インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

黒歴史がよみがえるので旧交は温めません

東京新聞朝刊で毎回楽しみにしながら読んでいる、伊藤比呂美氏の人生相談。今回は「人間関係の継続の仕方が分かりません」という40代女性からのお悩みでした。

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子供の成長に合わせて関わらざるを得ない親同士のグループで、どうおつきあいしていけばいいか……とこぼす女性に、伊藤氏は「継続しなくていい、表面的なつきあいでいい」とアドバイスします。そうそう、その通りだと思います。そして特に興味深かったのは、女性のお手紙の中にあったというこの部分。

「大学の時の友達で今もやりとりのあるのは一人。高校の友達で続いているのも一人。中学の友人で連絡が取れるのは二人くらい」

40代になってもそこまで友達の関係が続いているなんて、すごいですよ。私はといえば「皆無」ですもん。大学も高校も中学も、FacebookやLINEなどで偶然つながって連絡を取ろうと思えば取れる、という人はいますが、これはもはや友達の関係とはいえませんよね。ちなみに親が転勤族だったので、いわゆる「幼なじみ」みたいな友人も全くいません。

苦楽を共にした予備校時代の友人数名とは最近まで年賀状のやりとりがありましたが、私が年賀状の「虚礼」に飽き飽きして出すのをやめてしまい、それっきりになっています(ごめんね)。

だいたい私は、成績が悪くてスポーツも苦手で「いじめられっ子」でしたから、中学高校ともにあまりいい思い出がありません。できれば忘却の彼方に押しやってしまいたい。大学も自分に全く才能がない芸術分野を専攻しちゃって留年までしていますから、これも振り返りたくありません(それなのに、今でも「課題を提出しなきゃ!」「卒業制作を作らなきゃ!」みないな悪夢を見ます)。

卒業アルバムみたいなものは全部捨ててしまいましたし、同窓会のたぐいも行きません(もう連絡も来ないけど)。何度か元クラスメートの集まりに顔を出したことがありますが、正直に言って居心地が悪くて、もう今後は遠慮したいと思っています。だってそういうものに触れるたびに、過去の「黒歴史」がよみがえるんだもの。

テレビ番組でときどき「過去の恩師を訪ねる旅」みたいなのとか、あと雑誌で「旧交を温める」的な記事などがありますよね(文藝春秋の「同級生交歓」みたいなの)。ああいうのを見たり読んだりするとそれなりに心温まることもあるのですが、私自身はやっぱり遠慮しておきます。墓参だったら、逆に心が落ち着きますけど(ひどい)。

これもひとえに、健全な学生生活を送ってこなかった自分の不徳のいたすところです。いえ、学生生活だけではありません。これまで勤めてきた様々な職場の同僚でさえ、どこも基本的に「立つ鳥跡を濁しまくり」で退職していますので、いまもつながりがある方は「皆無」に近いです。う~ん、よくよく考えたら、これもちょっとひどい。

でもまあ、そうやって生きてきちゃったんだもの、仕方がないですよね。伊藤比呂美氏がおっしゃるように「とにかく今。今の今」を生きるしかないし、それでいいんだとも思っています。
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https://www.irasutoya.com/2018/05/blog-post_52.html
▲しかし「いらすとや」さんには本当に多種多様なテーマのイラストがありますね。お世話になってます。

なぜ語学系のツイートは拡散しやすいのか

先日、日本経済新聞電子版のこの記事に思うところあって、Twitterでツイートしました。

いまのところリツイートが8300ほど、「いいね」が12000ほどついています。

一年に一回くらいはこういうことがあるのですが、なぜこんなに急速に拡散したのでしょうか。やはりみなさんコンビニなど様々な場所で外国人労働者に接する機会が増えていて、戸惑いやら驚きやら共感やら……さまざまな感慨を持たれていて、かつ日本社会がまだそれを当たり前の光景として受け入れ切れていないために、とても新鮮だったということなのでしょうか。

とはいえ、新鮮に感じるべきは日本経済新聞の記事そのものの方です。私は自分の職場で日々接する留学生のみなさんの声を紹介しただけ。自分が中国語を使って中国や台湾で働いていたときは常に緊張とチャレンジの連続だったので、いま現在同じような立場にある外国人労働者や留学生のみなさんにエールを送るつもりでツイートしました。

あまりに拡散が速かったのですべてを追い切れていませんが、リプライやリツイートのコメントを拝見するに……

コンビニなどで働く留学生などの外国人に対してもっと寛容であるべきと考える方が半分くらい。そのほか、移民や難民の問題と絡めて自説を述べる方、また言語や国籍に関係なくサービス業という仕事なんだから甘えるなという厳しい意見の方もけっこう多いです。あと少数ですが単なるヘイトスピーチや意味不明なもの(いわゆる「クソリプ」)も。

それから、これは今回に限らないのですが、語学系のツイートやコメントは拡散しやすい印象があります。そうした反応の基調となっているのは「日本人は外語(なかんずく英語)が苦手だ、もっと頑張らなきゃ」というもの。今回もその延長線上で「だから留学生の日本語の拙さ云々は身のほど知らずで恥ずかしい」というような主張の方も多かったです。

明治からこのかた、日本人は涙ぐましいほどの努力で外語に取り組んできました。その努力は今も営々と続けられ、早期英語教育の導入などによってますます強化されようとしています。でもその割には「異文化」への接し方、それも異文化を体現している生身の人々に対するリテラシーのようなものがあまり涵養されていないような気がします。つまり文化の異なるお隣さんとどうつきあうかという課題です。

だから外語、ないしは言語の話題になると、それぞれの苦労ないし努力された(あるいは苦労ないし努力しつつある)ご経験やお立場からついエモーショナルな反応をかき立てられる方が多くて、それで語学系のツイートやコメントは拡散しやすいのかなと。そしてまた、日本人がまだ異文化や他の言語に対する立ち位置なり腰の据え方なりを決めかねているからゆえの「議論百出」なんじゃないかと思いました。

これは私たちの外語や異文化に対するコンプレックスの裏返しかもしれません。明治から150年の時が過ぎても、私たちはまだこの課題に対して冷静に、それなりに自信を持って提出できる答えを見つけていないんですね。

qianchong.hatenablog.com

ところで、今回も改めて感じましたけど、Twitter上でいきなり罵声を浴びせて去って行くだけ(しかも匿名で)という方は存外多いですね。またツイートの内容や前後の脈絡をほとんど踏まえずに(だから「いきなり」なわけですが)決めつけたり叱りつけたりする方もちらほら。そもそもTwitterがそうした脊髄反射的な反応がしやすいメディアなんでしょうけど、心の健康のためにはやっぱりTwitterからはもう少し距離を置いたほうがいいかな。

中国や韓国との政治的な関係が悪くなると、ネット上にはきまって「断交だ」「出て行け」的な暴言が湧いて出ますが、少しでも貿易や金融や経済について初歩的な解説書でも読んだことがある人なら、そんな幼稚な言葉は吐けないはずです。私たちはすでに世界中の様々な国や地域や民族と分かちがたく結びつき、相互に影響を及ぼしあっているのですから。
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https://www.irasutoya.com/2016/03/blog-post_24.html

……と、ここまで書いて冒頭の自分のツイートを読み返してみたら、私も「その国の言語を使ってコンビニで働くことがどんなにすごいことなのか分からない?」と、どことなく上から目線の投げつけ口調ですね。売り言葉に買い言葉。こういうニュアンスもまた、脊髄反射的な反応を呼び込むのかもしれません。

『東京カレンダー』の妄想物語が興味深い

ここ十年ほど、同じ美容室で髪を切ってもらっています。「いっちょまえ」に美容室(しかも表参道!)に通っているのは、単にいつもお願いしているスタッフさんがすごく上手で、なおかつ何の説明もせずに切ってもらえるからラク、という理由なんですけど、お店の方が私の目の前に置いてくださる雑誌(たいてい三冊)のチョイスがとても興味深いです。

だいたい『NUMBER(ナンバー)』『BRUTUS(ブルータス)』『PEN(ペン)』が鉄板。なるほど「中高年の、スポーツ観戦が好きで、ちょいと小金持ち」的なおじさんに見られているわけですかね、私は。その他『MONO MAGAZINE(モノ・マガジン)』や『LEON(レオン)』や『東京カレンダー』が置かれることも多いです。

う〜ん、私としては『クロワッサン』とか『レタスクラブ』を置いてもらった方が断然うれしいんですけど、まあ何かこう、そういう「小金持ちのちょいワルおやぢ」を演じるのも悪くないかしらと思って、そのままお勧めされた雑誌を隅から隅まで目を通しています。普段あまり読まない雑誌を読めますし、私は美容師さんとの会話が苦手なのでなおさら。聞くところによると、お客さんが雑誌を広げてたら、あまり話しかけない気配りをしてくださるそうですね。

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きのう何食べた? 3 (モーニング KC) より

ところで、先日髪を切ってもらったときに目の前に置かれたのは『NUMBER』と『PEN』、そして『東京カレンダー』でした。実は私、この『東京カレンダー』が一番楽しみです。こういう言い方はなんだか「disる」ようで心苦しいのですが、記事のラインナップが徹底したスノビズムに貫かれていて、その、たぶん「おじさん」が書いていらっしゃるであろう文章の端々にツッコミを入れながら読めるからです(やっぱりほとんどdisってますね)。

『東京カレンダー』って、昔はもうちょっと実用的な情報雑誌という側面が強かったような印象があるのですが、いまや同誌は地域密着系都市型エンタテインメント(©出没!アド街ック天国)とでも言うべき誌面作り。比較的若い富裕層、ないしは一流企業に勤めるヤング・エグゼクティブ、そしてそうした存在に憧れる方々を対象にしたであろう、ファンタジックな物語満載のラビリンスになっています。

毎号、青山とか銀座とか目黒とか神楽坂とか、20代から40代くらいの「ヤン・エグ」が夜ごと繰り出す比較的お高めのレストランや割烹やバーなどを紹介する記事が中心の『東京カレンダー』。その紹介店数の多さからも精力的な取材やタイアップなどが行われていることが分かりますが、特筆すべきはそこに組み合わされる物語仕立ての男女恋物語、あるいはイケメンでたいがいは未婚の、エリートサラリーマンの友情物語です。

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東京カレンダー2018年11月号

ところが最新号の特集は『続・丸の内の真実』で、記事のラインナップは「丸の内OL33名が語った『丸の内』のリアル」「丸の内美女はアフター5にこのレストランを指名する」「丸の内OLたちの本音」「丸の内美女OLが皇居ランをする理由」となっており、一見女性の読者を対象としているように見えます。

確かにメイク指南など女性読者を対象としたような内容もあるのですが、こうした記事を虚心坦懐に熟読玩味してみれば、これらは実は男性目線の女性像(あるいは虚像?)を追いかけたものではないかと読めてきます。女性にアプローチするためにはどういう好みを知ればよいか、女性からの好感度を上げるために学ぶべき点は……という「マニュアル」として機能しているのではないかと。それは「丸の内OL」とか「丸の内美女」といった言葉に、はしなくも表れているような気がします。

今回私が一番食い入るように読ませてもらったのはこの記事、「MARUNOUCHI OFFICE LOVE バツイチ上司と遅咲き女子の物語」。池田という名前の「46歳、バツイチ、子供なし。仕事ができて人望が厚い、ハイスペックおじさん」と、関西から上京して「丸の内OLデビュー」したのち「同じ関西出身で慶應卒の同期」の彼とつきあったものの別れて数年という女性主人公の物語です。

もうですね、この冒頭の設定からして、私の身体は小刻みに震え始めているわけですが。

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「上司とのデートの翌日、何ごともなかったかのように私に注意する眼差しが最高に刺激的」
「歳が離れた彼との交際で、私の舌は猛スピードで肥えていった。すべての経験値が上がっていく」
「初めて私の家にくることになった時(中略)池田が脱いだジョンロブの革靴は、うちの小さな玄関で、あまりにも窮屈そうだった」

……うおお、まさに肉と欲。

女性が主人公で、女性の気持ちに寄り添いながら物語を綴っているように見えますけど、これはもう徹頭徹尾、男の、それもおじさんの視点で一方的に捉えた女性像を「消費」しているように思います。一種の妄想ともいえるこのストーリーに真正面から憧れる方はいるのかしら。それともみなさん私と同様に「そんなやつ、いねーよw」とツッコミを入れながら楽しんでらっしゃるのかしら。もっとも、こうした物語を書かれるライターさん自身がけっこう楽しんで、ノリノリで話を盛っているフシも見られますけど。

あるいはひょっとすると、「いるいる、オレの周りにもそんなやつ」という一種の「あるある」的な読み物として楽しんでいる読者もいるのかもしれません。ともあれ、軽佻浮薄に見えて、これはこれでなかなか奥が深い『東京カレンダー』。もし美容室に行ってこの雑誌があったらぜひ所望してみてください。あ、おいしそうな料理写真が満載なので、そちらは掛け値なしに楽しめます。

チャイニーズには目が四つある

昨日うかがった仕事先で「外見だけで日本人か中国人か分かるか」という話になりました。

これ、昔からいろいろな場所で聞かされてきた話題で、日本人と中国人、さらに韓国人も加えて、どの国の方かを「判別」する方法にみなさん一家言持っているのが面白いなと思います。もちろん実際に会話をしてみれば分かるのでしょうけど、ここでは外見だけで「判別」するということです。

いわく……「服装の趣味が違う」「メイクの仕方が違う」「目や眉毛の細さで見分ける」「日本人男性はもみあげの下や卑下の剃り跡が青い」「中国人男性、それも北の地方の人はすね毛が薄い」などなど、みなさんそれぞれにいろいろなことをおっしゃるのですが、私はといえば、あまり見分ける自信はありません。

何十年も前は、特に中国の方など服装や佇まいが特徴的な感じがして、すぐに見分けられたような気がしますが、いまはもう自身はありません(何の自信だか)。特に女性、それもお若い方々は、私が奉職している学校の学生さんたちを見てもますます見分けがつかなくなってきているような気がします。

でも、昨日うかがった仕事先の方は自信たっぷりにこうおっしゃいました。「中国の方は、眼力が違う」。へええ、そうですか? 「そうなんです。日本人と明らかに違う『目力』なんですよ。ほら、“蒼頡”って人がいるじゃないですか。あれですよ」。

蒼頡(倉頡)は中国古代の、漢字を発明したという伝説上の人物です。肖像画には目が四つ描かれていて、これは蒼頡の洞察力や観察力、叡智の鋭さを表しているとされるんですけど、そういう人物を祖先にもつ現代の中国人にもその遺伝子(?)が受け継がれているんじゃないか、というわけですね。う〜ん、面白いなあ。

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倉頡 - 維基百科,自由的百科全書

その方がおっしゃるに、中国人はまるで目を四つ持っているかのようで、眼力が強いのもさることながら、何かこうもう一対の目で物事を俯瞰しているというか、複眼的思考というか、そういうスタンスを感じることがあるのだそうです。う〜ん、私は周囲の中国人をお一人お一人思い浮かべてみるに、必ずしもそうじゃないんじゃないかなという「反証」は浮かびますが、それでも腑に落ちる点はあります。

それは以前にも書きましたけど、中国人、というかもっと広くチャイニーズの方々の多くに(もちろん、全部じゃありません)感じる、ゴリゴリとしたリアリズムです。建前より本音で自分の欲求に忠実な姿勢。人は人、自分は自分というキッパリとした立て分け。こういうある意味透徹したリアリズムも、ひょっとすると「蒼頡」的に世の中を見つめ倒した結果なのかもしれません。

qianchong.hatenablog.com

通訳学校の公開講座などでも、Q&Aの時間にズバリ「通訳の仕事でどれくらい稼げますか」「この学校に入ってどのくらいの期間で稼げるようになりますか」と聞いてくるのはチャイニーズの方々です。こうした質問を日本の方から聞くことはまずありません。心の中では聞きたいと思っても、初手からカネの話はちょっと……と自制してしまうのでしょうか。いや、私だって自制しちゃいますけど。

また「石にかじりついても通訳者になる!」という気概みたいなものを感じるのもチャイニーズの方が多いです。もっとも、これは私の恩師がおっしゃっていたことですが、最近はこういう「石にかじりついても」系の方は日本人・チャイニーズ問わず少なくなってはいるんですけど。

「日本人に代われ」や「まともな日本語を話せ」の恥ずかしさ

昨日、日本経済新聞のオンライン版に載っていたこちらの記事。小売店や飲食店で働く外国人が心ない暴言や嫌がらせなどを受ける事例が増えているという内容です。

www.nikkei.com

以前にも書いたことがありますが、留学生が日本で最も「心折れること」の一つは、コンビニなどのアルバイト先でちょっとした日本語の拙さを揶揄されることだそうです。そういう人は一度我が身に置き換えて想像してみてほしいと思います。その国の言語を使ってコンビニで働くことがどんなにすごいことなのか分からないのでしょうか。

qianchong.hatenablog.com

私は日本のコンビニで日本語だけを使ってアルバイトをしたことがあるけれど、あれと同じ業務内容を外国で、英語や中国語で、現地のお客さん相手にできるだろうか……と想像してみたら、とても難しいし勇気がいると思います。コンビニで働く外国籍の方や留学生には敬意を払いこそすれ、揶揄や罵倒など絶対にできないでしょう。我が身を振り返れば、恥ずかしくて。

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これはフィンランドのコンビニ(というよりスーパーですか)alepaで撮った写真です。こちらでも外国籍と思しき店員さんが働いていました。少なくとも英語とフィンランド語は必須の、日本とは比べものにならないマルチリンガルな環境です。こんな環境で自分が働くことを想像してみたら、どうでしょう。

もちろん、外国籍の方や留学生にもいろいろな人がいます。みんながみんな誠実で木訥で一生懸命で……などという幻想を振りまくつもりはありません。中には「態度が悪い」と感じる方もいるでしょう(実際私も遭遇したことはあります)。私が日々接している外国籍の方々だって、もう少し「郷に入っては郷に従う」を実践してくれないかな、私たちが異文化や多様性を尊重すべきであるのと同じ意味であなた方も自重してくれないかな、と思うような方は時々います。

それでも、それをはるかに上回る多くの人々は善良で(当たり前ですけど)、異国の環境で懸命に頑張っているのです。日本人のコンビニ店員だって「態度が悪い」人はいます。惻隠の情という言葉がありますが、数多くある外語の選択肢から日本語を選び、日本で働いてくださっている外国籍の方や留学生に、もう少し温かい目を向けてほしいと思います。

「日本人に代われ」「まともな日本語を話せ」などと罵る方は一度外語を真剣に学んでみるとよいのです。母語と外語を行き来することがどんなに難しく、深く、そしてエキサイティングであるかが分かります。学んだその先に異なる言語や文化に対する寛容も敬意も生まれてくるでしょう。ご自身の人生がより豊かになること請け合いです。

冗談言っちゃいけません

「東京新發現 DISCOVER NEXT TOKYO」というFacebookページがあります。京王電鉄と『地球の歩き方』が共同で運営する、多摩エリアの観光情報を台湾や香港に向けて発信するサイトです。

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https://www.facebook.com/DiscoverNextTokyo/

ここで「観光促進につながる情報を取材し、短文記事を中国語(繁體字)で書いていただくの主な業務内容」という、大学・短大・専門学校の「留学生ライター募集」というオファーが来たんですけど、インターンシップだから報酬はなしだそうです。冗談言っちゃいけません。

サイトの内容を拝見するに、これは明らかに京王電鉄が沿線の観光地に外国人観光客を誘致するための宣伝です(高尾山など、人気のスポットがありますからね)。しかも地域の情報を取材して、中国語(繁體字)で原稿執筆をするというれっきとした「業務」ですよね。

日本国内、首都圏に住んでいて、しかも中国語でそこそこの記事が書けるこうしたライターを探せば当然コスト高になります。これは、そうしたコストをかけずに「留学生の勉強にもなるから」という理由付けで「インターンシップ」の名を借りた無償労働ではないでしょうか。

語学学校に勤めていると、時々こうした依頼があります。かなり前のことですが、こんな依頼もありました。その条件があまりに「身勝手」なので、ブログの記事に書いておいたのです。

qianchong.hatenablog.com

ここまでひどくはなくても、テレビ局などから「この中国語の意味を教えて」とか「今からファックスで文章を送るので大体の意味を教えて」などといった依頼はよくありました。ほんの一言、二言の場合、「それはですね……」とお教えしたこともありますが、そのたびに、この国ではまだまだ専門の技術、とりわけ語学に対するリスペクトが希薄だなと感じていました。

それでも集まってしまう?

そういう意味では、一昨日から始まった東京五輪のボランティア募集に注目しています。これだけの規模で「無償労働」が、それも医療や通訳などの専門分野でさえ成立してしまうという前例ができてしまえば、これは回り回って多くの人々の収入に影響してくるのではないかと思うのです。

昨日ボランティアへのエントリーを受け付けているサイトを見てみましたが、この「ポエム」感満載の惹句は一番批判を受けている無償労働についてとことん回避をしています。またそのあまりのやっつけ感に某まとめサイトでは「ボランティアが作ったんだろw」などのコメントが並んでさすがに同情を禁じ得ない入力フォームの問題もあって、出だしはちょっとバタバタしているようです。

応募を考えてくださる皆さまへ|東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会
news.yahoo.co.jp

それでも、先日の本間龍氏と西川千春氏の対談でうかがったところによると、海外から「五輪のボランティア参加が生きがい」という方が多数参加すると見込まれているんだそうです。もちろんそういうことができる富裕層の方々が中心のようで、自分の意思で参加されるならいいと思いますけど、その結果残った「レガシー」はずっと日本に暗い影を落とすと思います。

「やりがい搾取」とまで批判されたボランティア募集が「なんだ結局集まったじゃん」ということになれば、その「成功できてしまった」という「レガシー」は、今後同様の巨大商業イベントにおける大規模な搾取にも前例とお墨付きを与えるでしょう。特に影響を受けるのは若い人たちではないでしょうか。

私はこれが、ことオリンピックのボランティアにとどまらない一番大きな問題だと思います。目先の利益ばかり追いかけて(端的に言って上記のFacebook案件も経費削減の結果でしょう)「労働には正当な対価を」がなし崩しになっていけば、若い人も育たなくなり、お金も回らなくなる。やがて社会全体が萎縮していきます。

語学へのリスペクトが足らない

ところで、上記の「留学生ライター募集」ですが、仮にオファーを受けて留学生の皆さんに「誰かやりたい人は?」と聞いたとしますね。たぶんほとんどの人が「え? 報酬なし?」と驚きますよ。オリンピックのボランティアについて紹介したときも珍しい動物を見るような目をしてましたもん。こうやって、日本は奇妙で非常識な国という評価が確立されていくんです。

SNSで教えていただいたところによると、こうした「インターンシップ」に名を借りた無償労働や低賃金労働は日本だけでなく各国で見られるそうです。それでも、仮にも語学を学び、通訳や翻訳を仕事にして食べていこう、それで社会に貢献していこうという若い方々を育てている私たち学校関係者は、こうした流れに竿をさしてはいけないのではないでしょうか。

そして例えば語学について「ちょろちょろっと喋ったり、書いたりするだけ」とか、通訳や翻訳について「話せれば訳せる」などといった社会通念を少しでも変えていけたらいいなと思います。

中国人のたくましいところに学ぶ

昨日Twitterで拝見した、こちらのツイート。

なるほどなあ、確かにこういうのが中国の人々のたくましくて融通無碍なところだなあと改めて感じ入りました。日本だったら業務範囲外の仕事を個人で受けて稼ぐってのはルール違反じゃないか~みたいなことになって、自他ともに規制が働くところですけど、中国の人々はこの辺のフレキシビリティが半端ない。これ、田中信彦氏の日経ビジネスオンラインでの連載『「スジ」の日本、「量」の中国』にも通底するお話かと思います。

通訳学校に通っていたころ、日本における通訳業界のルール、というか暗黙の了解として、「仕事は必ずエージェントを通して受注すること。クライアントと直に取引しないこと」と教わりました。エージェントというのは通訳者や翻訳者の派遣業者です。個々の通訳者や翻訳者はこうしたエージェントに複数登録して、そこから仕事のオファーをもらうことになります。

エージェントは、要するに中間マージンを取っている存在ですから、そこを介さずに直接クライアントと取引した方が、クライアントも通訳者もハッピーなんじゃないの、と思われがちですが、実際にはそうともいえません。

エージェントは仕事のオファー以外にもいろいろな役割を担っています。クライアントに営業をかけて仕事を取ってくること、資料の入手や手配(バイク便で刷り物を送ってくれたりもします)、スケジュールの調整(単に日程だけでなく、例えば一日の会議で複数の通訳者がいる場合、どのセッションを誰が担当するかなども。これによって予習の負担を軽減することができます)、出張の場合の交通手段の手配や、保険手続きなどなど。

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通訳者が個人で営業をしたり、飛行機や電車のチケットを手配したり、保険をかけたりという細々とした作業は大変で、それを肩代わりしてくれるわけですから、これは「もちつもたれつ」です。というわけで、通常通訳者は登録しているエージェントの数だけ、そのエージェントの社名が入った名刺を持っており、業務でうかがった先のクライアントには、個人の名刺ではなくエージェントの名刺を出すルールになっています。こうして、クライアントと通訳者が直に取引しないようにしているわけです。直で取引を始めると、早晩ダンピング合戦になり、回り回って通訳者自身の首を絞めることになる、という長年の「知恵(?)」も働いているのでしょう。

ところが。

最近はその通訳者とエージェントの関係が変わってきたように思います。その大きな要因は、このブログでも何度か書きましたが、ほとんどすべての案件が「仮案件」からスタートし、フリーランスで業務を行う立場の人間には極めて不利な状況が日常化してきたことです(中国語通訳業界についてのお話です。ほかの言語の状況はあまりよく知りません)。端的に言って、ほんの一部の方以外「食べていけない」状況になってきたともいえます。

qianchong.hatenablog.com
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第一線の「ハイエンド」といえるような一流通訳者の方々は、きちんとしたクライアントやきちんとしたエージェントと組んで質の高いお仕事をされているはずですが、問題は私のような中途半端な人間です。「安かろう悪かろう」ではない(つもり)だけれど、ハイエンドともいえない、そういうレベルにいる通訳者は、片方で「仮案件&リリース」を主因とするクライアントとの関係変質に悩み、もう片方で「直でどんどん仕事を取っていくぜ」的な抜け駆け系にもなりきれない。要するにどっちつかずなわけです。

吉川幸次郎氏の『支那人の古典とその生活』冒頭に、こんな文章があります。

支那人の精神の特質は、いろいろな面から指摘出来るでありましょうが、私はその最も重要なもの、或いはその最も中心となるものは、感覚への信頼であると考えます。そうして、逆に、感覚を超えた存在に対しては、あまり信頼しない。これが、支那人の精神の様相の、最も中心となるものと考えます。(「支那人」の表記は原文ママ

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支那人の古典とその生活 (1964年)

なるほど、だから現実のチャイニーズに接しても、良くも悪くもゴリゴリとしたリアリズムを感じるのですね。冒頭でご紹介したツイートでもうかがい知れるように、国とか政治とか、ましてや「業界の秩序」なんてぼわっとした概念の世界など信じない。自分が実際にいまここでこの手にできる、手触りを感じられるものをまずは優先し、信頼すると。う~ん、これはこれでカオスというか、秩序など脇に追いやった弱肉強食の世界のような気もしますが、こういうバイタリティにも学ぶべきところはあるのではないかと思いました。見習って、私も私なりに精進いたします、はい。

「さん」付け原理主義

昨日の東京新聞朝刊にこんな小さな記事が載っていました。警察庁の女性警視が、同僚の男性警視から受けたセクハラが「公務災害」に認定されたという記事です。

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見出しは「『ちゃん』で呼ばれ、セクハラも」となっていますから、「ちゃん」付けで呼ばれたうえにセクハラまで受けたという意味に取れますけど、これ、ややもすると「ちゃん」付けで呼ばれること=セクハラなのか、なんて息苦しい社会なんだ、みたいな見当違いの意見がわいて出るんじゃないかと、心配になりました。

案の定、Twitterを検索してみたら、読売新聞の記事についてたくさんのツッコミが入っていました。

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この見出しだけでは、まさに「『ちゃん』付けだけでセクハラ認定」されたかのようなミスリードを誘うじゃないかというわけです。本文を読めば「女らしくしろ」と言われたり、職場や酒席で卑猥な言葉を浴びせかけられたりしたことが主因であるのにもかかわらず。

本当にその通りですよね。上記のツイートで「同僚が女性警視に「ちゃん」付け…公務災害認定」となっている見出しは、実際には「…」の部分にもう少し文字があって(ツイートの形式上、省略されたんですかね)「同僚が女性警視に「ちゃん」付け セクハラによる疾患で公務災害認定」となっていました。それでも「ちゃん」付けだけでセクハラ認定という粗忽な読みを誘発するおそれはあると思います。

読売新聞側もこれはまずいと思ったのか、この記事は現在削除されています。ちなみに昨日の読売新聞東京版朝刊を確認しましたが、くだんの記事は載っていませんでした。ネット版だけの記事だったのかもしれません。

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ところで、私自身はこの「ちゃん」付け、すごく抵抗があります。例えばアスリートへの「ちゃん」付け。卓球の福原愛氏は幼い頃からスター的存在として親しまれ、「愛ちゃん」と呼ばれてきましたが、今や成人して結婚してお子さんもいらっしゃる氏に「ちゃん」付けはいささか失礼ではないかと思ってしまうのです。

「愛ちゃん」は親しみを込めた呼称なんだからいい? 確かにそうです。福原愛氏ご自身もそう呼ばれることを嫌がってはおられないようですし、夫の江宏傑氏も“愛醬(愛ちゃん:醤油の「醤」が日本語の「ちゃん」と似た発音の「ㄐㄧㄤˋ/jiàng/じゃん」なので、ちょっとした諧謔として使われます)”と呼ばれているそうですし。「愛醬でいいじゃん」ってことですね。

それでも「ちゃん」という呼称が、上記の記事のように「上から目線」を含む可能性がある以上、私はなんとなく危うさを感じてーーそれは、上記の記事に見える男性警視の「上から目線+蔑視」にも通底する姿勢ですーー使えないんです。

けれど、フィギュアスケート羽生結弦氏は「羽生くん」と呼ばれますよね。こちらも主に年上の方からの羽生氏に対する呼称で、これもティーンエイジャーの頃から活躍されてきた氏に対して使われてきた「習慣的」な呼称ですけど、こちらは「ちゃん」ほどには違和感を覚えません。

う~ん、要するに親しみがこもっていればいいけれど、上記の男性警視のように明らかなハラスメントの意図があればアウトということなんでしょうか。なんとなく自分でも腑に落ちません。

ちなみに私、相手の年齢や立場にかかわらず基本的には「さん」付けで呼ぶというのをもう何十年も意識してきました。学校などで同僚の先生方に呼びかけるときも「先生」は使わずに「さん」を使うようにしています。でも、完璧に徹底できているわけじゃありません。例えばお師匠や校長先生を「名前+さん」で呼ぶのは、やっぱりちょっと抵抗があります。

能のお稽古では、稽古仲間のお子さんが一緒に参加していることがありますが、そのときにも私はそのお子さんに「さん」付けで、なおかつほかの大人の方に話すのと同様にしています。要するに「タメ口(ためぐち)」をきかないということです。「○○さんはいま、何の曲をお稽古されていますか?」という感じ。周りの師匠やお弟子さんは親しみも込めて「○○ちゃん」なんですけど、私はどうしてもできないんです。

ここまでくると、これはもう「さん」付け原理主義とでも呼ぶべき状態ですかね。

追記

ここまで書いたところで、SNSにこんな話題が上がっていました。

togetter.com

う~ん、こういう方(特に中高年のおじさん)は時々いますね。ここまで「イタ」くなくても、例えば飲食店などで店員さんに「タメ口」や「○○持ってきて」みたいな命令口調で話す方。そうそう、先日、お店のご主人が若い衆にあれこれ叱るのを聞きながら食べるのがいや、という文章を書きましたが、私は客が「タメ口」で店員に接し、エラそうに話しているのを聞きながら食べるのもいやなんです。

qianchong.hatenablog.com

めんどくさいですね。そんなわけで、ますます外食するのが億劫になってしまうのでした。

繊細でこまやかで美しい中国にひかれた

以前、日本で中国語を教えながら事業もなさっている中国の方とお話しする機会がありました。北京出身のその方は「北京があまりにも急速に変わるので、正直に言って悲しい。私の北京はどこに行ったの? という感じ」とおっしゃっていました。

ちょうど吉川幸次郎氏の『遊華記録——わが留学記』を再読していたところでした。そして氏が中国の「手近で、ことごとしくないヒューマニズム」にひかれ、かつ「中国の持つ、日本よりももっと繊細でこまやかな美しいもの」が特に好きと言われていることについて、改めていろいろと考えさせられました。かつて自分が中国に、そして中国語に「ハマった」のはなぜだったかな、と。

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吉川氏は荻生徂徠をひいて「まず中国のこまかなやさしいところがわからぬと、そのいかめしいところもわからぬ」と言います。そして、いかめしい部分も中国の非常に重要な性質ではあるが、自分はあまり好きではない、とも。一帯一路でアジアや中東はおろかアフリカまで睨みをきかせ、一方で米国との貿易戦争を繰り広げ、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの中国を目の前にした現在にこんなことを言われても「?」かもしれませんが、私にはこれ、とても納得のいく言葉でした。

私が中国語を学び始めたのは1990年代ですから、そんなに昔じゃありません。それでも初めて行った中国では、特に江南地方の田舎を選んで行ったということもあるのですが、まだ使われていた「外貨兌換券」をお店で出すと「それは何だ」と聞かれ、懐からカメラを取り出すと人が寄ってくるというような時代でした。表に出れば人と自転車の滔々とした流れが果てしなく続き、効率とか能率などという言葉はあまり幅をきかせていないように見えた人々の営み。そういう中国の牧歌的なところに強く惹かれていました。

まあ「牧歌的」などという形容からしていささか「上から目線」のニュアンスがこもりますし、こんなのははっきり言って外国人旅行者の勝手なノスタルジーです。それに、当時私が触れたものが吉川氏のおっしゃるものと同じかどうかもわかりません(たぶん違うでしょう。時代からして違いますし)が、それでも自分が久しく忘れていた「手近で、ことごとしくないヒューマニズム」に似た何かを、初めて行った中国で感じたのでした。

当時のNHK中国語講座のテーマソングは「北風吹」だったのですが、その音楽と映像にも「繊細でこまやかな美しいもの」を強く感じていました。その曲が実は1940年代の抗日戦争に材を取った革命バレエ『白毛女』の一節であることを知ったのはもう少し後のことです。YouTubeに音楽だけがありました(2:05あたりから)。イントロを聴くだけで「うわ〜っ」とこみ上げてくるものがあります。

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それから、当時評判になっていたサントリー烏龍茶の一連のCMからも、同じような感覚を受け取っていました。今となってはずいぶん偏った、中国のごくごく一部のイメージに過ぎなかったと思いますけど、とにもかくにもこの辺りが私の中国への入口だったわけです。三国志やカンフーやパンダなどではなく、ましてや政治でも経済でもなく。

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もちろん吉川氏は、そうした「繊細でこまやかな美しいもの」を主に体現している都市の読書人の営み、それも豪奢と言えるほどの営みを農村の何倍何十倍もの農民が支えていたことにも触れ、その格差は日本などの比ではないともはっきり書かれています。それでも、氏の中国に対する捉え方に、ああ、自分も最初の「中国体験」はまさにこれに近いところにあったのではないかと思いました。

職業上「これを言っちゃあおしまい」かもしれませんが、私は現代の中国にはあまり惹かれません。すごく変化が速くてエキサイティングで、目が離せないという意味ではこれほど面白い国もないと思うけれど、「繊細でこまやかな美しいもの」をたたえた、かつて夢にまで見たほどの憧れの“國度(国柄)”は影をひそめてしまったような感じがして。その意味では北京出身のあの先生の感慨が分かるような気がします。いまこの瞬間にもかの国と「がっぷり四つ」で組み合っている方々には「まさに老害」認定されるかもしれませんけど。

それでもまあ、個人的なおつき合いはいろいろとあるし、これからもそのおつき合いは続いていくでしょう。なまじ中国という巨大な相手に勝手なノスタルジーを仮託していた部分が脱色されて、より醒めたフラットな目で見られるようになったと考えれば、この方がよいのかもしれないと思っています。

かつてTwitterにこんな勇ましいツイートをしたことがあります。


ううむ、「義務」だとか「最低限のつとめ」だとか、これこそ何だか「ことごとしくて」恥ずかしい。ここに前言を撤回して、中国とのつきあいを仕切り直ししたいと思います。

お店のご主人の「指導」がやるせない

先日、私の誕生日祝いということで、細君と二人で地元のお寿司屋さんに行きました。銀座とか青山とか、そういうところのお寿司屋さんではないので気さくな雰囲気ですが、それでもお値段は我々にとってはなかなかにインパクトがある、まあどちらかと言えば高級なお店です。

おつまみ系とお寿司、それに日本酒。どれもとても美味でしたが、わずかに気になったのはお店のご主人が若い衆にあれこれ注意するという点でした。若い衆は笑顔一杯で接客も丁寧でしたが、ご主人はちょっとした動きの「不経済さ」をたびたびとがめるのです。

先にこれを出してから、次にこれをやれば、何度も行き来しなくていいだろ? 作業のあとさきを考えてないからそうなるんだ。

まあこんな感じです。もちろん小さな声で、さりげなくおっしゃるのですが、なにせカウンターだけの小さなお店のこと、目の前で「指導」されていると、否が応でも聞こえてしまうんですね。

ご主人には若い衆を育てるという使命がおありでしょうし、若い衆のためにもなっているのでしょうけど、私はこういうの、ひどく苦手です。そういう「指導」を聞くだけで、料理のおいしさも半減してしまうんです。そういうのは、できればお店の奥でやっていただけると助かるんですけど。

別にお寿司屋さんだけじゃありません。こういう上から下への「指導」を客の真ん前でおやりになるお店はけっこうありますよね。その「指導」はお店的には妥当で意味のあるものなのでしょう。でも私は、そういうヒエラルキーというか、上から下への強い圧力を感じさせる雰囲気に接したとたんに、おいしいものを味わう気持ちが萎えてしまうんです。

久住昌之氏と谷口ジロー氏の名作『孤独のグルメ』というマンガに、主人公の井之頭五郎が東京都板橋区のとあるレストランでハンバーグランチを食べるエピソードがあります。お店でアルバイトをしている留学生と思しき青年に店のご主人があれこれ怒鳴るのですが、それを目の前で聞いていて食欲が失せてしまった井之頭五郎はこんなことを言います。

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そうなんですよね。お寿司であれ、ラーメンであれ、ハンバーグランチであれ、ネガティブな言葉を聞きながら食べることほどやるせなく「救われない」ことはないと思うのです。ご主人が心得ていらして、客の前ではいっさいこの種の「指導」をしないというお店はあります。そういうお店にこそ行きたいと思います。

最先端の知見が日本語で読める幸せ

吉川浩満氏の『理不尽な進化』と『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』を続けて読みました。日経ビジネスオンラインの、小田嶋隆氏のコラムで取り上げられていたのに興味を持ってすぐに購入したのですが、どちらも超絶的な面白さ。私などが言うのも僭越ですが、とにかく文章がうまい!

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理不尽な進化: 遺伝子と運のあいだ

『理不尽な進化』はダーウィンの進化論を主軸に据えた本ですが、科学系というよりは哲学系の読み物で、それなりに歯応えがあります。それでも、歴史や社会から個人の人生まですべては発展・進歩していくのだという価値観が、実は信憑性に乏しい、というより「発展・進歩」と進化論で述べられている「進化」とは全く異なる概念なのだと気づかされて、驚きました。

世の中には進化論になぞらえた様々な物言いがあふれています。

「変化に適応しなければ、淘汰されるだけだ」
「日本の技術がガラパゴス化するのは問題だ」
「グローバル社会に適応して、さらなる進化を遂げなければならない」

……などなど。そして私たちは、とにかく進化というのは絶対的に肯定的な善であり、政治も経済も社会も芸術も教育も、進化・発展するはずだ、いや、しなければならないという考えを幼い頃から焚きつけられ、自らも人を焚きつけているわけですが、吉川氏によれば、そも「進化」と「発展」をごっちゃに論じることそのものがダーウィニズムとは全く異なるスタンスだというのです。

進化は、劣ったものから優れたものへと一直線に上昇していくようなものではなく、「適者生存」は優れたものが生き残るという意味でもない。進化の結果は優れていたという「能力」に依るものではなく、単なる「運」であり、「適者生存」の意味は「いま生存しているものを適者と呼ぶ」というだけのことである……この本では、なんだか身も蓋もないような事実を知らされることになります。これだけでも、私たちが何となく生きるための拠り所としている価値観が大きく揺さぶられるような気がしませんか。

刺激的なブックレビュー

『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』は吉川氏の論考や、対談、鼎談、さらには人物の列伝やブックレビューなどが詰まったアンソロジーのような本です。認知革命や進化と絶滅に関する章も大変刺激的なのですが、ブックレビューが秀逸だと思いました。これほど「片っ端からすべて読みたい!」と思わせられるブックレビューを読んだことがありません。


人間の解剖はサルの解剖のための鍵である

すでに注文したり図書館で借りたりして、現在私の目の前に大きな「積ん読」の山ができていますが、例えばジョナサン・ハイト氏の『社会はなぜ左と右に分かれるのか』の書評。「右と左」、「保守とリベラル」など様々な対立や分断は今のこの国でも顕著ですし、私はその対立や分断がちょっと看過できないほどに大きくなってきていることに漠然とした不安を抱いている者ですが、ここにはその処方箋のひとつになるであろう姿勢が提示されます。

少なくともいえるのは、それぞれの陣営が反対陣営にたいして抱く印象とは異なり、分断は善き人びとと悪しき人びととの間にあるのではないということだ。分断はむしろ善き人びとどうしの間にある。お互いに相手を悪しき人びとであると即断しないで、粘り強く議論する姿勢が必要となるだろう。

これは大切な指摘です。様々なムーブメントでは必ずと言っていいほど内部での対立や党派性の主張が昂進し、それがムーブメントの退潮や自壊にまでつながっていくことがよくあります。また完全に住む世界が違う、まるで異星人のように思える相手の主張でさえ、それを腑分けして見る必要はあるかもしれません。これは今の私たちにとって大きな課題ではないでしょうか。


社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学

また、ラファエル・A・カルヴォ氏他の『ウェルビーイングの設計論』についての書評。ウェルビーイングとは心理学の一分野で、人間が公私ともに活き活きと健やかに生きていける状態を実現するための方策です。個人的には「小確幸」とか「マインドフルネス」、あるいは最近ジム通いをするようになってとみに意識するようになった「QOL(生活や人生の質)」と強い結びつきを持って捉えているキーワードです。

世界中のスマートフォンユーザーが日々感じている小さなストレス——ボタンの押し間違いやテキスト選択の失敗、アプリの強制終了など——をぜんぶ足し合わせてみたら、人間のQOL(生活の質)や経済活動へのかなりの規模の損失が確認できるのではないだろうか。ポジティヴ・コンピューティングの任務は重い。

同感です。スマホのみならず、あらゆるデジタルデバイスで同じようなことが言えますよね。個人的にはWindowsパソコンの「非ウェルビーイング性」はそろそろ何とかしてほしいです。Windowsが世界標準になったことで、人びとの心身にもたらされたストレスを考える時、その不幸の大きさに天を仰いでしまいます。もっとも、他のシステムが世界を席巻していたとしても、また別のストレスが発生した可能性は大きいですが。

ここに出てきた「ポジティヴ・コンピューティング」とは、テクノロジー、それも今や私たちの生活に必要不可欠な存在となったデジタルテクノロジーを、いかに人間に寄り添い、人間を幸福にする方向で活用するかという意味合いです。いままでは効率性一辺倒だったテクノロジーを再検討するための方策としてもウェルビーイングの考え方が有用ではないかというわけです。


ウェルビーイングの設計論-人がよりよく生きるための情報技術

翻訳者のお仕事に感謝

このように、吉川氏のブックレビューは知的好奇心を刺激されること半端ないのですが、それと同時に、こうした海外の数々の知見、それも最先端の知見が日本語で読めることの幸福を今さらながらに噛みしめています。

それもこれもひとえに優れた翻訳者の方々の営為があってこそ。昨今は機械翻訳の登場などで価格破壊がひどく(英語の業界は詳しくありませんが、中国語の業界に関しては目も当てられない状況です)、「まあ、ざっと意味が分かりゃいい」的な大量の機械翻訳と、“信・達・雅*1”を兼ね備えたハイエンドな翻訳に「二極化」している業界ですが、こんな時代だからこそ、私たちはもっと翻訳者を大事にしないと、近い将来、最新の知見は英語でなければ摂取できない国になってしまうかもしれません。

そうなれば人びとの知的コンテンツに関する格差はさらに大きくなってしまうでしょう。すでにそういう国は世界中にたくさんあるのです。先般旅行した北欧のフィンランドでさえ、大きな書店の半分かそれ以上の棚は英語の本で占められていました。言語自体の規模も関係していますが、母語であるフィンランド語だけでは様々な知見に充分にアクセスできないのです。

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私たちは母語である日本語で森羅万象を切り取ることができるというこの幸福にもう一度思いをはせ、それを見据えた外語教育を構築していくべきだと思います。そしてなによりいま現役の翻訳者を大切にしてほしい、翻訳という仕事で食べていけるようにしてほしいと思います。

……あら? 最後はなんだか身内びいきの「ポジショントーク」になってしまいました。

*1:近代中国における啓蒙思想化で翻訳者でもあった厳復(げんぷく)による翻訳が備えているべき原則です。信:原文に忠実であること、達:原文に引きずられず分かりやすい表現であること、雅:さらに文章全体が美しいこと(ほかにも様々な解釈があります)。ところでいま気づいたんですけど、「適者生存」も厳復の訳語だったんですよね。

チャイニーズの「舌打ち文化」

都内の、とある日本語学校の先生と話をしていて「中国人留学生がよく舌打ちするんだけど」という話題になりました。確かに、中国人留学生に限らず、チャイニーズ(中国語圏の人々。華人と言ってもいいですけど、音的に「歌人」や「家人」と間違えるので「チャイニーズ」としておきましょう)には、けっこう頻繁に舌打ちをする方がいます。

話し始めに「チッ」、話の途中に「チッ」……日本人にとって舌打ちは、まずほとんどの場合「不満」や「不快」を表すサインですから、かなりインパクトがあります。個人的にはこれ、日本の人々の、チャイニーズに対する誤解なり偏見なりのけっこう大きな原因になっているのではないかと思っています。

でも、チャイニーズにとっての舌打ちは、日本人が想像するほどの具体的な意味は持っていないことがほとんどです。もちろん「不満」や「不快」の表現としても使われますが、それよりはるかに多くの場合、舌打ちはほとんど言葉の息継ぎというか、句読点みたいなもの。ご本人もたぶん無意識のうちに舌打ちしているはずです。

実際、私が授業で「パブリックスピーキング(人前に出て、相手に納得してもらえるように話す話し方)」の訓練を行う際に、チャイニーズの留学生の舌打ちを指摘すると、「え? 舌打ちしてました?」という反応が多いです。録音を聞かせて「本当だ……」と気づく方も多い。

さらに、チャイニーズに特徴的な習慣として、おいしいものを食べたときに「チッチッ」(これは日本にも「舌鼓を打つ」というのがありますね)、相手を賞賛するときや、何かに感嘆したとき、得意な気分になったときなどに連続して「チッチッチッ……」などというのもあります。とにかく日本人とはかなり異なる「舌打ち文化」を持っている人たちなのです。

qianchong.hatenablog.com

長年チャイニーズの留学生と接してきた日本語学校の先生でも、こうしたほんの小さな文化の差異に気づかず誤解を重ねていることがあるかもしれません。そしてたぶん、私もまだ知らない習慣だってきっとあるはずです。

留学生と接するときは、その日本語のつたなさについ「ティーチャートーク」が昂進して相手を子供扱いしてしまう危険性があり、私は常々自戒としていますが、言葉以外にも様々な誤解の種はあるのだと改めて思った次第です。

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https://www.irasutoya.com/2016/06/blog-post_140.html

追記

台湾で働いていたときも、日本から出張してきた若い社員が「○○さんに舌打ちされちゃったんです~」などとヘコんだり、引いたりしていることが時々ありました。私はそのたびに「あれは息継ぎみたいなものですから」と説明していましたが、まあなかなか慣れないですよね。

逆に、現在日本に留学している、ないしは日本に住んだり日本で働いたりしているチャイニーズのみなさんは、日本人にはそうした「豊かな舌打ち文化」はないことをもう少し意識されるとよいかと思います。あらぬ誤解を招かないためにも。

……と思って、何かチャイニーズの舌打ちの実例はないかなとYouTubeを検索してみたら、中国系マレーシア人の方がこんな動画をアップされていました。気づいている方は気づいているんですね。面白いです。

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不寛容と暴力の芽は自分にもある

先日の夕刻、もう少しで七時になろうかという頃でした。ジムからの帰り道に急に雨脚が強くなったので、傘は持っていたけれど小降りになるまでしのごうと思って、手近なカフェに「避難」しました。場所は「おされ」な青山の、ブルーボトルコーヒーです。ところがカウンターで「ブレンドをください」と注文したら、店員さんにこう言われました。

ブレンドひとつ。はい、でも、七時までなので、テイクアウトだけです」

店員さんは、そのわずかな発音のニュアンスから、日本語母語話者ではないと分かりました。もちろん十分に流暢ですし、意思の疎通には何の問題もありません。なのに、自分でも驚いてしまったのは、このときに私はちょっと「イラッ……」としてしまったのです。

もちろんその場では、その「イラつき」はそれ以上昂進せず、「あ、じゃあいいです」と言ってまた傘を広げ、強い雨の中を表参道駅の入り口まで走ったのですが、さっきの自分のちょっとした「イラつき」が、なぜか後々まで小さな棘となって心に刺さったのでした。

そりゃまあ人間だもの、「イラッ……」とすることはありますわ。もとより私は短気な性格ですし(関西弁で言うところの「イラチ」というやつです)、満員電車などでは人一倍イライラして「いつかきっとあんたも犯罪をおかすだろう(©忌野清志郎)」状態になるのが分かっているので、ラッシュを避けるために定刻の二時間も前に出勤しているような人間です。

だけど、あのほんの数秒ほどの間に沸き起こった「イラつき」は、かなり情けない。というのも私は、日々職場で日本語が母語ではない外国人留学生に数多く接していて、彼ら・彼女らが日本でかなり「心が折れる」瞬間のひとつは、不自然な日本語に対する日本人(日本語母語話者)の許容度があまりに低いことだとつねづね聞かされているからです。

例えばコンビニのバイトで、日本語の発音や統語法が少しでも不自然だと、あからさまに嫌な顔をされたり笑われたりすると。また何度も聞き返していると「ドゥユーアンダスタン(Do you understand ?)」嫌みたっぷりな「返し」をされたりすると。

qianchong.hatenablog.com

ブルーボトルコーヒーのあの店員さんは、まず「ブレンドひとつ」と注文を受けてから、でもあと数分で店が閉まるからテイクアウトだけだと告げました。別に問題はないはずですが、私はその瞬間に「だったらそれを先に言え」と感じたのかもしれません。また、「はい、でも、七時までなので……」というくだりの、ほんの少しのたどたどしさに違和感を覚え、さらには雨脚が強くなった中やっと避難できたのになぜ、という身勝手な憤懣も加担して、あの「イラッ……」がわき出たのだと思います。

なんと不寛容なことか。

もうひとつ。

いま奉職している学校は、前期末試験の真っ最中です。

私が担当している科目で、通訳の基礎訓練を行うクラスがあるのですが、試験は日本語のニュースのシャドーイング*1とリプロダクション*2にしています。まだまだ日本語も発展途上の生徒たちなので、あらかじめ教材を配布して練習しておいてもらい、試験当日はCALLで録音するだけという、と~っても易しい試験(試験とも言えないくらいですが)です。

この試験で、ある留学生が「カンニング」をしていました。シャドーイングやリプロダクションはスクリプトを見ず、メモもとらずに行うルールであったにもかかわらず、配布してあった音声をノートにディクテーションしたものを見ながら録音に臨んでいたのです。

私はそれを見つけて、横から手を出してノートを裏返し、なおかつ彼の頭に「ぽん」と手を置きました。いや、手を置いたのではなく、叩くニュアンスがあったと思います。「ダメですよ」というつもりでしたが、思わず手が出ていたわけです。

彼は「てへへ」という笑いとともに「すみませ~ん」と悪びれもしない様子でした。また私としてもカンニングとはいえ、自分で教材をディクテーションしてきたことそのものは彼の勉強にもなったと思うので、それ以上は追求しませんでしたが、あとあとから、あの「ぽん」がやはり棘となって心に刺さりました。

あれは明らかに暴力の芽でした。

昨今、スポーツ界などを中心に暴力やハラスメントに対する告発が続いています。そんな中、糾弾された側は時に「体罰ではない」「愛のムチだった」「選手のためだ」というような弁解を行います。そして「押しただけだ」「ちょっと手を置いただけだ」が「暴力やハラスメントと受け取られたとしたら、申し訳ない」といったような詭弁も。

でも、理由はどうあれ、「肩に手を置く」とか「頭をポンポンする」というのもハラスメントになり得ます。いくら「スキンシップ」などの言葉で言いつくろっても、それは暴力へとつながる芽なのだと思います。考えすぎでしょうか。いえ、やはり考えなくてはいけないことだと思います。

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https://www.irasutoya.com/2018/05/blog-post_3.html

*1:ヘッドホンから聞こえてくる音声の通り、自分で発声していく訓練。

*2:ひとまとまりの音声を聞いて、ポーズが入る間にそれを一字一句違わず繰り返して発声する訓練。要するに語学でよくやる「リピート」です。

白い犬の会社に一本取られました

私は長年ソフトバンクの携帯電話を使っているのですが、先日ふとMy SoftBankの支払明細を確認したら、私と細君の基本料や通話料・通信量、機種代金(分割支払金)の他に、見覚えのない電話番号で機種代金がスマホ月々1500円程度引き落とされているのに気づきました。

なんともうかつなことではありますが、銀行口座から自動で引き落とされ続けているのを今になって見つけたわけです。よく見てみればこれはかつて細君がソフトバンクのお店で「実質0円ですから~」とか何とか言われて契約してしまったiPadの分割支払金でした。

いえ、営業トークに乗せられて必要でもないiPadをもらっちゃった細君が悪いのです。それで後日iPadの本体を返し、契約を解約し、違約金まで支払ったのですが、本体のお金はきっちり完済しなければいけないような規約になっていたのでしょうね。いえ、これもきちんと契約書の隅々までチェックしていなかった我々が悪いのです。

……しかし、なんだかもう一挙にソフトバンクという会社そのものへの嫌悪感がわいてきてしまいました。白戸家の「お父さん犬」がどんなにかわいくてもダメです。というわけで、ソフトバンクと交わしている一切の契約を解除することにしました。

違約金がかかったり購入機種の残債を一括精算したり、ハッキリ言って馬鹿みたいに損ですが、何というのかな、長年付き合ってきたけどもう「顔を見るのもイヤ!」、あるいは「生理的にムリ!」という感じ(ひでえ)。これはお金じゃなくて、気持ちの問題です。

同時に、今持っているiPhone Xも「ダウンサイジング」することにしました。中古で下取りに出しちゃって、そのかわり型落ちの古くて安いiPhoneに乗り換えるのです。iPhone Xを購入して半年あまり。確かに顔認証やらApple Payやら便利な機能が満載ですが、自分の身の丈をよくよく考えればかなりオーバースペックです。

そもそも私、音声通話はほぼゼロですし(電話がかかってきても家族以外は絶対に出ません)、メールやLINEが確認できて、Google Mapが使えればいいだけです。写真もあまり撮らないし、高品質な音声もいりません。ゲームもしないし動画もあまり見ない。よく考えたらそこまで高級なスマホを使う理由などほとんどなかったわけです。

最近読んだ『the four GAFA 四騎士が創り変えた世界』には、iPhoneを世に送り出しているアップルの高級路線についてこんな記述がありました。

 アップルの顧客の中には、自分たちが不合理な決定に基づいて買い物をしていると指摘されたら、不愉快に感じる人がいるかもしれない。
 彼らは自分たちがスマートでセンスがいいと信じている。だからどんな決定も頭脳が決めていると考えている。モノがいいからだよ、と彼らは言う。直感的に操作できるユーザー・インターフェース。それに効率アップのためのクールなアプリケーションを見てくれ。
(中略)
 たしかにそうかもしれない。そして人はメルセデス・ベンツに大金を払うときも同じことを言う。高級品はすばらしい。しかしそれは社会的地位を伝えるものでもある。それはあなたの生殖能力のブランド価値をも向上させる。
(中略)
 ところで私は、高級品を買えば実際にモテるようになると言っているわけではない。何百万人ものiPhoneユーザーが、1人で寝ているに違いない。
 しかし高級品を買うと感情のスイッチが入り、幸福や成功を感じさせるセロトニン量が急上昇する。おそらくそれで他人から見て魅力的に見えるのだろう。何度も引き合いに出して恐縮だが、格安のデルではこうはいかない。


the four GAFA 四騎士が創り変えた世界

そうなんですよね。私は昔々のCentrisやQuadraから現在のMacBook Airに至るまで、Apple製品の忠実な愛用者ですが、この本を読んでいくぶんかは我に返りました。Appleの諸製品は、その日常とのあまりの関わりの深さについ見失いがちですが、普段私が全く興味を持たない贅沢な高級ブランド(服やら車やら宝飾品やら)とそれほど選ぶ所がなかったのです。

というわけで、以前使っていた懐かしい(と言ったって数年前の機種ですが)iPhone SEに戻ることにしました。歴代iPhoneの中ではいちばん好きなデザインですが、すでに製造停止となっているらしく、現在は数万円で手に入ります。ソフトバンクナンバーポータビリティを申請して、携帯電話会社もLINEモバイルに乗り換れば、諸々の料金は2/5ほどに下がると思います。

ついでに、ソフトバンクと契約している光インターネットも解約するつもりでいます。とにかくあの会社とはもう二度と関わりたくないのです。私の中ではソフトバンクは完全にブランド価値を失いました。

……と、ここまで書いて、実際にLINEモバイルのオフィシャルサイトに行き、申し込みを開始して気づきました。LINEモバイルはいまや、ソフトバンクと資本・業務提携を結んでいたのでした……。

結局、SIMフリーにも対応しているソフトバンク回線のLINEモバイルを申し込むことになっちゃいました。

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https://www.irasutoya.com/2014/12/blog-post_933.html

行かない理由って逆に何?

いわゆる「男性版更年期障害」とでも言うべき不定愁訴に苛まされ、夜も寝られないほどの肩凝りと慢性的な腰痛、さらには高めで推移し続ける血圧に音を上げて、トレーナーさんに一対一で指導してもらう体幹レーニングと筋トレを初めて約一年、血圧を除けば健康状態はかなり改善してきました。

特に最近は筋トレをメインに据えつつあるのですが、三日も空けると何だかからだが「むずむず」して落ち着かない感じに。というわけで、予定が立て込んでジムに行けないときでも、教わったいくつかのメニューを自宅や職場でこなすようになりました。端的に言って「楽しい」です。楽しくなって、継続が途切れると気持ち悪いと思えるくらい習慣化できてしまえばこっちのものです。

ところで「筋トレをやっている」と言うと、たいていの方が怪訝な顔をされます。特にこの歳でやっていると言うと。どうやらみなさん「筋トレ=ボディビル」みたいなイメージなんですね。かの「ライザップ」のCM的な、ムキムキでマッチョで、色黒で肌がテカテカしていて……という感じ。へたをするとボディビルのコンテストみたいに「ポージング」してるんじゃないかと誤解する方までいたりして。「気持ち悪くない?」……って、ちょっとそれ、ボディビルをやってらっしゃる方に対しても失礼ですから。

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https://www.irasutoya.com/2015/07/blog-post_728.html

えーと、私がやっている筋トレは、もちろん全然違うものです。まあそれなりに筋肉はついて精悍な感じにはなってきますけど、あくまでも肩凝りや腰痛の予防と健康維持が目的のもの。50歳を超えてあとは衰えていく一方の身体を何とか健康な状態に保っておきたいというスタンスです。ブログ『脇見運転』の酔漢氏がおっしゃっていた「健康じゃないと死ぬ」というその感覚、本当によく分かります。この歳だからこそ積極的に身体を動かさないと、も~、ホントに老化一直線だと思うのです。

wakimiunten.hatenablog.com

私が通っているジムは、主に学生や社会人、そしてプロの運動選手のみなさんが調整を行う場所です。ただ割合から言えばごく少数ではありますが、私のような中壮年のおじさん・おばさんがたも散見されます。先日トレーナーさんに「私と同年代の方は、みなさん健康増進が目的なんでしょうかね」と聞いてみたら「いえ、実はそういう方は少なくて、ほとんどは趣味でスポーツをされていて、そのための調整目的で通われています」とのこと。

なるほど、これは意外でした。でも私は、私のようにスポーツなんて全然やってない(というか、からっきし苦手)中壮年にこそ筋トレなどのトレーニングはおすすめだと思います。筋トレのよさについてはこれまでにも色々とエントリを上げてきましたが、最近感じているのは「自分がいかに非力であるかを思い知らされることの良さ」です。

なんだかマゾヒズムめいていますが、こういうことです。ジムでは、プロやセミプロ級のアスリート、またスポーツに長けた中壮年層がトレーニングをしている横で、私のような門外漢がうんうんうなりながら身体を動かしています。体幹レーニングひとつとってみても、手や足は真っ直ぐ伸びないし、腹筋は弱くて上体も少ししか上がらないし、身体を捻ると攣りそうになるし、ベンチプレスや懸垂はいつもギリギリで常にトレーナーさんのサポートをもらっているし、とにかくまあ、なんというか、無様なのです。

でも、この歳になって無様な姿を人目にさらす場面ってそんなにないじゃないですか。いくら自分で気をつけていても年相応にメンツみたいなものが介在してくるし、歳を取って狡猾になるのか、若気の至りや青臭い行動・言動もうまく回避したり糊塗したりするスキルや処世術がそこそこ身についちゃってる。なのにジムのトレーニングは非力を糊塗しようがないのです。如実に無様な姿を晒してしまいます。晒さざるを得ない。

こないだなど、雨天でトレーニングしている方が少なかったなか、私が懸垂でうんうんうなっていたら、いつの間にかジム中の方が私に目を向けていて、衆人環視の中うなり続けることになりました。やりにくいことこの上ありません。でも何とかそのセットを終えて床にへばっていたら、みなさんが「すごい、すごい」って拍手をしてくれました。レストランで急に照明が消えて「♪Happy birthday to you」を歌われるくらい小っ恥ずかしいですが、こういう風にほめてもらえることなどそうあるものではありません。

いま通っているジムは、パーソナルトレーニングが主体の施設ですけれど、予約不要でいつでも行けて、トレーニングウェアも靴も全部貸してくれるので手ぶらで通えます。トレーナーさんは毎回違いますが、カルテがつけられているのでトレーニング内容はきちんと引き継がれます。私のような体育が苦手でトラウマになっているような人間でも、ほんのちょっとした進歩を褒められ、拍手までされる。もちろんこちらは「お客さん」だからお愛想といえばそれまでですが、素直にうれしいです。

身体能力がどんどん衰えていく中壮年層の私たち。白髪染めのCMじゃないですけど、「ジムに行かない理由って逆に何?」という感じです。

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https://www.irasutoya.com/2015/06/blog-post_383.html