なかなか興味深かったです。

blog.justfont.com

中でも面白いと思ったのが、新紙幣の表面に対処されることになったアラビア数字の字体についてです。一万円札は「10000」の「1」が上に斜めの線がついた字体であるのに対し、千円札は「1」がただの棒になっていて、これはなぜか? という「謎解き」をしているのです。わはは、よくそんな細かいところに気がつきますね。さすがフォントベンダーさんです。

有人說:「因為日文的一千元就是念『千円』哇!一不會出現。」也有人說:「為了盲人辨識。」還有人看了日本媒體的資訊,說:「為了方便辨識,看 1 的不同,比數 0 的數量快!」

なるほど、日本語では中国語と違って“1000 yen”のことを単に「千円」とだけ言い、中国語の“一千元”のように「一」がつかないからじゃないか、とか、視覚障害者が触って違いが分かるようにじゃないか、とか、「10000」と「1000」は単に「0」の数が違うだけで識別しにくいから、「1」の字体を変えたんじゃないか、とか……。どれもあんまり真面目な謎解きじゃない感じはしますが、本当のところはどうなんでしょうね。

さらにこの記事では、新紙幣のみならず、現行紙幣だって「1」の字体は違っているぞとして、一万円札の「1」は棒の下がスカートのように広がった字体であるのに対して、千円札の「1」はそれがなくストンと落ちた棒状になっていると指摘しています。これまたさらに細かいところによく気がつきますね。それがなぜかの謎解きはなされていないのですが、う〜ん、これはどうしてなんでしょう?

そう思いながら自宅にある一万円札と千円札をしげしげと眺めていたら、もう一つ新しい発見をしてしまいました。それは、現行の一万円札と千円札のどちらも、裏側(福沢諭吉野口英世の肖像がない方)の「1」は下がスカートのように広がった字体なのです。つまり表の「1」は違っているのに、裏の「1」は同じような字体なんですね。

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……しかし、新紙幣の発行は五年後だそうですが、その頃にはキャッシュレスが浸透して紙幣の刷新もあまり意味なくなるんじゃないかな。いや、世界一現金が大好きな日本人のことですから、そんな心配は無用かな。私自身はキャッシュレス化絶賛実行中なので、新紙幣にはほとんど興味がないんですが。

素朴な水墨画にあこがれて

日本橋三井記念美術館で開催されている「日本の素朴絵 ーゆるい、かわいい、たのしい美術ー」という展覧会を見てきました。その名の通り、精緻さやリアリズムとは一線(どころか二線も三線も)を画した、柔らかで大らかなタッチの絵巻・絵本・掛軸・屏風・仏画、さらには仏像などの立体作品まで、「ヘタウマ」とも「ナイーブ」とも「プリミティブ」とも違うまさに「素朴」としか言いようのない作品を集めた展覧会です。

www.mitsui-museum.jp

私は最近とんと美術鑑賞から遠ざかっていたのであまり知らなかったのですが、こうした「素朴」系の日本美術はちょっとしたブームになっているようで、展覧会を見終わったあとのミュージアムショップには「素朴絵」の関連書籍や「素朴絵」を特集した雑誌などがたくさん並べられていました。現代の、地方自治体などで取り組みがさかんな「ゆるキャラ」や、ぐでたまたれぱんだリラックマなどの癒やし系キャラクター商品にも通じるような作品群には確かにほっこりさせられます。

どんな作品が並んでいるかは、ここで図版をコピーするわけにもいかないので、ぜひGoogleで「素朴絵」を画像検索してみてください。こういう墨一色の水墨画は、山水にしろ花鳥風月にしろちょっと高尚すぎて現代人の感覚からは遠いところにありそうなイメージですが、同じ水墨画でも「素朴絵」となるとかなり親しみを感じることができます。なかには「ほとんどマンガの筆致じゃないの?」と思えるような作品もあって、楽しみました。

私も以前はこうした水墨画の世界に憧れて、自分でいろいろと描いていた頃がありました。ただ描くだけでは飽き足らなくて、自分の勤めている職場の広告に使ったりもしました(広報担当だったのです。公私混同ですね)が、結局才能の乏しさゆえにそれっきりで、今では筆を持つこともありません。当時描いた絵が少し残っているのでさっきファイルから引っ張り出してみたんですけど、う〜ん、これは素朴絵ではなく、何だか小賢しいイラストふうですね。

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筆の使い方も自己流で、水墨画の伝統に全然則ってない感じがします(黒い墨の線は「ぺんてる」の筆ペンで描いたんでした。薄墨は不祝儀用の筆ペンです)。やはり優れた芸術というのは、伝統をしっかり学んだ上に、なにがしかの才能が乗っかって新しい境地をひらくものなんですね。

「分」を弁えて苦手な人からはすぐ逃げる

仕事をしているといろいろな方に出会います。人柄もそれぞれ、性格もそれぞれ、本当に人は千差万別なんだなあと思いますが、幸い私は人のご縁に恵まれているというか、現在間近で一緒に仕事をしている方々はみなさん「付かず離れず」、つまり仕事以外のプライベートにはほとんど絡んでこないけれども、かといって単に仕事上だけの事務的なつきあいでもない、そして物の見方考え方が比較的近くて「みなまで言わずとも了解できる」ようなある種成熟した大人の考え方を持っている方がほとんどです。

私自身はとてもじゃないけど「大人」として成熟しているとは言えませんが、それでも若い頃と比べると多少は落ち着いたのか、それとも少しは角が取れたのか、人間関係で悩むことは少なくなりました。というか、自分とは合わないなと思う人がいたら即逃げる、不義理を働くことを恐れないってのをポリシーにして、ずいぶん楽になったという感じです。

これって「言うは易く行うは難し」なのですが、そういうことができるようになったというのもある意味年の功なのかもしれません。若いときは自分も世界も無限の可能性というか方向性に満ちているけど、ある程度歳を取ってくるとそういう無謀な期待を自分にも世界にも抱かなくなるんですね。

とはいえ決して人生を諦めたわけではありません。これは言語化するのがなかなか難しいのですが、以前よりもよりハッキリと自分の「分(ぶ)」や「分際」というものに実感を持てるようになったのです。言葉を変えれば、いつ死んでもそれほど(まったくとは言えないところが中途半端ですけど)悔いはないという気持ちになりつつあるのかもしれません。分を弁えれば、そもそも実現不可能な欲望もーー組織の中の誰とも仲良く前向きな関係でいたいとか、自分も傷つきたくなければ他人も傷つけたくないとかーー抱かなくなると。

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https://www.irasutoya.com/2017/06/blog-post_80.html

それでも生きていれば、時にどうしても相性の悪い人に出くわすことはあります。そして最近、立て続けに「かなり苦手なタイプ」の方と行き会いました。それは「徹底的に人の話を聞かないタイプ」の方です。といっても、主張が強いとか傲慢とか人のことを見下していて無視するとかではなく、むしろそういう感じは外見からは少しも漂ってきません。一見人当たりがよさそうで、むしろ気弱そうでもあり、こちらが思わず相談に乗ってあげたくなるようなタイプですらあるのに、話をしてみると「徹底的に人の話を聞かない」という面白い(?)タイプの方です。

例えばお悩みを相談されて、私が「じゃあ、こういうふうに考えたらどうだろう」とか「こういうやり方もあるんじゃない?」と返すとしますね。だけどこのタイプの方はそれにはほとんど反応せず、ひたすら「でも……」と言って自分の主張や思いばかり延べ続けるのです。こちらは「誤解されたかな?」と思って、言葉を変えてアドバイスをするのですが、それにも「でも……」で返し、結局自分の思いばかり述べる。

最初はそういうタイプであることが分かりません。なにせ、人当たりがよさそうな外見なのですから。それでもずっと話し続けていると、なんともいわく言いがたい隔靴掻痒感に襲われます。それはこちらが発した言葉に、その人がまったく対応していないことが分かってくるからです。まるで深い沼に小石を投げ続けているような気持ちになるのです。あるいは暗い洞窟の闇に自分の声が吸い込まれていくような。これは体験してみると分かるけれど、とても疲れます。

このタイプの人に最近立て続けにお目にかかったので、かなり疲れました。そのうち二人は華人で、主に中国語でお話ししたのでなおさら(私の中国語が拙かったので話が噛み合わなかったという可能性は残りますけどね)。でも、私の人生はもう残り少ないので、そういう面倒な(そう、正直に申し上げて面倒です)方に時間を費やしている余裕はないのです。冷たいようだけど、そういう方からはすぐに逃げるのが吉だと思います。どんな人とも折り合いをつけてやっていくなんてそもそも不可能なんですから。

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https://www.irasutoya.com/2017/08/blog-post_677.html

語学の「通学」に向かない方もいる?

留学生の通訳クラスでは、カリキュラムに演劇を取り入れています。これは日本語を「肉体化」してより活き活きと話せるようにするため、また人前で誰かに成り代わって話すという通訳者のお仕事の特性に鑑みて取り入れているものです。ネット上にある寸劇やコントなどの台本をベースにしながら、作者の方々の了解を得た上で換骨奪胎し、留学生のキャラクターなども考えた上で大幅に改変して台本に仕立てています。今年も「通訳機械」や「AI」をテーマにした台本を私が書きました。

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うちの学校ではこの演劇訓練に限らず、ほかにも大勢の聴衆を前にしたプレゼンテーションやグループワーク、ディベートみたいなものを数多くカリキュラムに取り入れており、入学案内書や入学説明会でもそれらを紹介しています。なおかつ入試の面接でも改めて「これこれこういう授業がありますけど、大丈夫ですか?」とたずねて、心の準備をしてもらうようにしています。

それでも、毎年数名の留学生から「人前で演技するなんて恥ずかしいです」とか「グループワークや他の人との共同作業が苦手なんです」というお悩みが寄せられます。でも、なにせ専門課程(卒業すると短大と同じ「専門士」の称号が与えられます)のカリキュラムとして組まれている語学訓練、通訳訓練、それにビジネスの現場で使えるようなプレゼンやグループワークやディベートですから、それらに参加しないとほとんど単位が取れないことになっちゃいます。

それでこちらもいろいろと励ましながら、少しでも共同作業に参加できるよう他の留学生の協力を仰いだり、演劇訓練だったら音響や照明などのスタッフに回ってもらったり……と配慮をするのですが、やはりどうしてもこうした活動と肌が合わないという方はいるんですよね。入学前から説明していて本人も了解しているというのが前提ですし、そもそも語学の訓練(特に聴いたり話したりという部分)にはロールプレイなど演劇的な要素がつきものなのでこちらも困っちゃうんですけど、だからといってもちろん「アンタは語学や通訳者に向いてません」と切り捨てちゃうわけにもいきません。

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https://www.irasutoya.com/2016/09/kj.html

う〜ん、まあ私もどちらかというと人見知りをする方なので、その気持ちは分からなくもありません。今通っているフィンランド語のクラスでも、先生は生徒を二人ひと組にしてロールプレイや、教科書のテキストの読解、単語のクイックレスポンス、さらには一方の生徒がもう一方の生徒に文法の説明をする……といったアクティブな活動をたくさん盛り込まれます。要するにずっと「講義」を聞いてばかりの座学にはしないぞ、という先生のスタンスで、私はとてもいいなと思っているのですが、こういうアクティブな活動は人見知りの人間にとってはけっこう疲れるんですよね。「よいしょっ!」「やるぞっ!」というような自分への叱咤がないとなかなか取り組めないんです。

まあ私は、語学は人前で恥をかいてナンボじゃないかと思っていますし、人見知りを克服したいという気持ちもあってわざわざ語学教室に通うわけです。それに、聴いたり話したりという部分の語学は、やはり演劇的な、お芝居的な要素がある程度必要だとも思います。だから、ロールプレイのお相手が極端に「芝居っ気」のない方だったりすると、こっちも何だか気恥ずかしくてやりにくい。

中国語の講師をしていたときも、例えば「お互いに自己紹介してみましょう」とか「家族のことを話してみましょう」などというタスクを課すと時々「プライベートに関わることはちょっと……」とか「ひとり暮らしなので何も話すことがありません」という方がいて、困ってしまったことがありました。「中国語では、みなさんのお名前の漢字が中国語読みされます」と紹介して「自分の名前を言ってみましょう」となった際、「私はTanaka(田中)であってTiánzhōng(ティエンジョン:田中の中国語読み)じゃない。英語だって Mr. Tanakaと言うじゃないか」みたいにおっしゃる方がいて閉口したこともあります。

まあ、世の中いろいろな方がいますね。でも、いろいろな人がいるってことは、向き不向きもあるってことだと思います。これを言っちゃ語学教師失格かもしれませんけど、少なくとも学校に通う形での語学には向かない方もいるんだよな……ってのがホンネなんです。

機嫌のよい風の上に

先日ネットで検索中、こんな記事に出会いました。

careersupli.jp

サイト自体は転職サービスとのタイアップ企画みたいな作りですが、筆者のおっしゃることにはとても共感できます。いわく「不機嫌は未来を壊す」と。確かにいつも不機嫌な顔をしている人とはあまりお近づきになりたくないですし、仕事の協同もうまくいかないでしょう。私自身、笑顔を作るのがとても苦手な人間ですが、それだけに自然な笑顔にあこがれますし、いつも笑顔で機嫌よくしている・できる人には敬意を覚えます。

フィンランド語では「機嫌がいい」ことを“hyvällä tuulella(よい風の上に)”といいます。“Hän on aina hyvällä tuulella.(彼はいつも機嫌がいい)”。日本語でも「風に乗る」とか「風を捕まえる」などと言いますけど、何だかとても爽やかで前向きで、いい表現ですよね。いつも不機嫌でいると、よい風も吹いてこないような気がします。

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https://www.irasutoya.com/2015/08/blog-post_899.html

上掲の記事では「通わなければならない建物の近くに引っ越しして、鼻歌を歌いながら歩いていけるようにする」という筆者のポリシーが紹介されていて、確かにあの満員電車での通勤がなければかなり機嫌良く過ごせるだろうなと思います。私は毎日東京の新宿まで通っているのですが、朝のラッシュ時はどの路線も殺人的な混雑ぶりです。ただでさえ人の圧力が苦手な私は不機嫌になることがわかりきっているので、いつも早朝に新宿まで出てきて、ジムで「朝活」をしてから出勤しています。

いっそのこと職場近くに引っ越したらどんなに楽かなと思うのですが、新宿駅周辺は逆に住む場所としてはあまり心豊かになるような場所ではないですよね(住んでいる方、ごめんなさい)。というわけでこの記事の筆者がおっしゃることを全部実行するのも無理があるのですが、少なくとも徹底して自らを不機嫌から遠ざけるその姿勢は見習いたいなと思ったのでした。

「ジョンソン」と「トランプ」の中国語表記をめぐって

イギリスでは保守党の党首選が行われ、当選した元外相のボリス・ジョンソン氏が首相に就任しました。海外の政治家など著名人の去就があった際、そのお名前を中国語でどう言うのかしら……というのが気になって、私はすぐに調べるのですが、ジョンソン氏は“約翰遜”もしくは“強生”と表記されているようです。前者は主に中国のメディアで、後者は主に台湾のメディアでです。

こうやって中台のメディアで表記が分かれるというのはよくあって、例えば米大統領ドナルド・トランプ氏も中国では“特朗普”、台湾では“川普”とされるのが普通です。中国での“約翰遜”や“特朗普”は、カタカナで無理矢理記せば「ユェハンシィン」とか「ターランプ」などとなって、英語の原音とはかなり違った感じがします。もちろん日本語の「ジョンソン」や「トランプ」みたいな母音をベタベタに押した音だって原音からかなり隔たっていますけど。

そこへ行くと台湾などで使われている“強生”や“川普”は、これも無理矢理記せば「チァンション」「チュァンプ」という感じで、カタカナだと五十歩百歩な感じがしますが、“Johnー”の部分を“強”、“Trumー”の部分を“川”の発音で充てるのは、英語の原音にわりあい近いんじゃないかと個人的には思います。ただ中国側のメディアが物量的に多いのと、いつも申し上げているように歴史的な経緯から(?)北京一辺倒が強い日本の中国語業界の特徴とで、日本の中国語業界ではどちらかというと“約翰遜”や“特朗普”のほうが知られているようです。

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https://www.afpbb.com/articles/-/3236652

“約翰遜”の“約翰”はほかにも「ジョン」とか「ヨハン」とか「ヨハネ(キリストの十二使徒の)」といった名前にも使われ、いわば定番のパターンです。じゃあ中国では“約翰”一辺倒かというとそうでもないようで、例えば医療・衛生用品などで有名な「ジョンソン&ジョンソン」という会社がありますけど、あれは確か中国でも“強生”で、逆に台湾では“嬌生”だったように思います。あと「ジョンソン」だと“詹森”という表記もありますね。ケネディ大統領の暗殺後にジョンソン副大統領が後を継ぎましたけど、あの方は“詹森”(台湾での表記。中国は“約翰遜”)。

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トランプ氏を“特朗普”と表記することについては、中国語母語話者の中でも議論があるようで、ざっと検索しただけでも多くのページが見つかりました。こちらの方は、自分が最初に“川普”を使ったのだとし、“特朗普”は発音的にもどーなの? と噛みついていますけど、「もっと前からあったよ」的なコメントもついていてよく分かりません。

一方、台湾の「聯合影音網」やアメリカの華人系メディア「大紀元」などでは、中華人民共和国では外国人名の表記に統一性を持たせるため、1950年代に新華社を中心として訳語の一覧を作り、それに従って使用しているという背景を紹介しています。この人名辞典は私も見たことがありますし、今でも中国メディアの人名表記は新華社が決定しているという話も聞いたことがあります。時の国務院総理・周恩来氏の肝入りで作られた「規範」であるだけに、その縛りからは逃れるのは難しいということなんでしょうか。

video.udn.com
www.epochtimes.com

ところで、広東語版ウィキペディアによると、広東語ではドナルド・トランプを“當勞侵”と表記するそうで、ミドルネームの「ジョン(Donald John Trump)」は“莊”としているよし。へええ。私は広東語の発音が分からないのでなんとも言えませんが、ネットであれこれ検索してみると「かなり英語の発音に近い」のだそうです。それにしても「侵略」の「侵」ってのはなかなかインパクトがありますね。広東語では他にも“杜林普”という表記や、“侵侵”というネット用語的な表記もありました。

“侵侵”ってのには何か特別な含意があるのかなと思って(例えば広東語の発音だと滑稽に聞こえるとか)香港の留学生に聞いてみたんですけど、単にカワイイ語感になるだけ(華人は子供の頃の名前:幼名によくこうした繰り返し系を使いますね)だと言っていました。ちなみにこの香港の留学生は“當勞侵”なんて知らないと言っていました。う〜ん、何だかよく分かりません。広東語にお詳しい方、ぜひご教示ください。

「ドナルド」の“當勞”は、例えばマクドナルド(McDonald)が“麥當勞”なので、なるほど「ドナルド=當勞」かと思いますけど、一方でドナルドダックは“唐老鴨”と「ドナルド=唐」だし、台湾でドナルド・トランプは一般に“唐納川普”で「ドナルド=唐納」だし、中国では“唐納德特朗普”で「ドナルド=唐納德」だし……結局何だかぐちゃぐちゃなのでした。外国人の私たちとしては、まあ、ひとつひとつ覚えていくしかないですね。