インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

理屈だけではない何か

食材にこだわって盛り付けにもこだわって、とっても「凝りまくり」なんだけど、あまりおいしくない料理ってありますよね。

昨年だったか、『マツコの知らない世界』の「たらこパスタ」がテーマだった回で、最高級たらこをはじめ、最高級パスタ、最高級のり、最高級かつおぶし、最高級バター……などなどを使った究極のたらこパスタが意外にまとまりのない味だった(それぞれの食材が主張し合っちゃう?)というシーンがありましたが、料理のおいしさの成り立ちって、理屈だけではないなかなか玄妙なものがあるようです。

Paravi マツコの知らない世界 #146 スペシャル「たらこパスタの世界」
https://www.paravi.jp/watch/25809

先日、所用で夜遅くなり、細君も知人と外食してくるから夕飯は要らないというので、帰宅前に自宅近くのラーメン屋さんに入りました。以前から「ここはなかなかおいしそう……」と気になっていた店構えで、入ってみるとお店の人がとても優しくて、「味を薄めにという注文も可です」と中高年には嬉しいことが書かれてあって、様々な食材へのこだわりを書いたカードがカウンターに置いてあって、「味変」を楽しめる食べ方指南まであって、店内のそこここに店主さんの意気込みが感じられる雰囲気でした。

頼んでみた定番とおぼしきラーメンは「無化調」で、野菜がたっぷり溶け込んだようなスープで、トッピングもローストビーフみたいにレアな仕上がりのチャーシューをはじめ、さまざまな野菜、自家製とおぼしきメンマ、糸唐辛子やかいわれ大根などの薬味、さらにはおそらくオリーブオイルなんかも散らしてあって、「着丼*1したときは思わず「わぁ〜っ」と盛り上がりました。そして箸をつけてみると、これがものすごく……おいしくなかったのです。

う〜ん、究極のたらこパスタと同様にそれぞれの食材が主張し合っているんですけど、旨みや香りや食感などのプラス要素が主張し合っているのではなくて、それぞれに何か雑味や臭みや歯触りの悪さや温度の低さがあって、それらマイナス要素がどうにもまとまらず、全体的にとっちらかっている印象でした。周りのお客さんはけっこうおいしそうに食べてらっしゃったから、単にこちらの味覚の問題かもしれないんですけど。

料理って難しいんだな、と思いました。邪推ですけど、こちらのお店の方は、もしかすると料理の修行はあまりしたことがなく、理屈だけでラーメンを組み立てたのかもしれません。もちろん、ラーメンを作るのに料理全般の修行が必要とは限りませんし、とてもおいしいラーメン店の作り手が全て修業時代を経て独立していくものとも限らないでしょう。それに料理はつまるところ一種の物理学と化学の世界で、理詰めで追求していけばおいしい料理が作れそうなものです。愛情を込めて作ればおいしくできるなどというものではないですよね。

でも、初手からいきなり「要は個性の発揮だ! オリジナリティだ!」と凝り凝りに凝っても、結局は薄っぺらいものしかできあがらないような気がします。繰り返し繰り返し修行して身体で覚えた感覚やちょっとした加減が、最終的には仕上がりの大きな違いとなって表れるのではないでしょうか、それこそ「バタフライエフェクト」みたいに。これはひとり料理に限らず、どんな技術についても言えることではないか、やっぱり基本を固めるって大切なことなんだなと思いました。

……ラーメン一杯食べるのに、こんなことつらつら考えちゃって、めんどくせえ奴だなと自分でも思います。

f:id:QianChong:20190131142300p:plain
https://www.irasutoya.com/2017/08/blog-post_529.html

*1:しかし「味変」も「無化調」も「着丼」も解説が載ってるWeblio辞書ってすごいですね。

ロイヤルコペンハーゲンの度胸

デンマークに「ロイヤルコペンハーゲン」という陶磁器ブランドがあります。「ロイヤル」の名の通りデンマーク王室の御用達だそうで、日本の古伊万里に影響を受けたといわれる藍色の唐草模様パターンがトレードマークのシリーズを始めとして、多種多様な製品を作っています。

私はこのブランドの「ブルーフルーテッドメガ」というシリーズが好きです。もともと定番デザインの「ブルーフルーテッド(プレイン)」というのがあって、これが一番ロイヤルコペンハーゲンらしい意匠として有名で、1775年の創業以来ながらく生産されてきたそうです(いまでも定番として販売されています)。

これが「プレイン」です。

f:id:QianChong:20190129180649j:plain

ところが2000年になって、デザイン学校の学生だったカレン・キエルガード・ラーセン氏が卒業制作として同社に持ち込んだアイデアから、伝統のデザインをどでかく拡大したシリーズ「メガ」が生まれたのです。よく見ると、確かに「プレイン」の意匠の一部が換骨奪胎され、大胆にあしらわれていますよね。

f:id:QianChong:20190129180700j:plain
f:id:QianChong:20190129180711j:plain

伝統のデザインを拡大するだけで、こんなにもモダンな印象に変わるのがとても新鮮です。そして、これを思いついたラーセン氏の独創性もさることながら、創業以来守ってきたデザインにここまで大胆な改変を加えることを受け入れた会社側、特にゴーサインを出したとおぼしきお偉方も度胸があるというか、見る目に長けていると思います。普通だったら「伝統のデザインに何てことを! けしからん!」ってけんもほろろ、歯牙にもかけないところじゃないですか。

この会社は、近年さらに新たなデザインを発表して、それは従来器の裏側に押されてきた裏印と呼ばれる王室御用達のマークなどを拡大して大胆にあしらった「フルーテッド シグネチャー」というものです。なるべく目立たないようにしてきたアイテムを逆に前面に押し出すというアバンギャルドな発想ですが……う〜ん、ここまでくるとちょっとブランド趣味が全面に出過ぎていて「ハズした」かしら、と個人的には思います。

f:id:QianChong:20190129180722j:plain

むしろ昨年発売になった「blomst(ブロムスト=花)」というシリーズの方が、よりこのブランドの伝統を踏まえた深みのあるデザインで素敵だと思います。

f:id:QianChong:20190130212628j:plain:w300

ちなみに、現在ロイヤルコペンハーゲンフィンランドフィスカースという企業に買収されているそうです。イギリスのウェッジウッドも、フィンランドイッタラ(イーッターラ)やアラビアもこの企業の傘下ブランドなんだそう。へええ、初めて知りました。

ロイヤルコペンハーゲンの製品はそんなにお安くはないんですけど、基本的には丈夫で、そこまで繊細な扱いが必要な陶磁器ではないので、どんどん普段使いして楽しみたいところ。イェンス・イェンセン氏によるこちらの料理本にはその魅力がたっぷり表れていて、参考になります。


イェンセン家のホームディナー

男の編み物(ニット)橋本治の手トリ足トリ

昨晩、橋本治氏の訃報に接しました。今朝の新聞にも追悼記事が出ています。

f:id:QianChong:20190130080017j:plain:w600

桃尻娘』シリーズをはじめ、氏の作品はあれこれと読みましたが、私が最も影響を受け、かつ名著だと思っているのは、この記事にも「趣味を生かし、男性向けの編み物指南書も手掛けた」とある『男の編み物(ニット)橋本治の手トリ足トリ』(1983年初版、私が持っているのは1989年の新装初版)です。

f:id:QianChong:20190130080403j:plain:w200

帯の惹句、裏表紙には「生活できない男なんてただの粗大ゴミだ!!」と書かれています。大学を卒業するも就職できずに路頭に迷っていた私は、この惹句にいたく引きつけられ、地べたから生活を作り上げる生き方に憧れて農業のまねごとをはじめ、手作業の知恵と技に憧れて編み物にも傾倒していました。当時の愛読雑誌は日本ヴォーグ社の『毛糸だま』でした。

学生時代に、何の映画だったかドキュメンタリー番組だったか忘れましたが、欧州のニット職人、それも男性のレース編み職人が繊細な作品を作り出しているのを見て「自分もこんな仕事がしたい!」と思っていたのも影響したのだと思います。広瀬光治氏などのニット作家が世に知られる、はるか以前のことです。その意味でも、橋本治氏のこの本は画期的かつ先駆的だったと思います。

この本が素晴らしいのは、徹頭徹尾実用書として作られていることです。しかも編み物入門編としてまずはマフラーのような簡単なものを編むなどということはせず、いきなりセーターを1着作らせるのです。氏は冒頭で「マフラーなんて、ただの棒だからね、あんなもん編んだって、退屈なだけ。飽きちゃう」と言っています。そして「手トリ足トリ」の書名通り、セーターの編み方を事細かにその絶妙な文体で説明していくのでした。服飾用語で「剥ぐ(はぐ)」と「接ぐ(はぐ)」は全く逆の行為なのに発音が同じという面白さに気づかされたのもこの本ででした。

f:id:QianChong:20190130082222j:plain

私は実際にこの本で全くのゼロから編み物を学び、セーターを何着か作りました。そののちには別の本でさらに学んでカーディガンや編み込みのセーターを作り、毛糸の草木染めにまで手を出していました(編んだものはすべて人にあげてしまい、手元には残っていません)。う〜ん、全く編み物をしなくなった現在からすれば自分でもちょっと信じられません。たぶん、美術大学に入学したものの、己の才能のなさに気づいて茫然自失となり、就職もせずにふらふらしていた自分のせめてもの「失地回復」行為だったんじゃないかなと思います。

橋本治氏のセーターは精緻な編み込みがその真骨頂で、かの有名な「ジュリーのセーター」のほかに「山口百恵のセーター」や浮世絵を題材にしたものなど、どうやったらこんなもの編めるんだろうという驚きに満ちていました。下の写真には「マイコン」を抱えた氏が写っていますが、全体的にとても「時代」を感じますよねえ。

f:id:QianChong:20190130082242j:plain
f:id:QianChong:20190130082259j:plain

この本は実用書ではありますが、そこはそれ、橋本治氏一流の「理屈」もたくさん詰まっています。帯の惹句もさることながら、セーターという極めて実用的なものを自らの手で作り出すことについて、氏は優しく「手トリ足トリ」教える一方で、読者、とりわけ男性の読者に対して厳しく価値観の転換を迫っているように感じられるのです。

そもなぜセーターを編むのか。毛糸と二本の編み棒が作り出す「衣服」という実用品の意味は。毛糸屋さんにおける男性の存在。技術を一から学ぶこととは。男性の色やデザインに対する感覚……。その一つ一つの語り口が、新鮮かつ痛烈です。それらは、現在に至ってもあまり変わっていないように思える、多くの男性に残る頑迷な男尊女卑の心性や、生活全般、なかんずく家事に対する無関心をも厳しく批判しているように私には読めます。氏はおそらくそんな無難な(?)カテゴライズは好まないでしょうけれども。

とにもかくにも、私はこの本でかなり大きく男性としての価値観を揺さぶられました。いまのこの時代、性別で区分けをするのはあまり意味がないですが、それでも現在の多くの男性諸氏にとって、いまだに多くの示唆を与えてくれる本ではないかと思います。名著と呼ぶゆえんです。

橋本治さん、本当にお世話になりました。ありがとうございました。

カタカナ用語が好きなんだなあ

今朝がた、2020年東京オリンピックパラリンピックにおけるボランティアの愛称が決まったという報道に接しました。

www.asahi.com

オリパラについては、①大会役員やスポンサー企業は大儲けする一方での炎天下のタダ働きなどに応募する方の気が知れない+②国威発揚のイベントなら医療を始めとする専門技能まで無償で賄えるという「レガシー」は今後の労働環境に多大な悪影響を与える……というのが私の基本的な考えですが、まあその議論は脇に置いて、今回はあらためて「日本人ってカタカナ用語が好きなんだなあ」と思いました。

先般の山手線新駅の名称が「高輪ゲートウェイ」ってのにも脱力することしきりでしたが、その是非はともかく、日本語が「カタカナ」という道具を利用してかくも融通無碍に、あるいは無節操に外語を取り入れやすい言語だというのは本当に興味深いと思うのです。いえ、決して嫌みでも何でもなくて、純粋にひとつの言語のありようとして。

タレントのルー大柴氏は、外語や外来語を過剰に取り入れた「トゥギャザーしようぜ」に代表される日本語「ルー語」で一世を風靡しましたが、お仕事の現場でも似たような方はたくさんいらっしゃいます。以前日本語をキー言語にしたリレー同時通訳で、英語→日本語の通訳者さんが「このアーティストのネクストサプライズはキャッチーでダンサブルなナンバーをコンピレートしたスペシャルアルバムです」みたいに、ほとんど英単語を「てにをは」でつないだだけ、みたいな訳出をされる方で、日本語→中国語、日本語→韓国語などの各ブースが大混乱……という現場に遭遇したことがあります。

カタカナ用語に苦労する華人留学生

留学生のみなさんも、この日本語にあふれるカタカナの外来語にけっこう苦労してらっしゃいます。欧米など英語圏の留学生も、日本語における外来語の「母音ベタ押し」な発音と原音との違いに苦労するのですが、華人(チャイニーズ系)の留学生はとりわけカタカナの外来語で四苦八苦しています。「ルー語」的なのはさすがに極端なのでこちらも対応は求めませんが、基本的な語彙、例えば外国の国名や地名などは仕事で頻出する割に上手く言えない華人留学生が多くて、一種の「鬼門」になっているのです。

これは来日歴の浅い留学生だけではなく、日本に住み、仕事をして十数年という「ベテラン」の華人のみなさんでもけっこう苦労してらっしゃるご様子。普段とても流暢な日本語を操っているのに、長ったらしいカタカナ用語だけはとても苦手とか、話すのはともかく、パソコンで打とうとするとなかなか正確に打てなくて、いっかな変換できない……といった場面をたびたび目にしてきました(最近は予測変換が発達しているのでずいぶん楽になっているようですが)。

国名や地名もさることながら、業種や業務によっては頻出するテクニカルターム(技術用語)も大変そうです。例えば先日使ってみたこちらの教材。Dyson社のドライヤーに関する商品レポートです。

youtu.be

こうした技術系の素材を留学生クラスで使うときは、まず資料を配り、オフィシャルサイトなども確認しつつ、グロッサリー(用語集・単語集)作りを行います。

髓質層:メデュラ(毛髄質)
皮質層:コルテックス(毛皮質)
表皮層:キューティクル(毛表皮)
光澤:ツヤ
彈性:ハリ
韌性:コシ
玻璃球熱感測試器:ガラス球サーミスタ
數碼馬達:デジタルモーター
微處理器:マイクロプロセッサ
……

とまあ、こんな感じで作り、さらに十分に口慣らしをするように伝えているのですが、それでもいざ訳出となるとかなり不正確な方が多いです。「それじゃ実際に現場に出たときに困りますよ」とは伝えるのですが、そこはそれ、良くも悪くも緊張感にはいささか欠ける心優しい華人留学生にはあまり響かないようで、笑ってごまかされちゃいます。

現代中国語にも外語や外来語はかなり入ってきているのですが、カタカナがある日本語のようにはいかず、外語をそのまま使っちゃうか、似たような音の漢字で表記するしかありません。例えば moter →馬達(「マーダー」という感じの音になります)のように。でも圧倒的に多いのは、やはり micro prosessor →微處理器のようにきっちり翻訳し切っちゃうタイプの語彙です。

こういう中国語のありようが私は好きですし、かつて明治期に国外から大量の新しい概念が入ってきたときの日本語にも同じような精神が生きていたはずなのにな……と「フィールドキャスト」や「シティキャスト」なる呼称を前にちょっぴり思うのです。

f:id:QianChong:20190129104602p:plain

愚直に楽しく語学を続けるために

先日、せっかく習い覚えた外語を忘れないために、ウェブ上の動画などを使って「聽說讀寫(聴く・話す・読む・書く)」を一応ひととおり鍛えられる方法をご紹介しました。

qianchong.hatenablog.com

あとは愚直にやるだけなんですけど、ディクテーションは少しずつ再生して聴いては止めて書いて、また再生して……という繰り返しが面倒なので、なるべく省力化したいところです。パソコンで書いていくなら、キーボードからずっと手を放さずにディクテーションしていける方法を作ると長続きしそうですね。

qianchong.hatenablog.com
qianchong.hatenablog.com

シャドーイングとリプロダクションは、スクリプトを見ずメモも取らずにやるので、手ぶらでできます。ですから通勤通学中とか、移動中の隙間時間でやるのがいいですね(あまり大声出すと周囲の方に振り向かれますが)。これはもう、スマホのアプリが便利です。音程を変えずに遅い速度でシャドーイングとか、任意のフレーズに切って何度もリプロダクションとか、いろいろな機能のついたプレーヤーアプリがあります。

qianchong.hatenablog.com

こうしたアプリは新陳代謝が激しいですけど、似たようなアプリが次々に出てくるので、ぜひ探してみてください。

Google音声入力の衝撃

ところで、ディクテーションは現在、GoogleDocumentの音声入力機能で自動的かつかなり正確にできるようになっちゃいました。

qianchong.hatenablog.com

よほど意思が強くないと、わざわざ自分でディクテーションする気にならないかもしれません。とんでもなく便利な時代になりましたが、とんでもなく愚直な語学学習がしにくい時代にもなりました。AIによる機械翻訳や機械通訳の実現が間近に迫っているなどと報道で取り上げられるたびに「じゃあ愚直に学んでも意味ないじゃん」と考えてしまう学生さんもいるようです。

ですが私は、語学は単にその外語を使えるようになることだけが目的ではなく、むしろ自らの母語を見つめ直し深化させることが真の目的だと考えています(同意してくださる方は少ないですが)。だからこれからも愚直に楽しく語学を続ける意義はなくならないと思います。ふたたび、ご健闘を祈ります。

qianchong.hatenablog.com
qianchong.hatenablog.com
qianchong.hatenablog.com

f:id:QianChong:20190128082642p:plain
https://www.irasutoya.com/2015/05/blog-post_85.html

語学と「恥」あるいは「芝居っ気」

日ごろ語学を教えたり、自らも生徒となって語学を学んだりしていてよく思うのは、語学学習の過程というのは一種の「演技」なんだな、ということです。

唇や舌や声帯を日本語とは違うやり方でぎこちなく用いながら、そしておそらく日本語を話している時にはあまり使わないであろう脳の一部を刺激しながら、発音し、統語を行い、先生やクラスメートとやり取りをする……これはまさしく「非日常」であり、お芝居ごとの世界です。

f:id:QianChong:20190127091406p:plain
https://www.irasutoya.com/2015/10/blog-post_270.html

外語と芝居っ気

明治から昭和にかけて、随筆家や俳人などとしても活躍したジャーナリストの杉村楚人冠(すぎむら・そじんかん)に『外國語と芝居氣』という文章があり、こんなことが書かれています。

年を取ると外國語を使ふのが馬鹿におつくうになる。(中略)これは老人の氣無性といふばかりではない。外國語を使ふといふやうな芝居じみた事がいやになつたのである。

わははは。楚人冠氏のこの文章じたい*1は、日本が国際的に孤立への道をひた走る中で英語教育の全廃を主張する内容で、今の感覚からすればとてもついて行けません。それでも「外国語は芝居」と喝破したのは、実は外語が達者だったという氏ならではです。さらには、こうたたみかけます。

つまり通譯などといふことは、一種の芝居であることが知れる。(中略)豈にひとり通譯のみならんや。總じて外國語を使ふのは、皆一種の芝居である。

そうですね。どなたかに成り代わって発言する通訳者*2にも適度な芝居っ気は必要ですよね。

どんな英語の達人でも、ドアに指をはさんで、痛いと思つた瞬間、それがロンドンの眞ン中でも『あ痛ツ!』といふ日本語が出る。それに相應する英語Ouch!といふ言葉がなかなか出るものではない。

うんうん。私も台湾赴任中、車の助手席に乗っていた時、前の車にぶつかりそうになって思わず「危ない!」と叫んだら、同乗していたクライアントさんから「へえ、やっぱり日本人だね。ずっと中国語をしゃべっていても、いざというときは日本語が出るんだ」と言われたことがあります。まあこれは、私がもっと語学の達人だったら中国語で叫んだかもしれませんが、母語ではない外語を操る自分は、やはり「かりそめの姿」なんですね。

恥を捨てる必要

芝居というもの、演劇というものは、人前に出て様々な表情を発露させるのですから、ある種「恥」を捨てることが求められます。ご本人が恥ずかしがって演技しているのを見る観客は、もっと恥ずかしくていたたまれなくなりますから。というわけで、演劇訓練の最初の関門は、この恥を捨てられるかどうかにかかっていると思います。

そのために私が通っていた大学の劇研では、キャンパス内の広場に一人で立ち、行き交う学生や教職員の前で大声で自己紹介する……などということを新入生に課していました。いやはや、はた迷惑というか何というか。でも他の大学の劇研ではさらに過激に、山手線の車内で服を全部着替えるなんてことを課していたそうです。ここまでくると「恥」を捨てるのが目的なんだか、単に奇矯な行動なのか区別がつきませんが。

閑話休題

いま私が勤めている専門学校では、日本語や通訳技術を学ぶ留学生のカリキュラムに演劇訓練を取り入れています。これもひとえに語学や通訳には多分の「演劇性」が含まれていることを踏まえたものです。そこまで行かなくても、大概の語学訓練では状況を設定してのロールプレイや、大声で発音したりリピートしたりといった練習が含まれていますよね。そこで恥ずかしがっていては語学の上達はおぼつきません。

語学教師の役割

そして教師として観察していると、やはり恥を捨てて演技に徹することができる方は、語学の上達も速いように感じています。先生や音声教材の発音をとことん「モノマネ」できる方、恥ずかしがらずに大声で話そうとする方、ロールプレイでも実際の自分の状況とは違う架空の自分を作り上げて*3、どんどん会話練習に励む方……。そういう方はどんどん伸びていきます。

通訳訓練でも、実際にはお客様が目の前にいないのに、あたかも目の前にいるように相手に語りかけるように訳すことができる人は上達が速いです。そういうバーチャルな環境を目の前に自然に立ち上げられるかどうか、そういった資質は語学の出来不出来にかなり影響しているのではないかと思うのです。

よく帰国子女が日本の学校で英語の授業に出ると、そのあまりに「ネイティブっぽい発音」に周囲が笑い、それを嫌がってわざわざ母音をひとつひとつ判で押すようなベタベタの日本風英語に寄せてしまうといった話がありますが、こういうところはいかにも同調圧力の強い日本社会ならではの現象で、本当に残念です。むしろ周囲の生徒が率先して、面白がりながら演じるような気持ちで「ネイティブっぽい発音」に寄せていけばいいのにね。

そして教師の役割(おお、まさに「役」です)はそうした「芝居っ気」をもっと焚きつけてあげることじゃないかと思うのです。……ということはつまり、教師自身にある種の芝居っ気が必要ということですね。もちろん「やりすぎ」は禁物ですが。私? 私はいつも芝居っ気が過ぎるので、もう少し抑えてくださいと言われています。

*1:資料日本英学史 2 英語教育論争史』所収。

*2:あまり知られていないことですが、通訳をする際には基本的に一人称で訳します。つまり「〜と言っています」とか「この人が言いたいのは〜」などと三人称で訳すことはまずありません。

*3:例えば自己紹介をしてみましょうというロールプレイで「何人家族ですか?」と聞かれても「私は独身ですから」とか「そういうプライベートはちょっと……」などとおっしゃる方が時々いますが、なんてもったいない。ここは十五人くらいの大家族で暮らしてます〜、犬や猫もいっぱいいます〜、みたいな設定を作って、どんどん話すのが吉です。

大きな声では伝わらないかもしれない

留学生に課題や練習方法の説明をしたり、教務(事務局)からの連絡事項を伝えたりする際、みなさん「聞いちゃいねえ……」と感じることがよくあります。若くて元気いっぱいだから、いつも教室は「わいわい」していて、なかなか注目してくれないということもありますが、「あれだけ説明したのに、全然伝わってない」と脱力することもしばしばです。

先日も字幕翻訳のクラスで、字幕翻訳ソフトの使い方や字幕のルールなどを実演しながら説明して、じゃあグループに分かれて実習してみましょうということになったのですが、あれだけ噛んで含めるようにいろいろと説明したにも関わらず、スポッティングはテキトーだわ、画面をはみ出すほど長い字幕を作っちゃうわ、句読点を使っちゃうわ、文体が統一されてないわ……等々ですったもんだ。同僚の先生とあちこち駆けずり回って、同じような説明を繰り返す羽目に陥りました。ま、毎年のことなんですけどね。

留学生の日本語リスニング能力がまだ低いのかなとも思いますが、いえいえ、みなさん最低でもすでに来日三年目で、日本語が聴き取れていないということはなさそうです。別途刷り物も配っていますし。もちろんこちらの説明手法が拙いのではという誹りは甘んじて受けますが、最近、生徒が「聞いちゃいねえ」一番の大きな理由は私が「大声で話すから」ではないか、と思い至りました。

私は声が大きいです。もともと大学で「劇研」やってて地声が大きかったところに持ってきて、通訳訓練の一環でアナウンス学校やボイストレーニングに通ってさらに大きな声に磨きがかかり、電話をかけた相手は受話器を耳から遠ざけてしまうほど。語学学校では周りの生徒さんが慎ましやかに小声で発音練習している中でひとり大きな声を張り上げ、先生から「みんなもっと声を大きく! あ、あなたはもう少し小さくていいからそのぶん丁寧に」と言われました。

留学生のクラスは多いときだと40名くらいいるので、教室の隅々までハッキリ聞こえるよう、私は声を張り上げていたのですが、どうも大声で話せば話すほど、みなさん耳を閉じてしまうみたいなんですね。端的に言って「うるさい」からかもしれませんし、特段注意を払わなくても声が聞こえるので、そのぶん集中しなくなるのかもしれません。とにかく大声で語っても、伝わらない。ということで、先日、意図的に小さな声で、しかしとても重要なこと(期末試験の範囲など)を話してみたのです。

……そうしたら。

みなさん、聞く聞く。耳をそばだて、こちらに意識を集中させているのが手に取るように分かります。おしゃべりしているクラスメートにも「しーっ!」「老師在講呢(センセが話してるぞ)」とか注意してくれちゃったりして。

なるほど、旅人のコートを脱がそうと北風が強く吹けば吹くほど、旅人は襟元をしっかり抑えてしまい逆効果になる……というイソップ寓話を思い出しました。「今さらかよ!」という感じですが、パブリックスピーキングは単に声が大きければいいというものではないと、ようやく悟ったのでした。

f:id:QianChong:20190124134818p:plain
https://www.irasutoya.com/2018/05/blog-post_138.html

自分ひとりで生きようとすること

先日、NHKの「ニュース9」で「九州大学 ある“研究者”の死を追って」という特集を放送していました。概要はこちらの特設ページで読むことができます。

www3.nhk.or.jp

この特集は昨年の暮れに放送されたドキュメンタリー番組「事件の涙」を元にしたもので、多くの方のコメントがついています。「ニュース9」での放送後にもTwitterなどでは多くのツイートがなされていました。

www.nhk.or.jp

コメントやツイートのなかには同じ研究者や大学院生、ポスドクの方、あるいは親御さんたちから「他人事ではない」「明日は我が身」といった共感や同情が多く見られます。私は研究者でも何でもありませんが、派遣や非常勤といった形態で働いてきた経験が多く、失業したことも何度かあるので、やはり共感や同情とともにこの報道を見ていました。

他の国はどうだか分かりませんが、日本の大学や専門学校などでは常勤職員が数多くの雑多な事務作業をこなしていて、研究や教育だけに専念できるという環境は少ないようです(初中等教育の先生方も、その超過労働がたびたび問題視されていますね)。ですから常勤は常勤で大変なのですが、収入の安定という点では恵まれています。学校にもよりますが、ボーナスや退職金があり、有給休暇や学期間休み、さらにはサバティカルみたいなものも取ることができます。

その一方で非常勤は、それも週に数コマしか授業を持てないとなると、当然ながら生活のために複数の学校で授業を掛け持ちせざるを得なくなります。授業をコマで受け持っているといっても、授業に関する業務はそのコマの時間内だけできっちり終わるものではありません。教材を作り、教案を練るのは当然のことながら授業の時間外ですから、結局のところ時間外労働が発生してしまう。そうした作業にかかる経費をすべて学校側に請求できるかといったら、必ずしもそうはいきません。

私も現在非常勤でうかがっている学校がありますが、こちらはかつて在職されていた先生方の働きかけで学校側と交渉を行い、コマ当たりの講師料のほかに、自宅などで行う教材作成にも一定の報酬を設定していただいています。労働が発生しているのですから当然と言えば当然なんですけど、その当然なことがいずれの学校でも行われているかというと、残念ながらそうではない。学校までの交通費にしても、私がこれまでに勤めた学校では、出るところと出ないところがありました。

非常勤講師の時給

実際のところ、非常勤講師の時給はどれくらいなのでしょうか。私は中国語に関する講師をしてきましたが、以前勤めたことのあるいくつかの学校では、いずれも時給は3000円程度でした。教材作成費などは基本、出ませんでした。交通費は上記のように実費が出るところと出ないところがあり、まちまちです。でも、いま試みにGoogleで「中国語講師 時給」と検索をかけてみたところ、こんな結果が出ました。

f:id:QianChong:20190124104807p:plain:w600

1600円、1500円、1400円ときて、中には1000円から、というところも。まあこれは経験や勤続年数によって増えていくということなんでしょうけど、全体のレートは通訳や翻訳と同様に、どんどん下がってきている印象ですね。これは中国語講師の時給ですが、「英語講師 時給」で検索をかけてもそれほど大差ない結果が出ました。う〜ん、松田青子氏の小説『英子の森』で描かれた、この国の語学スキルに対する低評価に思わず天を仰ぎますが、さらに「塾講師 時給」で検索しても、これまた大差ない結果が出るので、これはもう非常勤講師全体の時給相場ということになるのでしょうか。

qianchong.hatenablog.com

もちろん、すでに豊富な経験があったり、特殊な技能の講師ということであったりすれば、また違った相場が存在するのも確かです。また1600円の時給だって、一般のパートやアルバイトに比べれば十分高給ではないかと感じる方もいるかもしれません。でも、上述したように授業以外にも膨大な作業が発生する講師業は、単に時間で「はい、ここまで」と労働を打ち切ることができる作業とはかなり違った側面を持っています。その労働に見合った時給であるべきですし、最低でも授業のコマ以外の作業時間(労働時間)にも一定程度の報酬が設定されるべきですよね。

K氏の自殺に思うこと

冒頭の放送に寄せられたコメントやツイートと同じように、私もK氏の自殺に対しては胸ふたぐ思いですが、自殺というやむにやまれぬ、でも最悪の結末を選んでしまったことについては、もう少しその生き方を変えることができなかったのだろうかと思えてなりません。番組の中で、K氏の大学院時代の先輩がこんなことをおっしゃっています。

ただ単に食っていくだけだったら、そこそこにやればよかったのかもしれないけど、授業するということが、最後の生きがいだったのかもしれませんね。

そう、これは自戒でもあるのですが、「そこそこにやる」という姿勢を極端に排除してしまう心性が、心の闇を引き寄せてしまうのではないかと思うのです。特に研究者や、研究者でなくても学究肌の人が往々にして傾斜していく「無謬性の追求」という心性が。もちろん、手抜きや不誠実を推奨するわけではありません。ただ、自分の進む道はこれしかない、これ以外はすべて間違っていると過度に無謬性や純粋さを追い求めてしまうとしたら、かえって人間の自然なあり方から遠ざかることにはならないでしょうか。

「世の中そんなもん」といった雑駁な世界観に収斂してしまうのは本意ではないのですが、K氏は自ら掲げた「研究者になる」という理想にあまりにも一途でありすぎたのかもしれません。理想に一途であることは崇高ではありますが、その一方で現実世界と折り合いつつ清濁併せ呑む胆力のようなものも必要だと思います。夢や理想を追い求めている人に現実を説くのは、野暮であり、お節介であり、無神経でもあるかもしれませんが、時には誰かがその冷徹な現実を伝える役割を果たすべきなのかもしれません。

そして自分ひとりで生きていこうとせず、頼れるものには頼る、頼れる人にも頼る、頼って助けてもらった恩はその先の人生のどこかでまた誰かに返していく……といった長いスパンでのものの見方も養っていくべきではないかと。その意味では、K氏にとってそんな「持ちつ持たれつ」の人間関係が希薄だったことも、自分を追い詰める要因のひとつになったのかもしれません(番組では、K氏を支えていた方々が幾人か証言されていましたが)。

その意味でも、これまでいろいろな人や物に頼ってきた私は、今度は誰かに手を差し伸べる存在にならなくては……と、この放送を見て思ったのでした。

学んだ外語を忘れないようにするために

ある留学生からこんな質問を受けました。

センセは中国や台湾で暮らして中国語を学んだあと日本に戻ったそうですけど、その中国語をどうやって忘れないようにしていますか。

おおお、いいご質問です。確かに語学は筋トレのようなもので、外語はいわばその結果身についた筋肉ですから、鍛えるのをやめてしまうと、どんどん衰えていきます。そこで私はネット動画を使って「語学の筋肉」が落ちないようにしてきました。具体的には一つの動画を、①ディクテーション、②スラッシュリーディング、③音読、④シャドーイング、⑤リプロダクションするのです。これで「聽說讀寫(聴く・話す・読む・書く)」を一応まんべんなく鍛えることができます。

YouTubeにあるこちらの動画を使ってみます。

youtu.be

①ディクテーション

映像も参考にしながら、音声を書き取ります。手書きでもパソコンでも。聴き取りにくいところも、文章の前後から判断するなどして何とか埋めます。語順が比較的厳格な中国語の場合(英語もそうですね)、前後で判断して「ここは副詞のはず」とか「ここには名詞が来るはず」などと推理します。これには知らず知らずのうちに文法力がつくというおまけがついてきます。

f:id:QianChong:20190123133712p:plain:w600

②スラッシュリーディング+③音読

書き取った文章を、句読点や意味が大まかに切れるところにスラッシュ(斜めの線)を入れながら読んでいきます。最後まで入れたら、文章を音読します。

f:id:QianChong:20190123133531j:plain:w600

シャドーイング

スラッシュリーディングした文章を見ないでシャドーイングします。スピードについて行けない場合は、遅めのスピードからはじめて(音声再生アプリなどには、声のピッチを変えずにスピードを調整できる機能がついています)、でも最終的にはナチュラルスピードでついて行けるようになるまで繰り返し練習します。

⑤リプロダクション

スラッシュリーディングした文章を見ないで、リプロダクション(リピート)します。リピートする範囲は、スラッシュリーディングで切ったフレーズ単位からはじめて、最終的には一文まるまるリピートできるようになるまで繰り返し練習します。

……

一本のネット動画を使って「一粒で二度おいしい(このキャッチフレーズをご存じの方はたぶん四〜五十代でしょうね)」どころか何度もおいしくいただくわけです。もちろんこのあとさらにサイトラ(文章を目で追いながら、口頭で訳していく)やサマライズ(文章全体を要約する)など行っても「おいしい」です。

……とまあ、こんな方法をくだんの留学生に伝えましたが、ご参考になったかしら。

いままでに何人もの学生さんから同じような質問を受け、同じようにお伝えしてきたのですが、愚直に全部なさった方はほとんどいません。わははは、地味で面倒臭いですもんね。でも語学って、もともと地味で面倒臭い作業の繰り返しなんですよね。私の恩師の言葉を借りれば「泥臭い」作業の積み重ねが必要なんです。ご健闘を祈ります。

f:id:QianChong:20190123142349p:plain
https://www.irasutoya.com/2014/12/blog-post_810.html

「30歳の段階で貯金ゼロだった」をめぐって

こちらはTwitterのタイムラインで偶然目にした、ちきりん氏のツイートです。

わはは、私もそうでした。貯金ゼロどころか親や知人に借金までありました。美術大学を卒業して(当然のごとく)路頭に迷って、5年ほど九州の田舎町で農業のまねごとなどをしていたのですが、それもたち行かなくなって東京に舞い戻り、小さな出版社に勤め出したのがちょうど30歳の頃でした。給与はあっても、いつも「かつかつ」で、会社がある街の通りを歩きながらよく「ここを行き交う人々のなかで、自分が一番お金持ってないだろうなあ」と自虐に沈んでいたことを思い出します。サラリーマンだったのに、会社に営業に来た某信販会社のカード審査に落ちたのもいい思い出です。営業に来ておいて、申し込んだら落とすんだもの、ひどいですよね。


https://www.irasutoya.com/2017/08/blog-post_880.html

それでも、「自己投資」などという意識は全くなかったものの、中国語にハマって(中国語に限らず、語学はハマると抜け出せないほどの魔力を持っているようです)そこにだけはお金を使っていました。けっこうブラックな会社だったのに、残業を早朝出勤でクリアしつつ、よく週3回も学校に通えたもので、若いときの体力って、すごいです。その当時は中国語を仕事にするなど考えたこともなく、クラスメートとも「趣味だから楽しいんだよね。仕事にしちゃダメだよね」と言い交わしていました。

それが結局仕事になってしまったのは単なる偶然ですが、お金は、特に若いときのお金は、貯蓄にだけ回すのではなく自己投資に使えというちきりん氏のご意見には大賛成です。そしてそれは、中高年になっても基本的に同じではないかと思っています。これから先、あと何年稼いでいけるかを考えると、ついつい長い老後が不安になって守りの態勢に入り、貯蓄にいそしむようになるのが人情だとは思いますが、自分の現在のスキルがいつまでも売れないからこそ、新しい学びが、そのための投資が必要なんじゃないかと。

昨日の新聞朝刊に「万が一のとき、身の回りを整理し、他人に迷惑をかけない程度の資金くらいは遺したい」という惹句で、月々ワンコイン(500円)程度から加入できる掛け捨て死亡保険の全面広告が載っていたんですけど、こんな定期出費をするくらいなら、私はネットの古本屋さんでも渉猟して、新しい学びを得る方に使いたいです。

キット・アームストロング氏の音楽

バッハに「パルティータ」という曲のシリーズがあります。バッハのなかでも特に好きな作品で、グレン・グールドが弾くそれは愛聴盤(ストリーミング時代に「盤」もおかしいですが)として繰り返し聴いています。

open.spotify.com

ところが先日Spotifyで、これまでに聴いたことのないタイプの「パルティータ」に出くわしました。たまたまそれは第1番の第6曲目「ジーグ」だったのですが、この曲はグールドを含めて数多のピアニストがその超絶技巧を余すことなく発揮して、言うなれば「ドーダ(©東海林さだお)」的にアグレッシブな演奏であることが多い(例えばこちらのページには6名のピアニストによる演奏がまとめられています。)なか、この「ジーグ」はとても繊細かつエレガントで、天上から静かに雪が降ってくるかのようだったのです。

あまりにも繊細なので、聴く方によっては「弱々しい」と感じるかもしれない……と思えるほどの演奏をしているそのピアニストのお名前はキット・アームストロング氏でした。

open.spotify.com

キット・アームストロング氏は、ウィキペディアによると台湾系のアメリカ人なんですね。「周善祥」というチャイニーズ・ネームもお持ちのようです。それはさておき、「パルティータ」にびっくりして、Spotifyで次々に聴いていくうちに、すっかりその音楽世界に魅了されてしまいました。

音楽の専門家でもない私があれこれ言っても始まりませんが、氏の演奏はかなり独特だと思います。強さと速さが前に出る演奏ももちろんあるのですが、私は小さな音でゆっくりと奏でられる部分によりひかれました。例えばこちらの「ゴルトベルク変奏曲」。私はこの曲も大好きで様々なピアニストの演奏をコレクションするように聴いてきましたが、キット・アームストロング氏ほど様々な表情と緩急に富んでいる演奏は初めてでした。これぞ「変奏曲」と呼ぶににふさわしい千変万化ぶりなのです。

tower.jp

奇しくも先日、東京新聞に氏の音楽評が載っていました。なるほど、かなり天才肌の方のようですね。この記事を読んで、さっそくリサイタルのチケットを予約してしまったのは言うまでもありません。

f:id:QianChong:20190115223128p:plain:w600

茶髪や髭面はだめなの?

今朝の東京新聞に載っていた、ラグビー全国大学選手権に関する記事。明治大学が二十二大会ぶりに優勝を果たした要因には元監督による「競技外での指導」があったという「美談」です。

f:id:QianChong:20190121082100j:plain

以前の明大ラグビー部合宿所では玄関に履き物が脱ぎ散らかされていたのを、きちんと並べるように指導したとのことで「改善前・改善後」の写真が。なるほど、これはすっきりしましたね。ほかにも夜更かしを戒めたり、大学の授業にもきちんと出るよう促したり、校歌や部歌を練習させたりして「名門にふさわしい振る舞いを」求めたというお話。

アスリートはただ競技にだけ集中すればいいのだ、と考えるのではなく、普段の立ち居振る舞いから規律と礼儀を重んじようというこうした指導はいかにも日本的な同調圧力のように感じるかもしれませんが、海外のプロスポーツでも、特に名門とか一流と呼ばれるチームでは「競技外でもきちんと」というのはよくあるんだそうですね。例えば遠征の移動時に「制服」のようなオフィシャルスーツやユニフォームで揃え、てんでバラバラの私服は御法度、とか。

https://qoly.jp/2016/02/05/barcelona-casual-wear-by-replay

もう十年以上前になりますが、アジアリーグ・アイスホッケーで通訳のお仕事をしたことがありました。現在は参加していないようですが、当時は中国のプロチームも参戦していて、長春や斉斉哈爾(チチハル)の遠征チームに帯同して日本国内を転戦していたのです。日本のプロチームが中国へ遠征する際にも帯同したことがあって、日光アイスバックスというチームと一緒に中国にも行きました。

その際、このチームのシニアディレクターを務めていたセルジオ越後氏から聞いたお話が興味深かったです。いわく、以前のチームは遠征の際にもみんな私服で移動していた。なかにはジャージ姿で飛行機に乗る選手もいた。それではいけないと「プロとしての心構え」を説き、まずは遠征の際にスーツ姿で移動するようにした……と。

number.bunshun.jp

なるほど、運動選手と言えば、それもラグビーやアイスホッケーのように激しいスポーツの選手はとかく無頼なイメージがつきまといますが、メディアを通してその姿が広く伝わるレベルのチームであれば、社会人としてごく当たり前の儀礼プロトコルは不可欠ということなんでしょうね。これはまあスポーツに限らず、どんな仕事でも同じかもしれません。

冒頭の記事はその意味で清々しい印象を持ちましたが、記事の最後には少々首をかしげました。

決勝直前。ピッチに並ぶメンバーだけでなく、客席の仲間たちも起立して校歌を大声で斉唱した。茶髪やひげ面は皆無で、誰もが誇らしげな表情だった。

ん? 茶髪や髭面はだめなの? たぶん記者氏は「茶髪や髭面はだらしない」という価値観なのだろうと思われますが、これはどうかなあ。一事が万事という考え方もできますが、下駄箱や身なりを整えるよう求めるのと、個人が頭髪や髭を自由にするのを諫めるのとでは、方向性がちょっと違うのではないかと思いました。高校野球における坊主頭の強要や、先日話題になっていたこの大阪市における訴訟と同根のような気がします。

www.huffingtonpost.jp

個人の自由を最大限尊重することと、儀礼プロトコルを重んじることを両立するのは不可能ではないと思いたいのです。茶髪や髭面でも、生活態度は折り目正しいとか、遠征時には公式スーツをピシッと着込んでるとか、そういうのが最高にクールだと思うんですけど、理想論に過ぎないのかな。

なぜ運動選手がジムに通うのか

仕事でいくつかの場所に出向いたり、何かの集まりに参加したりする際、そこで会う方が同年代であった場合に必ずといっていいほど健康や体調の話になる——いやはや、情けないというか、イヤなお年頃になったものです。

でもまあこれは仕方がありません。この年代になっても若い頃と変わらず元気で「イケイケどんどん」という奇特な方はさておき、若い頃にはあり得なかった身体の不調や、わけの分からない「不定愁訴」に悩まされている人にとってみれば、つい誰かに話して話題を共有し、自らをなぐさめると同時に「みんな同じなんだ」という一種の安心感を得たくなるのは人情というものでしょう。

だいたいこの問題は、一人で悶々していても埒があきません。不調に苛まされて、パソコンで「身体の不調」や「不定愁訴」や「更年期障害」や、そうした症状を改善するための生活習慣などの検索を続けていると、Google AdSenseにめざとく察知され、ブラウザ上に何やら怪しげな「回春系」サプリメントの広告が頻出するようになります。だったら同じ悩みを持つ同世代の方々とたくさん話して、できることから変えていく方がよほど心身ともに「健康的」であるような気がします。

私の場合は「事ここに至っては、食事やサプリメントや、整体やマッサージやカイロプラクティックなどの『受け身』な方法に身を預けるだけでは改善しない」ことを悟って、自ら身体を動かすに如くは無し、という結論に達しました。以来、週に二回から三回のジム通いと平日の節酒を続けていまに至ります。効果はてきめん! と胸を張りたいところですが、不定愁訴から完全に脱却できたわけではありません。それでもほとんど何も対策を講じていなかった一年半ほど前に比べたら、ずいぶん元気になったと思います。

qianchong.hatenablog.com

昨日はジムでトレーニングしながら、メニューのインターバル(小休止)に周りでトレーニングされているプロやセミプロや大学生のアスリートを眺めていて、ある疑問が浮かびました。

なぜ運動選手がジムに通うのか。

バカな質問だと思われますか。その道のプロなんだから、いわば仕事の道具とも言える自らの身体を調整するためにジムに通うのではないかと。でも、アスリートは普段その仕事でじゅうぶんに身体を動かしていますよね。なのに、この上さらにジムで身体をいじめるのはなぜなのか、興味深いなと。

それはもちろん「故障」を防ぐためであり、より高い身体的スキルを発揮できるようになるためなんですが、普段お仕事として身体を動かし続けているアスリートでさえ、こうして仕事以外の時間にもトレーニングや調整を欠かさないというのは、なんだかとても示唆的だなと思いました。ならば、普段運動から遠ざかっているオフィスワーカーはなおさら運動しなきゃまずいのではないかと思ったのです。

もっとも、これは私が子供の頃からの大の運動嫌いだったからこの歳になって初めてそう気づいただけのことで、一般のオフィスワーカーはとっくに運動を生活の一部に取り入れて、せっせと身体を動かしているんですけどね。ジムのトレーナーさんには「オフィスでのデスクワークは、ある意味身体に悪いことをし続けているようなものですから」と言われました。いやホント、その通りだと思います。

f:id:QianChong:20190120161532p:plain
https://www.irasutoya.com/2014/10/blog-post_659.html

留学生と原稿用紙

仕事で留学生の作文を添削することがあるのですが、原稿用紙を使って書く際に、拗音や促音をこんな感じで一つのマス目に入れちゃう方がけっこういます。数えているわけではありませんけど、個人的な感覚ではこういうふうに書く方は全体の半分くらい、という感じ。しかも洋の東西を問わず、です。

f:id:QianChong:20190118145113j:plain:w400

拗音は、これは五十音を学ぶときにも一つの「拍」で捉えたりするので(たとえば「や・ゆ・よ」と同じように「きゃ・きゅ・きょ」と)、一つのマス目に詰め込んで書いちゃうのも分からなくはありません。でも促音は、小さな「っ」も拍で捉えるので(たとえば「きっと」だったら「き・っ・と」)、マス目も三つ使って書きそうなものですが、やはり上の写真のように書く方が多いんですよね。

日本語教育専門の先生にうかがったら、学校にもよるけれど、拗音も促音も、書き方はこんな教材を使うなどして、きちんと教えるんだそうです。

f:id:QianChong:20190118180558j:plain:w200 f:id:QianChong:20190118180631j:plain:w200

ということはつまり、原稿用紙を使った作文を教わったかどうかの違いということですかね。そしてけっこうな数の留学生が拗音や促音を一つのマス目に詰め込んで書いちゃうということは、昨今の日本語学校では原稿用紙を使った作文はもうあまり教えなくなっているということなのかな。

あと面白いのが、台湾出身の留学生が原稿用紙で作文をすると、句読点をマス目のど真ん中に打つ方が多いです。これは台湾の正書法(といっていいのかどうか分かりませんけど)がそうなっているからですよね。私も台湾で仕事をしていた頃は公文書などでそのスタイルをよく見かけました。

f:id:QianChong:20190118182359j:plain:w300

また中国語圏の留学生は、段落の文頭を「二文字あけ」にする方がかなり多いです。これも中国語の文章では一般的にそれが正式だとされているからで、日本語では「一文字あけ」だということをきちんと教わったことがないからなんでしょうね。

f:id:QianChong:20190118182943p:plain:w300

まあ、いまはソフトやメールなどで文章を書くことがほとんどの時代です。メールでは段落の「一文字あけ」もしないことがほとんどでしょうし、そもそも原稿用紙で書くということそのものがかなり廃れてきているので、こういった現象も仕方がないのかなと思います。でも、入試や入社試験などでは(少なくともこの国では)まだまだ原稿用紙で書かせるところもありますから、できればきちんと知っておくに如くはなし……ということで、こうしてせっせと添削しているのです。

下定決心,不怕犧牲。

華人留学生の通訳クラスで、教材に「爭取清真的商機」というフレーズが出てきました。「清真」は「イスラム教の」という意味で、「商機」は商機、つまりビジネスチャンスのことですから、いまふうに言えば「ハラールビジネスのチャンス」とでも訳せるでしょうけど、かんじんの動詞の「爭取」をどう訳すかで、留学生のみなさんはいろいろ悩んでいるようでした。

中国語の「爭取」は、「努力して勝ち取る」といったようなアグレッシブな語感のある言葉ですけど、何事にも穏やかでのんびりとした留学生のみなさん(でもその反面、悪くいえばハングリーさにやや欠ける)は「爭取」にふさわしい強い語調の日本語を思いつかなかったようなのです。そこで私が「中国に『♪下定決心不怕犧牲……』って歌があるじゃないですか、あんな感じの強い意志ですよ」と言ったところ、みなさん「ぽかん」としていました。

え、あの歌をご存じない? 台湾の留学生が知らないのは当然でしょうけど、中国の留学生も全員が「聴いたことない」と言っていました。そうか〜、あの歌もすでに「前世紀の遺物」カテゴリーに入ってしまいましたか。まあ、無理からぬところではありますけれど。

「下定決心,不怕犧牲,排除萬難,去爭取勝利(決心を固め、犠牲を恐れず、万難を排して、勝利を勝ち取ろう)」というのはもともと毛沢東氏の有名な演説「愚公移山(愚公山を移す)」に出てくる言葉で、毛主席語録(毛沢東語録)にも入っており、さらには曲がつけられ、革命歌曲として文革時などには広く歌われました。

cpc.people.com.cn

f:id:QianChong:20190117115850j:plain
https://pin.it/voudhpw6mbxw75

youtu.be

途中で「下定決心! 不怕犧牲!」とかけ声が入るのもなかなか勇ましいです。私、かつて日本のブラック企業で、中国人職員の立場の弱さにつけ込んで会社が社会保険未加入だった(そんな時代もあったのです)のを、個人ユニオン作って労基署での団交に持ち込んだ際、同僚と冗談でこの歌を歌って爆笑してたんですけど(ま、笑ってる場合じゃありませんし、「愚公移山」は日本の侵略戦争末期に行われた演説ですから少々不謹慎でもあるのですが)、それくらい人口に膾炙した歌だったのです。

この歌はある種「(共産主義の)大陸中国」的アイコンとして広く知られるところとなっていて、周潤發(チョウ・ユンファ)氏の映画『公子多情』で替え歌がコミカルに用いられ、それがまた別の歌手にカバーされ……みたいなことが起こっています。こんな感じで↓。ある意味ノリのいいこの歌は、どこか人の心を捉えて放さないものがあるのかもしれません。

www.setn.com

……てなことで、まあ脱線はここまでにしまして、授業では一応の訳として「ハラールビジネスのチャンスをしっかりつかむ」となりました。「爭取」に内包されている強さ・激しさみたいなものが表れていないような気もしますが、まあ、あの歌もこうして忘れられていく現在、そこまで強さを求めなくてよいのかもしれませんね。