インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

体罰が日常的に行われた時代があった

台湾のネット書店で購入したアニメーション映画『幸福路上』のDVDを観ました。台湾の近現代史を背景にしたストーリーもさることながら、画面の隅々にちりばめられた様々な細かい描写のリアリティに「ああ、この雰囲気!」と身もだえするような懐かしさを感じました。

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幸福路上 - 電影DVD - | 誠品網路書店

その一方で、当然のことながら私がまったく知らない世界も描かれており、それはそれでとても興味深かったです。例えば小学校の授業風景。先生が長い棒を持って黒板を叩き「静かにしなさい!」などと怒鳴っています。職場で会う台湾留学生のみなさんに聞いてみると、子供の頃は当たり前に見られた風景だそうです。中国の留学生も「同じです」と言っていました。

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この長い棒は、時に体罰にも用いられたそうです。児童に、掌を上にして差し出させ、その掌を棒でピシャッと叩くのだそうです。なるほど、そういう光景を他の台湾映画でも見たような気がします。掌は皮が厚いので、多少強く叩いてもそれほどダメージはないという配慮もあるんだそうですが、それでも暴力は暴力ですよね。もちろん現在では行われていないそうです。社会通念的にもこうしたハラスメントは許されない時代になりましたし、親御さんたちだって黙っていないですよね。

留学生のみなさんからは「日本でも同じでしたか」と聞かれたんですけど、私の記憶している限り、長い棒を持ってパシパシ……というのはなかったですね。でも中学校の時は女性の先生が「ビンタ」をしてましたと言ったら、驚いていました。棒という道具すら介さない直接的な暴力ですもんね。確かにアレは異様でした。しかもその先生は、生徒を一列に並べて、端から順番にパンパンパンパン……とビンタを喰らわせていたのです。もう40年も前の話ですが、現在なら大問題になっていますよね。時の流れを感じます。そういう意味では、はるかにいい時代になりました。

『幸福路上』には、罰として廊下に立たせるというシーンも出てきます。これも現在では行われていないんじゃないかと思って留学生に聞いてみたら、「ひょっとしたら今でもやってるかも」と言っていました。

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そういえば最近観た台湾ドラマで、こちらは高校での描写でしたが、罰としてカバンを頭上に高く掲げ、膝を曲げた苦しい姿勢で長時間立たせる……というシーンが出てきました。あれがコメディドラマならではの誇張した表現なのか、それとも実際に行われていることなのかは判別がつきませんでしたが、ひょっとするとまだ「健在」なのかもしれません。

フィンランド語 42 …語幹の求め方の「棚卸し」

「語幹の求め方」を総復習しました。フィンランド語は動詞や名詞や形容詞などが様々な格(単数複数合わせて30種類!)に変化して細かい表現を成り立たせています。これはごくごく大雑把に言うと日本語の「助詞」の働きと同じなのですが、日本語が例えば「花・は」「花・の」「花・に」……など助詞を付け加えるのに対して、フィンランド語ではその言葉そのものが格変化を起こします。“kukka(辞書形:花は)”、“kukan(属格:花の)”、“kukalle(向格:花へ)”……のように。

名詞が格変化を起こすのですから、例えば人名だってどんどん変わります。“Pekka(ペッカ)”さんも“Pekan(ペッカの)”、“Pekalle(ペッカへ)”などと変わっていくのです。これら変化した言葉の最後についている“ーn”や“ーlle”などが格語尾で、その格語尾がつくのが「語幹」と呼ばれる「幹(みき)」の部分です。これまであれこれの格について、単語の辞書形から語幹を求め、そこに格語尾をつけて様々な表現をすることを学んできたのですが、ここいらで一度「語幹の求め方」を総復習してみましょう、ということになったのでした。

語幹が変化するのは、単語の最後が「ie子」の時だけです。「ie子」は「いえこ」と読んじゃっていますが、要するに単語の最後が「i」と「e」と「いくつかの子音」で終わる場合に語幹が変化し、それ以外はそのまま格語尾をつけて構わないということです。上述の“kukka(花)”や“Pekka(ペッカ)”は単語の最後が「a」ですから、語幹はそのまま“kukka”、“Pekka”です。ただし、格語尾がつくときに「kptの変化」が起こることはありますが(“kukka”、“Pekka”はいずれも「kk→k」という変化が起きます)。

qianchong.hatenablog.com

先生からは、この「ie子」が語尾にある単語の語幹の求め方と、「kptの変化」パターンは覚えちゃってくださいと指示がありました。覚えたらその部分は黒塗りにして、いちいち参照しなくてもすぐに作れるようにと。ううむ、なかなか厳しいです。それにしても母語話者はこうした変化をほとんど無意識のうちにできてしまうんですね。

まあ日本語でも私たちは「一本(ippon)、二本(nihon)、三本(sanbon)」のような変化を無意識にできてしまいますが、これは非日本語母語話者からすると驚愕の変化です。もっとも、こうした変化は「より苦労せず言いやすい形に」という一種の言葉の経済性に則っているわけで、そこがとても人間らしいなと思います。

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Ilma muuttuu lämpimäksi.

なぜリベラルは敗け続けるのか

岡田憲治氏の『なぜリベラルは敗け続けるのか』を読みました。政治学に関する岡田氏の著書はこれまでにもほとんど読んできましたが、この本では「安倍一強」を許した野党の誤りと、そしてかつてご自身も政治活動にさまざまな形で参加しながら野党同様に現在の状況を許した自分についての「悔恨と反省」から論が書き起こされています。そしてそれらはそのまま読んでいる私自身にも深く突き刺さってきました。

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なぜリベラルは敗け続けるのか

岡田氏は、政治は、特に選挙の結果というものは、極めてリアリスティックな判断と選択の末に当然の帰結として現れてくるものだとして、特に現状を憂う「リベラル」的立ち位置をよしとする人々はもっと「オトナになれ」、「友だちを増やせ」と語りかけます。本書の帯には目次が載せられていて、そこには「善悪二分法からは『政治』は生まれない」とか「『お説教』からは何も生まれない」などの章が並んでいますが、そのどれもが私には深く首肯できるものでした。

そう、端的に言って日本の政治がここまで劣化(あえて劣化と言いましょう)してきたのは、野党が離合集散を繰り返し、互いに反目し合って「小異を捨てて大同につく」ことをしてこなかったからです。今朝も新聞で参院選関係の記事を読んでいましたが、議席の現状や改選議席数などの数字を図解で示されるとあらためて驚きます。今回は一人区での野党共闘などが進められているようですが、ホント、民主主義がここまで破壊されている現状を前にまずは何をさておき、もっともっと「オトナにな」り、「友だちを増や」さなければなりません。

政治においてはつねに何かを決断し、限られた選択肢の中から何かを選ばなければいけないわけですから、その選択が自分と違うからといって、その人と自分との間に大きな違いがあるとは限りません。言ってみれば、政治的価値観、政治的選択というのは、心という大きな氷山の一角に過ぎないと思うのです。


つまり、海上に浮かぶ氷の姿だけに惑わされていたら、もっと本質的なところで共通点を見いだして友情を育むことなどはできないと思うのです。それでは政治においても、「多くの仲間を作る」ことはできないでしょう。


言い換えるならば「政治的スタンスとは、ある場面における、個別の判断と決断の表現であり、それゆえ人間の政治的な“展望”や“理想”とイコールではない」ということになるでしょう。(p.197)

これは政治の世界だけでなく、私たちの暮らしや仕事にも共通する思考と哲理ではないでしょうか。政治は(国政や地方政治のみならず、社内政治もマネジメントも、ひいては個々の人間関係だって)「友だちを増や」すことであり、いわゆる「左翼小児病」的な文字通りの「お子ちゃま」から粘り腰の「オトナ」へと成熟しなければならず、「友だちを増やさない政治は誤り」だと。なんと、デール・カーネギー氏が80年以上も前に『人を動かす』で言っちゃってたことじゃないですか。

先日終了した衆議院本会議で内閣不信任決議案が提出された際、反対に回った日本維新の会の某議員はこんな演説をしていました。

念のため申し上げますが、私たち日本維新の会内閣不信任決議案に反対と申し上げたのは、別に自民党公明党と行動を共にしたいからではなく、共産党と同じ行動を取るのが、死んでもいやだからであります!
https://www.j-cast.com/2019/06/25360943.html?p=all

引用するのも恥ずかしくなるほどの「お子ちゃま」な論ですが、このような議員にこそ、この本を熟読玩味し拳拳服膺していただきたいと思います。あと、私たちがこうした幼稚な議員を選挙で選ばないということもまた大切ですね。

この本には他にも政党の「綱領」と「公約(マニフェスト)」をきちんと分けて考えることや、一度身につけた信念を現実に照らして「学びほぐす」ことの大切さなど、多くの気づきに満ちています。折しも参議院選挙が公示されたこの時期、広く読まれるべき一冊かと思います。

遠い親戚の発言で体調をくずす

何年かに一度、何かの折に親戚が集まることがあります。それは結婚に際してであったり、あるいは葬儀に際してであったりするのですが、そうした集い——遠い親戚筋の人と会うような——に出席すると、そのあと数日は体調がすぐれません。もとより極度の人見知りであるため、そういう遠い親戚と他愛ない話をしたり、一緒に食事をしたりするのがとても苦手なのです。そんなに苦手な場に長時間いることで心身共に疲れ果ててしまうんですね。

人見知りと言ったって、赤の他人ではなく親戚の人々です。まったくの見知らぬ人たちではないのになぜ疲れるのかというと、時にまったく価値観の異なる人がいて、その言動に心揺さぶられる(悪い意味で)からです。全くの他人なら逆にその場で批判することもできますし、金輪際会うまいと決めればよいのですが、親戚筋だとそうもいきません。いや、親戚だろうが何だろうが批判すべきことは批判すべきですが、そこはそれ、その後のあれこれの影響を考えると、いくら短気で「イラチ」な私でもそう簡単に場をぶち壊すこともできません。

特に面倒なのが、私が中国語関係の仕事をしていると知って「いや君には悪いんだけどさ、俺はあの中国って国が大嫌いなんだよね」みたいなヘイト・トークかましてくる御仁です。悪いと思うなら黙っていて欲しいんですけど、日頃せっせと培養してきた黒い情念を吐き出す窓口が見つかったとばかりに、私に話しかけてくるのです。でも具体的に何が嫌いなのかを聞いてみれば、単なる予断と偏見だったりして、なかには中国に一度も行ったことがない人さえいます。逆に仕事や旅行などで中国をよく知った上での発言もありますが、たいがいは二十年も三十年も前の体験を元に話しています。

私は単に中国語を使って仕事をしているだけで、華人でもなければ中華人民共和国の代弁者でもありませんが、たまたま「当事者(?)」が目の前に現れたのでこれ幸いと「ひとこと言ってやろう」的な欲求が発動するのでしょうか。だいたい当事者が目の前にいたら普通は逆に遠慮してそうした言動をはばかるんじゃないかとも思いますが、ヘイト・トークをする人はそのヘイトの矛先にある存在に対しては「何を言っても構わない」と安全装置を解除しちゃう謎の行動パターンを持っていますから、こちらも気が抜けません。

そしてまた私も、そうしたヘイト・トークに毅然と反論することもなく「はは、そうですか……」と苦笑いをしてみたり、あまつさえ「確かに他はさておき、かの国の政治はちょっとどうかと思うこともあって、私もキライです」などと阿諛追従してしまうこともあったりして、あとから激しく後悔の念に苛まされるのです。そりゃその後数日は体調も崩れようというものです。

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https://www.irasutoya.com/2017/07/blog-post_116.html

私は人見知りではありますが、中国に住んでいたときには友人や知人が何人かいました。みなさんいい人でした。もちろん友人以外から手ひどい仕打ちを受けたこともありますし、だまされたことも多々ありますが、それは日本にいても同じこと。中国の知己からは、日本で生まれ日本の環境だけで育つ中で広がりを欠いていた自分のものの見方を大きく広げてもらいましたし、いろいろな人生の糧になることを教えてもらいました。仮に政治の世界がどんなに荒れようとも、私がいわゆる「嫌中」にならないのは、その人たちの顔が脳裏に浮かぶからです。

うん、決めました。遠い親戚筋の心ない言動で数日体調を崩したのちにこうやってブログに愚痴るのはやめて、今度そういうことがあったら空気を一切読まずに「そんなことを言うもんじゃありません」とか「一体いつの話をしてるんですか」などと言うことにします。なに、それで親戚との関係が悪化しても、そもそも数年に一回会うか会わないかの仲ですし、構いやしませんよね。

自分の名前で出ています

先日「note」で、とても共感できる記事を読みました。ネットの功罪を冷静に分析した上で「うまく使おう」と指南されている記事です。特にこちらで述べられている「SNS断捨離」はとても大切だと思います。そしてTwitterでは私も「気軽にたくさんミュート」を実践し、さらには思い切ってフォロワー数を減らすことで自分の時間と思考を取り戻しました。デフォルトのままSNSを使うのは危なすぎると常々思っていたので、記事を読みながら何度も膝を打ちました。

note.mu

筆者の米光一成氏が提唱されている「16歳の病弱で繊細な妹を心の中に」という基準、その比喩の感覚は正直に申し上げてちょっとついて行けないのですが(ごめんなさい)、言わんとされていることはよく分かります。私はいつも「実社会で人に面と向かって言わないようなことはネットでも言わない」というのを自分の基準にしています。

ネットのSNSでは、誰もが自らを肥大化させがちです。ついつい自分の声が社会全体に届いているような謎の全能感、あるいはタイムラインの中に社会の実相があるような錯覚を抱いてしまう。実際には、SNSが自分の目の前に作り出している世界はこの世の中のほんの一部でしかなく、それもかなり歪んだ形で現出しているのだと常に自分に言い聞かせるべきです。

また人は誰しも自分のことが一番大切で、おおむね自分のことで精一杯で、良くも悪くもアンタのことを気にしている暇などない、アンタのことを好いてもいないし嫌ってもいない、という一種の諦念みたいなものも必要ではないかと思います。

だからこそなのですが、私はすべてのSNSにおいて「自分の名前で出ています」。以前は匿名で使っていたのですが、あるとき匿名だからこそ人は自らを肥大化させてしまうのだ、気が大きくなって謎の全能感というダークサイドに堕ちてしまうのだと気づきました。私のような気の小さい、自分に自信のない人間は特にです。それですべて実名を出し、プライベートを盛ったり脚色したりしないように心がけています。

まあきょうび、いくら本名やプライベートを隠しても、例えばGoogleさんあたりにはたぶん自分の家族よりも詳細に私という人間を知られてしまっているとは思いますけど。

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https://www.irasutoya.com/2018/04/blog-post_401.html

自分の名前で出ていることで、SNSでの発言が知人や友人を傷つけたり知人や友人の権利を損ねたりする可能性についても、より注意を払うようになります。例えば当今の香港における「反送中」についても私は重大な関心を持って事態の推移を見つめていましたが、SNSでは何も意思表示をしませんでした。うちの学校には大勢の華人留学生や教員がおり、出身は中国・台湾・香港・澳門などなどさまざまです。非当事者である私の発言でそうした人たちに何らかの迷惑がかかることだけは避けたいと思ったのです。私がどこの誰であるかはすぐに分かる形でSNSに参加しているのですから。

杞憂かもしれませんし、香港の現在は日本の未来にも関わるという人もいますが、とにかく現時点で私がすべきことは肥大した自己をSNSでひけらかすことではないと思いました。問題への関わり方にはさまざまな方法があります。ある意味でSNSはそうした関わり方への複雑で面倒な思考をすっ飛ばして、あたかも手っ取り早く最大の影響力を持てる手段であるかのように錯覚させる一面があるのかもしれません。

やはりSNSの断捨離は必要です。SNSへの関わり方への断捨離も。SNSの過剰な部分は捨て、自らの分をわきまえ、実社会へ戻って来るのです。あるいはSNSを限りなく実社会に近づけて行くべきと言えるかもしれません。

あえて日本語で話すことが「クール」なのにね

先日、華人(チャイニーズ系)の留学生は、非漢字文化圏の留学生に比べて日本語の音声に対するこだわりが薄そうだ、それはたぶん漢字という強力なツールがあるために、日本語の音に頼らずとも深い理解が可能だからかもしれない……という話を書きました。

qianchong.hatenablog.com

もちろん個人差はあって、華人留学生でも日本語の発音やリスニングが極めて達者な方もいます。でも何年にもわたって大勢の留学生を観察してきた結果から見れば、日本語の「読む・書く」において漢字が大きなメリットになる華人留学生は、一方で日本語の「聴く・話す」においては漢字が逆にデメリットとして働いているように思われます。

特に「話せているようで実は話せていない」という点が顕著で、語彙も日本に関する背景知識も豊富なのに、口頭表現のレベルで損をしている方がとても多く見られます。具体的には日本語の発音、なかんずく撥音・拗音・促音・長音が曖昧なために、せっかく整った文型で言えても一般の日本語母語話者(私たちのように日々外国人に接しているわけではない方々)には通じにくい、あるいは不当に低い評価をされてしまうという方が多いのです。

もちろんこれは、国内的にほぼモノリンガルであるため、外国人の日本語の訛りを極端に許容しない、あるいは慣れていないという私たちの問題でもあるのですが。それでも華人留学生のみなさんは現在、周囲のほとんどが日本語母語話者という語学的にはとても恵まれた環境に暮らしているわけで、間違いや誤解を恐れずどんどん話していって欲しいと思っています。ところが、これもまたあまりその優れた「言語環境」を活用していないフシが見られるんですよね。

華人留学生はうちの学校でも圧倒的に人数が多く、約半数を占めています。それで、華人留学生同士で話をするときは当然のことながら中国語で話をしてしまうんですね。教室を覗いてみても、そこここで華人留学生のみなさんが中国語のマシンガントークを展開しています。もちろん「非」中国語母語話者の留学生と話すときは日本語になるのですが、口語力で彼らの後塵を拝している華人留学生はどうにももどかしそうです。それが華人留学生同士の会話になると、とたんに水を得た魚のように中国語でしゃべり倒してしまうのです。

試みに先日の授業で、華人留学生のみなさんに「学校以外で、日本人の友人や知人と話すことはありますか」と聞いてみました。すると、アルバイト先の日本語母語話者と話すことはあるけれど、それ以外に日本人とつきあいがあるという人はごく少数だということが分かりました。学校では華人留学生同士で中国語を話し、学外でもその時間の多くと華人とのつきあいに費やして、あまり日本語の「実戦訓練」を行っていないのです。せっかくよい「言語環境」に身を置きながら、なんともったいないことでしょうか。

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https://www.irasutoya.com/2015/10/blog-post_742.html

いささか自慢めくので気が引けますが、かつて私が中国に留学したときは「決して日本語を使うまい」と決意したものです。留学生寮では日本人留学生同士で相部屋をあてがわれたのですが、学校側に申し入れて「非」日本語母語話者と一緒にしてもらいました。お互いの共通言語は中国語だけ、とにかく中国語を使わざるを得ないという環境に自分を追い込みたかったのです。

さらに日本人留学生と話をするときも中国語を貫きました。こちらが日本語母語話者だとわかると「なぜ日本語を話さないんだ!」と怒る方もいましたし、最初はこちらも大したことを中国語で話せないのでまるでジェスチャーゲームみたいになったりもしましたが、続けているうちに「あの人はそういう人なんだ」という定評(?)ができて、みなさんが私に合わせて中国語で話してくれるようになりました。当時の私にとって中国語を話すことが「クール」であり、日本語を話すことは「ダサい」ことだったのです。

もちろん日本人同士のパーティなどでは日本語もずいぶん話しましたが、基本的には自分の頭を常に「中国語モード」にしておくことを心がけていました。通訳や翻訳の訓練をするような段階に至ればまた別ですが、語学の習得段階では頭の「言語モード」を器用に切り替えて話すのは至難の業です。どうしたってラク母語に戻って安住してしまう。それでは語学の習得はおぼつかないと思ったのでした。

それ以外にも、中国人学生と友達になって寮に遊びに行ったり彼らの授業に潜り込んだり(いずれも当時は禁止されていましたが)、積極的に街に出て市井の中国人とお話をしたり、列車で偶然知り合った消防署に勤めるおじさんと「相互学習(日本語と中国語を教え合う)」をしたり、とにかく与えられた「言語環境」を最大限に活かそうとしていました。まあ私は35歳にもなって脱サラのうえ留学したので、いわば背水の陣で今さら「青春をエンジョイ」している場合じゃなかったという事情もあったのですが。

そんなこんなを華人留学生のみなさんに話してみました。中国語母語話者同士が、あえて日本語で話すことが「クール」なんですよと。みなさん、とても真剣な面持ちで聞いていたので、多少は参考になったかな、積極的に日本語で話すようになってくれるかなと思ったのですが……授業が終わるやいなや、みなさん中国語のマシンガントークに戻っていました。

ポエムになっちゃった

Twitterのタイムラインで、とても興味深い写真を見かけました。門司港駅の改札に掲げられている横断幕の写真です。

なるほど、横断幕に書かれた日本語には主語がありませんが、これは門司港駅から出る列車は全て門司駅小倉駅に停まりますよ、どの列車に乗っても大丈夫ですよ、と旅客にお知らせする目的で掲げられたものなんですね。たぶん駅の改札で「この列車は門司駅に停まりますか」「小倉駅に停まりますか」というおたずねがあまりに多いので、いちいち答える煩雑さを解消しようと駅側が設置したものなのでしょう。

実は私の実家は北九州市にありまして、門司港駅にも何度も行ったことがあります。確かにこんな横断幕がかかっていたような記憶がおぼろげながらにありますが、そこに英語と韓国語と中国語が足されたんですね(以前はなかったように思います)。そして上掲のツイートは、その英語が少々不自然であり、それは主語を往々にして省略する日本語をそのまま訳した結果ですよと指摘されているわけです。

わははは(笑ってる場合じゃないけれど)、これは面白いです。門司港駅は九州の最北端にある終着駅でして、逆にここから出発する全ての列車はお隣の門司駅、さらにその先の小倉駅に停まって、それから各停や急行などに変わるんですね。そういうシチュエーションが共有されていればそれほど誤解を招くことはない訳文でしょうけど、それでも英語と日本語の大きな違い、主語の「絶対不可欠さ」を考慮に入れずに訳しちゃったというのが、興味深いと思いました。常々申し上げている、日本人の外語に対する「ナイーブ」な感覚が露呈しているような気がして。

qianchong.hatenablog.com

中国語も基本的には主語がはっきりと提示される言語ですが、この横断幕の訳文は主語のない日本語の曖昧さが悪い方に作用して、「このすべては門司駅小倉駅に停まる」……と何だか抽象的なポエムみたいになっちゃってます。まあこれも駅に掲げられている横断幕だから、たぶん全ての列車が止まるんだろうなと中国語母語話者のみなさんも理解してくださるとは思いますけど。せめて英語の“All trains”と同じように主語として“所有列车”か何かを入れるとよかったですね。

ちなみに韓国語の訳文ですが、同僚の韓国人に聞いてみたところ、特におかしなところもないし問題なく理解されると思う、とのお答えでした。

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時間よ止まれ [EPレコード 7inch]

脳卒中とタバコの関係

受動喫煙対策を強化する「改正健康増進法」の一部がこの七月から施行されます。この改正法は、例えば小規模飲食店内での喫煙が依然認められるなど「ダメダメ」な点も多いのですが、それでも一歩前進したことはよかったと思っています。この法改正によって、学校や病院や行政機関などの敷地内は原則禁煙になります。うちの学校でもこの改正に合わせて、キャンパス内にいくつもあった喫煙所が一つに集約されることになりました。

キャンパス内で若い学生さんが多く喫煙所に集って煙をくゆらせているのを見るたび、なんともいたたまれない気持ちになります。なんでまたタバコのような百害あって一利なしのもので、あたら若くて健康な身体と精神を損ない続けているのかと。個人の自由だ、大きなお世話だと思われるかもしれませんが、若いときの喫煙は私みたいな中高年になったときに大きなツケとなって戻ってきます。

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https://www.irasutoya.com/2014/08/blog-post_557.html

細君は二年前に脳卒中のひとつである「くも膜下出血」を発症し、奇跡的に生還しました。その際の経緯を文章にまとめて、公益社団法人日本脳卒中協会脳卒中体験記に応募したところ、入選になりました。先日その文章が載った小冊子が送られてきたのですが、細君の文章もさることながら、そのほかのみなさんの体験記ひとつひとつに打たれました。様々な疾患の中でも、一気にすべての身体の自由(物理的なものから精神的なものまですべて)を奪い、大きな影響をあたえる脳卒中脳出血脳梗塞など)の重大さや激烈さに、あらためて身のすくむ思いがしたのです。
www.jsa-web.org

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タバコの害については様々な研究結果が出ていますが、私が一番怖いと思っているのはこの「脳卒中」との関係です。例えばこちらにある国立がんセンターの研究でも……

・喫煙者は、非喫煙者にくらべ、男性で1.3倍、女性で2.0倍、脳卒中になりやすい。
・たばことクモ膜下出血の関係は強く、本数が増えるほどリスクが高くなる。
・男性では、たばこによってラクナ梗塞や大血管脳梗塞のリスクも上昇する。
脳卒中にならないためには、「たばこを吸わない」が原則。

……という報告がなされています。
epi.ncc.go.jp

タバコを吸い続けているけど高齢になっても元気だと主張している養老孟司氏のような人物もいますが、それはたまたま運がよかっただけでしょう。様々な研究結果を一切無視して、そんな僥倖を一般化するようなおよそ非科学的な態度の科学者(しかもお年寄り)に、若い人は決してたぶらかされてはいけません。

上記の「脳卒中後の私の人生」という小冊子は、日本脳卒中協会に申し込めば送料だけの負担で送ってもらえます。ぜひご一読をおすすめします。人生観が変わることうけあいです。
www.jsa-web.org

どうして私なんかに相談してくるのかな

教師という職業を長年(といってもほんの15年ほど、それも断続的にですが)やっていると、学生さんから、それも卒業後しばらく経ってから様々な相談を受けることがあります。それは学習上の悩みであることも多いですが、もっと重い、例えば就職についてとか、進学についてとか、人生設計についてとか、あるいは家族との関係についてだったりすることもあります。なかば「人生相談」に近いんですね。そうした相談のメールやショートメッセージやLINEをけっこう受け取るのです。

私自身は、仕事についても自分の生き方についてもそんなに自信があるほうじゃない、というかいつもバタバタと必死に生きているので、どうして私なんかに相談してくるのかなと思うことがあります。そんなに頼れると思われているのでしょうか。人生相談だったら私などよりもっと近しいご家族とかご友人に相談した方がよさそうですが、近しすぎるとかえって相談しにくいのかもしれません。それで家族や友人の次くらい日常的に顔を合わせている教師に相談するのかな。

cakes で連載されているコラム「幡野広志の、なんで僕に聞くんだろう。」では、写真家の幡野広志氏が多くの人から人生相談のメッセージが届くことに対して、こんなことをおっしゃっています。

さいきん少しだけぼくに質問をしてくる理由がわかってきた。相談を受けるとここぞとばかりに、相談者のことを否定して自分の考えを押し付ける人がいる。場合によってはそのまま説教や批判されることや、昔はさぁ~とまったく役に立たない過去の話をしだす人がいる。


ちなみにここでいう昔って、縄文時代のころの話でも江戸時代のころの話でもなく、その人の若いころの話です。彼らはただ自分の話をしたいだけなんです。ぼく自身も過去に先輩などに相談して、これをやられて嫌になった記憶がある。そういう人には二度と人生相談をしていない。こういう人が少なくないのだ。だから周囲に相談できる人が見つからず、ガン患者に人生相談をしてしまう。

cakes.mu

なるほど、やはり周囲に相談できる近しい人がいないので、私に相談してくるということなのかもしれません。

ただ、興味深いのは、そうしたご相談のメールなどに回答をしても、それっきりで返事が来ないことが多いという点です。ショートメッセージやLINEでは話しにくいから(この辺が「おじさん」的です)メールで、とメールアドレスをお教えしても、その後メールが届くことは少ないです。私に相談してみたものの、期待したような回答じゃなかったから「ああ、この人に頼ってもだめだ」と思って他の人に相談しているのかもしれません。

あるいは幡野広志氏がおっしゃるように、「ああ、この人は自分の考えを押しつけたり、過去の自分のことばかり語りたがってる」と思ったのかもしれません。私としてはそんなつもりはなく、相談にできるかぎり誠実に答えようとはしているのですが、基本的に「自分で決め、自分で解決すべき」だと思っているので、そういうスタンスがメールなどの文面ににじんでいるのかもしれません。それが素っ気ない返事に感じられるのかなと思います。

キャリアコンサルタントの資格を持っている細君によれば、相談者には大きく分けて二つのタイプがあるそうです。ひとつは自分で自分の気持ちを整理したいと思っていて、そのために相談という場を活用しようとする人。そしてもうひとつは相手に丸投げで「何かしてもらいたい」と思っている人。なるほど、相談してきて、それっきりお返事がない方というのは、その後者にあたるのかもしれません。他力本願で「何かしてもらいたい」。でも、最終的には自分で解決すべきことですよと言われて「それじゃない」と。

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https://www.irasutoya.com/2016/01/blog-post_340.html

ちなみに私自身は、あまり人に悩みを聞いてもらって自分の気持ちを整理しようとしたことはありません。もちろん人生の節々でいろいろな方にお世話になってきましたが、家族にも友人にも(友人があまりいないこともあるけれど)相談したことはほとんどなく、人に相談するよりはむしろネットを検索するとか本を読むとか(自己啓発本みたいなのも含めて)して、自分で決めて行動してくることが多かったです。

「それはアンタが強い人間だからよ」と言われることもあるのですが、私はむしろ弱い人間だからだと思います。人に相談できない・しないのは、自分の弱みを人に見せたくないというプライドの高さから来るんじゃないかと。そうやって自分の弱みをさらけ出して、あるいは腹を割って話すことができないがゆえに、親友と呼べるような存在も極端に少ないのだと思います。

翻訳の好みは人それぞれ

留学生の通訳翻訳クラスで「通訳翻訳概論」という授業を担当しています。通訳学や翻訳学の専門家でも何でもない私が担当するのは正直に申し上げて荷が重すぎるのですが、「そもそも通訳や翻訳とはどんな営みなのか」を様々な例を挙げながら学んでいくという内容で、不肖ながら私が受け持っています。

留学生のみなさんはこれまで日本語学校でひたすら日本語のレベルアップを目指してきた一方で、日本語から英語や中国語に訳す、あるいはその逆というのはほとんどやって来なかったので、「訳す」ということそのものがよく分からない、あるいは通訳と翻訳の違いが分からない……という方が意外に多く、それでこうした授業を作ろうということになったのでした。

先日は「意訳と直訳」と「信・達・雅」について、伊丹十三訳のW・サローヤン『パパ・ユーア・クレイジー』や、ネロを「清」・パトラッシュを「斑」とした日高善一訳の『フランダースの犬』、映画『カサブランカ』の名字幕「君の瞳に乾杯」、そのほかにも「インテル、入ってる」や「可口可乐(コカコーラ)」などなど、さまざまな例を紹介しながら、みなさんに時と場合に応じた翻訳のあり方について議論してもらいました。

さらに、村上春樹氏の『ノルウェイの森』から一節を拝借して、英語と中国語それぞれお二人ずつの翻訳者による翻訳を読んでもらい、これについても議論を行いました。

■原文(村上春樹・作)
飛行機が着地を完了すると禁煙のサインが消え、天井のスピーカから小さな音でBGMが流れはじめた。それはどこかのオーケストラが甘く演奏するビートルズの『ノルウェイの森』だった。そしてそのメロディーはいつものように僕を混乱させた。いや、 いつもとは比べものにならないくらい激しく僕を混乱させ揺り動かした。


■英語訳(Alfred Birnbaum・訳)
The plane completes its landing procedures, the NO SMOKING sign goes off, and soft background music issues from the ceiling speakers. Some orchestra's muzak rendition of the Beatles' "Norwegian Wood." And sure enough, the melody gets to me, same as always. No, this time it's worse than ever before. I get it real bad. I swear my head is going to burst.


■英語訳(Jay Rubin・訳)
Once the plane was on the ground, soft music began to flow from the ceiling speakers: a sweet orchestral cover version of the Beatles' "Norwegian Wood." The melody never failed to send a shudder through me, but this time it hit me harder than ever.


■中国語訳(林少华・訳)
飞机刚一着陆,禁烟字样的显示牌倏然消失,天花板扩音器中低声传出背景音乐,那是 一个管弦乐队自鸣得意演奏的甲壳虫乐队的《挪威的森林》。那旋律一如往日地使我难 以自已。不,比往日还要强烈地摇撼着我的身心。


■中国語訳(賴明珠・訳)
這時,飛機順利著地,禁菸燈號也跟著熄滅,天花板上的擴音器中輕輕地流出 BGM 音樂來。正是披頭四的“挪威的森林”,倒不知是由哪個樂團演奏的。一如往昔,這旋律仍舊撩動著我的情緒。不!遠比過去更激烈地撩動著我、搖撼著我。

興味深かったのは、英語のAlfred Birnbaum訳とJay Rubin訳、中国語の林少华訳と賴明珠訳、それぞれ好みがほぼ半々に分かれたことです。しかも一方は村上春樹の文体をよく再現できているけれど、もう一方は「村上春樹っぽくない」という人がいる一方で、その同じ訳に対してまったく反対の意見も数多くありました。また一方を「意訳に傾いている」と思う人がいる反面、その同じ訳を「直訳に傾いている」と感じる人も。もとより翻訳に「正解」はないのですが、人によって受け止め方がこれほどまでに多種多様なのがおもしろいです。

中国語の翻訳については、やはり地域差で好みが分かれるようでした。つまり、中国大陸出身の留学生は林少华氏の翻訳を好む一方で、台湾出身の留学生は賴明珠氏の翻訳を好む傾向が強いです。これは予想通りで、やはり自分がこれまでに触れてきたタイプの文体をより読みやすく、好ましく思う一方で、同じ中国語ではあるけれども異なる文化背景(といってしまってよいのか分かりませんが)から生み出されてきた文体には違和感を持つようなのです。

うちの学校では、英語も中国語も巨大でグローバルな言語であるだけに地域差や文化背景によるバリエーションが多様であると認識すること、そうした多様性を積極的に受け入れて自らの小さな言語観に安住しないこと……を教学の柱に据えています。その狙い通り、今回も「センセ、この中国語は文法が間違ってます」と発言する留学生がいたりして、そしてそれについて反論がなされたりして、なかなかおもしろく刺激的な授業になりました。

……おもしろいんですけど、ひとクラス40人近くいて、しかもみなさんとてもポジティブで日本的な「空気読め」とは無縁の方が多い留学生で、そのみなさんがあちこちで英語と中国語と日本語で侃々諤々やっているものですから、こちらはその熱気につきあうだけでどっと疲れてしまいます。ああ、若さっていいなあああ。

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下着ブランド名としての「Kimono」をめぐって

Twitterで「#kimono」や「#KimOhNo」というハッシュタグのついた多くの着物(和服)写真がアップロードされていました。アメリカのタレント、キム・カーダシアン氏が自らプロデュースした矯正下着のブランド名を「Kimono」としたことに対して、日本の伝統的な服装である着物のイメージがこうした形で流布されることに抗議しようと多くの方がツイートしているようです。

ことの経緯は、こちらの記事に詳しくまとめられています。

www.bbc.com

キム・カーダシアン氏ご自身のツイートはこちら(キャプチャー画面です。リンクはこの下に)。

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https://twitter.com/KimKardashian/status/1143505431391854594?s=20

なるほど、これは確かに、写真にある種の強烈な「インパクト」があることも相まって、着物を愛する方々の間で「炎上」しているのは無理からぬところがあると思います。私も日本の着物という服は本来こんなふうに着られているんだよという一つの例を発信するのもいいかなと思って、自分の舞囃子の写真をハッシュタグとともにツイートしました。

ただ私は着物の写真をツイートしたものの、日本文化の侮辱だとか冒瀆だとか、それに抗議するといったスタンスは逆に国粋主義的な香りというかファナティックな感じがして抵抗があったので、単にハッシュタグだけをつけるにとどめました。だいたい日頃から着物をそんなに大切にしているのかと問われれば、少なくとも私はそれほど胸を張れないなとも思って。それでもハッシュタグ「#KimOhNo」を使っていますから、多少なりとも抗議のニュアンスはこもるんですけど。

こうした他の文化のアイデンティティを毀損しそうな危うい名称というのは、他にもたくさんあると思います。いまぱっと思いつくところでは、かつて風俗営業店の代名詞だった「トルコ風呂」や、喜納昌吉氏の『ハイサイおじさん』に出てくる「台湾はぎ(禿)」。「日本のチベット」というのも考えてみればかなり危ういですし、中国語にも“香港脚(水虫)”というのがあります(他にもありましたら、ぜひご教示ください)。

ただこれらはいずれもネガティブな、あるいは茶化したようなイメージがつきまとうのに対して、今回はむしろおしゃれな下着としての名称に「Kimono」を使われちゃったところがややこしい。こういう「ラクダ色(……は死語かしら、肌色?)」の下着は服の上から下着の線が目立たないので私も愛用しています。でも服としての「Kimono」が下着として商標登録されちゃったらやはり心中穏やかでない……などとつらつら考えていたら、フォロワーのMariChan(陳マリ)さんがこんな興味深いツイートをされていました。

へええ。ネットで検索したらすぐに見つかりました。アメリカはカリフォルニア州にある「Mayer Laboratories」という会社が販売している製品で、オフィシャルサイトの下に「Kimono CONDOMS」のバナーが「Rマーク(®)」つきで見えます。商標登録もされちゃってるじゃないですか。製品説明には「Made with premium natural latex using state-of-the-art Japanese technology」とあります。日本の企業と技術提携(?)したアメリカ製品みたいですが、中国語のネットショップでは「日本製造(日本製)」となっているところもありました。おお……。

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http://kimono-condoms.com/kimono-microthin-condom.htm

単なる想像ですが、キム・カーダシアン氏ご自身はあんまり深く考えずに軽い「ノリ」でネーミングをしたのかもしれません。商標登録うんぬんの行方は分かりませんが、仮にされたとしても米国内でのお話。米国で着物を売ろうとするときには影響はあるかもしれませんが、はたしてどれくらいの「市場」があるのかと考えれば杞憂に過ぎないかもしれません。着物を愛するみなさんはこれからもSNSなどで「Kimono」の文字とともにご自分の着物姿など、着物のありようを示す写真をどんどんアップされるといいかもしれませんね。私もやろうと思います。

体重が増えません

腰痛と肩凝りと不定愁訴の改善を目指してはじめたジム通いも「病膏肓に入」りつつあり、現在は「朝活」で週に5日、以前から続けているパーソナルトレーニングには週に2回通っています。体幹レーニングと「筋トレ」がメインなのですが、年齢が年齢だけにもうそんなに「マッチョ」にはなれません。まあ、なる気もないんですけど。

それでも、ベンチプレスなど続けているとついつい欲が出て、さらにトレーナーさんが上手にハードルを上げてくるのとも相まって、徐々に挙げられる重量が増えてきました。以前から自分の体重ぶんのウェイトを目標にしていたのですが、ついに先日その体重を超えました。次なる目標はこの重さを数回、あるいは数セット挙げられるようになることです。

ところで、ある程度の重量を上げようとすると、これはもう物理的に筋肉の絶対量が必要です。重力というのは極めて冷徹かつ非情な存在でありまして、小手先のテクニックでどうにかなっちゃうものではありません(正しい姿勢やマインドセットは必要ですが)。それで最近は炭水化物を少し抑えつつ、良質な蛋白質を多く摂ろうとしているのですが、これがまた中高年の悲しいところで、すでにもうそんなにたくさん食べられない身体になってしまっていました。いくら食べてもお腹がすいて仕方がなかった若い頃が懐かしいです。

手軽に蛋白質だけを摂るならプロテインという手もあり、実際トレーニング後には飲んでいますが、これだけじゃ寂しい。というわけで鶏の胸肉や、赤身の豚肉や牛肉、魚などを以前よりも多く炊事で用いるようになりました。それと同量かさらに多い野菜類、豆類とともに。それでもすぐに満腹になってしまいます。

トレーナーさんからは「筋肉がつけばそれなりに体重は増えますけど、ある程度体重がないとウェイトは上がっていきません。できれば積極的に食べてください」と言われているのですが、なかなか健康的に太ることができません。ご飯やパスタをどんと食べれば容易に太れるんですけど、良質の蛋白質で太るのはけっこう難しいんですね。

ということで、最近は脂肪がほとんどない赤身の牛肉を使ってよく「タリアータ」を作っています。

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世間的には牛肉の「サシ」が人気ですが、私はもうあの脂について行けないので、いつも赤身の牛肉ばかり買っています。ところが赤身の牛肉(のブロック肉)って存外手に入れるのが難しいんですね。でもスーパーによってはこだわりの仕入れ担当者がいらっしゃるのか、まったく脂身のついていない牛肉を売っています。しかもサシが入った牛肉よりずいぶんお安い価格で。

そういう赤身の牛肉には、脂のうまみとはまた全然違う、しかしとても滋味深い味わいがあるのが分かるようになりました。タリアータは牛肉を焼いて薄切りにするだけなので、調理もとても簡単です。「強火で何度も裏返す」という樋口直哉氏の作り方を参考にしています。

cakes.mu

チャイニーズのみなさんは立ち食いと冷えた料理が苦手

先日、華人留学生の通訳教材で“立餐宴會(立食パーティ)”という中国語が出てきたのですが、みなさんそこで一様に「うっ……」と訳出が止まってしまいました。ちなみに今、Googleの中国語インプットメソッドで「lican」と打っても、変換候補に“立餐”が出てきません。華人にとって立食はほとんど存在しない概念なんですね。というか、教材の“立餐”は日本語の「立食」をムリヤリ中国語に訳した感が強いです。

これまで何十人もの華人に「取材」してきたのですが、立ち食い、それも箸やお椀などの食器を使った立ち食いは「苦手」「身体に悪い」「どうしてもできない」という方がほとんどでした。来日何十年の華人でも、駅などの「立ち食いそば」は未経験という方が多いです。最近のごくごくお若い方はむしろ「立ち食いそば」を日本的なアイコンとして楽しんじゃうノリの方もいらっしゃるようですが。

華人のみなさんは、立ち食い全体が苦手なわけではなく、ファストフードみたいなのとか、屋台の食べ物なんかはよく立ち食いしています。でもお弁当とか、飲食店で食器、それも箸や食器を使うような場合は、立ち食いを敬遠されるようです。万やむを得ない場合はその場に「しゃがむ」。だから立ち食いそばはもとより、オープン当初は立ち食いが一種の名物だった「いきなりステーキ」とか「俺のフレンチ」みたいなのも、ちょっと想像の範疇を超えるみたいです。

ちなみに先日はお若い華人留学生のみなさんから「どうして日本人は『立ち食い』が好きなんですか? いつも忙しく働いてるから時間の節約ですか」と聞かれました。私はとっさに「う〜ん、多分そうじゃなくて、江戸時代に寿司や蕎麦なんかがファストフード的に広まって、それが立ち食いだったからじゃないかな」と答えましたが、根拠はありません。ちょっと調べてみましょうかね。

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https://www.irasutoya.com/2015/05/blog-post_624.html

私は立ち食いそばが好きですが、立食パーティというのは何度参加しても慣れません。片手でグラスとお皿を器用に持ち、人混みをかき分けて移動するのが下手なのです。最近は参加する機会もないので状況はわかりませんが、以前の日中関係・日台関係のレセプションなど、けっこう立食式(ビュッフェ形式?)の会が多かったように思います。食器を用いた立食が苦手な華人がゲストなのに、このあたりは「おもてなし」の想像力が働かなかったのかなあ。

ちなみに華人は冷え切った食事もあんまり好きじゃありません。もちろん中国系の料理にも冷たいものはありますけど、冷たいものを食べると身体に悪いと幼い頃から信じていますし、実際具合が悪くなる方もいます。お菓子やサンドイッチのような軽食ならまだしも、基本的に料理は「あつあつ」「ほかほか」、それも舌を焼くほどの……が大好きな人々なのです。

うちの学校でも、合宿などを行うと一番評判が悪いのは冷えた食事です。学校側には何度も申し入れているのですが、なかなか改善されません。予算の都合もあるんでしょうけど、華人がどれだけ難儀に思っているか想像しにくいんでしょうね、郷に入っては郷に従えとはいえ。

企業のランチミーティングなどでも上等な松花堂弁当なんか取ってくださることが多くて、これはむしろ海外からのお客様に日本風のお弁当を味わってもらいたいという「おもてなし」の発露なんですが、当の華人はというと、一応社交辞令で「おお、美しいですね」などとおっしゃるものの、あまり喜んでいません。せめて熱々のスープか味噌汁でもあれば救われるんですけど。

私はこれ、単に食事の好みをこえて、ほとんど宗教上の理由で何々が食べられないみたいなのと同じくらいの扱いをしなきゃいけないんじゃないかと以前から思っているのですが、わかってくださる日本側のクライアントは少ないです。中国系の料理って、それだけで一つの膨大な文化を形成していて充足できるからか、華人は食に対してかなり保守的なんですよね。朝はトーストに味噌汁で、昼はハンバーグカレーで、夜はチューハイ片手に「餅入りチーズキムチもんじゃ」とか、そういうクロスオーバーな(無秩序な?)食文化を享受している私たちにはなかなか理解が深まらないところなのです。

フィンランド語 41 …動詞の「棚卸し」その2

授業では引き続き動詞の「棚卸し」をやりました。一つの動詞をめぐって……

・現在形の肯定と否定
・過去形の肯定と否定
・現在完了形の肯定と否定
・過去完了形の肯定と否定
・命令形二人称単数の肯定と否定
・命令形二人称複数の肯定と否定
・第三不定
・第四不定詞(動名詞

……をどんどん作っていくのです。先生からは、実際に話すときにはいちいち「作り方はどうだったかな」と教科書やノートを見るわけにはいかないので、何も見ずにこれらが作れるよう繰り返し練習してくださいと指示がありました。

先生によれば、これでフィンランド語の「時制(テンス)」はすべて出尽くしたそうです。そうか、フィンランド語には動詞の未来形がないんですね。現在形で言って、文章に未来を表す言葉が入っていれば(例えば「huomenna:明日に」)即未来形になると。これは中国語でも同じですね。

棚卸しをやってみて分かったのは、現在の私の弱点は「過去形の否定」と「命令形複数」だということでした。

過去形の否定は否定辞「en 〜 eivät」の後ろに動詞の過去分詞がつくのですが、それを忘れて「否定辞+動詞の過去形」で済ませちゃってました。

lukea(読む・学ぶ・専攻する)

Minä en lukenut Me emme lukeneet
Sinä et lukenut Te ette lukeneet
Hän ei lukenut He eivät lukeneet

命令形複数肯定は、動詞が① VA、AtAutA、otA、itA タイプの場合は語尾の綴りをひとつ外して「kaa / kää」をつけ、②それ以外のタイプの場合はふたつ外して「kaa / kää」をつけます。否定は「Äikää」の後に語幹+「ko / kö」

Lukekaa ! Älkää lukeko !

あと大事なポイントとして「過去分詞」と「命令形複数」だけは「kpt」の変化がないということ、第三不定詞が表す代表的な意味「massa(〜している)」、「masta(〜してから)」、「maan(〜するために)」、「malla(〜することで)」、「matta(〜することなしに)」を覚えること、さらにふだん「tehdä(する・作る)」と「nähdä(見る・会う)」は元の形の「tekea」「nakea」、つまり「VAタイプ」として扱うところ、過去分詞と命令形複数では「dAタイプ」として扱うという点でしょうか。

過去分詞単数 過去分詞複数 命令形複数
tehnyt tehneet tehkää !
nähnyt nähneet nähkää !

棚卸し作業の手順

これらを踏まえて動詞の棚卸しをする際の手順も教わりました。「tietää(知る)」でやってみます。

1.現在形肯定を作る。

Minä tiedän Me tiedämme
Sinä tiedät Te tiedätte
Hän tietää He tietävät

2.三人称複数の「vät」を外した形から第三不定詞と第四不定詞(動名詞)を作る。

第三不定詞内格 tietämässä
第三不定詞出格 tietämästä
第三不定詞入格 tietämään
第三不定詞所格・接格 tietämällä
第三不定詞欠格 tietämättä
第四不定詞(動名詞 tietäminen

※この他にもまだまだ作ることができる形があり、それらはこの先で学ぶそうです。

3.現在形否定を作る。

Minä en tietä Me emme tietä
Sinä et tietä Te ette tietä
Hän ei tietä He eivät tietä

4.命令形を作る。

肯定 否定
単数 Tietä ! Älä tietä !
複数 Tietäkää ! Älkää tietäkö !

5.過去形肯定を作る。

Minä tiesin Me tiesimme
Sinä tiesit Te tiesitte
Hän tiesi He tiesivät

6.過去形否定を作る。

Minä en tiennyt Me emme tienneet
Sinä et tiennyt Te ette tienneet
Hän ei tiennyt He eivät tienneet

※「tietää」の過去分詞は例外的な作り方ですが、通常の作り方で「tietänyt / tiedäneet」としてもOKだそうです。

7.過去形否定で出てきた過去分詞を使って現在完了形(肯定・否定)と過去完了形(肯定・否定)を作る。

Minä olen tiennyt Me olemme tienneet
Sinä olet tiennyt Te olette tienneet
Hän on tiennyt He ovat tienneet
Minä en ole tiennyt Me emme ole tienneet
Sinä et ole tiennyt Te ette ole tienneet
Hän ei ole tiennyt He eivät ole tienneet
Minä olin tiennyt Me olimme tienneet
Sinä olit tiennyt Te olitte tienneet
Hän oli tiennyt He olivat tienneet
Minä en ollut tiennyt Me emme olleet tienneet
Sinä et ollut tiennyt Te ette olleet tienneet
Hän ei ollut tiennyt He eivät olleet tienneet

……と、これで棚卸しの手順が一通り終わりました。今学んでいる教科書にはおよそ150個ほどの動詞が出てくるのですが、そのすべてでこの変化ができるようにしてくださいと指示がありました。そして、とりわけ動詞の原形を覚えること、その他の単語もできるだけ暗記するように言われました。フィンランド語は単語の変化が激しいですが、それでも単語の「元の形」をたくさん覚えていることはコミュニケーションでも力を発揮するのだそうです。畢竟、単語の羅列でもある程度まで意思の疎通はできるからです。はい、引き続き頑張ります。

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Minä menen ravintolaan tapaamaan ystävää.

かつての光を失いつつある百貨店

私が子どもの頃、デパート(百貨店)というのはみんなの憧れの場所でした。週末に、家族総出で自家用車に乗り込み、長い駐車場の列をものともせずデパートに繰り出し、ショッピングや食事(大食堂でね)を楽しむ……というレジャー形式(?)があったのです。2019年の今となっては、ちょっと信じられないくらいですが。

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https://www.irasutoya.com/2014/06/blog-post_8636.html

今の私は、デパートで買い物をすることはほとんどありません。服飾関係にしても雑貨や日用品関係にしても価格がお高いし、お高いがゆえにお客さんも少なくて買いにくいし、やたら声をかけられる接客が過剰だし、プラスチックゴミが世界的な問題になっているのにビニール類での包装も過剰だし、そもそも「何でもあるけど自分が欲しいものは何もない」というデパートは、すでに「何でもあって自分が欲しいものも必ず見つかる」ネットショップの好敵手たりえません。

きょうび、ファストファッションでもそこそこの品質ですし、品揃えが桁違いに豊富なネットショップで充分に物欲を満たすことができ、なおかつネットで唯一の難点だった試着ができないとかサイズ違いへの対応などにも、返品自由などいろいろなサービスが登場して、もはやデパートで服や雑貨などを買うメリットはなくなりました。

接客などの丁寧さがデパートの強みかもしれませんが、正直に申し上げてデパートの接客が丁寧で洗練されているとはあまり思えないんです。あまり具体的に書くのも「クレーマー」めくので気が引けますが、高級感をはき違えた慇懃無礼さがなんとも心地悪いですし、店員さんが意外に商品知識がなくてこちらが困惑することも多いです。あるデパートなど試着を申し出たところ、店員さんに「あ、試着室、遠いんで」とにべもなく断られてしまいました。いったい何キロ先に試着室があるのかな。

業界に詳しい知人によると「デパートの店員さんは、その会社のプロパーだけでなく、衣料メーカーからの派遣も多く入っているので、自分のメーカー以外の商品知識が薄かったり、そのデパートの接客品質を共有できていなかったりするのかもしれませんね」とのことでした。なるほど〜。でも客には分からないですよね、そんなこと。

カードを持ってかれるのが恐い

それから、デパートではカードで支払いをすると店員さんがカードを奥のレジまで持って行ってしまうことが多いですよね。あれもものすごく不安になります。お金の出し入れを客に見せないためか、レジは遠くの隠れたところにあって、それがデパートならではの接客だという「思想」なんでしょうけど、決済端末が進化していまやAppleStoreみたいに店員が端末を携帯してレジを廃止しているような時代なのに、いまだに何十年も前のシステムで動いているのは驚異的です。

中国も大昔は全ての商品が対面販売で、店員さんの「“没有”攻撃」を交わしながら何とか物を見つけて支払伝票を書いてもらい、それを別の場所にある“收銀處”(出納窓口)に持って行って支払いを済ませ、支払い済みとハンコを押された伝票を持って売り場に戻ってやっと品物を受け取れる……というシステムでしたが、日本のデパートの会計システムは2019年の現在でもそれに似たようなことをやっているのですね。

それに自分の番号が書かれたクレジットカードがいったん奥に消えるのって、恐くありません? 店員さんを疑うわけじゃないけど、スキミングでも何でもし放題じゃないですか。私は実際に番号を盗まれたことがあるので(デパートでじゃありません。ネット上でです)、正直に申し上げて長時間他人にカードを渡すのは恐いです。

デパートは、すでにその価格に見合うだけの付加価値はないんじゃないかと思います。ただ、唯一デパートの売り場でまだ独自の光を放っているように思えるのは、いわゆる「デパ地下」です。外国人観光客も多く集まっていて活気があり、活気があるから店員さんの表情も明るくイキイキしているように思えます。でもここも例えば「駅ナカ」みたいな売り場がどんどん充実してきているので、将来にわたっても安泰かどうかは分からないですよね。