インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

ひとさまの通訳を聞いて

これまで、自分が通訳している音声や映像がネットにアップロードされたことが何度かありました。それはラジオ番組だったり,YouTubeだったりするのですが、業務終了後も半ば永遠にこうやって訳出が晒されるのって、ちょっと理不尽でもありますよね。

それはさておき、こうした音声や映像をあとから視聴し直すのは、本当に身が縮む思いです。ですから私、同じようにネットに上がっているひとさまの通訳の善し悪しを云々するのは、できるだけやるまいと思っています。通訳学校の授業でのレビューは別ですが、私はひとさまの訳出を云々できるほどのベテランでもないですし、もとより通訳や翻訳には「これが正解!」というものはなく、ただ「より良い訳」があるだけなのでしょうから。

米原万里氏の名著『不実な美女か貞淑な醜女か』に、師匠の徳永晴美氏から言われたというこんな言葉が紹介されています。

他人の通訳を聞いて、『コイツ、なんて下手なんだ』と思ったら、きっとその通訳者のレベルは、君と同じくらいだろう。『ああ、この程度の通訳なら、私だって出来る』という感触を持ったなら、その人は、君より遙かに上手いはずだからね。

そうそう、ホントにそういうものなんですよね。そういうものなんですけど、先日通訳教材を作っているときにたまたま聞いた、北海道日本ハムファイターズの台湾人選手「大王」こと王柏融氏へのヒーローインタビューは、ちょっとひどいんじゃないかと思いました。

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▲4:57あたりから。

私はプロ野球の知識がほとんどない素人ですが(だからあえてこの教材を作ろうと思ったのです)、ヒーローインタビューってこんなに「てへぺろ」なテキトーな感じでいいものなの? 王柏融氏の入団会見における通訳者さんお二人はとても丁寧な訳出で勉強になりましたが、このヒーローインタビューは……台湾と日本のファンは怒ってもいいんじゃないかなあ。そして球団側も、もう少し通訳することや通訳者の重要性について意識を高く持っていただけたらと願います。

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▲この2本も、聞いているこちらが冷や汗をかきます。

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https://www.irasutoya.com/2015/11/blog-post_995.html

ごはん、作りたくないですか?

先般の十連休に入る直前、同僚のとある知り合い(共働きの女性)が嘆息していたという話を聞きました。いわく……

十連休なんてとんでもない。混雑が嫌いだからどこにも行けないし、家族4人分、朝昼晩のごはんを10日間作らなきゃならない。4人×3食×10日間で、合計120食も作るんだ……と考えたら卒倒しそうになった。

う~ん。最近「ご飯作りたくない」というフレーズが巷で飛び交っているようで、試しに「ご飯作りたくない」で検索してみると、実に様々な方が悩みを吐露されているのが分かります。そうか、そんなに苦痛なのか……あと、夫は何してんだか。

うちは共働きなので家事も分担していて、私は買い出しと炊事と後片付け、細君が掃除と洗濯担当です。育児をしておらず、介護からもいまのところは解放されているので「家事を分担している」とエバって言うほどのものでもないのですが。

それでも仕事が忙しい時期など、毎度毎度の食事を作るのが大変……ということは実は全くなくて、毎度毎度楽しくて仕方がありません。別にたいしたものを作っているわけでもないですし、夫婦二人分なのでこれもエバって言うほどのもではないですが、マンガ『きのう何食べた?』の筧史朗氏が言うところの「うーーん、仕事で案件をひとつキレイに落着させたくらいの充実感を一日に一回も味わえるなんて、夕飯作りって偉大だよ」というの、よく分かります。

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そして筧史朗氏の「買い物友達」である佳代子さんが言うところの「ごはん作るだけでイヤな事あってもけっこうリセット出来んのよね」というのも、よく分かる。それくらい好きです。

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▲いずれも『きのう何食べた?』第1巻より。

食洗機も持っていないので(本当は欲しいけど、置けないくらいキッチンが狭小なのです)毎回皿洗いをしていますが、これも段取り考えてちゃちゃっとやるか、ご飯作りながら同時進行で片付ければ、そんなに苦にはなりません。

ただそれでも、ときどき「あー今日はちょっと疲れて面倒だから、手抜きでいこう」って日はあります。とはいっても冷凍食品とかスーパーのお惣菜とかで済ませちゃう……というのはどうしてもできなくて、最低限ご飯と味噌汁くらいは作って、お刺身をつけるというようなパターンが多いです。

冷凍食品やお惣菜を買わないのは、いずれも味が濃すぎて食べるのがつらい(もっと正直に言うとおいしくない)からですが、もし濃い味でも大丈夫だったらどんどん利用しちゃえばいいですよね。最近の冷凍食品はかなり進化しているというハナシですし。いや、昨今の高齢化を反映して、薄味の冷凍食品も登場しているかもしれません。今度じっくりスーパーの売り場を探検してみたいと思います。

冷凍食品はほとんど買ったことがないですが、近くに生の餃子を製造直売しているお店があって、ここの餃子はわりとあっさり薄味なので、炊事が面倒な日はよく利用しています。先日通勤電車に乗っていてこのお店の車内広告を見つけたので、思わず写真を撮ってしまいましたが、説明文のほとんどにマーカーが入っていて笑いました。店主のオススメ度合いがハンパではありません。今夜も買って帰ろうと思います。

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「お疲れ様」をめぐって

先日、Twitterたまたまこんなツイートを目にしました。ファッションモデル・歌手・女優(Wikipediaより)の山田優氏がインスタグラムに書き込んだ「天皇皇后両陛下お疲れ様でした」という言葉が失礼だとして「炎上中」というのです。

私、中国語圏の芸能界には詳しい(というかお仕事の関係で詳しくなった)のですが、日本の芸能界にはとんと疎いので、山田優氏を存じ上げませんでした。が、こちらは私もテレビで存じ上げている小栗旬氏のお連れ合いとのことで、おおそうなんだ……って、あれ、何の話でしたっけ。そうそう、「お疲れ様」を目上の人に対して使うのが失礼という話でした。

世上よく「ご苦労様」を目上の人に使うのは失礼で、「お疲れ様」はオーケーなどといわれます。私もかつて会社などでそう教わってきた世代なので、まあそれが習慣になっていますけど、現代では「お疲れ様」も目上の人に使えなくなりつつあるのか……ととても興味深いものがありました。

上記のツイートをされた方も「じゃなんて言えばいいんだ」という声を紹介されていますが、確かに目上の人に使える他の言い方を思いつきません。個人的には「ご苦労様」だって要は言い方の問題(声のトーンとか、言う際の表情とか)で、目上の人に使ったって別にいいんじゃないかと思いますが、こういう身についた習慣や周囲の空気というのはかなり力を持っていて、どうしても自己抑制がかかってしまいます。

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https://www.irasutoya.com/2016/10/blog-post_978.html

ちなみに中国語で「ご苦労様」とか「お疲れ様」にあたるのは、まあ“辛苦了(xīnkǔle)”ってことで日本の方はよく使われるんですけど、これは文字通り本当に身も心も辛くて……という感じなので「普段使い」にはあまり向かないような気がします。これも「じゃなんて言えばいいんだ」ということになりますが、母語話者を観察していると、退勤時だったら軽く疑問調子で“下班了(帰るの?)”とか、授業を終えた先生だったら“下課了(授業、おしまい?)”とか、そんな感じですかね。または単に“再見!”とか“拜拜!”とか。

これは別に中国語にねぎらいの言葉が少ないというわけではなく、「ご苦労様」とか「お疲れ様」のようにオールマイティな「ねぎらいワード」でこと足れりとせず、もっと具体的な状況を言ったり、おしゃべりのやりとりをしたり、あるいは「まあ茶でも飲め」とか「お菓子食え」とか、そういった「実質」で相手をねぎらっているような、そういう文化だからのような気がします。

そういう意味じゃ山田優氏も「天皇皇后両陛下お疲れ様でした。ありがとうございました」でこと足れりとせず、例えば「この三十年間、現代における象徴天皇のあり方を模索してこられ、今回の生前退位についても当初は困難も予想されたなかで抵抗勢力を説き伏せるのはさぞかし大変だったと思います。また先の大戦における犠牲者の追悼も国内外にわたって継続されてきた姿勢に感銘を受けました」などと具体的かつ実質的にねぎらえばよかったのかもしれませんね、はい。

バリューブックスの新サービスを利用してみました

ゴールデンウィークの間に本棚の断捨離をしました。これは年に何回かやっていて、そのつど「古本募金」に寄付してきたのですが、今回はバリューブックスさんの新しいサービスを利用してみることにしました。こちらが一箱あたり500円の送料を負担するかわりに、古本屋さんからは事前に査定額が示され、それに納得したら売買成立というサービスです。

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https://www.valuebooks.jp/

配送業者さんが送り状を準備したうえで集荷に来てくださるので、箱を自分で用意する以外は特に手間もかからず、査定額はすぐにウェブサイト上のマイページに提示されます。一冊一冊すべての査定額が示されるのですが、意外な本が高値だったり、個人的にはこれはけっこう価値があるんじゃないかと踏んだ本が案外安かったりして、面白かったです。なにかこう、今の時代における書籍の需要というか、市場のありようが透けて見えるような気がしたのです。もちろん古本の価格はその本の状態にもよりますし、もとより私の偏った嗜好の本ばかりなので市場全体を見通せるわけではないのですが。

まず、文庫や新書のたぐいは、その本の状態や市場でのランク付け(★五つで示されます。需要度と考えればいいのかな)に関わらず、数十円から高くても百円程度。ただしビジネスとか最新の金融関係(フィンテック、仮想通貨など)はけっこういいお値段がついていました。

文芸関係はソフトカバー・ハードカバーに関わらず、全体的に評価が低いですね。この辺は昨今の文芸離れを反映しているのかしら。ただ、韓国のチョン・セラン氏の連作短編小説集『フィフティ・ピープル (となりの国のものがたり)』だけは例外でした。最近は韓国のこうした新しい文芸に注目が集まっていますものね。

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あとはビジネス書で自己啓発系も需要があるみたい。ただし最新刊に近い、巷で話題になった本だけですね。まあこれも当然かもしれません。ちょっと硬派で、でもベストセラーになっているハードカバーの自己啓発系ビジネス書は定価もお高く、ずっと長く持っているような本でもないので比較的きれいな古本が市場に出回っており、需要も高いのかなと。

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今回は料理本も思い切っていくつか処分したのですが、これはいずれも需要があまりないんだなあと分かりました。向田邦子氏のこの料理本など、今ではわりと貴重かなと思っていたんですが、まあ向田氏の作品を知らない方も多いですかねえ。

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あまり査定額をさらすのもはしたないのでこれくらいにしておきましょう。かつて古本屋さんに軽トラック一台分の書籍を売って文字通り二束三文だったのがちょっとしたトラウマになっていたんですけど、売り手と買い手双方がハッピーになることができるバリューブックスさんのこのシステムは、納得感が高いと思いました。

ジャガーの眼

劇団唐組の『ジャガーの眼』を観てきました。東京は新宿の花園神社境内、特設のテント小屋。この光景はかなり懐かしいです。

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劇作家で俳優の唐十郎氏が率いる状況劇場・紅テント。劇団唐組はその流れをくんでいて、座長は今でも唐十郎氏ですが出演はしていません。紅テントをはじめとするテント芝居、三十年ほど前の学生時代には足繁く通っていました。

私はいわゆるアングラ演劇とか暗黒舞踏とか、その辺りのムーブメントには少し乗り遅れていた世代で、むしろ下北沢のザ・スズナリに代表される小劇場演劇から、第三舞台夢の遊眠社(おお、いずれもインプットメソッドが一発で変換してくれませんね)が大劇場に進出してメジャー化していく辺りがちょうど大学生の頃。すでに比較的スタイリッシュな演劇がもてはやされていた頃でしたが、私はどちらかというとテント芝居のようなちょっと猥雑で手作り感満載の雰囲気に惹かれていました。

紅テントの芝居は、難解かつ詩的な大量のセリフを超高速でまくし立て、劇中歌がたびたび入るスタイルで、滑舌とか間とか、あるいは会話のリアリティとか、そんなものは一切すっ飛ばしてとにかく大声と汗と熱で押し切る!……のが魅力的でした(って、まとめちゃうと身も蓋もありませんが)。「68/71黒色テント」みたいなどちらかといえば上品(?)な作風の劇団もありましたが、他にも「風の旅団」とか「十月劇場」とか、とにかくテント芝居に惹かれて、今思い出すだけでもいろいろ観に行きました。

ジャガーの眼』は1989年に目黒不動尊境内の紅テントで観ました。ネットで検索してみるとこれは再演で、すでに「唐組」になってからのことだったようです。唐十郎氏も主役の「サンダル探偵社・田口」として出演していて、とにかく面白くて強烈な印象を残しました。今回「名作選」としてリバイバル公演されたわけですが、冒頭の劇中歌「♪この路地に来て思い出す/あなたの好きなひとつの言葉〜」を今でも覚えていて歌えたのに自分でもびっくりしました。それくらい印象深かったわけです。

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それでもまあ、2019年の今になって観る唐十郎のお芝居は、当然のことながら当時のものとはかなり違っていました。話の筋を知っているというのもありますが、俳優さんたちの熱演にもかかわらず、やはり全体的にパワーダウンしているのは否めません。いえ、これは俳優さんたちがパワーダウンしているのではなく、今の時代が、こうしたアングラ演劇を成立させるような熱気というか空気というか雰囲気というか、そういうものをすでに失っているからかもしれません。

そして何より、観る私がパワーダウンしているからだと強く感じました。二時間強、途中に十分ずつの休憩を二回挟んだ三幕構成のお芝居を、地面に板を敷きその上にゴザを敷いただけの桟敷で、満員の観客の間に挟まって観るのがもう疲れて疲れて。三十年前は疲れたとか膝やお尻の痛さなど全く感じることなく、演劇世界へ引き込まれて時間を忘れましたが、今回は全く勝手が違いました。

そして失礼ながら、周囲を見回すと、観客のほとんどは私と同年代か、更に上の世代の方々。つまりは私同様、かつてテント芝居にはまって、今回それを懐かしく思い出しつつ花園神社へ再集結したような方々ばかりで、幕間にみなさんその場に立って足腰を伸ばしたり,膝をもんだり……いかにもお辛そう。私も腰をさすりながら思わず笑いました。

芝居の終幕は、お約束で舞台後方のセットが全部外され、花園神社の境内に出演者たちが消えていく……という演出。みなさん足腰の痛さを忘れて大喝采でした。さらにカーテンコールで役者を一人一人紹介するのもお約束。さらにさらに、最後に「座長・唐十郎!」ということで、ご本人が花道から登場。

足元もおぼつかない感じでしたけど、俳優さんの一人に両手を引かれてゆっくり舞台に。うわあ、唐十郎さんもお年を召されたなあ(当然ですが)。舞台でも何をおっしゃってるのかよく分からなかったけど、これもまあ唐十郎さんらしい。最後はやはり境内の奥に消えて行かれました。

唐十郎氏にはいまだファンも多いようで、この「唐組」の他に、受付で配られたチラシの中には「唐ゼミ」という劇団が今秋旗揚げというのもありました。『ジョン・シルバー』三部作をテント公演するそうです。個人的には台湾と関連のある『ビンローの封印』をもう一度観たいなあ(と思って検索してみたら、なんと二年前に再演してた!)。でもテント芝居を観る体力はもう……。

前例を覆した結果

昨日の東京新聞、師岡カリーマ氏による「本音のコラム」では女性皇族の儀式不在を取り上げていました。儀式に女性皇族を出席させないという「伝統」に疑問を呈し、前例がないという向きに対しては「儀式における洋装も、かつて『前例を覆した』結果」ではないかと。その通りだと思います。

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だいたい現在の天皇のあり方そのものが「かつて前例を覆した」結果ですし、天皇が東京に住んでいることも、洋食での晩餐会も、儀式の時に身につけていた洋装だって勲章だってそうです。私は約三十年前の代替わりの際、衣冠束帯姿で笏を持った天皇が洋風の馬車に乗って移動しているのを見て、腰を抜かさんばかりに驚きました。

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【写真で見る】天皇陛下、在位28年 様々な表情 - BBCニュース
儀装馬車の概要 - 宮内庁

本来ならこんな洋風の馬車や自動車じゃなくて牛車とか使うべきでしょ……って言う保守派がいないの、本当に不思議です。私は、天皇を始め皇族方はみなさん京都にお戻りになって、京都御所に住まわれるべきで、東京の御用地はすべて公園にして市民に開放すべきだと思っているんですが、そういうことを言う保守派や「伝統を守れ」派も寡聞にして知りません。

もちろん伝統というものは、なにも全てを墨守して一切変えないということではありません。それは常に「現在」と呼応してそのあり方が変容し続けていくものでしょう。それは伝統芸能のお稽古をしていても強く感じます。洋装も馬車も、現代に合わせた現実的な選択のはず。だったら女性についてもその筋で考えるべきです。今の皇室のあり方は、伝統を守っている部分と守っていない部分の筋が全く通っていないと思います。

傍若無人な方々

ゴールデンウィーク中、スーパーへ買い出しに行くと結構な人出です。特に今年は十連休でほとんどお正月のようなノリになっているからか、普段は並ばないような豪華な食材がどーんと売られていたりして、普段は買い出しになど来ないおじさんたちやお子さんたちなんかも連れ立っていて、店内がよけいにごった返しています。ま、令和、いや平和ですわ。

しかしそんな平和な昼下がりのスーパーで、文字通り「傍らに人の無きが若し」でこちらの心の平和をかき乱して下さる傍若無人な方々がいらっしゃいます。大抵は中年以降銀髪世代くらいまでのおばさま方です。

キュウリ掘り起こしおばさん

1本35円、3本100円のキュウリをためつすがめつ。少しでもお気に召したものを選ぼうとキュウリの山をほじくり返していらっしゃいます。あまつさえ、積んである箱をずらして、下の箱にまで「発掘」を進めてらっしゃる。どれを取ってもそんなに変わらないと思うんですけど、その執念に圧倒されます。というか、はやく選んでどいていただきたい。他の人が取れなくて困ってるから。

選んでポイおばさん

そういうおばさんは、お眼鏡にかなわなかったキュウリをポーイと山に投げて返すんですよね。キュウリに限らず、袋詰めしてあるモヤシなんかの野菜などでもそういうおばさんを時々見かけます。ご自分は買わないんでしょうけど、お店にとってはそれも売り物ですから、私がお店の人間だったらそういうお客さんをつまみ出したい衝動に駆られると思います。

要らなくなったらポイおばさん

時々、商品の棚に異質なものが置かれてあることがあります。例えば日用品売り場に豚コマ肉のパックが置いてあるとか、乳製品の棚にナスの五本袋詰めが置いてあるとか。以前からアレは何なのかしらと思っていたんですが、あるときその理由が分かりました。とあるおばさんが、自分の押しているカートのかごから肉のパックを取り出して、その辺の棚にポーンと置くのを目撃したのです。

なるほど、買い回っている間に「やっぱこれ要らないわ」と思うも、元の売り場まで戻るのは面倒だからその辺に置いちゃえ,どうせ私は買わないし……ということなんですね。これもお店の人からしたらとんでもない迷惑行為ですが、けっこうよく見かけます。というか、このレベルになると少々認知症的なものも関係しているかもしれません。

何が何でも奥から取りたいおばさん

そんなに腰をかがめて腕をねじ曲げていたら筋がつっちゃうんじゃないの?……とこちらが心配になるくらいの姿勢で、棚の奥に腕を突っ込んで少しでも奥のものを取りたいと奮闘しているおばさんです。牛乳パックでも肉でも野菜でも、とにかく一番奥から取らないと気が済まないみたい。肉のパックなど、パック日が全部同じでも、やっぱり奥から取らなきゃ損! みたいな信仰があるみたいですね。ただ、これについては職場でアンケート調査してみましたところ、「必ず手前から取る派」は何と私ひとりだけでしたから、私の方がおかしいのかもしれません。

レジではやくしろよおじさん

ここまではおばさんばかり取り上げてきましたが、これだけは圧倒的におじさんの領分です。おばさんでこのタイプは、私はまだ遭遇したことがありません。少しでもレジの列が短いのはどこかと右往左往しているうちに却って時間を使っちゃってるおばさんはよく見かけますが。

はやくしろよおじさんは、前の人や前の前の人がレジで支払いにもたついていると、まずは「チッ」と舌打ちをはじめ、そのうちに速やかな清算終了を求めて怒鳴るのです。「何もたもたしてるんだ」「レジに店員を増やせよ」……等々。もとより内向的で慎み深い日本人のこと、こうやって声にまで出しちゃうおじさんの出没確率はそれほど多くありませんが、明らかにイライラしているおじさんはけっこうよく見かけます。

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https://www.irasutoya.com/2018/09/blog-post_22.html

いい年してみっともない、というか、はしたないことはお互いよしましょうよ。どこかの国の首相も改元にあたって「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」などと新しい時代への展望をのたまっているではありませんか。野田秀樹氏がおっしゃったように「醜く心を寄せ合う」ことなどあり得ないんですからいささか意味不明ではありますが、「日本の国柄をしっかりと次の時代へと引き継いでいく」んでしょう? まずは隗より始めよ、身近なところからですよ。

……と、かく言う私も上述のようなおばさんに接するとつい「どれでも同じだよ」とか「いい年してみっともないよ」などと声に出して言っちゃうんですから、「はしたない」ですし「傍若無人」かもしれません。人の振り見て我が振り直せ。以て自戒としたいと思います。

ふたたび見知らぬ人に声をかける

先日東京メトロ青山一丁目駅半蔵門線のホームを歩いていたら、大道芸でジャグリングだか奇術だかをやっていそうなコスチュームの欧米人とおぼしき男性がいました。素敵な格好だったので思わず「その服、いいですね」と声をかけようとしたんですけど、なぜかできずに通り過ぎてしまいました。

私はもともと人見知りが激しいというか、人付き合いがあまり上手な方ではないので、見知らぬ人に声をかけるのは苦手なんですけど、それでも海外で多少は感化されたのか、ときどきは自分でも気づかぬうちに声をかけていることがあります。誰かと一緒にいるときなど、気が大きくなるのか(何かあっても仲間がいる安心感からか)他人に声をかけやすいような気もします。

それでも多くの日本人(……の定義が現代では曖昧に過ぎますけど、まあ日本人的なメンタリティの持ち主)には、なるべく悪目立ちしないのが吉というか、下手に声をかけてトラブルに巻き込まれたくないというか、単純に内向的で慎み深くてじっと我慢する性格というか、とにかく見知らぬ人に声をかけるのを苦手と方するが多いようです。昨日はTwitterでこんなツイートを見かけました。

わははは。他人に声をかけるのもそうですけど、他人から声をかけられるのも慣れてない私たちにとっては、いきなりこういうコミュニケーションを取られると「ドン引き」してしまうと。うんうん、よく分かる気がします。私は電車などでベビーカーや大きなトランクを持った方が乗り降りする際に「手伝いましょうか」と声をかけることがあるのですが、にこやかに受けて下さる方がいる一方で、ものすごく怪訝な顔をされたり,明らかにありがた迷惑という表情をされたりする方もいます。

もちろんそういうサポートは相手の意向に沿ってこそ意味があるので、怪訝な顔をされても「拒否された」などと思わず、「そうですか、ではお気をつけて〜」でおしまい……でいいんですけど、やはり正直に申し上げて心にモヤモヤが残りますね。まあ、手を差し伸べるのが、私のようなむくつけき中高年の男性だから思わず防御に入っちゃうのかもしれません。一応笑顔を心がけてはいるんですけどね。

……てなことをつらつら考えていたら、これもTwitterでこんな動画を目にしました。

そうそう、こんな感じで「手伝いましょうか」という声がけすらなく単に手を差し伸べるだけってのが気軽でいいんですけど、日本だと無言でいきなり手を出した場合、下手をしたら「何するんですか!」って怒られそうな気配もありますね。う〜ん、ツイートへのリプライにもありましたが、みんな(特に東京の人たちは)疲れ切っちゃってて心に余裕がないのかもしれません。

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https://www.irasutoya.com/2017/10/blog-post_24.html

その一方で、「内向的で慎み深い」はずの日本人なのに、このツイートにも言及されているごとく泣いている赤ちゃんに「キレ」ちゃたり、ベビーカーを押した親御さんに冷たくあたったり、あるいはスーパーのレジなどで舌打ちとともに「ぐずぐずすんな」的な罵声を浴びせたり……という輩も時折出没するのが不思議です。これもまた心の余裕のなさがなせる技なのかな。

qianchong.hatenablog.com

李叔同の書

清末・民国初期の詩人・書家にして教育者でもあった李叔同(り・しゅくどう、号:弘一)という人がいます。天津生まれのこの人のことを、私は天津留学時に知りました。当時、大学に書を学びに来ていたとある韓国人留学生から教えていただいたのです。特に彼が見せてくれた李叔同の書を集めた大判の画集が魅力的で、私も帰国時に買い求め、いまでも時々ながめては楽しんでいます。

李叔同は日本に留学していたこともあって、犬童球渓(いんどう・きゅうけい)がアメリカのジョン・P・オードウェイの曲に訳詞をつけた唱歌旅愁」(♪更けゆく〜秋の夜/旅の空の〜……というあの曲です)にさらに中国語の歌詞をつけ、母国に紹介しました。この李叔同による「送別」という曲は今でもよく知られています。映画『城南旧事(邦題:北京の思い出)』でも使われていました。

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長亭外古道邊,芳草碧連天。
晩風拂柳笛聲殘,夕陽山外山。
天之涯地之角,知交半零落。
一觚濁酒盡餘歡,今宵別夢寒。 

李叔同は後年仏門に入り、仏教を背景にした書が多く残されています。

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▲写真はいずれも『二十世紀書法經典 李叔同(河北教育出版社/廣東教育出版社:1996年)』より。

どこかユーモラスで可愛くて、モダンな感じさえする書だと思いませんか。その飄々とした墨跡は良寛の書にも通じるものがあると思います。なんだかこれだったら自分でも書けそうな気がしますけど、とんでもない(無謀にもやってみたので、分かります)。李叔同の書を元に作られたフォントなどあったら、素晴らしいんですけど。どこかのフォントベンダーさんがやってくださらないかな。

自分ちで「お座敷天麩羅」

連休に友人が家に来たので天麩羅を揚げました。旬の最後の山菜や、今が旬のアスパラやソラマメなど、他に少々魚介類も。みんな揚げ物ばかりをたくさん食べられないお年頃になったので、ほんの少しだけです。

天麩羅は難しいと言う方もいますが、要は衣をつけて揚げるだけです。山菜や野菜類はすぐに熱が通るので揚げ上がりを気にしなくていいし、魚介類も小ぶりなものばかり選べばこれまたすぐに熱が通り、生揚げを心配する必要はありません。

しかも昔から家庭で繰り返し作られてきた料理だけに、上手に揚げるためのアイテムも揃っています。まずはこの「天ぷら粉」。邪道ですか? いえいえ、この粉は優れもので、卵も要らないし、粉を溶く水を冷やしておくとか、粉がダマにならないよう気をつけるとかの気遣いも一切不要です。単にきっちり粉と水を量ってぐるぐる混ぜ合わせるだけ。しかも非常に軽く揚がるので胸焼けもしません。

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昔はバカにしていたんですよね、「天ぷら粉」。きちんと卵と小麦粉を使って、ちょいと粉が残り気味にまぜて、魚介類はまず薄く粉を打ってから更に衣につけて……などなどしないとおいしい天麩羅はできないって。ところがあるとき「天ぷら粉」を使ってみたら、自分流のこざかしい天麩羅より数倍おいしいことを発見しました。さすがロングセラーの商品だけのことはあります。

油も昔は高級菜種油など買い求めたり、オリーブオイルで揚げたりしていたんですけど、はっきり申し上げて私たちのようなお年頃にはもう重すぎます。大手精油メーカーから出ている「ヘルシーなんたら」みたいなごくごく軽い揚げ上がりになる油で充分。というか、粉や油に懲りまくるより、揚げる素材そのものにお金使って、さっと熱を通して食べるだけ……的なスタンスにした方がよほど美味しいと気づいたのです。

かんじんの火加減も、いまのガスコンロは温度調節機能がついているものもあって、例えば天麩羅に最適な180℃前後をキープしてくれるみたいなのもあります。家のコンロはそこまで進んでなくて、単に温度が上がりすぎると火が弱まるだけですけど、これでも充分。あとは衣を少し落としていったん沈みかけてすぐに上がってくる程度の温度を常に心がけていれば、まず失敗することはありません。

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アスパラは下半分の皮をピーラーでむいて食べやすく、タラの芽は下の硬いところだけ斜めに落として、ソラマメだけは衣に粉を少し足して粘度を上げて豆が二〜三個まとまるように、貝柱だけは刺身用なのでわざと中を半生状態で揚げ、アナゴとメゴチとエビは……これはもう単に揚げるだけ。あと、めずらしく売っていた花ズッキーニの花の部分にはこれも魚屋さん出来合いのエビのすり身を詰めて衣をつけ揚げました。

天つゆも用意したんですけど、みんなほとんど塩だけで食べました。このあたりもお年頃……ですかねえ。

まるで大晦日のような

新聞各紙の朝刊一面に載っているコラムは、文章のたいがいが情緒的で、特に最後を「ちょいと上手いこと」言って締めくくりがちなものですが、今朝の東京新聞「筆洗」は筆を洗いすぎたか薄墨色に過ぎるというか、情緒の含有量が高すぎてちょっと勘弁してほしいと思いました。元号が変わるからって、過去をきれいさっぱり水に流すみたいなのはよしとくれ、という感じです。

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新聞もテレビも今日は一日大晦日みたいなノリで、こういうふうに抑制が効かないところが私たち日本人なのかしらと思います。私の周囲でも少なからぬ方がみんな「平成最後」とか「令和もよろしく」みたいなことを言ってきて、それも日頃からけっこうこの方はものを考えてらっしゃるなあ、批判精神に富んでいるなあと尊敬している方も多くて、そのたびに驚き、溜息をついています。

だいたい天皇が「生前退位(譲位)」を希望されたのは、象徴としての務めを充分に果たすことができる者がその地位にあるべきという思いと共に、こういう朝野をあげての浮かれた騒ぎ、あるいは三十年前のような歌舞音曲の類い一切自粛みたいになることを極力抑えたかったというのもあるんじゃないかと思うんです。あれだけ忖度がお好きな方々も、こういうところは天皇の思いなどすっ飛ばして我も我もと改元騒ぎに乗っかっちゃう。

昨日所用で渋谷の街を通ったら、スクランブル交差点の辺りは規制の準備が進められていました。カウントダウンかなんかで盛り上がる人たちがどっと繰り出すと予想されているんでしょうね。昭和天皇が亡くなったとき、私はちょうど大学を卒業する年でしたが、あの時の自粛騒ぎの異様さをよく覚えています。あの時とは真逆のコントラストを示す今回の騒ぎも、長く記憶することになると思います。

……って、今日の自分の文章も情緒的で「ちょいと上手いこと」言って締めくくってました。私も軽い人間ですねえ。

トリですよ

能のお稽古をしている人たちが年に一回か二回ほど発表会を行うことがあります。「素人会」とか「温習会」などとも言われるこの発表会は、玄人の能楽師と同じように能舞台に立てる機会なので、愛好者にとってはとても楽しみでありかつ緊張する時間です。

素人の発表会ではありますが、例えば仕舞の地謡(コーラス)や舞囃子のお囃子(オーケストラ)などは玄人の能楽師が務めることが多く、とても聞き応えがあります。また素人とは言っても中にはもう何十年もお稽古をしてらっしゃる方もいて、こちらもまた見応え、聞き応えがあるものが多いのです。

そんな中、私のような「駆け出し」はたいがい会の前半で「お役目」を終えて、あとはゆっくり先輩方や玄人の先生方の芸を堪能するという優雅な一日を過ごすのですが、今年の会の番組(プログラム)を見て一気にそんな気分が吹き飛びました。私がいわゆる「トリ」になっているのです。

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この番組の最終ページ、素人の方のお名前はぼかしてあります(下に並んでいるお名前は、お囃子を勤めて下さる玄人の能楽師のみなさんです)が、私の舞囃子「枕慈童」が最後にあります。素人会とはいえ、ふつう「トリ」は上述したようなこの道何十年かの手練れの方が務めるんですが、お師匠によるとそれ以外に会のエンディングにふさわしい曲(演目)が選ばれることもあるとのことです。

能には例えば武将が悲惨で壮絶な最期を迎えるとか、亡霊が暴れ回った後に祈りによって退散するとか、けっこう重苦しい題材も多くて、そういう番組を会の最後に持ってくると何となく後味が悪い(?)ので、たいがいはおめでたいお話とか、勇壮で後味スッキリ! みたいな題材の番組を持ってきて盛り上げて締める……ってのが習わしみたいなんですね。

で、今年の会はそういう「トリ」にふさわしい演目があまり揃わなくて、それで私の「枕慈童」にしたんだそうです。確かに「枕慈童」は小体な曲ではありますが、とても幻想的かつ祝祭的な気分に満ちた明るい内容ですから、会の最後に持ってくるのはよろしかろう……とは思いますが、ちょっと私には荷が重いような。うちのお師匠は、パーソナルトレーニングのトレーナーさんと同じで、こちらの限界ぎりぎりを見定めて「ひょい」とハードルを上げてくるのがとてもお上手です。

舞囃子の「枕慈童」には「樂(がく)」という中国的な舞が入っていて、足拍子をたくさん踏みまくります。せめてこの連休を利用してお稽古に励んで、一ヶ月後の会に備えたいと思います。昨日お能を見に行ったら、会場で出会った先輩(この方はトリを何度も務めてらっしゃいます)が「今回はトリですね。あれは緊張が長く続くんですよね」とおっしゃっていました。確かに今度の会は一番最初に連吟「賀茂」にも出るので、結局会の最初から最後まで緊張が抜けないことになります。まあこれも貴重な機会なので感謝して、一日楽しもうと思います。

kita-noh.com
※入場無料、出入り自由です。

健身房裡面面觀

タイトルの中国語は「トレーニングジムに見るあれこれの人間模様」みたいな意味です。

「男性版更年期障害」による不定愁訴の改善を目指して週に数回のパーソナルトレーニングを一年半ほど続けてきましたが、四月からは「朝活」として職場近くのジムにも通い始めました。朝活なのでトレーニング時間はわずかなものですが、朝から身体を動かすと少なくともお昼まではかなり調子がいいです。あとはお昼ご飯を食べたのち、夕方までの不調を何とかしたいところです。

お昼を食べなければ夕方まで爽快なのですが、これはしばらく続けてみて逆に体重が減る(当たり前ですが)ことが分かったのでやめました。周りからは「体重減った方がいいじゃない」と言われますが、そうするとせっかくトレーニングでついた筋肉も減るのです。身体が危機感を抱いて筋肉から栄養を取ろうとするんですね。別にマッチョになるのが目的じゃないんですけど、せっかくついた筋肉は減らすのがもったいなく思えてくる……これは筋トレしている方に共通する心理みたいです。

朝活していると、いろいろな方がいるのに気づきます。ジムには目もくれず一直線に「スパ&サウナ」(要するに銭湯みたいなものです)に向かう方、筋トレマシンは使わず、ひたすら身体をほぐすことに専念されている方、軌道が決まっていて比較的簡単に使える「マシン」ではなく、バーベルやダンベルなどを使う「フリーウェイと」のコーナーばかり使っている方……。

中国に留学しているとき、朝から市民(お年寄りが多い)が大学のグラウンドでそれぞれの健康法とおぼしき体操をやってらっしゃったのを思い出しました。太極拳をする方、鉄棒をする方、トラックを走る方、トラックを「後ろ向きに」走る方、樹に身体をぶつける方……。中国の大学は学生や教員だけでなく、学校関係者や退職者やその家族なども一緒に学内に住んでいて言わば一つの街みたいになっているところが多いので、朝のグラウンドはとても賑やかなんですよね。ジムはあの光景にそっくりです。

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https://www.irasutoya.com/2013/04/blog-post_8578.html

朝活のジムで私は「マシン」と「フリーウェイト」の両方を使っていますが、フリーウェイトは何となく「玄人感」を漂わせている方が多く、かなり以前に通っていた別のジムでは怖くて近寄れませんでした。尋常ではない(失礼)筋肉をつけた、大抵黒々と日焼けされているおじさんが「はぁああっっっっ!」とか「ふんぬっっっっ!」などの奇声(気合いですか)を発して、これまた尋常ではない重さのバーベルやダンベルを挙げているのです。服装はピタピタのタンクトップに、ダブダブのパジャマみたいなズボンだったりして。

そんな私がフリーウェイトのエリアにも出没できるようになったのは、これはもうパーソナルトレーニングでトレーナーさんに細かくフォームを教えていただいたからです。トレーナーさんによると「フリーウェイトやっている『こわもて』のマッチョさんたちは意外に優しい人が多くて、フォームの相談なんかすると気軽に教えてくれますよ」とのことですが、う〜ん、今のところ私にその勇気はありません。

でもこのフォームはとても重要で、きちんとしたフォームで筋トレをしないと、ほんと、驚くほど効果がありません。まあ全く運動をしないよりはいくらかマシですけど、筋肉は全然つかないのです。これは以前私が別のジムで二年間ほど「自己流」で筋トレをやった結果、証明済みです。そして現在朝活をやっているジムで周囲を見回してみると、大変僭越ながらこの自己流フォームでトレーニングしている方がとても多いことにも気づきます。

そうやって人のフォームの善し悪しが分かるようになったのも、トレーナーさんに教わったおかげですね。「ジムではやたらマシンのウェイトを上げて必死に挙げ下げしている方がいますが、それよりも適度なウェイトでいいですから正しいフォームでやるべきです」。なるほど、ジムはあくまでも自分に向き合う場所であって、他人にウェイトの多さを誇ったり他人と競ったりする場所ではないんですからね。

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https://www.irasutoya.com/2018/10/blog-post_87.html

というわけで、朝から黙々とベンチプレスなどしています。この歳になっても挙げられる数字が徐々に増えていく、つまり身体の機能が向上していくのを実感できるというのはなかなかに貴重なことではないかと思っています。だいたいのことは逆にどんどんできなくなっていくお年頃ですから。ただまあ「誇ったり競ったりするのが目的」ではないので、黙々と、淡々と……を心がけています。

背景知識が後押しする訳出

こちらの動画、任天堂アメリカで『ポケットモンスター Let's Go! ピカチュウ』というゲームをプレゼンテーションする「ツリーハウスライブ」の様子です。

youtu.be

この映像を見て、多言語コミュニケーションの新しい地平を見るような感覚にとらわれました。冒頭に登場する英語母語話者とおぼしきお二方の日本語力が素晴らしくて、司会者的な役割の方は自分の英語を自分で日本語に通訳しちゃうし、もうお一方は日本人ゲストの日本語をものすごいスピードで、なおかつ一切メモを取らずにテキパキと通訳しています。

ゲームの実況という特殊な状況ではありますが、日本語と英語が混在しているのに、ほとんど違和感がないと思いました。まるでそれぞれが自分の母語をしゃべりながら、それでいて自然に会話が成立しているような感覚なのです。通訳者や翻訳者はよく「黒子」などと言われ、字幕翻訳などでもよく「外国語で視聴していた気がしない」ほどさりげなく自然に、かつ的確に日本語で伝えるのがいい字幕、などと言われます。この映像にも同じような雰囲気を感じました。

このお二人は任天堂の社員もしくは関係者のようで、背景知識がとてつもなく豊富なのでこうした通訳が可能なのかもしれません。インハウス通訳では常に専門の内容を訳しているのでこういう感じになっていくのだと思われますが、ここまでテキパキと訳してくださったらかなり重宝される・重用されるのではないでしょうか。うちの学校の留学生もインハウスでの通訳のお仕事を目指している方が多いのですが、通訳というお仕事は「話せれば訳せる」わけではなく、背景知識の豊かさが的確な訳出を担保しているのだということ、その一つの例として紹介したいなと思いました。

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拙を守って田園に帰る

毎朝毎晩、通勤電車に揺られるたびに、人の多さに酔いそうになります。自分もその「人」のひとりであるのですから、全く身勝手なものいいですが、東京都心の、出退勤時の人の多さはちょっと異様ですよね。これでも「ピークオフ」と言いますか、ジムで朝活をするためにかなり早い時間に都心へ出てきているのですが、その時間にしてこの人の多さはどうでしょう。みなさん朝早くから本当にお疲れ様です。

歳を取ったからこうやって「人に酔う」ようになったわけでもなく、実は私、はるか昔の学生時代にも同じようなことを感じていました。とにかく満員電車がイヤでイヤで、会社勤めなんて絶対にしたくないと思って、大学を卒業するとすぐに九州の田舎で農業のまねごとを始めたのでした(専攻の関係で求人が全くなく、就職できなかったというのがホントのところですが)。

なのに、その農業のまねごとも五年ほどしか続かず、結局都会のネオンに吸い寄せられるように東京に戻ってきてしまいました。

都会は確かに便利です。何をするにも選択肢が多くて、心満たしてくれる新奇なものも多くて、さらに大好きなアート系のあれこれ(美術や音楽や演劇や映画や……)を楽しむすべも揃っています。いまの仕事にしたって、都会に、特にこの東京に住んでいなければたぶんたどり着くことができなかったでしょう。その意味では都会によって私は生かされていると強く感じています。

なのにこの息が詰まるような感覚はどうしようもありません。特に周囲の人々から感じる「人圧」とでもいうべき圧迫感。ここ数年はその「人圧」を逃れようと、海外の離島の,そのまた離島の、人がほとんど行かないような場所に行き、360度ぐるりと見渡して人影一つ見つけることができないような荒野に立つのが楽しみになりました。別に海外へ行かなくても、日本にだってそんな場所はたくさんあるのでしょうけど。

中国のいわゆる六朝時代、東晋末の詩人に陶淵明という人がいて、有名な「帰園田居」という詩があります。私はこの詩が大好きで、特に最初の一番有名なところは折に触れて思い出します。

少無適俗韻,性本愛丘山。
誤落塵網中,一去三十年。
羈鳥戀舊林,池魚思故淵。
開荒南野際,守拙歸園田。

角川ソフィア文庫の『陶淵明』に載っている、釜屋武志氏の訳文を引きます。

若い時から俗世と調子を合わせることができず、生まれつき丘や山が好きだった。
ふと誤って俗世の網の中に落ちこんで、たちまちのうちに三十年が過ぎ去った。
旅の鳥はもといた林を恋しく思い、池の魚は以前泳いでいた淵をなつかしがる。
それで南の野のあたりに荒地を開拓し、不器用な生き方を守りとおそうと田園に帰ってきた。

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陶淵明 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス 中国の古典)

特にこの「守拙歸園田(拙を守って田園に帰る)」という部分の、なんと心に響くことか。このフレーズは折に触れ繰り返し自分に語りかけてくるような気がするのです。自分は「拙を守って」いるだろうか、いつか「田園に帰る」べきではないだろうかと。

思えば、学生時代に就職を忌避して、農業を志したのはまさにこうした思いからでした。それがなぜか「誤落塵網中」してしまい、「一去三十年*1」。おお、そういえばちょうどいまの仕事が雇い止めになるのが、東京に舞い戻って三十年経つそのときです。陶淵明は「開荒南野際」すべく田園に帰ったわけですが、私は何をしに田園に帰ろうか、帰る田園はあるだろうか、それを最近はよく考えるのです。

*1:諸説あって「十三年」ではないかと主張する方もいるようですが。