インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

後味の悪い出来事

先日、東急東横店の地下にある「フードショー」で特売のお刺身を物色していたら、突然シャワーの水が飛んできました。ちょうど私の目の前のガラス戸が開いており、奥(バックヤード)で洗い物をしていた店員さんの手が滑ったようなのです。眼鏡に水滴がたくさんつき、上半身のポロシャツがまだら模様になりました。

びっくりして奥を見ると、女性の店員さんがシャワーを手に、すまさそうな顔ないしは苦笑いのような顔で「会釈」していました。私は思わず「ヒドくない? 謝ってよ」と言ってしまいました。言ってから気づいたのですが、その店員さんは外国人労働者のようでした。近くにいた主任らしき人が飛んできて「大変申し訳ありません」と何度も謝るので「もういいです」となったのですが、この些細な出来事について後からいろいろと反芻しました(反芻ばかりしていて、まるで牛です)。

もし私があの店員さんの立場だったら、どう対応したでしょう。とにもかくにもまずバックヤードから飛び出て客の目の前に行き、深々と頭を下げるでしょうか。故意に水をかけたわけではないけれども、悪いのは自分ですから。でも、あの店員さんは苦笑いに会釈程度だった。だから私は思わず「謝ってよ」とキレてしまった。

しかしひょっとすると、水をかけた相手が私のような「こわもての、おあ兄さん」だったから、彼女は謝罪すらできず竦んでしまったのかもしれません。あるいは敬語や丁寧語を含んだ、ネイティブ・スピーカーを納得させられるレベルの謝罪の言葉を紡ぎ出せるほど日本語が達者ではなかったのかもしれません。さらには、彼女にとってはほんの少し水がかかった程度で実害はほぼゼロなのに、何をこの客は怒っているのだろうと不可解だったのかもしれません。

こういう場面では私は、まずはとにかく平謝りして誠意を示すのが最良の解決方法だと考えると思います。飛んできた主任らしき日本人店員さんも平謝りでした。でも、そうした価値観(?)を共有していない、あるいは理解できないという異文化の人もいるでしょう。またこれが地元の魚屋さんでちょっと水が跳ねて「おっとごめんなさいね」と言われれば私もスルーするところが、デパ地下という少々お高くとまった場所であったため「誠意がない」ことにことさら腹を立ててしまったのかもしれません。

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https://www.irasutoya.com/2017/08/blog-post_82.html

私は以前、このブログで、コンビニで働く外国人労働者の日本語がほんの少し拙いだけでも「日本人に代われ」とか「働く以上きちんとした日本語を話せ」などと罵声を浴びせる日本人について批判したことがあります。

qianchong.hatenablog.com

今回の私の立腹を、日本人と同じレベルの誠意を見せろと求めたと考えれば、こうした「働く以上きちんとした……」というスタンスと同じようなものかもしれないと思いました。

それに、私に水をかけたあの店員さんはたぶんアルバイトだと思いますが、その低賃金が批判されて久しいアルバイトであれば、主任さん(たぶん正社員でしょう)と同じような対応を望むのは無理筋かもしれません。ご本人にもそんなインセンティブは働かないでしょう。私は海外でスーパーやコンビニやデパ地下(に類する売り場)を利用したことが何度もありますが、正直に申し上げておおむね「それなり」の接客態度です。むしろ日本が異質なくらいで。

政府が外国人労働者の大量受け入れ、それも単純労働のそれを積極的に推し進めようとしている現在、こうした出来事は今後あちこちで起こるのかもしれません。雇用に際して日本人的なメンタリティを教育するのか、それとも私たちの方がもっと鷹揚に構えるべく変わっていくべきなのか、ほんの些細な出来事ですけど、色々と考えさせられたのでした。

……しかし、まず恥ずべきは私の短気でしょうか。一張羅を着て結婚式の披露宴にでも向かっていたのならともかく、ポロシャツにジーンズ姿で少しくらい水がかかってもね。何とも後味の悪い出来事でした。

舞囃子の申し合わせ

趣味で続けている能の温習会(発表会)が間近に迫り、昨日は「申し合わせ」がありました。申し合わせというのは、本番の前日や前々日あたりに実際に能舞台でお囃子や地謡の方々も参加した上で、ひととおり舞ってみることをいいます。リハーサルのようなものですが、通常の演劇で行われるリハーサルやゲネプロとはちょっと違う感じがします。

通常の演劇では、通し稽古を何度も行って公演本番に近づけていくものだと思いますが、能では本番直前に一度この申し合わせを行うだけなのだそうです。それも全体をざっと確認するといった感じで、なおかつ申し合わせでも本番でも、舞台へ上がる前に入念に柔軟体操や発声練習をするということもないようなのです。

これは演劇としてはかなり特異なありようです。つまり玄人(プロ)の能楽師のみなさんは、普段から稽古を充分に積んでいて、いつでも一度限りの舞台にその芸を載せて、他の演者と同期でき、しかるべき達成を実現できるということなのでしょう。ちなみに能楽の公演は通常その一日の一回のみで、連日公演とか、マチネとソワレとか、他の演劇なら当然(歌舞伎だってそうですよね)の上演方式を採りません。

素人の私たちも、温習会の本番直前に一回だけ、お囃子や地謡をつとめてくださる能楽師の先生方や稽古のお仲間と一緒に「申し合わせ」を行います。ホントは何度もやりたいところですけど、それはもう日頃のお稽古で積み重ねておいてくださいということなんですね。今回の温習会にあたっても、その申し合わせが昨日ありました。ところが……私は出張でどうしても都合がつかず、参加することができませんでした。一期一会の舞台の、たった一度だけのチャンスだというのに。

実は私、申し合わせの日時を一日まちがえて、仕事が入っていない土曜日だと勘違いしていたのです。それに気づいたのが先週のお稽古日でした。今回はつごう二十分ほどもある『枕慈童』の舞囃子を舞うというのに、なんたる失態。何とか出張の予定を繰り上げられないか画策しようとしていたんですけど、もはや調整は不可能でした。師匠からは「まあまあ、お能は趣味ですから、ここはお仕事を優先なさって。申し合わせは私が舞っておきます」と言われました。

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https://www.irasutoya.com/2018/10/blog-post_83.html

というわけで、師匠が舞った申し合わせの映像と音声(お囃子も地謡も本番と同じ寸法で入っています)を送っていただいて、今日は何度も自宅でお稽古しています。でも自宅のリビングじゃ数足(数歩)進んだり、扇をかざしたりしたらすぐ壁にぶつかっちゃうんですよね。三間四方の能舞台とは全然違います。フローリングの床だって足袋を履いた足の滑り方は全然違いますし。結局、ド素人なのに玄人の能楽師さんなみに、いやそれよりもっと過酷な「ぶっつけ本番」になってしまいました。

明日は首尾よく舞えるかしら。『枕慈童』の舞囃子には「樂(がく)」があって、たくさん足拍子を踏むんですけど、せめてその拍子だけでも間違えないようにしたいです。あ、あといくつか仕舞や舞囃子地謡にも入るんですけど、こちらも詞章を忘れないかしら……。単なる趣味のはずなのですが、なかなかにメンタル面が鍛えられます。いつか仕事より趣味を優先する暮らしにしたいものです。

しまじまの旅 たびたびの旅 86 ……戸隠神社と小さな湖

奉職している学校の留学生と一緒に、長野県へ合宿に行きました。戸隠神社の「奥社」は初めて行きましたが、参道の杉並木がまるでギリシャやエジプトの大神殿に並んでいる柱のようで、壮観でした。

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合宿施設のそばには小さな湖があって、手漕ぎのボートを貸し出ししていたので久しぶりに乗ってみました。人がほとんどいない風景というのは本当に心が和みます。

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フィンランド語の先生によると、最近はフィンランド若い人たちも都会が大好きで、森と湖しかない風景にはあまり関心がなく人も少ないそうです。いつかフィンランドで湖にボートを浮かべて昼寝でもしてみたいです。手漕ぎボートは存外疲れるので、カヤックかカヌーみたいなのがあればもっといいですね。そしてその後はサウナに入るのです。

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ボートの上でそんな妄想を膨らませながら、小一時間過ごしました。

“不成熟”な初老の私

私はすでに「初老」と呼ばれてしかるべき年齢です。初老なんて、個人的にはかなり心理的インパクトのある呼称ですけど、NHK放送文化研究所が約十年前に行ったアンケート調査によれば、当時の人々が考える初老の平均年齢は57歳。これには男女差があって、男性の回答だけを平均すると55.5歳だったそうです。ほぼ私の年齢と同じです。

www.nhk.or.jp

ただし「ただし寿命が長くなった現代では、『初老』が当てはまるのは60歳ぐらいからと考える人が多くなっています」とのこと。なおかつご自身の年齢が高いほど初老と考える年齢も上がっていくそうですから、現在の平均はもう少し上になるのかもしれません。でも各種辞書では「もともと初老は40歳を指す」とされており、こちらのウェブサイトの、2016年に書かれた記事でも「最近の辞書は、50歳から60歳前後をさすとしているものが多い」となっていますから、やはり私は世間的には初老ということになるのでしょう。

しかし……と悪あがきをするわけではありませんが、私はふだん実年齢よりもかなり若く見られます。特に童顔というわけでもエネルギッシュというわけでもありません。なのに、いま日常的に顔をつきあわせている留学生のみなさんはその大半が20歳代で、私の年齢を知るとたいがいは「ウソでしょ? じゃ、うちの両親よりも年上?」と、なかば何か珍しい動物でも見つめるような目つきをされるのです。

いえいえ、若さを自慢したいわけでもありません。現実には、男性版更年期障害とでもいうべき不定愁訴に苛まされ「健康でなければ死ぬ」くらい体力も気力も失われつつあります。上述のNHK放送文化研究所のサイトには『新明解国語辞典(第六版)』における初老の定義が書いてありますが、「肉体的な盛りを過ぎ、そろそろからだの各部に気をつける必要が感じられるおよその時期」って……私など、そろそろ気をつける必要が感じられるどころか、全力で気をつけてないと身体の不調に負けて人生を降りたくなるくらいです。

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https://www.irasutoya.com/2018/07/blog-post_686.html

それに私は、昔から年相応に見られないことが逆にコンプレックスでした。一般に日本の方は男女ともに若く見られることを好む、あるいは望ましいと思う傾向にあるのではないかと思いますが、私がお仕事のフィールドにしている中国語圏では、感覚が少々異なります。なかでも男性、それも中年を過ぎた男性は、若く見られることをあまり好まないというのが私の見立てです。

華人(中国語圏の人々)の男性、ことに中年以降の男性は「中年男性にふさわしい“風格(fēnggé)”」が備わっていないのは“不成熟(bù chéngshú)”だと考えるようです。日本語にも「いい年をして……」という言い方がありますが、齢四十や五十になっても若く見えるというのは、むしろ不名誉なことみたいなんですね。

以前通訳のお仕事で、中国や台湾の「お偉いさん」に同行して各地を回っていたときなど、それとなくやんわりと「中年の男性は年相応の雰囲気がないといかんね」と言われたことがあります。みなさん上品だから、ハッキリ「あんた“不成熟”だね」とは言わないですけど。そういう“成熟”したみなさんは、うん、たしかに外見も物腰も、そしてお腹の出っ張り具合までも中年男性の風格が備わっている……ような気がしました。

しかし“風格”などというものは、意図して装おうとしたって装えるものではありません。結局これは私がいくつになってもあれこれ惑いっぱなしで、腰が据わっていないことに起因するのでしょう。そして自分が年相応の“風格”を持っていないとコンプレックスを抱くこと自体がまさに“不成熟”ということになるんでしょうね。だって本当の成熟した大人なら、そんな「こじらせ方」などとっくに卒業しているはずですから。

齢も50歳を越えれば銀座のお寿司屋さんや青山のワインバーなんかが似合うナイスミドルになれると思っていたのに、全然なれませんし、なれそうな気配すら今のところ見えていないのです。

語学クラスにおける日本人と華人の「生態」の違い

語学の授業をしていると、日本人(日本語母語話者)の生徒さんと華人(中国語母語話者)の生徒さんでは生態(失礼)がまったく違うことに気づきます。

日本人の生徒さんはとにかく静かです。語学の授業なのにずっと押し黙っていて、「分かりました?」とか「質問はありますか?」と問いかけてもほとんど反応がありません。促せばリピートだってロールプレイだってしてくださるので、やる気がないわけじゃないんでしょうけど、とにかくシーンとしていて、盛り上がらない。

声を出して練習するときも、その声が小さいです。芝居っ気ももうひとつ。ずっと下を向いて、できるだけ指名されまいとプロテクトしているように見える方も多いですね。かつて中国留学時に、中国の先生方が「正直、日本人留学生のクラスはやりにくいの〜」とおっしゃっていたのを思い出します。

そこへ行くと華人の生徒さんはとにかく賑やかです。特に通訳訓練などで誰かに当てたときなど、当たっていないのに答える人がいたり、当たった人にアドバイスする人がいたり、訳出が終わっても「そこは○○なんじゃね?」みたいに言う人がいたり。それで「はいはい、まずは当たった方が答えて下さいね。そのほかの方はとりあえず小声で訳出して」などと毎回申し上げることになります。

ところが面白いのは、華人でも、当たった方ご自身は声が小さくて「自信なさげ」なんですね。これは日本人と同じ。つまり華人は、自分が当たっていないときは不規則にどんどん発言してくるようなのです。こんな言い方はちょっと意地悪ですけど、自分に責任がない場合にはいきおいフリーハンドで大胆になれるというか。

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https://www.irasutoya.com/2015/04/blog-post_51.html

もちろん日本人にしろ華人にしろ、例外はあります。日本人でも賑やかな人はいるし、華人でもずーっと押し黙っている人はいます。だから安易に「○○人はこう」と一般化はできないのですが、総じて華人のクラスの方が賑やかで、いつも「わいわいがやがや」しています。私はこっちの方が断然授業がやりやすいです。

わいわいがやがやしていたら授業にならないんじゃないの? と聞かれることがありますが、そこはそれ、義務教育でも何でもない大人のための語学クラスですから、こちらも別に抑えつけたりしませんし、できません。それに大事なことはあえて控えめな声で話すと、逆に静かになるものです。みなさん自分の利益には素直ですから。

ただこれは実に興味深いのですが、授業でいつも賑やかな華人も、在日経験が長い方ほど静かというか、周囲の空気を読んでらっしゃるように見受けられることです。もちろんこれも例外はありますが、日本語学校を卒業したばかり、あるいは中国や台湾などの高校を卒業してすぐに入学してくる華人留学生が多い日本語学校や専門学校などではおおむね「わいわいがやがや」ですけど、在日経験が長く、すでに日本の企業などで働いてらっしゃる華人が多い通訳学校などではおおむねみなさん「日本人化」(?)してしまっているように感じられます。

かくいう私も本質は典型的な日本人マインドなので、自分が生徒の立場で通っている語学学校では、ご多分に漏れず空気を読みがちです。それで、フィンランド語の教室などでは先生の問いかけに積極的に大声で答えているんですけど、周りの生徒さんはいささか暑苦しく感じていらっしゃるかも……などと根拠のない「忖度」をするところがまた日本人的なマインドかもしれません。

「かぶる傘」ではなく日傘を買いました

五月としての史上最高気温が各地で更新されている日本。東京も数日前から尋常ではない暑さになっています。うちの職場は服装自由なので、私はすでに上はポロシャツ一枚で通勤していますが、今からこれだと六月や七月はどうすればいいんでしょう。というか、ポロシャツのやや厚手の生地でさえすでに暑く感じます。でもTシャツ・短パンで授業をするわけにはいかないものなあ……いえ、別にそれだって禁止されてはいないのですが、そこまで行くと自分で自分が「イタい」です。

この季節にしてここまで容赦のない猛暑が続くと、来年に迫った東京五輪が心配になります。……いえ、この書き方は「偽善」ですね。私は諸々の理由で今次の五輪開催は反対なので、この気候に鑑みて中止を決断してほしいと思っていますが、組織委をはじめとする関係者の「インパール作戦」にもなぞらえられるプロジェクト進行はおそらく止まることはないでしょう。炎天下のタダ働きたるボランティア要員も首尾よく集まったようですが、くれぐれも死人だけは出ないようにしてほしいと祈ります(これも偽善かな)。

開催都市の東京都もこの猛暑を重く見ているようで、先日は小池東京都知事が五輪の暑さ対策として「かぶる傘」の試作品を発表していました。

this.kiji.is

ネット上では「『かさじぞう』みたい」と揶揄する声で盛り上がっていましたが、私はまあこれでもないよりはあった方がマシかなと思います。帽子でもいいような気がするけど、確かに傘状のもので頭の上にも空間があった方が熱中症などの危険性は減るのではないでしょうか。もっとも私自身はこんなものかぶるの絶対にイヤですし、そもそもこんな季節に五輪を開催すること自体が無理筋だと思いますけど。

先日NHKのニュースを見ていましたら、気象キャスターの斉田季実治氏が「日傘男子」の普及活動(?)をしていました。氏のTwitterでも紹介されています。

確かに日本の夏はもうクールビズとか打ち水とかだけでは太刀打ちできないくらいの熱帯性気候になりつつあります。というわけで斉田氏に倣って私も日傘を買いました。同僚からは「環境省NHKの宣伝にのせられて……」的な揶揄も聞こえてきましたが、このさい固定観念は極力廃して、何でも採り入れ、試してみるべきだと思います。日傘、いいじゃないですかねえ。少なくともイタい「かさじぞう」スタイルよりはずっとおしゃれですよ。

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https://www.irasutoya.com/2014/01/blog-post_11.html

一連の「浮かれよう」を目の当たりにして

東京都心の上空、昨日はやけにヘリコプターの爆音が聞こえましたが、これはアメリカのトランプ大統領が来日しているからなのかな? ここ数日、通い慣れた都心の街並みのあちこちに普段は見られない警官が立っているのに気づきましたが、これもおそらく警備の強化ということなのでしょう。

それにしても、いくら政治や経済で緊密な関係にあり、軍事的にも同盟を結んでいる国のトップが来日するからって、この国のマスコミはその飛行機の到着から、ホテルの出発から、ゴルフ場での握手から……断続的に報道していてちょっと気味が悪いです。羽田空港でも、エアフォースワンの到着をカメラに収めようと鈴なりの人だかりがしていたのにも、驚きを通り越して気味の悪さを感じました。なるほど、星条旗51番目の星などと揶揄されるわが「state」だけのことはあります。

昨日の朝は作業をしながらTBSテレビの『サンデー・モーニング』をつけていたら、ちょうど千葉県のゴルフ場で安倍首相がトランプ大統領を出迎える光景を生中継していました。番組を中断して延々(大統領がなかなか登場しなかったのです)中継しているものだから、司会の関口宏氏が「これまだ続けます? もういいんじゃないの?」みたいなことをおっしゃっていたのが印象に残りました。共同宣言の発表とかならまだしも、ゴルフ場での握手など、ホント、どーでもいいですよね。

アメリカファースト」を掲げ、排外主義的で強引な政策を次々に行ってきたトランプ氏。今また中国との貿易戦争で市場を引っかき回し、はっきり申し上げて大多数の日本人は迷惑を被りこそすれ、歓迎する理由などほとんどないんじゃないですか。あなたも、あなたのご家族も、回り回って様々な局面でとばっちりを受ける可能性が高い。なのにこの無邪気な「浮かれよう」はどういうことなんでしょうか。

思えば先般の改元騒ぎの時にも、横並び一線で「れいわれいわ」と大晦日や三が日のような報道と、そこに登場する数多の人々の無邪気で脳天気な騒ぎっぷりに気味の悪さを感じました。約三十年前の微熱だ、吐血だ、下血だ、自粛だ……も気持ち悪かったですけど。私は日常的に外国籍の方と接することが多い(というかほとんどそればっかり)職場にいるので、みなさんから「あれは、いったいなに?」という質問や奇異の視線を向けられるのがなんともむずがゆいです。

でもこれが、2019年の私たちの、紛う方なき真実の姿なんですよね。いや、マスコミに登場するのはマスコミが恣意的に選んだ一部の人々であり、違う反応をしている人たちも大勢いるはず。そういう意見もあるでしょう。私もそう思いますが、しかし、それは一部ではなくたぶん大多数なのだと思います。はなはだ残念ではあるけれど、それは認めざるを得ません。そしてこれが日本流の「平和と安寧」ということなのかな、とも。

先日亡くなられた加藤典洋氏の遺作となった『9条入門』を、ちょうど読んだところでした。天皇が現人神から象徴になって失った光を、戦争放棄という「光輝」が満たしたという構図が極めて印象的でした。ならば平成を経て象徴天皇が光を取り戻したように見える現在、改憲を再び日程に乗せようとする動きが出てくるのも必然なのか……と思いが巡りました。そして日本人は、曲がりなりにも民主的な選挙を通じて、こういう経緯を選び取ってきたのです。私たちの責任です。

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9条入門 (「戦後再発見」双書8)

この本では、マッカーサー氏の天皇憲法に対するある「もくろみ」が明らかにされています。それを読んで私は、改元から今回のトランプ大統領来日に至る一連の「浮かれよう」が、この加藤氏が描き出した戦後の天皇アメリカ、そして憲法の歩みにそのまま繋がっているのだなと感じました。当時の国会における「ダグラス・マツカーサー元帥に対する感謝決議案」(1951年)や「新聞各紙は解任を惜しみ、業績をたたえる記事を続々と掲載した」とか、帰国の際には「羽田空港への沿道に20万人以上が詰めかけた」などといったエピソードは、そのまま今日の風景に繋がっているような気がするのです。

「高齢男性はそこにいるだけでキモいもんじゃないか」をめぐって

いつも拝見しているfinalvent氏の『極東ブログ』に、興味深い記事が載っていました。同じくこれもいつも拝見している鴻上尚史氏の『AERA dot.』での連載「鴻上尚史のほがらか人生相談~息苦しい『世間』を楽に生きる処方箋」の一記事、「66歳男性が風呂場で涙……」についての感想です。

finalvent.cocolog-nifty.com

私も先日この鴻上尚史氏の記事を読んで、いろいろと考えさせられました。この「66歳男性」は、隠居後に妻や兄弟からつれなくされ、その原因がこれまでの「自分の価値観を他人に押しつける性格」だったことにいまさらながらに気づいたものの、すでに関係を修復するのは不可能で、その上これからも新しい関係を築く自信もなく、老後が不安で寂しくてたまらない(それで風呂場で泣いている)というのです。

極端な例? いえいえ、こういう方(特に男性)はけっこう多いんじゃないかと思います。男性が、主に女性に対して偉そうに見下しながら何かを解説したり助言したりすることを指す「マンスプレイニング」にも通じるものがあります。では自分は? と思わず自問してしまいました。

ふだんTwitterのようなSNSの空間を眺めていると、このタイプの方は存外多いのではないかと感じます。上から押さえつけるような決めつけるようなもの言いが多い。タイムラインを見ているだけで気が滅入るので、最近はますます遠ざかるようになってしまいました。マンスプレイニングは要するに相手への「マウンティング」なのだと解説する方もいて、じゃあ自分の過去のツイートはどうかと読み返してみたら……イヤな汗をかきました。リツイートや「いいね」の数で承認欲求を満たすのもマウンティングの一種みたいなものじゃないでしょうか。俺はこんなに支持されているんだ(だから正しい、良いことを言ってる)と。

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https://www.irasutoya.com/2015/07/blog-post_53.html

極東ブログ』のfinalvent氏は「孤独ってそんな泣くほどつらいものだろうか?」と疑問を投げかけています。ご自身も家族や友人とそれほど対話なり交流なりがあるわけではないけれども「孤独でつらいということはないように思う」と。私もどちらかというと人付き合いが下手で、そもそも人見知りでもあり、なにより人が多い場所や騒がしい場所が苦手なので、孤独が辛いとはあまり思いません。旅行だって、休暇のサイクルがまったく異なる細君とは別に独りで何週間も海外の離島の、そのまた離島の果てまで行くくらいですし。

ただこれは、旅行から戻ってくれば、そこには帰る家があって家族がいるからかもしれません。私は一度離婚していますが、そのときは自分でも驚くほどの孤独感に苛まされたことを覚えています。もともとベタベタした人間関係は嫌いで、たとえ家族であっても互いに自立した、あるいは自律のある、独立独歩のあり方が好きだ、俺は一人でも生きていける……などと豪語していても、実際に家族が突然いなくなったらその感傷かよ、と自分で自分にツッコんだものでした。

またfinalvent氏は、くだんの66歳男性が「これからのありあまる時間をどうしたらいいのか」と悩んでいる点にも疑問を呈しています。ご自身の年齢や健康状態からしても、人生に残された時間は少なく、一方でやってみたいことは山ほどあるので、時間を持て余す「余裕」はないと。これも同感です。私もできることなら仕事など「プチリタイア」でもして、もっとやりたいことがたくさんあります。経済的にそれは許されないので、人生のかなりの時間をこれからも仕事に費やさねばなりませんが。

さらにもっとも共感して「そうだなあ……」と唸ったのは、「66歳の男が趣味やボランティアのサークルに飛び込んで友だちができるものだろうか?」という問いかけです。私はまだそこまでの高齢ではありませんが、紛う方なき中高年で、例えば今通っているフィンランドのクラスではたぶんぶっちぎりの「高齢者」です。毎回クラスメートとは挨拶をして、ペアワークやロールプレイなどしますが、特に知り合いにもなりませんし、互いのプロフィールもまったく知りません。お能の稽古は、私より年配の方も多いですが、これもお稽古以外でお付き合いがある方はひとりもいません。

この点、細君は人付き合いの天才ともいうべき人で、初めて参加した仕事関係のセミナーや学校のクラスなどで、すぐに知り合いを作って人脈を広げ、ほとんど「心の友」とも呼べるような友人を何人も作っています。さすがは「人たらし」といわれた豊臣秀吉田中角栄関連の本が大好きなだけのことはあります。本人はいつも「私、食べ物の好き嫌いは全くないけど、人の好き嫌いは激しいの」と言いますけど、えええ、それは私にこそふさわしい言葉ですよ。

finalvent氏は「高齢男性はそこにいるだけでキモいもんじゃないかと思う」と書かれています。物議を醸しそうなものいいですけど、私は言い得て妙だと思いました。老醜を晒すという言葉がありますが、基本、老いていくということは自分がそういう存在になっていくことを受け入れ、それは仕方ないと開き直り、その上でさて自分には何ができるかと考え続けることではないかと思うのです。

フィンランド語 36 …数字のあれこれ

ずっと以前にフィンランド語の数字を学びまして、時間の言い方や買い物での金額の言い方などを練習してきました。フィンランド語の数字はそんなに複雑な規則(例えばフランス語とか中国語のような)はありません。

0 nolla
1 yksi
2 kaksi
3 kolme
4 neljä
5 viisi
6 kuusi
7 seitsemän
8 kahdeksan
9 yhdeksän
10 kymmenen

11から19までは「toista」をつけます。

11 yksitoista
12 kaksitoista
13 kolmetoista ……

20以降は「10」の「kymmenen」が分格の「kymmentä」になります。これは「10がふたつ以上」だから分格という考えなんでしょうね。

30 kolmekymmentä
40 neljäkymmentä
50 viisikymmentä ……

100は「sata」。これも200以降は「sataa」と分格になります。

100 sata
200 kaksisataa
300 kolmesataa ……

1000は「tuhat」……とまあ、こんな感じで覚えてきたわけです。ところが数字には序数もあるんですね。「第一の、一番目」「第二の、二番目」……というやつです。

1 ensimmäinen
2 toinen
3 kolmas
4 neljäs
5 viides
6 kuudes
7 seitsemäs
8 kahdeksas
9 yhdeksäs
10 kymmenes
11 yhdestoista
12 kahdestoista
13 kolmastoista ……

さらにフィンランド語には「番号」それ自体を表す言い方もあります。「一番」「二番」……例えば「トラムの③番に乗って下さい」みたいな時に使う数字ですね。

1  ykkönen
2 kakkonen
3 kolmonen
4 nelonen
5 viitonen
6 kuutonen
7 seiska
8 kasi
9 ysi
10 kymppi

これらの「数字」「序数」「番号」を使い分けるとこんなふうになります。例えば「1」をめぐって……

Yksi bussi lähtee Tampereelle.
ひとつのバスがタンペレ(都市の名前)へ出発します。
Ensinmäinen bussi lähtee Tampereelle.
最初のバスがタンペレへ出発します。
Ykkösen bussi lähtee Tampereelle.
番号①のバスがタンペレへ出発します。(※ ykkönen が属格になっています)

また数字は、使われる文章によって格変化を起こします。ああ! そのために格語尾をつける前の語幹も覚えておかなければなりません。

1 yhte
2 kahte
3 kolme
4 neljä
5 viite
6 kuute
7 seitsemä
8 kahdeksa
9 yhdeksa
10 kymmene

先程の20は「kymmenen」の分格「kymmentä」になりましたが、この分格も語幹「kymmene」に分格の格語尾がついているわけです。そして例えば人と会う約束をして「○時に会いましょう(tavataan)」と言う場合……

Tavataan kello yksi.(数字の1)
1時に会いましょう。
Tavataan ennen yhtä.(分格の1)
1時前に会いましょう。
Tavataan yhden jalkeen.(属格の1)
1時過ぎに会いましょう。

……というふうに、「ennen(前に)」「jalkeen(後に、過ぎに)」という言葉との組み合わせによってふさわしい格(形)を選ばなければいけないと。さらに、ひとつめの「1時に会いましょう」のような時間は「kello yksi(1時)」でもいいけれど、ネイティブ・スピーカーの多くはこれを離格の「yhdeltä(1から)」で言うのが普通だそうです。

1 yhdeltä
2 kahdeltä
3 kolmelta
4 neljälta
5 viidelta
6 kuudelta
7 seitsemälta
8 kahdeksalta
9 yhdeksalta
10 kymmenelta

Tavataan yhdeltä.
1時に会いましょう。

これは大変です。う〜ん、いまのところ、文章に応じて正しい数字を言える自信はまったくありません。

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Tuota. Anteeksi. Osaatteko sanoa, missä on rautatieasema?
Joo. Se ei ole tässä ihan lähellä, mutta voit mennä raitiovaunulla tai taksilla.
Millä raitiovaunulla minä pääsen sinne?
Voit mennä kolmosella.
※番号③の「kolmonen」が所格の「kolmosella」になっています。

カードの不正使用に遭いました

クレジットカードのA社から電話がかかってきて、「iTunes Storeで妙な決済が続いていますが、ご本人のお買い物ですか」と言われました。身に覚えのない支払いなのでその旨伝えると、すぐにカードを止めてくれました。誰かに不正使用されていたわけですね。

私もiTunes Storeで曲やアプリを買ったことはありますが、最近はほとんど使っていませんでした。カード会社の記録によると、数日前に私のカード番号がiTunes Storeに入力された上で数百円の買い物があり、その後何度も一万円程度の購入が続いていたそうです。最初の一回を除いては決済が完了しなかったらしく、カード会社が注意喚起してくれたのです。助かりました。

最初の一回も身に覚えはないものの、私のカード番号が実際に入力されているので、Appleサポートに連絡して本当に購入事実があるかどうか確認して欲しいとカード会社に言われました。iTunes Storeの購入履歴には載っていなかったのですが、万一購入していたのにカード会社が救済措置を取ると、最悪私のiTunes Storeアカウントが凍結されてしまう恐れがあるんだそうです。

そこでAppleサポートに連絡し、私が購入した事実はないことを確認して再度カード会社に連絡して、結局全ての不正使用分は請求されないことになりました。まあ当然と言えば当然なんですけど、カード会社の丁寧な対応に救われました。ありがとうございます。

それにしてもどこでカード番号を盗まれたのかな。個人情報がどこかで漏れたのか、なにかの支払時にスキミングみたいな被害に遭ったのか。カード会社でも原因はわからないそうですが、ちょっと不気味です。ネットで度々買い物をするので、パソコンのブラウザやネットショップのウェブサイトにクレジットカードを登録して手間を省いているのがいくつかあるんですけど、ああいうのも危ないのかな。

あと、たま〜にデパートなんかで買い物をすると、店員さんがカードを奥のレジまで持って行っちゃうことがありますけど、あれもいつも何となく不安に思っています。いえ、別にデパートの店員さんを疑うわけじゃありませんけど、あの「習慣」はそろそろやめてほしいなと思います。

だいたいデパートって、その値段に見合う付加価値、例えば接客態度がいいとか品揃えがいいとか、そういうものがあまりないんですよね。利用するのはほぼデパ地下(食料品)のみ。ちょっと意地悪な言い方ですけど、宅配便などで使われている無線式のものなど決済端末は進化しているのに、一番進化していないのが高級店であるデパートだというのは、デパート業界の行く末を暗示しているような気もします。

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https://www.irasutoya.com/2018/03/blog-post_880.html

公式サイトや研究不正に見る翻訳への無理解

これまで、東京都台東区公式サイトや元SMAPメンバーによるユニット「新しい地図」における、機械翻訳丸投げによる珍妙な中国語や英語をさんざっぱら批判ないし揶揄してきました。こうしたサイトの珍妙な翻訳は、私が奉職している学校の幅広い国や地域の留学生が集まっているクラスで紹介すると、いつも大爆笑の嵐です。

qianchong.hatenablog.com

なおかつ留学生のみなさんは、これまでに日本で出会った奇妙な翻訳の実例を次々に教えてくれます。私も以前同僚から教えてもらった、東京都某区のお知らせで催し物の日程の曜日、例えば「(火)」が「(fire)」になっていたなどという例を紹介するのですが、ここまでくるとちょっと笑えません。経費削減の折から、百歩譲って機械翻訳に頼るのはアリだとしても、最低限人を雇ってチェックしませんか。その予算も取れないのなら外語での発信はムリですよ、多言語対応ご担当者のみなさま。

こうした奇妙な翻訳は日本だけでなく世界中どこにもあるものですが、日本の場合は官公庁や大企業などの公式サイトでさえときどき(いや、かなり)「やらかす」のが何とも恥ずかしいです。五輪を控えて「おもてなし」じゃないんですか? 訪日外国人倍増で景気浮揚を図っているんじゃないんですか? いつも申し上げていることながら、早期英語教育も結構ですが、通訳や翻訳、あるいは言語そのものに関するリテラシーみたいなものの涵養が必要ではないかと思います。

台東区だけじゃなかった

ところで昨日、ふと気になって東京23区の公式サイト全てに当たってみたところ、なんと23区すべてが機械翻訳で「必ずしも正確とは限りません」などの但し書きがありました。台東区だけじゃなかったわけです。ごめんよ、台東区(違うか)。

足立区 https://www.city.adachi.tokyo.jp/
荒川区 https://www.city.arakawa.tokyo.jp/
板橋区 http://www.city.itabashi.tokyo.jp/
江戸川区 https://www.city.edogawa.tokyo.jp/top.html
大田区 https://www.city.ota.tokyo.jp/
葛飾 http://www.city.katsushika.lg.jp/
北区 http://www.city.kita.tokyo.jp/
江東区 https://www.city.koto.lg.jp/
品川区 https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/
渋谷区 https://www.city.shibuya.tokyo.jp/
新宿区 https://www.city.shinjuku.lg.jp/
杉並区 https://www.city.shinjuku.lg.jp/
墨田区 https://www.city.sumida.lg.jp/
世田谷区 http://www.city.setagaya.lg.jp/
台東区 http://www.city.taito.lg.jp/
千代田区 http://www.city.chiyoda.lg.jp/
中央区 https://www.city.chuo.lg.jp/
豊島区 http://www.city.toshima.lg.jp/
中野区 https://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/
練馬区 https://www.city.nerima.tokyo.jp/
文京区 https://www.city.bunkyo.lg.jp/
港区 http://www.city.minato.tokyo.jp/
目黒区 https://www.city.meguro.tokyo.jp/

「必ずしも正しいとは限りません」「100%正しいとは限りません」などの但し書きを入れりゃいいってものでもないと思うんですけど、なかにはエラーになって表示されない区も。なんというか……外語で発信する気は実はそんなにないんだけど、他の区がやってる以上うちの区もやっとかなきゃ的な「横並び一線」感が半端ありません。

一方で東京都は簡易版ながらきちんと翻訳したページがあるようです。また国の組織、例えば外国人に関係の深い観光庁とか、あと首相官邸なんかも機械翻訳には頼らず翻訳者が訳しているもよう。もしこのレベルでも機械翻訳丸投げだったらさすがに「やばい」ですが、それはなさそうだったのでほっと胸をなで下ろしました。でも区レベルになると予算が厳しくてそこまで手が回らないのかな。

東京都 http://www.metro.tokyo.jp/
観光庁 http://www.mlit.go.jp/kankocho/
首相官邸 https://www.kantei.go.jp/

区によっては重要な情報、例えば災害情報とか社会保険関係だけ別枠できちんと翻訳したページを持っているところもあるようでした。もちろん公式サイトだけが外国人向けの発信ではなく、印刷物などを用意している区もありますから、ここだけで一概に批判できないのですが、ほとんど意味をなさない珍妙な中国語の羅列を見るにつけ、「精神の退廃」みたいな大仰な文言が頭に浮かびます。それでも、機械翻訳でもないよりはマシということなのでしょうか。

私は(中国語だけしかチェックしてないけど)あんな珍妙な中国語で区の公式サイトを世界に向かって発信するくらいなら「ないほうがマシ」じゃないかと思います。基本ここは日本ですし、日本は良くも悪くもかなり「純度」の高いモノリンガルな国なので、「区の公式サイトで多言語対応までなかなか手が回りません、でも必要に応じて重要なものから対応していきます」でもいい(というか仕方がない)とも思うんです。

日本も例えばJNTO(日本政府観光局)などはしっかりとした多言語ページを作っています。諸外国でも例えばロンドン市やパリ市なんかも、公式サイトは英語やフランス語だけで、それとは別に観光局が素敵な日本語サイトを作って発信しています。一番情けないと思うのは「とりあえず機械でやっとけ」的思考停止、もしくは言語を舐めた態度です。

でも結局は「あの情報がない!」といったクレーム回避などの思惑もあって、「とりあえず全部機械でやっとけ。あ、もちろん『正確ではないかも』と但し書きをいれてな」的な所に落ち着いているのが現状ということになるのでしょうね。東京23区はサイト全部を機械翻訳に丸投げするのはやめて、重要な情報に絞り、予算をつけて翻訳者を雇い、対応していくべきだと思います。

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https://www.irasutoya.com/2015/08/blog-post_367.html

追記

今朝の東京新聞特報欄に興味深い記事が載っていました。架空の神学者の論文が使われるなどの捏造が発覚した東洋英和女学院大学の元教授・深井智朗氏の研究不正に絡んで、そうした不正が露見しにくい背景には人文科学系の書籍が諸外語にほとんど翻訳されない問題があると指摘しているのです。外語に翻訳され、より多様な角度から検証されることで防げるものなのに、学術界内部でも「理系は自分で訳す」「利益誘導にあたる」などといった、文系と理系を同一視した無理解が壁になっていると。

問題を指摘する東京大学の西村清和名誉教授は、人文社会系の学問全体が、言語的に閉鎖された状態になっており、「いま国がやるべきことは翻訳体制を整え、日本の人文社会系成果が海外から無視されている現状を変えることではないか」と述べています。長い歴史を通して、外語を日本語に訳すことで豊かな文化を創り上げてきた翻訳大国日本も、逆に日本語から外語への発信はきわめて手薄ということなんですね。

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星条旗の51番目の星

スマホで中国語の講義をいろいろと聴ける『得到』というアプリがありまして、その中の名物講義のひとつに“罗胖老师”こと罗振宇氏の『罗輯思維』というのがあります。ご自分の姓“罗(羅)”を使い、“逻辑思维(ロジカルシンキング)”をもじって『罗輯思維』です。

www.ljsw.io

以前、その講義のひとつ“为什么没人再登月(なぜ人類は月に行かなくなったのか)”について、以前記事を書いたことがあります。

qianchong.hatenablog.com

この講義音声を教材にして、いくつかのクラスで通訳訓練に使ってみて面白かったのは、中国語の“星条旗(xīngtiáoqí)“が日本語でも同じように「星条旗(せいじょうき)」と言うということをご存じない華人が多いことでした。「へええ、同じなんだ!」と。ひょっとしたら日本人でも知らない生徒さんがいるかもしれませんけど。そこで必ず「どうして星条旗なんですか? 星とストライプ(条)だから? そうそう。じゃあ星の数とストライプの数はいくつだか知ってます?」と聞くことにしているんですが、この星の数のお答えが様々でまた面白いです。

ご案内の通り、星の数は現在におけるアメリカ合衆国の州の数、ストライプの数は建国時における州の数ですが、この星の数を「20!」とか「70!」という方もいれば「47!」という方もいます(日本の都道府県と混同している?)。でもこれまでに複数の方が「51!」と答えたんですよね。そこで私が「正解は50州ですけど、あとひとつはどこなんですか? ああ、日本?」と言うと、どーっとウケます。このくだりが華人にやけにウケるのです。

そのウケ方に私は、ああこれはけっこう広範な層の華人に「日本はアメリカ合衆国の属国みたいなものじゃないか」という認識が浸透しているからではないか……と思うのです。日本人自身はあまり自覚していないかもしれないけど、外から見るとホントにそんな感じに見えるんですよね。現政権は特に。

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51星のアメリカ合衆国の国旗 - Wikipedia

骨盤を動かして腰痛を直す

二十代の頃から腰痛に悩まされてきましたが、体幹レーニングを始めてからは以前のようなひどい状態にはならなくなりました。それでも時々、特に椅子に座りっぱなしのデスクワークを長時間続けていると腰が「しくしく」言い出すので、そんなときはジムで教わった骨盤を中心とした動きを積極的に行うようにしています。

以前は腰痛が我慢できなくなると整体やカイロプラクティックの治療院に駆け込んでいたのですが、体幹レーニングを始めてからは積極的に自分から身体を動かして治すようにしています。畢竟、カイロや整体やマッサージはいずれも「受け身」であり、それなりに効果もあるものの自ら動かして直す方がより治りが早いと気づいたのです。

腰のうち、毎回必ず痛くなるところをジムのトレーナーさんに伝えてあれこれ指導してもらって分かってきたのは、私の腰痛の原因になっているのはどうやら骨盤の傾き、あるいは骨盤と脊椎の角度の不具合のようです。そこで、少しでも腰痛の気配が見えてきたら、骨盤の前傾と後傾を繰り返す動きを仕事場で、あるいは「朝活」のジムで行っています。これだけでもずいぶん軽快します。

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https://www.irasutoya.com/2013/11/blog-post_5611.html

骨盤の前後傾は体幹レーニングや腰痛治療ではかなりポピュラーな概念のようで、「骨盤 前傾 後傾」で検索してみると、かなりの数のウェブサイトに説明があります。例えば、こちら。

gooday.nikkei.co.jp

私の場合、長時間椅子に座り続けていると、だんだんお尻が後ろに傾いて(骨盤が後傾して)背骨との角度がつき、その結果腰痛になっているようです。そこで、なるべく骨盤を立てて、背骨が後ろに傾かないように、つまり常に背筋を伸ばして座るように気をつけています。それでもついつい気を抜いてしまうので、職場の椅子には骨盤を立てる働きのあるクッションを敷き、思い切って背もたれを取ってしまいました。

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それでも時々腰痛に襲われるのですが、最近気づいたのは、机の上でパソコンを打ったり何かを書いたりするときの姿勢が前に傾きすぎていることでした。せっかく骨盤を立てて背筋を伸ばしても、パソコンやノートなどに手を伸ばすことで上半身が前傾して、結局骨盤と脊椎の角度に負担を与えているようなんですね。それで先日、椅子の高さを極端に低くして、パソコンの画面をなるべく目の高さに近づける、つまりなるべく下ではなく前を向けるようにしてみました。

こちらに「理想的な姿勢」が解説されていますが、この絵に比べると、私のパソコンの画面はかなり下の方にありました。そのために背骨を前に曲げて長時間パソコンを打つ姿勢になっていたわけですね。

www.fujitsu.com

こうやって様々な角度から、なるべく腰痛にならないで済むような努力をしています。効果があるかどうかはまだ分からないのですが、少なくとも「受け身」ではなく「能動的」に腰痛を解決するという方向性だけはよいのではないかと思っています。

「舞」と「筋トレ」の共通点

先日ジムで体幹レーニングをしていたら、トレーナーさんに「ずいぶん体幹がしっかりしてきましたね」と言われました。例えば「ダイアゴナル」と呼ばれる片方互い違いの手足(例えば右手と左足)をそれぞれ伸ばしたり縮めたりする動きなど、確かに以前はかなりフラフラしてまともにできなかったのです。

この体幹レーニングは週に二〜三回ずつ一年半ほど続けてきましたが、長年レントゲン撮影のたびに指摘されていた「脊椎側弯症」が前回の健康診断では「所見なし」になるなど、大きな効果がありました。さらにこれも長年悩まされてきた腰痛の軽減にも効果を発揮しているのではないかと思っています。

ところでジムでは、とにかく下腹(丹田)に力を入れて締めると同時に肩の力を抜くよう繰り返し指導されるのですが、この指導が能の仕舞や舞囃子のお稽古の時に言われることと全く同じなのが面白いと思います。

不定愁訴や腰痛の改善を目指して通い始めたジムで最初に指導されたのは「まっすぐに立つこと」でした。骨盤の上に脊椎が無理なくストンと乗っている状態を作って、腰によけいな力をかけないためですが、このときトレーナーさんからは頭のてっぺんに糸がついていて、天井から糸でつるされたように背筋を伸ばして立つように言われました。前にかがまず、かといって鳩のように胸を突き出さず……実はこれ、能の稽古で最初に言われたことと全く同じでした。

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またジムでバランスボールに座り、両手を真横に伸ばして水平に回転させる運動をするときには、手や腕を回そうとするのではなく、身体の中心に棒のような芯が通っていて、それを中心に身体全体がねじれるようなイメージをすること、手や腕は身体がねじれた結果それについて回っているのだと意識するように言われましたが、これも能の稽古で言われることと全く同じなのです。

能の舞の「型」には、回転するものや手足を大きく動かすものがいろいろとあります。例えば仕舞などで要になる大切な型のひとつに「上羽(あげは)」というものがあって、これは身体の正面で扇を上から下におろし、またそれを頭の上まで持ち上げて、そののち身体の右側で大きく弧を描くように下ろして基本の型に戻るというものなのですが、前日もこの型のところでお師匠から、手だけで、腕だけでやろうとせず、丹田に力が集まっていることを意識しながら、あるいは丹田から力が発して腕や手が動いているように意識しながらやるように言われました。

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さらに一足(一歩)前に出ながらくるっと一回転して最後に手にした扇を突き出すような型もあるのですが、この時もお師匠からは手や腕で回ろうとせず、腹と腰を中心にした身体全体が回り、手や腕はその結果として回転し前に突き出されることを意識するように、つまりは常に丹田に力がこもっていることを意識するように繰り返し言われるのです。こうしたことの一つ一つが、体幹レーニングや、果てはベンチプレスのようなハードな筋トレで指摘されることととても似通っているのです。

でも考えて見れば、能の舞の型は武術や武道と深い関係があり、それは当然のことながら無理のない動きや合理的な身体の使い方、さらには美しい動きを追求してきた結果が「型」として現代にまで残されているものです。体幹レーニングや筋トレなどで指導される動きも、アスリートが無理なく効果的に力を発揮できるよう、あるいは身体の故障をできるだけ避けるように考えられているわけで、むしろ共通するのが当たり前と言えるのかもしれません。

私が通っているジムには時々プロの野球選手やサッカー選手などが来ていて、例えばピッチングフォームやバッティングフォームなどを何度も調整している光景が見られるのですが、あるときとあるプロ選手が投げる様子を見ていて思わず「流れるように美しいですね。なんかこう、少しも無駄がないというか」と言ったら、トレーナーさんが「その通りです。一流のプロほどそうなんです」とおっしゃっていました。

なるほど、能もスポーツも、無理のない合理的な身体の使い方を追求していった結果、その動きが素人目にも「美しい」と思えるほどに洗練されていくものなんでしょうか。

フィンランド語 35 …過去形の否定形

動詞の過去形の、否定形を学びました。過去形の否定形には「過去分詞」を使います。この過去分詞はのちのち現在完了形や過去完了形にも使われるそうです。

Minä en
Sinä et    +過去分詞(単数)
Hän ei

Me emme
Te ette    +過去分詞(複数)
He eivät

過去形の変化があれだけ複雑だったので、さらに大変なことになるかと思いきや、過去分詞の作り方はかなり(過去形に比べれば)簡単です。動詞の語末で以下のように分類して語尾をつけるだけ。

語末のタイプ 変えるもの 過去分詞の語尾(単数) 過去分詞の語尾(複数)
VAタイプ Aを…… nut / nyt に neet
DAタイプ DAを…… nut / nyt に neet
ATA,OTA,UTA,ITA,ETAタイプ TAを…… nnut / nnyt に nneet に
STAタイプ TAを…… sut / syt に seet に
LAタイプ LAを…… lut / lyt に leet に
NAタイプ NAを…… nut / nyt に neet
RAタイプ RAを…… rut / ryt に reet に

VAタイプでは「tietää(知る)」だけが例外で「tiennyt(単数)」と「tienneet(複数)」になります。

また「nut / nyt」などのように過去分詞単数の語尾が二種類あるのは、その単語に「a,o,u」が含まれていれば「nut」、含まれていなければ「nyt」を選ぶということです。

しかも過去分詞の場合、これまで散々苦労してきた「k,p,t」の変化が一切ありません(逆転もなし)。これはかなり楽ですが、先生によると過去分詞が楽なだけに、かえって「k,p,t」の変化のさせ方を忘れちゃう人がいるので注意して下さいとのことでした。

これで例えば……

Asuitko viime vuonna Riihimäellä ? あなたは去年リーヒマキに住んでいましたか?
En asunut. 住んでいませんでした。

……などとなります。「asua(住む)」はVAタイプなので、最後の「a」を「nut」に変え、否定辞「en」の後に続けるだけですね。

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Kävitkö toissapäivänä kirkossa ? En käynyt.