インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

運命 文在寅自伝

むかしむかし、中国の大学に留学していた頃、寮のルームメイトは韓国人の青年でした。とても真面目で親切な方で、年上の私を気遣って接してくれる*1ものですからこちらが恐縮してしまうほどでした。その縁で同じ留学生寮に住む別の韓国人留学生の部屋に遊びに行ったりもしていました。

あるとき、その韓国人留学生の部屋で「飲み会」をしていて、私が好きな韓国の映画や音楽や食べ物の話などをしてみんなで盛り上がっていたら、とある韓国人留学生がぽつりとこんなことを言いました。「どうしてほかの日本人留学生は、韓国のことをほとんど何も知らないの?」。虚を突かれた思いでした。「知らない……って?」

当時、私が留学していた大学には数百人の日本人留学生がいたのですが、日本人留学生から韓国の話題を振ってくることはほとんどないというのです。あんたは韓国にそれなりに興味があるようだけど、そういう日本人留学生は少ない。それはなぜかという問いでした。

私はたまたま在日韓国人の知人や友人がいて、韓国語をかじったこともあり、韓国の映画や音楽が好きだったというだけなんですけど、そうか、韓国の方々が日本に寄せる興味の度合いほどには日本の我々は韓国に興味を寄せていないのかと思いました。まだ「韓流ドラマ」や「K-POP」などが人気になる前の時代のことです。

何十年も前のこんなやりとりを思い出したのは、文在寅ムン・ジェイン)氏の自伝『運命』を読んだからです。前大統領の朴槿恵(パク・クネ)氏が弾劾された後の選挙で勝利し、大統領に就任した文氏。その後南北首脳会談を二度にわたって実現させ、さらには北朝鮮キム・ジョンウン氏と米国のトランプ氏による会談をお膳立てするなど、大きなニュースが続いています。板門店の遊歩道で行われた、キム・ジョンウン氏との二人だけの対話シーンは非常に印象深いものでした。


運命 文在寅自伝

この自伝を読むと、今に至るこれまでの文在寅氏の歩みには、盧武鉉ノ・ムヒョン)元大統領の存在が大きく関わっていることがわかります。2009年に自ら命を絶った盧武鉉氏。その死に立ち会ったエピソードから筆を起こし、生い立ち、兵役での体験、弁護士としての活動、そして政治家としての仕事が詳述されていきます。

特に盧武鉉大統領に側近として使えた「参与政府」時代の様々な政治的な課題についての記述が半分近くを占めており、政権交代が実現した後のリベラル陣営が直面する光と影について、私たちの国も他山の石となすべき事例がたくさん詰まっているように感じました。ですが、私はやはり、学生運動から人権派弁護士を志すまでの歩みや、一番過酷だと言われる空挺部隊での兵役、さらには盧武鉉氏が自殺を遂げた後の一連の行動を綴った部分に大きく心を動かされました。

……いや、それにしても。国情も歴史的な背景も違うのだから安易で拙速な比較は無用と自らを戒めつつも、そしてまたこれは評伝ではなく自伝なのでそれなりの留保は必要だと思いつつも、一国の指導者という存在における彼我のあまりの違いに、私はこの本を読みながら何度も宙を仰ぎました。

政治家や、その政治家が行う政治については、心砕かれることも多いのが常です。それでも私たちは少しでもそこに希望を見いだしたくて、様々な場所で発言し、発信し、選挙にも行く。少しでも真っ当な政治家が、そして政治が登場してほしいという思いからです。文在寅氏の執政が今後どう展開し、どう評価されていくかは分かりませんが、あの光化門広場での「ろうそく集会」や各地のデモを重ねた末に文在寅氏を登場させた韓国の人々にある種の憧憬を覚えます。いやいや、単に憧れている場合じゃないのですが。

この本には韓国マスコミの負の側面や、政界におけるソウル至上主義のようなものについても疑問が呈されており、この点についても日本と共通する問題の存在を感じました。特にマスコミの報道については、仕事仲間の韓国人によると、韓国の保守マスコミの論調を日本のマスコミが敷衍し、それが韓国に逆輸入されて現政権批判(しかも「ためにする批判」)に使われている節もあるとのこと。

日本版には文在寅氏による日本の読者に向けた序文と、巻末にこの本の出版以降の経緯と背景をまとめた権容奭氏(一橋大学教授)による解説がついています。この解説には、文氏の愛読書からその哲学と政策を読み解く『文在寅の書斎』という本が紹介されているのですが、そこに収録された十二冊の書籍のうち二冊が日本のものなのだそう*2。日本側の政治家に多い夜郎自大で突き放したような態度とは対照的に、幅広く様々な声に耳を傾けようとする姿勢が感じられます。

韓国現政権のこうした背景やその成立の経緯もふくめ、日本人は韓国の現状をあまりにも知らないのではないかと思いました。昨日日経ビジネスオンラインで読んだこちらの記事のように、マスメディアの論調もやや意地悪なスタンスのものが多い。北朝鮮をめぐって様々な問題があることは承知していますが、なんといっても日本はこれらの問題の発端を作った国なのです。私たち一人一人がかの国のことをもっと知り、韓国と手を携え肝胆相照らし合って平和的統一のための努力を共になすべきでしょう。

*1:例えばお酒を飲むときは横を向いて、飲む口元を手で押さえるなど。韓国の方はよくこの動作をされますね。

*2:雨宮処凜氏の『生きさせろ――難民化する若者たち』と塩野七生ローマ人の物語』です。

フィンランド語 26 …自己紹介

動詞も名詞も形容詞も、さらには主語や代名詞までもがどんどん変化するフィンランド語。定型文をひたすら覚えるという「戦略」が効かない言語ですが、自己紹介の定型文だけは作って覚えておけば役に立つのではないかと思いました。

中国語を学んでいるときも、初級クラスでは自己紹介をひと通り学び、覚えました。自分の紹介だけでなく、人に聞くときの疑問文もセットにして覚えておくと、初対面の人ととりあえず数十秒は話をすることができるというわけです。名前から始まって、出身や年齢、家族のこと、趣味のことなど、基本的な文型や語彙が入っていて、初心者向きです。

というわけで、とりあえずこんな感じ。

Minä olen 〜. ← Kuka sinä olet ?
私は〜です。←どなたですか?

Minä olen japanilainen, tokiosta. ← Mistä sinä olet ?
私は日本人で、東京から来ました。←どこから?

Minä olen kotoisin japanista. ← Mistä sinä olet kotoisin?
私は日本から来ました。←どこの出身ですか?

Minä olen 〜 vuotta vanha. ← Kuinka vanha sinä olet ?
私は〜歳です。←何歳ですか?

Minä olen töissä kielikoulussa. ← Missä sinä olet töissä ?
私は語学学校で働いています。←どこで働いていますか?

Minä tykkään musiikista ja elokuvista. ← Mistä sinä tykkäät ?
私は音楽と映画が好きです。←あなたは何が好きですか?

Minä tykkään klassisesta musiikista. ← Millaisesta musiikista sinä tykkäät ?
私はクラシック音楽が好きです。←どんな音楽が好きですか?

今のところ言えるのはこれくらいです。学習が進むにつれて、増補していこうと思います。

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昨晩、NHKの『世界ふれあい街歩き』でヘルシンキの回が再放送されていました。以前見たときはフィンランド語の学習を始める前だったのですが、今回もう一度見てみて、ところどころに知っている単語が出てきて楽しかったです。「おお、ほんとにこう言ってる!」みたいな。語学の、初級段階の楽しみですね。

健康じゃないと死ぬ

仕事のある日は昼食を食べず、一日二食にしてずいぶん経ちました。十年ほど前から、昼食を食べると夕方まで「膨満感」が続き、身体がだるくて重くて仕事に差し支えるほどになり、思い切って昼食を抜いてみたところ、非常に爽快だったのでいまに至っています。

周りに中国人や台湾人など華人の多い職場で働いてきたので、昼食を抜くとひどく心配され、あるいは驚かれ、ときに「非難」までされます。なにせ“民以食為天*1”を信条とする人たちですから、一食抜くなど天に刃向かうような所業で、どうかしてるんじゃないの? というわけです。

実際、華人の方々の、食に対する思いはちょっと群を抜いているところがあって、例えば現場がどんなに混乱していても、会議がどんなに紛糾していても、食事の時間だけは必ず確保します。仮に日本側が「こんな時にゆっくり食事をしている場合じゃないでしょう。簡単につまめるものでも用意して、議論を続けましょう」などと提案しても「いや、これは人権の問題です」などと言って絶対に譲りません。それほど食べることは至上の価値なのです。

かくいう私も、昼食を全く食べないわけではありません。仕事先でランチに誘われれば応じますし、さすがにお腹がすいたな~と思うときは、ナッツの小袋とか「ソイジョイ」なんかを食べています。ジムのトレーナーさんには「プロテインでもいいですね」とアドバイスされましたが、職場でプロテインのシェーカーをシャカシャカするのは自分でもちょっと「異形」かなと思うので、ときどき、それもこっそり飲んでいます。

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ともあれ、朝食と夕食はきちんと作ってしっかり食べているので、一日二食を長く続けていても特にデメリットは見当たりません。むしろ少し痩せて健康になりました。先日、二年くらい前に作ったスーツを久しぶりに着てみたら、ジャケットが若干タイトに感じられ、逆にパンツは腰回りがこぶし一つ入るくらいダブダブになっていました。ジムでトレーニングを続けているせいかもしれません。

世の中には「健康健康って、そんなに健康になりたいか?」あるいは「健康第一で楽しみを後回しにする人生なんて」みたいなもの言いがあります。私もかつてはそういうふうに考えていた頃もあるので、気持ちは分からなくもないのですが、細君がくも膜下出血で倒れ、自分も「男性版更年期障害」とでも言うべき不定愁訴に苛まされてきた今では、もう堂々と言っちゃいます。「そう。健康になりたい、健康でいたいです」。もうね、ブログ「脇見運転」の酔漢 (id:suikan) 氏がいみじくも書かれていたように「健康じゃないと死ぬ」という感じなんです、私ら。

周囲の華人のみなさんが私の身体を心配してくださるのは本当にありがたいんですけど、私が「昼食を食べない」と言ったときの、あの火星人を見るような視線がちょっと痛いです。“你走你的陽關道,我走我的獨木橋*2”、お互いそれぞれの道を行きましょう。

*1:民は食を以て天と為す:庶民にとって食べることは暮らしの根本、みたいな意味です。

*2:あなたはあなたの「陽関(古代のシルクロードにあった、西域に通じる関所)道」を行ってください、私は私の丸木橋を渡りますから――相互不干渉の例えです。

留学生が挑戦する「容赦のない日本語」

秋は学園祭や文化祭の季節です。私が奉職している学校では通訳訓練の一環として「演劇」を取り入れており、訓練の成果を文化祭で発表するので、留学生のみなさんはただいま稽古の真っ最中です。

留学生の「出し物」というと、日本語がまだ拙いからということでしょうか、往々にして「日本昔ばなし」みたいな平易な物語を選んだりしがちなんですが、留学生だって立派な大人ですし、向学心が人一倍あってわざわざ日本に留学しているのですから(たぶん)、容赦のない日本語で容赦のない台本を作ります。

ネット上に「脚本登録&公開サイト:はりこのトラの穴」というサイトがあり、こちらで公開されている台本に、原作者の方々の承諾を得て多少の改変を行い、教材としています。今年は「世界三大料理」と「ベタ禁止法」というお芝居を選びましたが、いずれの原作者の方も、留学生が日本語で演劇に挑戦するということで、台本の改編や文化祭での上演(無料です)を快諾してくださいました。本当にありがとうございます。

世界三大料理」は、フランス料理・中華料理・トルコ料理という既存の「御三家」に取って代わろうとする和食やイタリア料理やタイ料理や……の議論を描いた喜劇です。

「ベタ禁止法」は、「ベタ」、つまりありがちなシチュエーションを禁止する法案が国会に提出されたという前提で、ニュース解説番組でその実例や対策などを紹介するという、これまた喜劇です。

二本とも基本的に「ドタバタ」なんですけど、日本で外国人が感じる「あるある」ネタや、現在の国際情勢などを織り込んで、留学生ならではのお芝居になりつつあります。上演日は11月2日と3日。ご用とお急ぎでない方はぜひ観劇にお越し下さいませ。あ、もちろん無料です。
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https://www.irasutoya.com/2017/04/blog-post_651.html

D館の「D38a」教室です。

  世界三大料理 ベタ禁止法
11月2日(金) 13:30/14:30 13:00/14:00
11月3日(土) 11:00/13:30/14:30 10:30/11:30/13:00/14:00

http://www.bunka.ac.jp/contents/2018bunkasai.pdf

日本語の性差

稽古をしていて面白いなと思ったのは、多くの留学生が、セリフに出てくる「男性言葉」と「女性言葉」に存外苦労しているという点です。確かに、言葉にこういう性差のようなものがはっきり現れるのは、日本語の特徴のひとつかもしれません。

他の言語にだってこうした差が全くないわけではありませんが、例えば中国語ではかなり少ないです。もちろん話し方のニュアンスや表情で「女性っぽい」とか「男性っぽい」という差はいくらでも作ることができますが、字面としてのはっきりとした性差はあまりない言語だと言えるでしょう。

それでも、全くないわけではありません。中国語は話者の多さもあって実にグローバルな言語であるため、地方によって差が大きいのですが、例えば私が以前、道端でかわいい子犬を見かけて“蠻可愛(すごくカワイイ)!”と言ったら、中国は北方出身の中国人に「ちょっと女性っぽい」と指摘されました。

“很可愛”なら「ニュートラル」なのですが、“蠻可愛”は「女性っぽい」。でもこの言い方、南の地方や台湾などでは男女を問わず誰でも使う言い方ではないかと思います。

また中国語で、時に他人を指し、時には自分のことも指せる“人家”という言葉がありますが、これを自分のことに使うのは「女性だけ」だと台湾出身の知人に言われました。男性が“人家要去便利店啦(コンビニに行ってくるわ)”を使うと「何かヘン」だというのです。

その台湾の知人からは逆に、日本語で「オレ、まだUSJに行ったことないわ」の「わ」はどういうことなのか、これは女性言葉ではないのか、男性が使ってもおかしくないかと聞かれました。

なるほど、「〜わ」は一見「女性言葉」のように見えますが、この場合の「わ」はむしろフランクでぶっきらぼうな感じというか、男性ならではの言い方のような気がします。逆に「〜わ」とか「〜だわ」などの女性キャラを表現する「役割語」を実際に使っている女性はあまりいないようにも思えます。面白いですね。

でもまあ、現代にあっては、性差にこだわるのもすでに時代遅れかもしれません。それぞれが自分で話していてラクだったり楽しかったりすれば、どう話すのも自由じゃないかと思います。女性が「おれ」とか「わし」とか言うのは個人的には慣れないけれど、それも含めて自由じゃないかと。

周りがそれに違和感を覚えてたしなめたり、逆にウケて盛り上がったり、それぞれの場所でのそれぞれの人間関係で落ち着くところに落ち着けばいいと思います。それを日本語の乱れという人もいるでしょうけど、私は基本的に言葉は流転していく・いかざるを得ないものだと思っているので、いいんじゃないかと。

留学生のみなさんも、男性が女性用に書かれた台詞をそのまま言ってみたり、女性が男性っぽい台詞回しだったり、さらにはユニセックスな感じで演じる人もいて、もともと母語も民族も様々な国々から集まっている留学生のクラスということもあいまって、なかなかクロスオーバーかつダイバーシティあふれるお芝居に仕上がりつつあります。

予算が少ないので照明も音響も衣装も道具類も手作りのチープな舞台ですが、日本語が母語ではない留学生がここまで「容赦のない」日本語で演技をするというのは、これはこれでなかなかの見物ではないかと自負しています。ぜひご高覧いただけたら幸いです。

通訳や翻訳が好きですか?

先日、某所で英語の通訳者さんとお話をしていて、ふと先日読んだトム・ハンクス氏の短編小説集『変わったタイプ』の話題になりました。

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そこから、

「実は私、カズオ・イシグロ氏の作品が好きなんですけど」
「私も!」
「どの作品が好きですか?」
「やっぱり『日の名残り』ですかねえ」
「『わたしを離さないで』も衝撃的でした」

……と話が進み、さらに、

土屋政雄氏の訳がまた素晴らしいんですよね」
「こうした優れた作品が日本語で読めるのは素晴らしいことですよね」
「翻訳者の役割は本当に大切ですね」

……などと話が尽きませんでした。

なんてことない雑談ですけど、私はしみじみ「ああ……こういう雑談は久しぶりだけど、やっぱり楽しいな」と思いました。というのも、ふだん通訳や翻訳の教育現場にいて、こういう会話になかなか接する機会がないからです。中国語であれば例えば、

村上春樹氏の作品を中国語に訳している翻訳者なんですけど」
「中国だと林少華氏とか、施小煒氏とか」
「台湾だと賴明珠氏とか」
「賴明珠氏の訳文と、林少華氏の訳文は、ずいぶん違いますよね」
「施小煒氏の訳文はほどよく抑制が効いていて好きです」

……といったような、まあ一種の「オタク的」といいますか「マニア的」といいますか、そんな会話です。

私は、自分もまだまだ発展途上なのに、学校で通訳や翻訳の授業を担当しています。正直に言って自分の身の丈にあまりあっていないような気がしますけど、まあこれも、社会における自分のひとつの役割だと思って、その役割が与えられている以上精一杯勤めようと考えています。そうした授業の開講日に、必ず生徒さんに聞く質問があります。

「みなさんは、通訳や翻訳が好きですか?」

通訳や翻訳が好きだから通訳学校や翻訳学校に通うんでしょう、当たり前じゃないですか……と思われますか? 私もそう思うのですが、実際にこの質問をしてみると、意外にそうではないのかもしれない、と思わせられるような反応が返ってくることが多いです。それは例えば「好きな翻訳者は誰ですか」「通訳に関する本で、どんなものを読んだことがありますか」と聞いたときに「別に……」「読んだことないです」といった答えがとても多いからです。

英語の著名な翻訳者であった故・山岡洋一氏が書かれた、その名もズバリの『翻訳とは何か』という本があります。私はこの本を通訳者や翻訳者を志してすぐの頃に読み、たいへん刺激を受けたのですが、その中に翻訳者教育の現場で感じたこととして、このような記述があります。

(受講生は)講師に教えられた通りにまじめに学習しようとするが、自分で学習しようと考えることはない。簡単な例をあげよう。大きな書店に行けば、翻訳に関する本はいくつも並んでいる。翻訳書なら小さな書店でも何百点かは並んでいる。翻訳に関心があるのであれば、まして翻訳を学習しようとするのであれば、これらの本を大量に読んでいるのが当然だ。ところが、翻訳学校の教室ではこのような常識は通用しない。翻訳に関する本をいくつかあげて、読んでいるかどうかを質問すると、まずほとんど読んでいない。役に立つはずがない入門書を一冊か二冊読んでいるのが精一杯だ。最近読んだ翻訳書をあげるよう求めても、答えはほとんどない。好きな著者の名前をあげられる受講生はほとんどいないし、まして、好きな翻訳者の名前はあげられない。そもそも、翻訳家については名前すらまったく知らない。野球に熱中している少年なら、野球選手の名前はいくらでも知っているし、町のテニス・クラブに通う主婦なら、ウィンブルドンで上位に入る選手の名前はみな知っている。翻訳に関心があり、翻訳を学習しようとしているはずなのに、翻訳家の名前すら知らないのだ。
ここまで受け身の姿勢で、翻訳ができるようになるのだろうか。
山岡洋一翻訳とは何か——職業としての翻訳』p.223

現代であれば、Amazonに行って「翻訳」や「通訳」で検索をかけてみれば、たくさんの「翻訳通訳関連本」が見つかります。その多くは英語に関するものですが、中国語に関しても例えば『日・中・台 視えざる絆―中国首脳通訳のみた外交秘録』とか、『私は中国の指導者の通訳だった――中日外交 最後の証言』とか、何やら面白そうな本が見つかることでしょう。

ロシア語通訳者だった故・米原万里氏の名著『不実な美女か貞淑な醜女か』や、この山岡洋一氏の『翻訳とは何か』もぜひ読んでおきたいところですし、直接翻訳や通訳に関連しなくても、例えば中国語の通訳者や翻訳者を目指すのであれば、人一倍日本と中国語圏に関する情報に広くアンテナを張って、あまたの書籍を「アレも読みたい・コレも読みたい」とむさぼるんじゃないかと。

でもそういう方はあまりいないようです。まあこれは、全員の方が専業の通訳者や翻訳者になりたいと思っているわけではなく、お仕事をしながら通訳や翻訳をすることもあるのでそのスキルを向上させたいとか、もっと広く語学自体をブラッシュアップしたいとかいった目的で通われているからなのかもしれません。

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https://www.irasutoya.com/2016/11/blog-post_4.html

かつて通訳学校に通っていた頃、授業は土曜日で会社は休みであったにも関わらず、私は毎回スーツを着てネクタイを締めて授業に出ていました。なんだかそのほうが「通訳者のお仕事っぽい」感じがしてカッコいいかな、と思っていたからですが(何でもカタチから入るタイプなのです)、もうひとつ、やっぱり通訳や翻訳を自分の仕事にしたいという憧れの気持ちが強かったからです。Tシャツにサンダル履きで授業に出たのでは、何かこう、プロの現場の緊張感みたいなものは体感できないんじゃないかと思って。

僭越ながら、この話も毎回の開講時に紹介するんですけど、今までそれを「真に受けて」スーツ姿で授業に参加された方は、記憶している限りおひとりしかいません。やっぱりみなさん、「たかが語学」だし、そこまで「アツく」はなれないということなんでしょうか。

多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ。

本を探している時にたまたま目にして、ネコのイラストにひかれて思わず買い、Kindleで一気に読んじゃった一冊。独特の書名ですが、これはかつて筆者のJam氏が友人から受けた一言だそうです。人間関係に悩んで、いつまでもそれを引きずって悶々としていたら、その友人に「多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ」と言われたと。

なるほど、自分がこうやっていつまでも気にしているのと同じほど向こうは気にしてない、というかすっかり忘れてパフェでもほおばってる。ネガティブな気持ちながら、ずっとまるで「恋するように」相手のことを思い続けているのは意味がないというんですね。言われてみれば当たり前で、人は誰しも自分のことに一番興味があって、他人の事などあんまり、というかほとんど考えちゃいません。他人は自分が思っているほど自分に興味なんかないのです。この自分と同じように。


多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ。

もう二十年くらい前でしたか、何の本で読んだのかも忘れてしまったのですが、相手が自分のことをどんなに憎もうが誤解しようが、それによって自分はちっとも変わらない。だから思い悩むだけ無駄……というような一節があって、なんだかやけに腑に落ちたことを覚えています。

そりゃそうだ。『スターウォーズ』に出てくる「フォース」みたいに、離れたところから物理的に影響を及ぼしうる力など人間には備わっていないのですから(人間にも質量がある以上、ごくごくごくごくわずかな重力が互いに働きますから、これだけは別ですかね)。そうなんですよね。他人がどう思おうと、他人にどう思われようとも、それによっては自分は変わらない。自分が変わるのは自分で変えるときだけなんです。まあ世の中には「生き霊」みたいなのが実際に影響を及ぼしていると信じる方もいますけど。

だからこれは、逆に自分の思いによって相手を変えることもできない(例えば呪い殺すとか)ということです。なので私は、SNSなどでネガティブなことを極力書かないようにしています。批判は書きます。批判は時に相手に届き、相手を変えることもあります。でも悪口は極力書きません。批判と悪口は違って、悪口では相手は変わらないと思うのです。

とにかく、ネガティブな感情のはけ口としてSNSを使わないというのが肝要かと思います。実社会で人に面と向かって言わないようなことはSNSでも言わない。そのために私は利用している全てのSNSで匿名ではなく本名を使っています。もちろん、ネガティブなことを極力書かないという「歯止め」がかかるのを期待してのことです。

最近、Twitterのフォロー数をど〜んと減らしました。あまりフォロワー数が多いとそれだけ多種多様な声がタイムラインに流れてきて(それがTwitterの魅力のひとつでもありますが)、自分がかき乱されるのがイヤだなと思ったからです。まあどんなにタイムラインが荒れようとも見なけりゃいいんですが、不思議なことにタイムラインが荒れていて濁流のようになっていればいるほど見に行きたくなるものなんですよね。例えは悪いですけど、台風の時に濁流を見に行って命を落とすみたいな、そういう危険な引力があるような気がしています。

ならいっそのことTwitterをやめちゃえばいいんですけど、Twitterにはこの他にもキーワードで検索をかけていろいろリアルタイムの情報を得られる(遅延情報など)とか、自分が興味がある人の発言から様々な啓発を受けるとか、それなりに楽しくて有用だなと思える部分があるので、今のところは「断捨離」してません。それでも以前に比べると使う時間はずいぶん減りました。スマホTwitterアプリを入れないようにしたのが効果的だったかな。

相互フォローになっている方をこちらから一方的に外すのは何となく申し訳ない……といったような気分が頭をもたげますが、これも「他人は自分のことなどそれほど興味ない」し「他人がどう思おうとそれによって自分が影響を受けることはない」のだから、気にしない。歳を取ってよかったなと思えることの一つは、こういう「不義理」を別にどうってことなく思えるようになったことですね。もう最近は、電話には基本出ませんし、失礼なメールには返信すらしなくなりました。

あとこの本でもうひとつ、「おおっ」と惹かれたのは、「過剰な謙遜をするのは『お前は見る目がないと言うのと一緒やで』」という一節。これは中国語にも同じような格言(ことわざ?)があります。“過於謙虛等於驕傲(過ぎたる謙虚は驕りと同じ)”。せっかくその人のいいところに共感して褒めているのに、いつまでも「いえいえいえ、私なんか、とてもじゃないけど〜」と謙遜しまくる方は、確かにちょっとめんどくさいです、うん。

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それから「何もしない時間も人生の大切な時間」というのもそうだなと。最近仕事も私生活もちょっとバタバタしていたんですけど、それは常にすきま時間に何かを詰め込み、スケジュールをこなそうとしているからだなと反省しました。もうすこし無駄に過ごす時間を持ってもいいですよね。

というわけで、風邪ぎみかな……と思ったときに飲む「葛根湯」みたいな一冊、おすすめです。

「全部取り」すればいいのにね

昨日Twitterのタイムラインで、私の恩師である「とらねこ285」老師のこのツイートを読んで驚きました。

えええ、どうして? 中国語の簡体字(かんたいじ/简体字)と繁体字(はんたいじ/繁體字)*1のどちらにもなじんでおいた方が、学習や研究の面でも仕事や生活の面でも未来が広がるのに、不思議です。でも、そういえば以前、翻訳のエージェントさんからも「繁体字の文章なのでほかの翻訳者(日本語母語の方)に断られてしまいまして……」と私に仕事が回ってきたことが何度かあります。

日本における中国語教育は、戦後の歴史的な経緯もあってこれはもう圧倒的に「北京一辺倒」です。というわけで現在の中華人民共和国で正式な字体とされている簡体字を使って中国語を学ぶ方がこれも圧倒的に多い。かくいう私も最初は簡体字で学びました。

まあ初中級段階ではどちらかに絞って覚え、その後もうひとつを……と学んでいくのがいいかとは思いますが、すでにその段階をこえたと思しき(だって台湾と香港の聴講生がいらっしゃるクラスで、軽めのエッセイを教材に学ばれているのですから)大学生さんがなぜ繁体字にアレルギー反応を示されるのでしょうか。

簡体字は私たち日本人にとってはかえって大胆かつシンプルなところが新鮮で面白いし、いっぽう繁体字は漢字が生まれた原初の呪術性みたいなのが残っているようで(ただの想像ですけど)これも面白いです。ちなみに私、以前にも書きましたが、いちばん好きな漢字は「亂」です。

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www.moedict.tw

どうですか、この左側の乱れっぷり。何ともこう、ただならぬ様子が伝わってくるではありませんか。カタカナで「ノツマムヌ」と読めちゃうところもただならない。京都で有名な中華料理の老舗「ハマムラ」のロゴマークみたいです。

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http://www.hamamura-gr.com/index.html

複雑な左側に対して右側が「乚(つりばり)」だけってのもアンバランスでいいですね。擾乱・攪乱・霍乱・紊乱……いずれも現代の日本語や簡体字で採用されている「乱」ではものたりません。黒澤明監督のあの名作も『亂』だったらもっと戦乱っぽかったのに。もっとも、「乳」と勘違いする方が続出するかもしれませんが。

qianchong.hatenablog.com

閑話休題

でもこのツイートを拝見して、華人留学生にも似たような傾向があるなあと思いました。自分の生まれ育った地域以外の中国語(いずれも北京語・普通話*2ベース)を笑ったりアレルギー持ったり、あまつさえ「正しい中国語ではない」と言ったりする生徒さんが時折います。

さらには、中国語の先生にも。中国と台湾、つまり当事者自身がすでに「三通」などを実現してどんどん交流している段階になっても、「繁体字は正式な文字ではない」とか「私は台湾には行かない(行けない)」などと言っている中国語の先生がいるのです(実話。しかも比較的最近です)。

言語ナショナリズムはよくあることですし、語学教師が「無謬性」を追求するあまり視野狭窄に陥るというのもありがちなことですが、「全部取りすれば将来より広い方面に対応できる」とは思わない——とくに未来への進む方向が広く開かれている若い方々が——というのはなぜなのでしょうか。勉強や学習というものに割く努力やリソースは最小限にして、最大限の成果やリターンを得たいという気持ちが(意識しているかどうかは別にして)働いているのかな?

ちなみに、私が現在奉職している都内の某通訳学校では、伝統的に様々な地域の中国語を教材に用いています。もちろん北京語・普通話ベースの中国語ですが、「北京一辺倒」になることなく、北方の“儿化音*3”がふんだんに入った発言も、南方の“捲舌音*4”が弱い発言も、その他の訛りが入った発言もなるべくまんべんなく取り入れ、配付する資料も簡体字であったり繁体字であったりします。これは実際の現場に出たら「繁体字は苦手です」などと言っている場合じゃないので、訓練段階から馴染んでおこうという戦略。実はこれ、かつてこの学校の講師をしておられた上記の「とらねこ285」老師の時代から引き継がれている「伝統」なのです。

ともあれ、中国語を学ばれている日本の大学生さんも、日本に留学して通訳や翻訳を学ばれている華人のみなさんも、せっかく中国や台湾など「ナマな現地」からほどよく距離を置いた日本という「第三者的立場」にいるんだから、欲張って全部取りすればいいのにな、と思います。

ちなみに、こんな楽しい本もありますよ。


書き込み式 台湾華語&繁体字練習帳

*1:または正体字(せいたいじ、正體字)。

*2:中華人民共和国が「標準語」としている中国語です。

*3:語彙の最後に舌を少し巻くようにして出す音です。個人的には江戸っ子の「べらんめえ調」的なイメージです。

*4:そり舌音などと呼ばれる一連の音(ch、zh、sh、r)です。

フィンランド語 25 …教室用語

フィンランド語を細々と学び続けています。名詞も動詞も形容詞も代名詞もどんどん格変化し、語順で話すわけではない言語ということで、定型文を大量に覚えるという「戦略」が使いにくいため、いまだにたいしたことが話せません。いまはひたすら語彙を増やし、次々に登場する文法事項を覚えて行くという段階です。

でもまあ、フィンランド語を学んでみようと思ったのは、英語や中国語とは全く違う原理(?)で動いている言語に触れることで、日本語での思考にに何か質的な変化が起きるといいなという期待もあってのこと。焦らずに行きましょう。

もとより「就職や転職に有利」というわけでもないですし、ムーミンに親しみを感じていたものの「トーベ・ヤンソンは確かにフィンランド人だけどスウェーデン系で『ムーミン』も実はスウェーデン語で書かれている」という事実を後から知ったくらい「ぐだぐだ」ですし。

それでも未知の言葉を学んでいくのは楽しいです。せっかくなので、教室で先生に質問したりお願いしたりするときの言い方だけでも、定型文として覚えてしまおうと思いました。中国語でも最初の頃に覚えて重宝した“課堂用語(教室用語)”です。

まずは質問したいとき。

Minulla on kysymys.
質問があります。
Minulla on paljon kysymyksia.
質問がたくさんあります。

より簡単に、こう言うのも普通のようです。

Saanko kysyä ?
聞いてもいいですか?

質問の答えをフィンランド語で説明されても、今の段階ではほとんど分からないので、日本語で説明を受けることにしまして、説明された後は……。

(Minä) ymmärrän.
分かりました(理解しました)。
(Minä) en (ole) ymmärrä.
分かりません。

次は、先生のいうフィンランド語が聞き取れなかったとき。

Voitteko (te) sanoa vielä kerran ?
もう一度言っていただけますか?
Voitteko puhua hitaasti ?
ゆっくり話していただけますか?
Sano vielä kerran ?
もう一度言ってくれますか?
Voitko puhua hitaammin ?
ゆっくり話していただけますか?
Anna mulle tilaisuus kuunnella ?
もう一度聴かせてくれますか?

いまのところ集めたのはこれくらい。細かいニュアンスが分からないので、間違っているかもしれません。

あと、これもよく使いそうです。

Mitä "Finland" on suomeksi ?
“Finland”はフィンランド語で何ですか?
Mitä "karhu" on japaniksi ?
karhu”は日本語で何ですか?

日本語では「~で」と言うところを、フィンランド語では「出格」を使って「~から」と表現するんですね。ちなみに「フィンランド語」は“suomi”、“karhu”は「熊」でした。

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Mitä "sandwich" on suomeksi ?
Se on "voileipä".

脊柱側弯症が治っちゃった

先日、年に一度の健康診断がありまして、昨日その結果票が送られてきました。この結果票、企業のサラリーマンだった頃は、周りの同僚がまるで学期末の通信簿に一喜一憂する小中学生のごとく(今時のお子さんは違うかな)盛り上がるのが何とも奇妙で、冷ややかな視線を向けておりましたが、私も人並みに歳を取りまして、人並みに診断結果が気になるようになりました。

とはいえ、健康診断における各検査項目の「基準値」や「判定基準」については、その根拠が薄いのではという声や、国や製薬会社などの事情で恣意的に決められているのではないかという疑念、さらにはそもそも健康診断結果による再検査や投薬が却って健康を害するのではという意見もあります。というわけで毎年あまり気にしないようにしていたのですが……。

gendai.ismedia.jp

今年はひとつだけ、びっくりした項目がありました。それは「胸部X線」です。私は若い頃から「脊柱側弯症」があって、背骨が緩やかに湾曲しており、服を脱いで鏡に向かってみると腰骨の高さが左右で違うことがはっきり分かるほどでした。たまにマッサージなどに行っても必ずといっていいほど「お客さん、背骨が曲がってますね〜」と言われますし、実際もうここ何十年も、健康診断の結果票には「脊柱側弯」という所見が記載されていたのです。
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https://www.irasutoya.com/2015/11/blog-post_730.html

……ところが。

今年はなんと「所見なし」でした。長年の脊柱側弯症がいつのまにか治っていたのです。そういえば、最近は鏡に向かっても以前ほど左右の腰骨の違いが分からないなあと薄々感じてはいたのですが。

これはもう、間違いなく昨年の秋からジムで始め、一年近く続けてきた体幹レーニングのおかげだと思います。トレーニングで肩こりと腰痛はほぼなくなっていたのですが、まさか脊柱側弯症まで治るとは思ってもみませんでした。こちらの記事によると、脊柱側弯症の原因の一つに「体幹の左右の筋バランスに偏りを生じ」ていることがあるようですが、体幹が鍛えられたことでバランスが改善されたのかもしれません。

www.huffingtonpost.jp

二年前の健康診断では「メタボリックシンドローム予備軍」と判断され、専門の指導医さんのカウンセリングまで受けた私ですが、身長や体重はほぼ変わらないものの、腹囲は約8センチ減り、肥満度も5.3%から1.0%に減りました。血圧や肝機能やコレステロールの数値は年齢相応に高めですが、脊柱のこの変化は、まったく期待と予想をしていなかっただけに、なんだか素直にうれしいです。

昨日ジムに行ってトレーナーさんにこの事を報告したら、「それってちょっとスゴくないですか」と喜んでくださって、思わず握手を交わしました。ありがとうございます。これからも精進いたします。

追記

中国人留学生のクラスでこの話をしたら、「たった一年で? センセ、それは何かの間違いでしょう」と信じない方が多数でした。わはは、さすがは「騙されたと分かるまで信じているのが日本人、騙されていないと分かるまで信じないのが中国人」……の中国人です。そう、それでいいのです。こと健康に関する個人の体験談は、頭から信じないほうが吉かもしれませんね。

もう少し怖れてもいいかもしれない

むかしむかし、通訳学校で学んでいた頃、ノートテイキング(メモ取り)の授業で講師の先生からこんな指導がありました。

何はなくとも数字、それに固有名詞だけはメモしてください。

そりゃそうですよね、数字や固有名詞(人名や地名、団体名などさまざま)は、基本的に発言の中では前後の文脈や脈絡に関係なく現れる独立した情報だからです。例えば……

2017年における中国の実質GDP成長率は6.7%でした」という発言と、
2016年におけるベトナムの実質GDP成長率は6.2%でした」という発言では、

「2017」「2016」「中国」「ベトナム」「6.7」「6.2」などという情報は入れ替わっても文章が成立するので、メモをしなければ間違える可能性が大きい(実際には中国とベトナムを間違えることなどまずないでしょうけど)。このような独立した情報は、メモし損ねたり忘れたりしたらもう逃げ場がありません。いわばその発言の中で「唯一無二」の情報で、聴き取りに一番緊張するところでもあります。

というわけで、二人以上のパートナーと組んで通訳業務を行う場合には、待機しているほうの通訳者が訳している通訳者のために数字や単位や固有名詞などをメモしてサポートすることがよく行われています(時々「私の番じゃないから」と全然サポートしてくださらない方もいますけど)。それくらい数字や固有名詞は「鬼門」なわけですね。

最大の鬼門:カタカナ語

鬼門といえば、華人のみなさんにとっての鬼門のひとつは、日本語における「カタカナ語」であるようです。来日何十年という日本語の達人のような方でも、カタカナの外来語だけは苦手とされていることがあり、とくにパソコンなどで書く場合には表記がかなり不正確だったりして、普段あんなに流暢なのに……とそのギャップに驚きます。

というわけで、私が日頃向き合っている、通訳や翻訳を学んでいる華人留学生や在日華人のみなさんにとっても、例えばカタカナの人名や地名といった固有名詞は、かなりな「鬼門」になっていると感じます。しかも、受け手である日本語母語話者のクライアントは「日本語の発音に関して設定ハードルがかなり高い」ことが多いので、少しでも奇妙なカタカナの人名・地名を口にしてしまうと、ご本人の実力に比べてかなり低い評価を受けてしまう結果に。鬼門と称するゆえんです。

私は、通訳訓練をしているときに上記のような「逃げ場のない固有名詞問題」の怖さに気づいて、それから必死でカタカナの国名・地名に対応する中国語を覚えました。日本語・英語間であれば、日本語のカタカナ国名・地名をそれらしく発音すればなんとかなることもあるかもしれませんが(ならないことも多いでしょうけど)、中国語の場合は音がかなり違うために、きちんと発音しなければまず理解してもらえないと思います。

イスラエル↔以色列(カタカナでは書けないですが近似の音を無理矢理書けば、イースーリエ)
ジャカルタ↔雅加達(ヤージャーダー)
ミュンヘン↔慕尼黑(ムーニーヘイ)
ジュネーブ↔日內瓦(リーネイワー)
リオデジャネイロ↔里約熱內盧(リーユエルーネイルー)
サウジアラビア↔沙特阿拉伯(シャートーアラボー)
アラブ首長国連邦↔阿聯酋(アーリェンチウ)

……きりがないのでこれくらいにしておきますが、こうした国名や地名は訳出の善し悪し以前に、最低限の常識としてすぐに使えるようにしておかなければなりません。

意外な鬼門:地名・人名

カタカナの国名や地名だけでなく、中国や台湾の地名もかなり危ういです。ご案内の通り、中国や台湾と日本では漢字を共有しているがゆえに、基本的にはそれぞれの漢字の発音で地名を扱います。左が日本語、右が中国語(これも近似のカタカナで示します。以下同様)。

ぶかん←武漢→ウーハン
てんしん←天津→ティエンジン
こうしゅう←広州→グァンジョウ
こうしゅう←杭州→ハンジョウ
こくりゅうこうしょう←黒竜江省→ヘイロンジャンシェン

さらには日本語の習慣的に変則的なものもあって、これも華人のみなさんには鬼門らしい。

(ほくきょう、ではなく)ぺきん←北京→ベイジン(まあ、これを間違える方は皆無ですが)
(かもん、ではなく)あもい←廈門→シャーメン
(せいぞうじちく、ではなく)チベットじちく←西蔵自治区→シーザンズージーチュイ

……などなど。でもこうした語彙もおぼつかない方が多く、日本語のかなり達者な華人留学生でも“広東省(かんとんしょう)”を「こうとうしょう」などと発音して驚くこともままあります。

さらにさらに、カタカナの人名もけっこう苦労されています。

トランプ大統領↔特朗普/川普總統(トゥランプー/チュアンプー)
メルケル首相↔梅克爾首相(メイクーアル)
ムン・ジェイン大統領↔文在寅總統(ウェンザイイン)

カタカナだけではありません。漢字の人名であっても、きちんと日本語で訳出できる方はかなり少ない。まあ“毛澤東”くらい有名だと、さすがに“毛澤東? 這是什麼東東?(もうたくとう? 何それおいしいの*1?)”とおっしゃる方は(まだ)いませんが。

これもいわば「唯一無二の情報」。知らなければ即アウトの鬼門です。「アメリカのなんとか大統領」などと逃げることもできるかもしれません(じっさいにそう言う生徒もいます)が、常にそれをやっていたら通訳者の資質を問われますよね。というわけで、通訳学校ではこうした情報を常にリファインしておく(例えば政権交代などがあったらそのつど)よう注意喚起されました。もとより小心者で、現場で青ざめたくない私は、こうした単語を必死で覚えたものです。いや、いまでも覚え続けています。逃げ場のないこうした単語で立ち往生するのが心底怖くて。

……でも、昨今の生徒さんはそういう怖れのようなものがとても薄いようにお見受けします。ロシア語通訳者だった故・米原万里氏の著書に、通訳、特に時間的な制約の大きな同時通訳を例に挙げ、細かい意味の差異が気になって仕方がないというタイプの人はこの仕事に向かないとして、「通訳者の心臓が剛毛に覆われていると言われるのは、そのせいだろう」と締めくくった文章がありますが、みなさん別の意味で心臓に剛毛が生えているんだなあ、もう少し怖がってもいいんじゃないかなあと思います。


心臓に毛が生えている理由 (角川文庫)

*1:冗談です。

無償労働を正当化した先には……

昨日、Twitterのタイムラインで拝見したこちらのツイート。

2020年東京オリンピックパラリンピックのボランティア募集については、これまでにも何度も記事を書いてきました。専門の技術を持った方々に「やりがい」や「レガシー」などの美名のもと無償での労働を呼びかける動きについての疑問。そしてそれが首尾よく成功してしまった後に現れるであろう、同様のイベントにおける無償労働の常態化に対する危機感。理学療法士さんの世界でも同じような問題があるのだと改めて知りました。

さっそくリンク先の「POST」という「理学療法士作業療法士言語聴覚士のためのリハビリ情報サイト」に行ってみましたが、「理学療法士の募集要件の記載が書かれていましたが、10月12日付で日本理学療法士協会会員の内部資料として会員限定情報と更新されたため、本記事内から削除させていただきました」とのこと。また日本理学療法士協会のウェブサイトでも「詳細はマイページにてご案内します」となっていて、理学療法士の方しか閲覧できないようになっています。批判を受けての措置かもしれません。

……ところが、ネットを数分検索しただけで、神奈川県理学療法士会のサイトから閲覧できる募集要項を見つけてしまいました。ネットってすごいですね。案の定、報酬については「宿泊や移動については、自身で確保、準備ができること。組織委員会から報酬の支払いはなし」だそうです。

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http://pt-kanagawa.or.jp/1539222302981.pdf

この募集要項を読んでいるうちに、まったくの外野である私ですら「大丈夫かしら」と心配になりました。だって条件がものすごくハードなんだもの。この条件に合致して無償労働に応募するプロの理学療法士さんがはたして500名もいるのかしらん……こうした専門技術の有資格者、それも五年以上の実務経験に外語能力まである方を無償で労働させようという組織委員会は、かなり世間離れしていると断じざるを得ません。

そして、これも何度も申し上げていることですが、こんな悪しき「前例」を成功させてしまってはいけないと思います。これほどのひどい条件でも、なんだかんだいって高度な技術を持った有資格者が集まって成功してしまったという「レガシー」は、この仕事で稼いでいくことは無理だと理学療法士の方自らが宣言したに等しい世界を作りだしていくだろうからです。

前出のツイートをされた理学療法士さんは、ご自身のブログで今回の顛末をまとめられたうえで、このように結論されています。

僕は日本という国は大好きです。
美しいしご飯はおいしいし自然はキレイだしトイレも綺麗だしw
でも、こういう所は心底嫌いです。
そんでもって、PTとして、トレーナーとしては日本なんて小さな枠組みでは活動範囲を考えてません。
あくまで、世界の中の一つの国でしかないです。
だから魅力的な国があれば、窮屈な日本での活動なんてどんどん減っていくし、おそらく多くの専門職がそうなっていくだろうと思いますよ。
少なくてもPTやトレーナーは。
優秀な人材が日本から居なくなったその時、委員会やPT協会、スポーツ庁はどうするんでしょうね。
その時に必死こいたって手遅れですからね。
大人しく崩壊してくださいね。

takuminishikawa.com

こうした「負のレガシー」を大規模に残してしまうかもしれない2020東京オリンピックパラリンピックのボランティア問題。私は、未来に対してはできるだけ楽観的な見方をしたい、また楽観的な方向へ持っていけるように物事を考え、行動していきたいと常に自分に呼びかけていますが、このブログを拝見して、夏目漱石が『三四郎』の冒頭で書いた、三四郎が列車の中で出会った男とのやり取りを思い出しました。

「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「滅びるね」と言った。――熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。悪くすると国賊取り扱いにされる。三四郎は頭の中のどこのすみにもこういう思想を入れる余裕はないような空気のうちで生長した。だからことによると自分の年の若いのに乗じて、ひとを愚弄するのではなかろうかとも考えた。男は例のごとく、にやにや笑っている。そのくせ言葉つきはどこまでもおちついている。どうも見当がつかないから、相手になるのをやめて黙ってしまった。すると男が、こう言った。
「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」
この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った。


夏目漱石三四郎
青空文庫https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/794_14946.html

組織委員会は、専門の技術を持った方にきちんと業務を委託し、正当な報酬を支払うべきです。

追記

今朝ネットで見つけたこちらの記事。医療関係者全体に、一部を除いて無償労働を求めると。ただでさえ忙しすぎて、その超過労働が問題になっている医療現場だというのに、集まるのかしら。

this.kiji.is

雑然とした雰囲気の中での劇的な訴求力

昨日、大宮公園へ「薪能」を見に行ってきました。埼玉県主催のイベント「埼玉 WABI SABI 大祭典2018」で能楽喜多流の「船弁慶」が上演されるというので、お誘いを頂いたのです。毎年新春に開催されている「はじめて観る方のためのやさしいお能」がコンセプトの「若者能(わかもののう)」のみなさんがプロデュースする公演で、私もスマホアプリによる同時解説でちょっぴりお手伝いしました。

saitama-wabi-sabi-2018.jp

薪能とはいっても、公園内のあちこちで様々なパフォーマンスが催されているなか、また屋台や出店がたくさん出ている中の一角、しかも建築用足場の鉄骨を組んだような簡素な舞台。背後の鏡板も布に松の絵を描いた「書き割り」ですし、舞台自体もカーペット引きなので足拍子を踏んでも響きません。両袖の薪だけでは照明が足りず、LEDのスポットライトが多数舞台を照らしています。

さらにすぐ近くの競技場ではサッカーの試合が行われているのか、大声援が遠くから響きつつ、夕暮れで活動が活発になった大量のカラスさんたちが上空をカアカア鳴きながら旋回という、音響的にはかなり「アウェイ」な環境で、演者のみなさんは胸元に仕込んだワイヤレスマイクでスピーカーから謡が響く……という、普段の能楽堂での公演とはかなり異なる雰囲気でした。野外の薪能で、しかも入場無料なんですからまあそういう雰囲気もある意味当然なのかもしれないんですけど。

私は会場に到着してその雰囲気を見た瞬間、「ああ、これは能楽師やスタッフのみなさんは大変だなあ」と思いました。いくら能楽の普及目的とはいえ、端的に申し上げて能楽を鑑賞するような環境ではないかなあと思ったのです。……ところが。

最初にステージで解説をしてくださった「若者能」のスタッフお二人、振り袖に身を包んだ大学生の方のお話がとても上手でした。能楽を一度も見たことがない方のために簡潔かつポイントを押さえた解説で見どころを紹介。それも堅すぎず、適度に笑いも入りつつ、そして滑舌よく聞きやすい話し方で、とても素晴らしかったと思います。

演者が出てくる幕と能舞台をつなぐ橋懸かりも単にカーペットが敷かれているだけですが、その前に「一の松、二の松、三の松」がわりに松の盆栽が三つ置かれていて、おお、これはご当地特産の盆栽を上手に利用されたわけですね。

そのあと「船弁慶」の上演。シテやワキなどの演者はもちろん、囃子方地謡もみなさん一流の能楽師ばかりです。う〜ん、ちょっと贅沢すぎる。しかも普段の能舞台よりは若干小さめで舞いにくいところもきちんと考慮に入れた舞台運びで、充分に劇的効果が高められていました。

また源義経役として出演していた子方の少年は、以前温習会で見事なシテ謡を披露していた彼ではありませんか。今日も凛と響く声で果敢に義経を演じていました。後段の平知盛(の亡霊)との闘いのシーンは思わず手に汗を握りました。彼は今後玄人の能楽師を目指して行かれるのかなあ。もしそうだとしたら、これは楽しみです。

qianchong.hatenablog.com

私は「関係者」ということでベンチ席に座らせていただいたのですが、多くの方は舞台を取り囲んで立ち見でご覧になっていました。もとより入場無料・入退場自由の環境で終始ざわざわした雰囲気でしたが、そんな雑然とした雰囲気の中でも徐々に観衆が舞台に引き込まれていくのが分かりました。思えば能楽が成立した当時の芸能は、おそらくこんな雰囲気の中で行われていたのでしょう。能楽堂で見るお能も素敵ですし、もう少し落ち着いた雰囲気の薪能も好きですが、今回のような演能も能楽の普及という点で意義があるのではないかと思いました。

野外の決して理想的ではない環境で、あえて手抜きせず「容赦のない」本物の技芸を披露された能楽師とスタッフのみなさんに心から敬意を表したいと思います。今回の舞台を見て、能楽堂にも足を運んでみようと思われた方がいたらいいですね。

ところで今朝、東京新聞の「表四(裏表紙にあたる紙面)」に大きく「伎楽面」を紹介する記事が出ていました。

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伎楽はおよそ1400年程前に大陸から伝来したとされる幻の芸能で、奈良時代には盛んに上演されたらしいもののその後衰退し「絶滅」してしまいました。仮面芸能であるという点からも、能楽にも何らかの影響を与えているのではないかと思いますが、現在には仮面が残されているだけで詳細はほとんど分かっていないという謎の芸能です。私は大学時代に文化人類学の講義でこの芸能を知り、研究者たちがわずかに残された文献などを元に在りし日の姿を推測して行く手法に感動したことを覚えています。

この記事によれば、伎楽は「パレードと寸劇が組み合わさっていたらしい」とのこと。

下ネタに、権力者への風刺。これは絶対に爆笑の連続だったはず……。
酔っぱらったペルシャの王様や家来たちの面もあり、真っ赤な顔で泣き上戸や笑い上戸になっている。なんともおおらかな古代である。聖と俗は混沌として、ただ人の喜怒哀楽があるばかりだ。

なるほど、芸能のルーツ、あるいは本義のひとつとも言えるこうした要素は、現代の能楽堂内での公演にはすでにほとんど失われてしまっています。その是非はさておくとして(というか、私自身は落ち着いた雰囲気で観劇する方が好きではありますが……)今回のような雑然とした雰囲気での公演にもある種の魅力、劇的な訴求力はあるのだなと感じたことでした。

フィンランド語 24 …命令形

新しい課に入って、命令形を教わりました。フィンランドの人々はこの命令形をけっこうよく使うそうです。別に「上から目線」というわけではなくて、むしろ親しみの表現のよう。それだけ人間関係がフラットというかフランクなんですかね。お隣のスウェーデンやロシアなどのように王様や皇帝といった存在を戴かなかったという歴史ゆえかもしれません。

命令形には単数(一人に向かって言う)と複数(二人以上に向かって言う)があるそうです。

単数の命令形

例えば「nukkua(寝る)」を例に取ると……まずこの動詞を一人称単数の形にします。→ Minä nukun.(私は寝る)。この一人称単数の語尾「n」を取ったものが命令形になります。否定はその前に「älä」をつけます。

Nuku !
寝なさい!
Älä nuku !
寝るな!

「lukea(読む)」では……

Lue !
読みなさい!
Älä lue !
読むな!

「ajatella(考える)」では……

Ajattele !
考えなさい!
Älä ajattele !
考えるな!

複数の命令形

相手が複数の場合は動詞のタイプによって異なるそうです。
1)VA、atA、otA、utA、itA タイプ →最後の一つを取って語幹にする。
2)dA(ndA)、stA、lA、nA、rA タイプ →最後の二つを取って語幹にする。

また複数の命令形で重要なのは、動詞の語幹を作る際の「kptの変化(逆転も)」がないことだとか。その上で肯定の場合は「kaa/kää(語幹に aou があれば kaa、なければ kää)」、否定は前に「älkää」をつけたうえで「ko/kö」をつけます。

例えば「nukkua(寝る)」の場合、最後の一つを取って、語幹の「kk」は変化させずにそのままだから「nukku」で……

Nukkukaa !
(あなたたち)寝なさい!
Älkää nukuuko !
(あなたたち)寝るな!

「syödä(食べる)」の場合、最後の二つを取って語幹は「syö」で……

Syökää !
(あなたたち)食べなさい!
Älkää syöko !
(あなたたち)食べるな!

「lukea(読む)」で単数・複数、肯定・否定をまとめると、こうなります。

単数 複数
肯定 Lue ! Lukekaa !
否定 Älä lue ! Älkää lukeko !

※複数の肯定・否定ともに「kpt」の変化なし。

「ottaa(取る)」

単数 複数
肯定 Ota ! Ottakaa !
否定 Älä ota ! Älkää ottako !

「kerrata(繰り返す・復習する)」(rr→rtの逆転が起こる)

単数 複数
肯定 Kertaa ! Kerratkaa !
否定 Älä kertaa ! Älkää kerratko !

こうした命令形の作り方は、すでに出てきていて、例えば「olla動詞」の場合、一人称単数は「olen」で「n」を取って語幹は「ole」、その上で一人の人に「どうぞ」と勧める場合は「Ole hyvä !」、複数の人に勧める場合は「Olkaa hyvä !」なんでした。中国語の“請”ですけど、これも一種の命令形なんですね。

通常の文と通常ではない文

通常の文とは例えばこれ。

Minä luen kirjan.
私は(一冊の)本を読みます。(目的語は単数対格)
Minä luen kaksi kirjaa.
私は二冊の本を読みます。(目的語は単数分格)

通常ではない文、ここでは命令文のことですが、この場合、目的語が一つの場合対格ではなく主格、つまり辞書形に戻るのがポイントだそうです。

Lue kirja !
(一冊の)本を読みなさい!(目的語は単数主格=辞書形)
Lue kaksi kirjaa.
二冊の本を読みなさい!(目的語は単数分格)

ただし……これは目的語が「kirja(本)」のようにまるごと全部読んだり書いたりできるものだからで、例えば「suomiフィンランド語)」だったら、言語全部を話せるというのは理論上あり得ないので……

Minä opiskelen suomea.
私はフィンランド語を学びます。(通常の文・目的語は単数分格)
Opiskele suomea !
フィンランド語を学びなさい!(通常でない文=命令文・目的語はやはり単数分格)

……となるそう。ううむ、ややこしい。

「avata(開ける)」では……

Minä avaan oven.
私はドアを開けます。(通常の文・目的語は単数対格 ovi → oven)
Avaa ovi !
ドアを開けなさい!(通常でない文=命令文・目的語は単数主格=辞書形)
Älä avaa ovea !
ドアを開けるな!(通常でない文=命令文・目的語は単数分格)

「sulkea(閉める)」では……

Minä suljen oven.
私はドアを開けます。(lke → lje、単数対格)
Sulje ovi !
ドアを閉めなさい!(辞書形)
Älä sulje ovea !
ドアを閉めるな!(単数分格)

「tehdä(する・作る)」では……(tehdä → tekeä)

Minä teen sen.
私はそれをします。(単数対格)
Tee se !
それをしなさい!(辞書形)
Älä tee sitä !
それをするな!(単数分格)

命令は目的語に辞書形をとり、否定の命令は目的語に分格をとる。つまり命令形に対格「n」の形は存在しないということですね。

また複数に対する命令形をあえて一人に対して言うと、これは一種の敬語表現になるそうです。面白いです。

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ブルックス ブラザーズ展

新宿は甲州街道沿いにある文化学園服飾博物館で開催中の「ブルックス ブラザーズ展」を見てきました。こぢんまりした博物館の展示ですが、なかなか見応えがありました。

www.brooksbrothers.co.jp

ブルックス ブラザーズといえば、アメリカン・トラッド、アイビー・ファッションの代表的ブランド。今年が創業200年ということで、この展覧会が企画され、フィレンツェのヴェッキオ宮殿とニューヨークのグランド・セントラル駅に続いて、日本ではこの博物館でのみ展示されるそうです。

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もうずいぶん前のことですが、会社でサラリーマンをしていた頃、このブランドの大ファンでした。スーツもネクタイもシャツも、ぜーんぶブルックス ブラザーズで。

アメリカン・トラッドに魅せられたのは中学生だったか高校生だったかの頃でした。当時『All Right !』という雑誌(10号ぐらいで廃刊になっちゃいました)があって、この雑誌はかなりアメトラやアイビーに傾斜した紙面作りでした。この雑誌を通してとにかくそういう服に憧れ、一度青山にあるブルックス ブラザーズの本店に行ったことがあります。か・な・り緊張して入った私は、お店の方からしても相当場違いな客だったと思います。もとより中高生にはとてもお高くて買えませんでした。

それでも店員さんは私に小冊子状のパンフレット(そのシーズンのスタイルブックですね)をくれました。それに感激して、いつか絶対にここでスーツを買おう! などと思ったものです。実際に買ったのはそれから20年くらい経ってからでしたけど。こういう、一見さんのお子ちゃまでもバカにしないで客として扱ってくれた店員さんはすごいと思います。見事それにハマって、私みたいな後年のファンが一人増えたわけですから。ニューヨークに行ったときは、わざわざ五番街近くの本店まで「詣でて」きたほどです。

カッチリとした、ある意味無骨ともいえるブルックス ブラザーズ的なアメリカン・トラッド。その雰囲気は今でも好きですけど、実はもうこのブランドの服は一つも持っていません。私みたいに貧弱な体型にはあまり似合わないことに気づいたからです。

ブルックス ブラザーズの服は、もちろん日本で販売されているものは多少日本人の体型にも合わせてあるとは思いますけど、全体的に大柄なんですよね。例えばシャツの袖口には、このブランドならではの細かなタックがた~くさん入っていて、知っている方からは「おっ、ブルックスですね」などと言われてご満悦……みたいなアイテムなんですけど、これだけタックが入っているということは、やっぱり筋骨隆々とした大柄な体型を考えて作られているのでしょう。

背中周りも「スリムフィット」ではなくかなり「ゆったりめ」に作られているので、胸板が厚い方が着るならともかく、私などが着るとかなり「だぶだぶ」な感じになります。以前は全く気にしていなかったんですけど、歳を取って「洋服はシンプルでサイズ感ぴったりなものが一番いい」という考えに移ってきて、自然にブルックス ブラザーズの服は着なくなりました。

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展示会場には、歴代の米国大統領45人のうち、ジェームズ・マディソンからドナルド・トランプに至るまで40名がブルックス ブラザーズの愛用者だというパネルがありました。なるほど、大柄なアメリカ人の、それも威風堂々たる大統領にふさわしい……そういったテイストのブランドなんですね。

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それでも、200年の間にさまざまな歴史の一場面で登場してきた(ヤルタ会談ルーズベルトが着たコートもブルックス ブラザーズだったそう)このブランドの服の歴史を追うのはなかなか楽しかったです。入場料も500円とお安め(学生さんは300円!)ですので、トラッドやアイビー好きの方にはぜひおすすめ(11月7日は無料だそう)。受付で、この展覧会場のみの販売だというモレスキンの手帳が売られていて、表紙に型押しされた「羊のマーク(ゴールデン フリース)」に惹かれたんですけど、3600円(税込み)とこちらはお高めなのであきらめました。
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http://www.brooksbrothers.co.jp/about/brandstory/story05.html

太平洋戦争 日本語諜報戦

武田珂代子氏の『太平洋戦争 日本語諜報戦』を読みました。本のタイトル、それに副題の「言語官の活躍と試練」からして興味をそそられます。


太平洋戦争 日本語諜報戦 (ちくま新書)

アメリカ・イギリス・オーストラリア・カナダそれぞれの国において、各国が主に日本との戦争に関連した日本語要員の育成をどのように行ったか、日本での留学や業務の経験者・現地の日系人などをどう招集し「活用」したか……などについてその歴史と概要をまとめた部分が本書の大半を占めています。「言語官(通訳や翻訳を行ったり、言語を活かした諜報活動やプロパガンダなどを行う)」たちの学習過程や、実戦現場での「活躍」ぶりについても記述はありますが、どちらかというと広範な資料をまとめた見取り図的な側面が強くて、言語間の往還や言語の壁を越えることそのものについての考察はあまり入っていません。

その意味ではちょっと想像していた内容と違っていたのですが、これは今後の研究の進展が待たれる、ということなのでしょう。諸外国はいざ知らず、日本ではこうした「戦争と言語」というテーマについては、今とこれからの言語に関する政策、例えば移民や外国人労働者に対するさまざまな施策などと併せて、まだまだ未開拓な部分が多い分野といえるのかもしれません。

日本もかつて台湾や韓国などの国々を植民地統治した歴史がありますが、その際の言語政策、特にこちらの言語を押しつけるのではなく、向こうの言語を研究して政策に活かすという営みはどれくらいの規模や深さでなされたのでしょうか。私はこの点に関して全くの素人ですが、この本をきっかけにして、そちらへの興味が俄然湧いてきました。関連した書籍を渉猟してみたいと思います。

ところで、この本でいちばん興味深かったのは、太平洋戦争時のアメリカ軍(あるいは連合軍)における「(日系)二世語学兵」に関する記述です。帯の惹句にもあるように、ダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官をして「実際の戦闘前にこれほど敵のことを知っていた戦争はこれまでになかった」と言わしめたほど対日諜報戦で活躍した、日米双方での教育経験があった「語学兵」たち。

例えば、かの米艦船ミズーリにおける日本の降伏文書調印式に際して、降伏文書をチェックする役割を担ったトーマス・サカモト氏は、のちのインタビューでこのように語るのです。

日本軍は二世語学兵の存在に気づいてなかったと思う。日本軍の戦い方は筒抜けだった。

そしてサカモト氏は、戦場で回収された日本軍兵士の詳細な日記や手紙などからさまざまな情報を得ていたことを証言し、日本軍は兵士の行動規律が甘く、兵士が日記を書くことを許していたことが「日本が戦争に負けた理由の一つ」とするのです。旧日本軍は「生きて虜囚の辱を受けず」とした「戦陣訓」などの影響で特に太平洋戦争初期に捕虜となった日本兵はかなり少なかったそうですが、それでもこうした「言語兵」の働きによって「兵站、戦術、戦略について日本側が何を考えているかを完全に把握していた」のだとか。

この点に関して武田氏は「日本軍が戦場での文書の安全管理にずさんだったのは、日本語は難しい言語であり、敵に日本語が理解できる要員などいないと考えていたからだと言われて」おり、「日本兵は捕虜にならないという想定から、捕虜になったときにどう振る舞うべきかという教育は日本軍内で行われていなかった」と書かれています。う~ん、なんという「ナイーブ」な言語観でしょうか。

明治この方、西洋に追いつけ追い越せで外語教育に血道を上げ、議論し、実戦し続けてきたその努力は、例えば『資料日本英学史』第二巻の「英語教育論争史」にも綿々と綴られていますし、それは現代にも引き継がれているわけですが、曲がりなりにも植民地「経営」などを経験してきた国にして、この言語や外語に対する「ナイーブ」さはどういうことでしょう。

常々感じていることですが、日本人は今に至っても自らの母語である日本語と、自らを取り巻く外語に対して、客観的で透徹した見方ができていないのかなとも思います。自分が外語を話すとはどういうことなのか、日本語の非母語話者が日本語を学ぶとはどういうことなのか、言語の壁を越えてお互いに行き来するということはどういうことなのか……煎じ詰めれば私たちはまだどこかに「言語を舐めている」ところがあるのかもしれません。

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この本には、ほかにも興味深い記述がいくつもあります。個人的には、画家の国吉康雄氏が初の対日プロパガンダラジオ放送の原稿を書き、読み上げたという話に興味を持ちました。「語学兵」だけでなく、民間人もそれぞれの立場で時に否応なく、時に積極的に語学の能力を提供していたのですね。

また「語学兵」が戦場で、例えば日本兵や民間人が隠れているとおぼしき洞窟を焼き払う「ケーブ・フラッシング」前に、洞窟に呼びかけをする役目まで果たしていたという記述。これは先日読んだマンガ『ペリリュー』にも、そのシーンが出てきました。

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▲『ペリリュー ─楽園のゲルニカ─ 』第三巻より。

さらに序章で紹介されている熊本県九州学院で学んだ日系アメリカ人やカナダ人二世の生徒たち。前述のトーマス・サカモト氏もそのお一人なのだそうです。山崎豊子氏の『二つの祖国』を想起させます。ほかにもエドワード・G・サイデンステッカー氏やドナルド・キーン氏などのお名前も登場します。語学業界のはしくれとして、いろいろなことを考えるヒントになるような一冊でした。