インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

人圧とダッシュおじさんについて

これはたぶん年齢のせいだと思うんですけど、ここ数年、人の多い場所に行くだけで気分が悪くなるようになりました。何というか、人の圧力みたいなものを感じるようになったのです。とりあえず「人圧」とでも呼んでおくことにします。

まず通勤時の満員電車。まあアレが快適な方など一人もいないと思いますが、物理的に押されている身体だけでなく、精神的にも耐えられません。かくいう私自身もその「満員」を構成している一人なんですから、何と傲慢な感覚かと思いますが……。いわゆる「パニック障害」のごくごく初期の症状なのかもしれません。

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https://www.irasutoya.com/2013/08/blog-post_18.html

あまりに息苦しいので、仕事場に行くときは出勤時間の一時間半から、時に二時間も前に行くようになりました。早く職場に行って、始業までの時間は自分の勉強などに使うのです。これでずいぶん「人圧」は感じなくて済むようになりましたが、驚くのは首都東京の方々の勤勉さ。早朝六時台であっても、都心に向かう電車はすでにかなりの混雑ぶりです。

最近、駅の構内や電車内で「つい、カッとなった。人生、ガラッと変わった。」という暴力行為防止ポスターをよく見かけます。

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https://www.westjr.co.jp/press/article/2018/07/page_12646.html

こうしたポスターで啓発に力を入れなければならないほど暴力行為が頻発しているディストピア東京ですが、みなさん私と同じように内心はイライラされているんでしょうね。正直、私にもときどき「カッとなりそう」な瞬間があります。故・忌野清志郎氏が歌った “Born under a bad sign” のカバー曲に出てくる「♪ いつかきっとあんたも犯罪を犯すだろう」というフレーズが頭をよぎります。危ない危ない。

東京都心の朝は、満員電車は言うに及ばず、電車を降りたあとのホームにも人がごった返しています。

特に電車のドアが開く瞬間がちょっと怖い。我先にとエスカレーターや階段へダッシュするおじさんたち、同じホームの反対側に入ってくる「当駅始発」の電車に席を確保すべく、これまたダッシュをかますおじさんたち。そうした「えべっさん西宮神社で一番福を狙って開門を待ってる状態」のおじさんたちに巻きこまれたら怪我をしそうなので、私はなるべく柱の陰に隠れて人の波が途切れるのを待つようにしています。

都心のターミナル駅、それも朝のラッシュ時であっても、よく観察すると人の波が途切れる瞬間があります。エスカレーターや階段に人が殺到して長い列ができているような状態でも、ほんの数十秒、長くても一分程度で人の波が途切れるのです。私はいくつかの駅で実際にストップウォッチで測ったので間違いありません。

それ以上長くなると次の電車がホームに入ってくるので、その人の波が途切れたタイミングで動く。こうすれば「人圧」を感じなくて済みます。そう、どんなに人でごった返しているホームであっても、人の波が引き、階段を悠々と上れるようになるまで、ほんの数十秒しかかからないのです。ちょっとスマホTwitterでも眺めていれば過ぎてしまうほどの短い時間です。

スーパーなどでも、少しでも早く自分の番が回ってきそうなレジの列を狙って右往左往しているおじさんや、フォーク並びにも関わらず少しでも早く前に進みたくてうずうずしているおじさん、あまつさえ「何をぐずぐずしているんだ! 早くしろよ!」と怒鳴っちゃってるおじさんを見かけることがありますが(みんなおじさんですね)、みなさん、もう少しゆっくり人生を歩みましょうよ。

というか、こんなことを縷々ブログに綴っている私も、そうとうメンタル的に参っているおじさんです。ちょっと南の島にでも命の洗濯をしに行ってきたいと思います。

「正しければ伝わる」わけではないです

先日の東京新聞朝刊特報欄に「世代を超えた社会運動は可能か?」という、とても考えさせられる記事が載っていました。

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立命館大准教授の富永京子氏が若者への取材を通じて指摘する、大人(あるいは年長世代)と若者の政治や社会問題に対するスタンスの違い。私は若者ではないけれど、確かに年長世代の「常識」に違和感を覚えることがままあります。

先日某駅前を通りかかったら、大音量で演説をしている一団がおり、思わず耳を塞ぎました。お揃いのゼッケンに幟(のぼり)、配られるビラ……はっきりと確かめず足早に過ぎ去ったのですが、どうやら政権批判をする日本共産党の方々だった模様。私は同党の主張に共感する点もあるけれど、正直「アレ」では多くの人に届かないと思いました。

「保育園落ちた日本死ね」などのように、SNSでの拡散が現実を変えることも多い現在、「路上での活動に過度にこだわる態度が、すでに年長者的なのではないか」という富永氏の分析は鋭いと思います。私自身、昔はデモにも集会にも参加しましたが、当時の私でさえ、殺気立った雰囲気で敵を糾弾する年長世代の手法や言葉遣いにはかなりの違和感を覚えていました。それが悪辣な相手に対する正当なカウンターパンチなのだと説明されても。

「取材場所にスターバックスを選ぶと『グローバル企業を支持するのか』と問うような年長世代にへきえき」というのも、本当に同感です。私もとある運動のニュースレターに、デザインとしてほんの少しの英文を配しただけで「アメリカ帝国主義の手先」などと苦情が来た(それも複数)ことがあって、その運動自体にかなり「ドン引き」しちゃったことがありましたもの。

もちろん社会運動が扱う問題は、等身大の分かりやすいものだけではありません。また時には強烈な言葉と手法が事態を動かすことだってあるでしょう。けれど、少なくとも年長世代がこれまで培って来た立場と考え方を頑として変えず、「上から目線」であるいは指弾しあるいは嘆息しても、人は、特に若い人は動かないのではないか……この記事を読んで改めて感じました。

かつてレイアウトの仕事をしていた頃、個人ユニオンを作って会社と交渉をしていたご縁で某労働組合のポスターやチラシに意見を求められたことがありました。ただ、そのあまりに生硬な文章と情報過多に「もう少しシンプルな方が主張が伝わるのでは」と申し上げたところ、「でざいなーさんの意見も分かるけどさ、こっちは正しいことを言ってるんだからいいんだ」と言下に否定されました。

どんなに素晴らしい考え方であっても、伝わらなければ意味がありません。そして「何を」伝えるのかも大切ですが「どう」伝えるかも大切。問答無用で彼我を固定せず、「正しければ伝わる」という信憑を捨て*1、ひょっとしたら自分の考えが古い、あるいは変質してしまっているのかもしれないと常に検証する態度が必要だと思いました。そして、そのための訓練の場所としてTwitterのようなSNSは有効なのではないかとも思いました。

*1:これ、異文化コミュニケーションの現場で日本人が寄りかかる「誠意があれば伝わる」にどこか似ています。

ネット動画に見る通訳者のイメージ

先日Twitterで「 #一般人の方が時々誤解しておられること*1」というハッシュタグを見かけ、私もこんなツイートをしました。

「話せれば訳せる」は通訳者に対する誤解の最たるものだと思いますが、他にも一般の方の通訳者に対する誤解、あるいは通訳者に対して抱いているイメージにはどこか共通しているものがあるように思います。

クールでローテンションな通訳者

そうした共通のイメージ、言い換えればステロタイプな通訳者像は、ネット動画からもうかがい知ることができます。以下は私が通訳学校の授業で「反面教師」として紹介しているものです。

LIXIL ユニバーサル社会インタビュー直訳篇
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どうでしょう。通訳者はクールで冷静、かつ“低調(ローテンション)”で、どこか抑揚をおさえた一本調子で話し、冗談などあまり通じそうにない……というイメージが垣間見えませんか? タイトルからして「直訳篇」ですしね。そんなことない?

ライオン トップ NANOX 犬語を通訳篇
youtu.be
「犬語通訳」という実際にはあり得ない設定ですが、ベッキー氏の造形はビジネススーツに身を包み、大きな黒眼鏡をかけ、とてもクールなイメージです。話し方もやはり抑揚や感情を抑えた感じですね。

タウンワーク 通訳編
youtu.be
この松本人志氏の「通訳者」はちょっとギャグが入っていて上記二本とは雰囲気は違いますが、やはり最初は抑揚のない、どこか不機嫌にさえ見えるような佇まいです。話者の後ろでぼそぼそ喋る通訳者、というステロタイプなイメージとでもいいましょうか。

フロントラインプラス 猫翻訳家篇
youtu.be
フロントラインプラス 犬翻訳家篇
youtu.be
この二本も、ベッキー氏と同じような造形がなされています。うーん、これが一般に流布されている通訳者のイメージなんですね。あとこの通訳者さんは「〇〇だそうです」と三人称で訳されていますが、原則的にはこういう訳し方はせず、原発言者(ここでは猫さんと犬さんですが)に成り代わって一人称で訳します。まあ「ノミ・マダニ対策はフロントラインプラスだニャ」みたいな感じでしょうか。

友近「同時通訳」


お笑い芸人の友近氏が演じる同時通訳者です。実際にはこんなふうにスタンドマイクの前に立って手ぶらで同時通訳をすることはまずありえないんですけど、まあそれはコントということで。

これもどこか上掲の動画に通じるものがありますね。通訳者は「ちょっと「エラそー」……というのも、そのひとつ。また「素」の時は活き活き話しているのに、同時通訳に入ると途端にクールでローテンションになっちゃうというのも典型的です。

こうしたカリカチュアが多数登場するということは、やはり一般の方が接する少なからぬ通訳者がこういうパフォーマンスをしているということの反映なのでしょう。でもこれは通訳学校で恩師が強調されていたことでもあるのですが、通訳者のパフォーマンスがこういうものだと思われたくないですし、そこに甘んじてはいけないと思います。

私自身としては、時と場合にもよりますけど、もう少し「血の通った」というか、活き活きと、そして普通に聞きやすい訳出を心がけたい——「反面教師」とするゆえんです。

通訳者に対する不満

さらに興味深いのは、通訳者に対するある種の疑念なり不満なりクレームなりが笑いに転化されている動画です。

LIXIL ユニバーサル社会インタビューアドリブ篇
youtu.be
こちらは「通訳が勝手に訳しちゃう&そこ訳さなくていい」問題。ちょこっと喋っただけなのに、通訳者がいやに長く訳す……「何か余計なことをつけ加えてんじゃないの?」という疑念ですね。

三井住友海上 大統領になる濱田岳
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「それだけ?」……これは逆に「勝手に端折ってるんじゃないの&きちんと訳してくれない」問題。いや、笑ってばかりもいられません。

ラニーノーズ「通訳」
youtu.be
「直訳が過ぎる」問題です。これもまあお笑いのネタですからいいんですけど、それでも先ほどのリクシルの動画で出てきた「そこ訳さなくていい」と通底する問題が見て取れます。通訳者は基本的に聞こえてきた全てを訳すというのも意外に一般の方に理解されておらず、「まあ適当にまとめて訳してよ」とか「簡潔に訳して」と言われて困ることがたまにあるんですね。でも私たちに取捨選択の権利はないのです。

ゆりやんレトリィバァ「通訳士・吉原モカインタビュー」
youtu.be
これは……まあ笑って楽しみましょう。「通訳士」という呼称がちょいとひっかかりますけど。

最牛的日语翻译
youtu.be
最後は「おまけ」で、中国の「抗日ドラマ」ふうコントに登場する通訳者(すでに通訳者ですらありませんが)です。こういうカリカチュアが存在するということは、彼の地でも、通訳者に対するステロタイプなイメージが一定程度存在するということでしょうかね。

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https://www.irasutoya.com/2018/07/blog-post_403.html

*1:尊敬語ならば「誤解していらっしゃる」の方が自然だと思いますが、ネットで調べてみると、どちらも大丈夫なよう。参考:「おる」「おられる」「いらっしゃる」正しい使い方と違い | マナラボ

戦略的皿洗いのすすめ

先日京王線の電車に乗っていて、こんなのを見つけました。食器用洗剤「Magica(マジカ)」の車内広告です。

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magica.lion.co.jp
動画もアップされていましたよ。

youtu.be

夫、史上初のセリフ「おっ、オレお皿洗おうか?」
妻、3年ぶりのセリフ「あ、ありがとう…」
夫「意外とカンタン♪」
妻「いい仕事してる♪」

私は最初、この動画を見て爆笑してしまったんですけど、そのあとすぐに「こうしたアプローチの広告がいまだに奏功する日本って……」などと色々な疑問が沸いてきちゃいました。

夫が家事を手伝うというのは、まあ旧態依然たる男女の役割固定から比べれば幾分かは進歩しているのかもしれませんが、今のこの時代に夫が結婚して三年間も皿洗いをやったことがなかったのかとか、家事を手伝った夫に妻が感謝の言葉を口にしたのが初めてだったのかとか、色々ツッコミどころ満載です。

というか、例えば家電のCMで三菱電機Panasonicなどが一定程度家事に参加する夫を演出して、少しでも古い価値観から脱皮しようというスタンスを見せているのとはかなり対照的だなと思いました。

アイロンかけてます。
youtu.be

「おしゃれ」に炊事や洗濯やってます。
youtu.be

いえ、別に夫でも妻でも、そのご家庭の事情に応じてできる人ができる家事をやればいいんですけど、この「Magica」のCMはそういう議論を飛び越えて、というより激しく逆戻しにして、そもここまで家事に無頓着な夫、あるいは男性ってどうよ、という鋭い問題提起をかましているのかという深読みさえ惹起しそうな勢いです。

しかし、世の中には絶望的なまでに家事をしない(あるいはできない)夫というのはいるものらしく、妻が風邪を引いて伏せっているときでさえ「ねえ、晩ご飯まだ?」とか、病院に行ってくると告げたら「じゃあオレのご飯はどうするんだ?」などと聞いてきたという、ちょっと信じられないような話を細君から聞かされました。細君の友人の話だそうです。

ちなみにうちは買い出しや炊事全般が私、掃除と洗濯が細君という分担なんですけど、後片付けは時にしんどいこともあるけど「戦略的」にやるとけっこう面白いです。料理を作っているそばから、使ったものを洗って拭いて片付け、ゴミなども処理して行き、こまめに水まわりを拭くのです。こうすると食事後に洗い物がどっさりでうんざり……という状況を極力回避することができます。

あと流水の下に食器を重ねて、水流で汚れや洗剤をある程度落としておくとスピーディとか、食器の数をできるだけ減らしてシンプルにして、取り出したり収納したりするときに余計な手間をかけないようにするとか。まあどなたもやってるでしょうから「戦略的」とまで言えないかもしれませんが。食洗機? うちのキッチンは小さすぎて、置けるスペースがありません。

私はキッチン台に何も載っていないのが好きなので、毎日毎食必ず全てのモノを片付けて「引っ越してきたときと同じ状態」にします。何もない状態から炊事が始まり、何もない状態で終わるので、これを「ひとりキッチン能舞台」と名づけて悦に入っています。

語学の「財産使い果たし系」について

こんなことを言っちゃうと身も蓋もないのですが、ここ十年ほど在日華人華人留学生と一緒に通訳訓練や日本語学習を行ってきて感じるのは、やはり語学の習得には「向き不向き」があるのだな、ということです。

学校教育では、語学の科目、例えば「英語」が「数学」や「国語」や「社会」などと並んでいるために見逃しがちですが、語学は他の教科とは少々異なる性質を持っていると思います。それは語学が一種の「身体能力」だからです。その意味では、語学はむしろ「体育」や「音楽」に近いのではないでしょうか。

体育や音楽だったら「向き不向き」があるというのは割合多くの人に同意してもらえそうですが、語学についてはなかなかそうはいきません。それはたぶん「母語は誰もが話せるじゃないか」という素朴な信憑によるのでしょう。

でも、家族環境や地域社会や国家などのあり方自体がマルチリンガルであるという場合はさておき、日本のようにほぼ単一言語で社会が営まれている場合、母語の習得過程と外語(あるいは第二言語)の習得過程は大きく異なります。ヴィゴツキーが「子どもは母語を無自覚的・無意識的に習得するが、外国語の習得は自覚と意図からはじまる」と指摘する通りです。

qianchong.hatenablog.com

語学は、特に「身体一つで音声を聞き、音声を発する」という部分の語学(学習者の多くがここに憧れて語学を始めます)については、それが母語とは異なる思考方法と、唇や舌や喉や呼吸などの使い方を駆使して行われる以上、まんま「身体能力」なのです。

ですから語学の達人になるというのは、アスリートやミュージシャンとしてそれなりの達成を示すことに近いです。でも、誰もがプロのアスリートやミュージシャンになれるわけではないのと同様、誰もが語学のプロになれるわけではありません。

もちろん、向き不向きがあっても、語学を学ぶこと自体は全くの自由です。当たり前ですけど、向いていなくたって学んでもいい。スポーツや音楽だって向いていなくても楽しむことはできるし、全員がプロになるわけでもありませんし。私だって後から考えれば全く向いていなかった美術を大学で学んで、それは全くモノにはならなかったけれども、後の人生でなにがしかの糧になっています。

ただ、語学はスポーツや音楽と同じように「向き不向きがある」というある意味冷酷な事実は、もう少し知られてもいいのではないでしょうか。そうなれば全国民が幼少時からかなりの時間を英語に割くなどという、ちょっと言葉は悪いですが「非効率な倒錯」から抜け出すことができるのではないかと思うからです。

“語言天才”の留学生

ところで、在日華人華人留学生と一緒に学ぶなかで時々、「この人は語学にとことん向いていたんだなあ」と思えるような方がいます。中国語にいう“語言天才”、つまり「語学の天才」とでも呼ぶべき方々で、そういった方は日本語の習得が他の方々と比べて際立って早く、音感が優れていて、語学にある程度不可欠な「芝居っ気」を兼ね備えており、失敗を恐れずリトライを続ける気概と勇気を持っています。

こういう方はとても日本語が流暢で、聞き手にストレスを与えないため、時にご本人の実力以上に好評価を得ることがあります。上述したように日本はほぼ単一言語で運営できてしまっている社会であるため、日本の人々の、外国人が操る日本語に対する要求が異様なほど高いことがその背景にあります。

留学生からよく「日本で一番心折れること」としてこんな体験談を聞きます。


というわけで、逆に聞き手にストレスを与えない喋り方ができてしまうと、日本社会ではそれだけで相手にどこか親しみやすく聡明な印象を与えることができます。まあ、当然と言えば当然なんですけど。

入社試験の面接などでも、仕事のスキルの優劣よりも日本語の流暢さで合否が決まってしまう(特に外語が話せない重役との面接で)というのは、私自身も何度か目の当たりにしてきました。

ただし、こうした“語言天才”の方々は、その先が二つのパターンに分かれていきます。

一つは元々「向いていた」語学のスキルを、それに甘んじることなくさらにブラッシュアップし続け、実力をどんどん上げ続けて真の「バイリンガル」に近づいていく方です。

そしてもう一つは周りから褒めそやされる日本語の流暢さに「甘んじて」それ以上の努力を怠り、気がつけば周囲の「そこまでは語学に向いていなかったけれども、ひたむきな努力を重ねた人たち」に抜かれてしまっていた……という「兎と亀」のウサギのような方です。

大変失礼ながら、私はそういう方をひそかに「財産使い果たし系」と呼んでいます。せっかく生まれ持った語学の才能があり、それを活かしていち早く語学の財産を築き上げたのに、その後かりそめの裕福さに慢心して財産が目減りをし続け、成長が頭打ちになってしまうのです。よしながふみ氏の『フラワー・オブ・ライフ』に出てくる真島海くんのように。

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「財産使い果たし系」の方は、表面的にはとても流暢で、その日本語を聞いていてもストレスがなさそうですが、少々込み入った内容の通訳や翻訳の訓練をしてみると、財産を使い果たしてしまった(あるいは使い果たしつつある)ことが露呈します。自分のことを自分の興味の赴くままにしゃべることはたやすくても、他人の発言を自分なりに咀嚼して代弁する通訳や翻訳の段階になると、普段の流暢さがどこかに吹き飛んでしまうのです。

私はそういう生徒に出会うと、老婆心ながらなるべくプライドを傷つけないよう気を使いつつ「このままではいけないよ」と伝えるのですが、なかなか分かってもらえません。中野好夫氏がいみじくも指摘したように「語学の勉強というものは、どうしたものかよくよく人間の胆を抜いてしまうようにできている妙な魔力があるらしい」ですね。

かくいう私自身の「語学の財産」ですが、正直に言って残高は常に少なめだと思います。日々せっせと貯蓄なり運用なりをせねばと自らを戒めているところです。

よしながふみ氏の秀逸な作話術と杉田水脈氏の幼稚な妄言について

前巻の発売から約十ヶ月ほど、よしながふみ氏のマンガ『きのう何食べた?』の最新第14巻を読みました。


きのう何食べた?(14)

このマンガの秀逸なところを挙げれば切りがないのですが、そのひとつは筧史朗(弁護士)と矢吹賢二(美容師)というゲイのカップルを中心にした物語でありながら、そこから連想されるセクシャルな要素がほとんど出てこないということです。

世の中にはゲイ・レズビアン文学や映画祭、LGBTを取り上げたドラマや舞台作品などがあり、ひとつのカテゴリーを成していて、このマンガもその流れの中に位置するものではあります。それらはもちろん世にその存在を知らしめ、時にまっとうな権利を求め、あるいは理不尽な差別に立ち向かうという側面があり、それぞれの存在意義を持っています。

その中にあってこのマンガが際立って特徴的なのは、言ってみれば「LGBTをテーマにしてすらいない」という点。つまり、ごくごく当たり前の、普通の、ことさら区別して特筆する必要すらない人間のありかたとして、このカテゴリーを扱っているのです。言い換えれば、ゲイ=セクシャルという連想が立ち上がること自体がもうすでに陳腐、カテゴライズすら陳腐なんですね。

主人公の筧史朗は職場の同僚に「カミングアウト」をしていないゲイとして設定されており、ときに世の中の無理解や不寛容などに対する葛藤も描かれてはいるのですが、おそらくそこに作者であるよしながふみ氏の主眼は置かれていません。

しかも筧史朗自身が歳を取り、人間的にもより成熟するに従って、気持ちの上でも行動の上でも自分自身を受容し、ゲイという「マイノリティ」である自分と世の中の「マジョリティ」との齟齬にこだわらなくなりつつある。こうして、ゲイにまつわる課題を、世の中への働きかけではなく自らの内側の成熟として表出させているところに、よしながふみ氏の周到なストーリーテリングを感じるのです。

もうひとつ、自分もまた筧史朗とほとんど同じ年齢であり、仕事をしつつ家庭では炊事や買い出しなどの家事を担当しているので、このマンガにはとても共感するところが多いのです。年老いた両親との関係や、己の身体状況の変化、忙しい毎日にあっても自分なりの「小確幸」を大切する生き方……以前にも書きましたが、自分の暮らしと重ね合わせるように読めるマンガが同時代に、現在進行形であるというのは、ほんとうに僥倖だと思っています。

ところで、書店でこの本と一緒にもうひとつ買った本があります。『新潮45』という雑誌の8月号です。


新潮45 2018年08月号

この雑誌をわざわざ買ったのは、自民党杉田水脈衆院議員が寄稿した「『LGBT』支援の度が過ぎる」という文章の全文を読んでみようと思ったからです。すでにその内容はここ数日ネット上でも様々な方面から紹介され、批判されているので何をか言わんやですが、全文を読まないことには事の当否を判断できないですから。

mainichi.jp

読んでみて始めてわかりましたが、これは同雑誌の「日本を不幸にする『朝日新聞』」という特集の一部なんですね。他の論者の文章にもいろいろと思うところはありましたが、とりあえず杉田氏の文章にしぼると、LGBT、さらにはQ、Xと杉田氏なりに勉強された跡は見え、こうした性的マイノリティの存在を「キモい」などの一言で済ます思考停止よりは幾分マシかと思いました。

が、結局は……

(自身が通った)女子校では、同級生や先輩といった女性が疑似恋愛の対象になります。ただ、それは一過性のもので、成長するにつれ、みんな男性と恋愛して、普通に結婚していきました。

とか……

(性の多様性を認める報道が)普通に恋愛して結婚できる人まで、「これ(同性愛)でいいんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねません。

などと異性愛だけが「普通」で「正常」という考え方に収斂します。あまりにも幼稚で杜撰な論旨に、当然予想されたことではあるんですけど、雑誌代900円を支払ったことを後悔しました。杉田氏のこの妄言は、せっかく学んだ知識が血肉化されない典型例だと思います。

また「生産性」の部分については、既にネットをはじめとするメディア上でも数多の批判が出ているようにまんま優生思想で、現代の人権に関する議論からは激しく周回遅れです。というか、「普通の結婚」に拘泥している時点で既に学習能力の欠如をうかがわせます。何を読み、誰に話を聞き、その上で何を考えて来たのか。人は誰しも無知のそしりを免れ得ませんが、いくつになっても学ぶ習慣だけは残しとかなきゃいけません。

ところで、いま思い出しても憤懣やる方ないのが、以前お仕事でご一緒したことのある某弁護士さんのこと。この弁護士さんは、とある打ち合わせの合間の雑談で、ご自分が「通常」で「普通」と考える異性愛以外を「キモい」の一言で切って捨てたのです。筧史朗と同じ弁護士でありながら(まあ、筧史朗はマンガの中の人物ですが)、この人権意識の欠如はどうでしょう。そして私は私で、なぜあの時きちんと反論しなかったのか……今でも痛恨の極みです。

よしながふみ氏の決して声高に語ることがないけれども深い洞察と人間観を感じさせる作話術、それに対して勇ましく大手メディアを一刀両断にする千言万語を費やしながらも幼稚さと知性の不全しか感じない衆院議員の寄稿。同時に買ったこの二冊の径庭とコントラストに眩暈を覚えるほどです。

義父と暮らせば:番外篇——家を処分する

昨年亡くなったお義父さんが晩年一人で住んでいた家。細君が幼い頃にお義父さんが購入したそうです。でも千葉県は柏市のかなり不便な場所にあり、私たち夫婦にとっては利用する術もなく、かといってそのまま放置しておくわけにもいきません。そこで不動産鑑定士さんにお願いして土地と建物の評価をしてもらい、合わせて売りに出したところ、ようやく買い手が見つかりました。

売れたといっても、文字通り「二束三文」です。細君が不動産の名義変更をした際に、司法書士さんから路線価などを元にした標準的な評価額を教えてもらいましたが、もとより古い家ですし、当然評価額よりずっとずっとずっと低い価格。とはいえ、私たちとしては家の中の膨大なモノの処理や、老朽化した家屋の取り壊し、その後の土地の整備などで「持ち出し」がなかっただけでも本当に幸いでした。買い手の方と、そうした費用も「込み込み」という条件の上、「二束三文」の価格で折り合ったのです。

だいたい、この土地と家はもともと私たちのものではありませんし。無から有を生じるほど、それが金銭にからむことであるほど、人の心は乱れるし厄介を呼び込む。だから遺産だの相続だのということに対しては一片の欲も持つまい——それが私たちの基本スタンスです。ですから元よりこの土地と家を資産だなどとは考えませんでしたし、こうやって「とんとん」で持ち出しがなかっただけでも「御の字」でした。

ただまあ、細君にとっては幼い頃から過ごしてきた思い出のある実家です。それなりに感傷もあるかと思っていましたが、何度か通って必要なものを引き取り、ゴミを処分し、ご近所さんにも私を伴って挨拶など済ませ、清々とした表情で無人の家屋に「長い間お世話になりました」と告げて帰ってきました。素晴らしい。お義父さんにとっては、マイホームをそんなに未練もなくあっさり処理されちゃって、ちょっと不服かもしれないですけどね。ごめんね。

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……しかし、ご近所にご挨拶に行ったときにしみじみ感じましたが、周囲のどのお宅も、お義父さんとほとんど同じ状況なんですね。つまり、高度経済成長期に、言葉は悪いけれど不動産屋さんに「だまくらかされて*1」マイホームを構え、その後子供たちは都心への通勤に不便なその家には住んでくれず、高齢化して伴侶に先立たれ、結果、無駄に広くなってしまった家に一人で暮らしている……というパターンが多いのです。

細君は、ご近所のお年寄りたちに「ねえ、いくらで売れたの?」と何度も聞かれたそうです。ご自分の土地や家が将来どれくらいの価格になるのか、その「先例」を知りたかったのでしょうけど、言葉を濁すしかなかったそう。それくらい文字通り清々しいほどの「二束三文」だったのですから。

先日読んだ『未来の年表 人口減少日本でこれから起きること』という本にも、全く同じような例が挙げられ、なおかつそれが将来のリスクになると記されていました。千葉県のこの小都市だけではありません。私が今住んでいる東京都の23区内だって、周囲にはお年寄りだけの世帯、あるいは空き家と思しき住宅が散見されます。

qianchong.hatenablog.com

もちろん、それぞれの家族にそれぞれの家族に合った生き方・暮らし方がありますし、どう「住まう」のかはそれぞれの自由です。それでも、公共交通機関で、駅で、テレビや新聞、雑誌などで、またうちにも頻繁にポスティングされるチラシなどで、いまも何十年前と変わらず、そう、お義父さんがマイホームを買った頃と変わらぬトーンで業者が「マイホーム」への夢を煽り立てているのを見るにつけ、もうそんな時代ではないんじゃないかな、と思うのです。

追記

そんなことを考えていたら、先日、こんな記事に接しました。

bunshun.jp

私はその記事を紹介されていたTwitterのツイートに、こうリツイートしました。

かつて職場の命令でしぶしぶ受験して資格を取った「簿記」ですが、こういう時はとても役立ちます。かつての職場に感謝です。

*1:敢えてこう言っちゃいます。都心からゆうに一時間以上はかかり、なおかつどの最寄り駅からもバスで20〜30分もかかるようなこの場所に土地と家を買っちゃったんだもの。当時はもうすぐこのあたりに地下鉄が通るなどといった類のセールストークもあったそうです。結局何十年経ってもそれは実現しませんでした。

フィンランド語 20 …「話す」をめぐって

「puhua(話す)」という動詞を学びました。まず人称による変化を確認しておきます。

● puhua(話す)
①最後の a を取って語幹は puhu 。
②語幹の最後の音節に「k,p,t」 がないのでそのまま変化。つまり……

puhun puhumme
puhut puhutte
puhuu puhuvat

Puhutko sinä suomea ?
あなたはフィンランド語を話しますか?
Puhun, mutta vähän.
話します。でも少しです。

suomiフィンランド語)」が分格の「suomea」になっています。先生によると「全て」と言えない目的語は分格をとるそうです。つまり「フィンランド語を話す」といっても、フィンランド語全てを話すわけではなく、ごく一部のある話題を話すからということかな?

日本語にはない概念の分格ですが、それでも同じ人間の思考である以上、全く理解できないということはないはず。分格は「分ける格」というその名の通り、目的語が一部分であることを表すんでしょうね。

話しますかと問われて、「Puhun」と答えています。人称代名詞の「Minä」が省略されていますが、「Puhun」自体が一人称単数の形なので、言わずもがななんですね。同時に「話す」という肯定の答えにもなっているわけで、要するにこれは「はい」にあたります。先生が「フィンランド語には Yes や No にあたる言葉がない」と言っていたのはこのことですね。

ちなみに「はい」の場合はそれぞれの人称によって変化した形が、「いいえ」の場合は否定辞のあとに動詞の語幹、つまりこの場合は「puhu」がつきます。したがって……

はい いいえ
(minä) puhun (ninä) en puhu
(sinä) puhut (sinä) et puhu
(hän) puhuu (hän) ei puhu
(me) puhumme (me) emme puhu
(te, Te) puhutte (te, Te) ette puhu
(he) puhuvat (he) eivät puhu

……ということですね。

Mitä kieltä sinä puhut ?
何の言語をあなたは話しますか?
Minä puhun japania ja englantia sekä vähän suomea.
私は日本語と英語、それから少しフィンランド語を話します。

「kieltä」は「kieli(言語)」の分格です。i で終わるフィンランド語の場合は、語幹が変化して「kiele」になりますが、これは「pieni(小さな)」と同じで「le、ne、re、se、te(レネレセテタイプ、と先生は言っていました)」ですね。

●「kieli(言語)」を分格にしてみる。
i で終わるフィンランド語の場合は、語幹が変化して「kiele」。最後が le、ne、re、se、te で終わるので、語尾は tA(単語に aou が含まれていれば ta 、含まれていなければ tä ) になり、さらに e が消えます。つまり、kiele + tä = kieletä ですが、e が消えて kieltä となるわけです。

「sekä」は事物を列挙するとき、最後につける「それに」にあたる言葉。英語でも「〜, 〜, 〜 and 〜」、中国語でも「〜, 〜, 〜 和 〜」といいますが、同じですね。

しかも、ほんの少ししか話せなくても、フィンランド語では「少ししか話せない」と否定的に言うことはまずないそうです。肯定で「少し話せる」と言う。これ、留学生などに接していると、英語や中国語が母語の生徒さんたちもみんな同じですね。ほとんど挨拶程度しか話せなくても「少し話せる」と言う。この点、日本人はかなり話せても謙遜して「少ししか話せない」と言います。興味深い差異です。

あ、ちなみに「kiina(中国語)」の分格は、これはもう外来語ですから単に「a」をつけて「kiinaa」ですね。

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Me puhumme kiinaa.

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He puhuvat suomea.

心と身体に効く筋トレ

昨日「cakes」で読んだこちらの記事。

cakes.mu

移動中の電車の中で、スマホで読んでいたのですが、「同感!」の部分が多すぎて、思わず降りる駅を乗り過ごすほどでした。

ビジネスパーソンが最高のパフォーマンスを実現する」という惹句に、また「意識高い系」の自慢話ですか……と尻込みしそうになりますが、これはまあ筆者であるムーギー・キム氏が読者として想定している方々へ向けたリップサービス。詳しくは記事をお読みいただくとして、大切な点は、対談相手のTestosterone氏が語る以下のことがらです。

1.筋トレは有効なストレス解消法。

趣味でも何でもいいのですが、筋トレは一番手っ取り早くて短時間で行えるストレス解消法だと思います。というか、筋トレをしている時には、雑念が入り込む余裕などありません。ほとんど全神経を荷重に向けているから。

しかも筋トレはあまり長い時間はできません。せいぜい一時間程度。でもその一時間をこれほどまでに無心にさせてくれる「手段」はそうそうないと思います。以前は長時間歩いたり走ったりをしていたのですが、手元にパソコンもスマホもないから雑念が消えるかと思ったら、却ってあれこれ考えちゃって、それを音楽で紛らわしたりしていました。筋トレは音楽を聴く余裕すら吹っ飛びます。

2.筋トレは運動初心者や運動神経の悪い人におすすめ。

これ、まさに私のことです。私、学校の体育の時間が一番嫌いだったのですが、中でも嫌いだったのが球技や体操(器械体操)のたぐい。如実に運動神経というかスキルが問われるからです。

比較的気が楽だったのは長距離走。もちろん長距離走だって相応のスキルが必要ですが、とにかく体育の時間をやり過ごしたいだけの私のような人間には一番楽です。ダラダラ走っているだけでいいんですから。

また体育の時間で「競技」をさせられるのも本当にイヤでした。水泳とか短距離走とかバスケやバレーやサッカーや剣道や……(要するに全部ですけど)。せめて体育から「競う」要素を外してくれれば、まだ救われる生徒はいると思いますけどね。

そこへ行くと筋トレは、特殊なスキルがほとんど必要ありません。競うこともありません(個々人で体格や体調などが違うので競う意味がない)。トレーナーさんの指示に従って、身体を動かすだけです(意識の持って行きようは大切なので、そういうスキルは必要かもしれません)。

qianchong.hatenablog.com

3.筋トレで普段の生活習慣まで意識が変わる。

これは自分でも驚いたのですが、筋トレをしていると暴飲暴食に自らストップをかけられるようになるんですね。「あれだけきつい筋トレをしたのにもったいない」とか「この爽快な状態を維持したい」とか思っちゃうのです。私はこれで、長年辞められなかった毎日の飲酒から抜け出すことができました。記事では「筋トレを中心とした健康的なライフスタイル」と形容されています。

週の初めに私はまず、筋トレに行く時間をスケジュール帳(スマホ)に確保します。それに従って他の仕事や予定を入れるのです。完全に本末転倒な感じですが、こうしないと絶対に怠けちゃう自分の性格を考慮してのことです。私はどちらかというとノープランが好きで、人生全般が「どんぶり勘定」的な人間なんですけど、そんな私でも時間の使い方が自律的になったことにも驚いています。

4.筋トレは必ずトレーナーさんに習う。

これは必須です。以前大手フィットネスクラブの会員になって一年ほど身体を動かしていた時期があったのですが、肩凝りにも腰痛にも健康維持にもストレス解消にも、ほとんど効果がありませんでした。お金をケチってトレーナーさんにつかず、全部自己流で済ませていたからです。

今はトレーナーさんに指導してもらっていますが、その細かい指示に毎回驚きます。ちょっとした手足の向きや位置、視線や姿勢、さらには意識の持ちようまで、ものすごく繊細な調整が必要で、それがトレーニングの結果にも大きく影響してくるのです。

世上よく体育会系の方々を揶揄して「筋肉バカ」などという暴言がなされることがありますが、バカなんてとんでもない(いや、バカも時にはいますが)。正しく筋肉をつけるためにどれだけの工夫をしているのかは、プロのトレーナーさんから「これでもか」というほど教わることになります。

5.食事7割、休息2割、筋トレ1割。

これもプロのトレーナーさんがよく言っていることです。どんなに理想的な筋トレをしても、きちんと休めるかどうかがとても大切。さらにきちんと食べているかどうかはさらに大切だと。生活習慣の意識が変わるというところと同じですが、「あれだけきつい筋トレをしたんだから」と食事により意識を向けるようになるんですね。

・・・・・

「筋トレ」は、そのイメージを一度リセットされるべきではないかと思います。かつての私を含め多くの方が「筋トレ」に抱くイメージは、ほぼ「ボディビル」に近いものではないでしょうか。筋肉を誇示するかのようなピッチピチで襟ぐりと袖ぐりが極端に深いタンクトップを着て、黒々と日焼けした身体でとんでもない重量を「はぁうっっ!」とか「ふんっっぬぅおぉぉ!」などという奇声を発しつつ上げている……というような。

そうではなく(そういう方もいるけれど)、一人一人の状況にあった、それぞれの「筋トレ」があるのです。筋トレは競うものではなく、自分と向き合うものです。そして身体と心の不調を少しずつほぐしていくものです。本当におすすめです。

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https://www.irasutoya.com/2014/01/blog-post_2866.html

一条、二更、三感。

ふだんネットで通訳訓練用の教材を探していて、よくお世話になっているYouTubeのチャンネルが二つあります。中国の「一条」と「二更」というサイトのチャンネルです。一、二と数字が続いていますが、特に関係があるわけではないみたい。でもそのおしゃれでスタイリッシュな動画のスタイルはよく似ています。

www.youtube.com
www.youtube.com

「一条」は人物の立志伝や、美術・建築・インテリア関係の素敵な映像が数多くラインナップされています。「二更」も人物に焦点を当てたものが多いですが、何より魅力的なのは食べ物関係。例えば私が大好きな天津の「煎餅果子」や北京の「涮羊肉」を取り上げたこちらの動画など、これぞ「飯テロ」と呼ぶにふさわしいまさに「垂涎」の内容です。

youtu.be
youtu.be

先日は「一条」で、台湾は台北、陽明山のとあるオーベルジュに取材したこの動画を見つけました。

youtu.be

いいな〜、ここ。ぜひ一度行ってみたいです。動画の中では、オーナーの李逢德氏がこんなことを言っています。

台湾人は時に不可解だね。普段は安い食べ物を追い求めるくせに、病気になると一番高い薬を買うんだ。

さりげなく、でも痛いところを突いていると思いました。本当に身体のこと、健康のことを考えているなら、日頃から食べ物に気をつけるべきなのに、みんなそれを忘れている、と。確かにそうですね。

スーパーで買い物をするときも、つい少しでも安いものをと思ってしまいがちですが、少しくらい値が張っても質がよくて美味しい物を食べたいです。だいたい(これは自分に言い聞かせてるんですけど)外食するときはひと皿500円とか1000円とかでも「安い!」といってどんどん注文するのに、スーパーで食材を買うときはほうれん草が298円でも「高い!」と思っちゃうのは何かが破綻しているような気がします。

最近「三感」というチャンネルも見つけてしまいました。これも「一条」「二更」と直接の関係があるわけではないみたい(関連記事)。そしてこの三者は互いに切磋琢磨してその内容を競い合っているそうです。これからも動画の更新が楽しみです。

www.youtube.com

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豆乳とソイミートで大鍋いっぱいにラザニアを作る

この猛暑続きの中、ちょっと何を言ってるんだか分からないと思われるかもしれませんが、ラザニアが大好きです。

でも、チーズにホワイトソースにミートソース……と中高年にはちょっと重たすぎる。というわけで、ホワイトソースを豆乳ベースで作ります。小麦粉もバターも使うのでグルテンフリーでもヴィーガンでも何でもないですが、かなり軽いホワイトソースになります。豆乳独特の香りは(私は好きですけど)あまり気になりません。

ミートソースは成城石井で売っている「Botticelli」のソイミートを使ったボロネーゼソース。これ、かなり美味しくておすすめです。少々塩気が強いのが玉に瑕なので、ホワイトソースの塩を省略するもの一つの手です。

ラザニア用のパスタも成城石井で売っている「Russo」のもの。イタリアの大衆ブランドらしく、お安くて、しかも下茹でが要らないのでとても便利です。

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【材料】鍋いっぱい分
 ●ホワイトソース
  小麦粉 50g
  バター 50g
  豆乳(無調整) 600ml
  塩・胡椒 適宜
 ●ボロネーゼソース 1瓶
 ●ラザニア用パスタ 1箱
 ●チーズ 適量
 ●イタリアンパセリ 適量
 ●その他(今回はマッシュルームを刻んで入れました。省いてもかまいません)

耐熱容器*1に小麦粉とバターを入れ、電子レンジ(600w)で1分30秒ほど加熱します。

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豆乳600mlを少しずつ混ぜながら入れます(多少ダマになっても大丈夫)。

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これを電子レンジ(600w)で4分→攪拌→3分→攪拌→2分→攪拌→1分と、合計10分間加熱するとホワイトソースになります。最後に塩胡椒(省いてもかまいません)。

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鍋にホワイトソースをしき、ラザニア用のパスタを置きます。型が楕円形の鍋なので、すきまはパスタを折って適当に埋めます。その上にまたホワイトソース。

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次にボロネーゼロース。

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マッシュルームとチーズ(両方省いてもかまいません)。

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ラザニア用のパスタ。

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これをソースがなくなるまで繰り返し(だいたい10段ぐらいかな?)……

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最後にチーズ(今回はパルミジャーノもすり下ろしてかけました)。

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これを約200度のオーブンで約30分程度(様子を見つつ、いい焦げ目がつくまで)焼きます。

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最後にイタリアンパセリ。以前、DEAN & DELUCAの総菜売り場で「24段重ねのラザニア」というのを売っていて、それに触発されて以来、何度も作っています。

型は別に鍋でなくても何でもいいですが、鋳物のストウブやル・クルーゼで作ると熱がよくまわるのか、おいしくできます。

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見た目よりかなりあっさりしていて、もたれません。夏野菜をたくさん使ってミルフィーユ状にしてもよさそうです。

*1:私は20年来愛用しているLUMINARCというメーカーのVitroflamという耐熱セラミック鍋を使っています。取っ手が取り外しできるので、電子レンジからの出し入れにとても便利です。

フィンランド語 19 …動詞登場(その4)

先生が「ごめんね〜」と言いながら、さらにもうひとつのタイプを説明してくださいました。

stA, lA, nA, rA-タイプ

動詞の最後が stA / lA / nA / rAで終わっているものです。このタイプは単語の後ろ二つの綴りを取って語幹としますが、そこに「e」を足す、というのが特徴だそうです。

● nousta(上にあがる)
①最後の ta を取って語幹は nous 、さらに「e」を足して、nouse。
②語幹の最後の音節に「k,p,t」 がある場合変化パターンに従って「逆転」しますが、この単語にはありません。
③三人称単数の語尾は「e」を伸ばします。あとは全く同じ。つまり……

nousen nousemme
nouset nousette
nousee nousevat

● ajatella(考える)
①最後の la を取って語幹は ajatel 、さらに「e」を足して、ajatele。
②語幹の最後の音節に「k,p,t」 があるので、「逆転」の変化パターンに従って「t→tt」。従って最終的に語幹は ajattele 。
③あとは全く同じ。つまり……

ajattelen ajattelemme
ajattelet ajattelette
ajattelee ajattelevat

● panna(置く)
①最後の na を取って語幹は pan 、さらに「e」を足して、pane。
②語幹の最後の音節に「k,p,t」がないので、あとは全く同じ。つまり……

panen panemme
panet panette
panee panevat

● purra(かじる)
①最後の ra を取って語幹は pur 、さらに「e」を足して、pure。
②語幹の最後の音節に「k,p,t」がないので、あとは全く同じ。つまり……

puren puremme
puret purette
puree purevat

● opiskella(勉強する)
①最後の la を取って語幹は opiskel 、さらに「e」を足して、opiskele。
②語幹の最後の音節に「k,p,t」がありますが、前後に「s」があるときは不変化。あとは全く同じ。つまり……

opiskelen opiskelemme
opiskelet opiskelette
opiskelee opiskelevat

例外

これまでさんざん学んできた「olla動詞」も、最後が「la」なのでこのタイプです。ですから同じように「la」を取って「e」をつけて人称語尾をつけるのですが……

olen olemme
olet olette
on ovat

三人称の単数と複数だけ「olee」となるべきところが「on」、「olevat」となるべきところが「ovat」になっています。これは長い間頻繁に使われてくるうちに変化しちゃった例外だと先生はおっしゃっていました。なるほど。

itA-タイプ

最後にもうひとつだけ説明がありました。このタイプは、最後の「A」がなぜか「se」になります。

● valita(選ぶ)
①最後の a が se になって語幹は valitse。
②語幹の最後の音節に「k,p,t」がないので、あとは全く同じ。つまり……

valitsen valitsemme
valitset valitsette
valitsee valitsevat

etAタイプ

さらにもうひとつ。このタイプは etA を ene にします。形容詞の動詞化したものが多いです。

● vanheta(年取る)
①最後の eta が ene になって語幹は vanhene 。
②語幹の最後の音節に「k,p,t」がないので、あとは全く同じ。つまり……

vanhenen vanhenemme
vanhenet vanhenette
vanhenee vanhenevat

先生からは、たくさん動詞の変化パターンがあって混乱するかもしれないけど、まずは「k,p,t」の変化パターンを覚えてしまいましょうというアドバイスがありました。

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(Minä) opiskelen Suomen.

塚本慶一先生のこと

中国語通訳者の塚本慶一氏が亡くなりました。享年七十歳。最初Twitterで、その後ネットの報道で訃報に接しました。

j.people.com.cn

塚本慶一氏といえば、日本における中国語通訳者の草分け的存在。著書の『中国語通訳への道』は旧版、新版ともに私も繰り返し練習しましたし、台湾での長期派遣から日本に戻ってしばらくの間、当時はまだ虎ノ門にあったサイマル・アカデミーで訓練していた頃も講師のお一人が塚本先生で、お世話になりました。


新版 中国語通訳への道

「好々爺」の先生

私が教わった頃、先生はすでに半ば「伝説の人物」といった感じで、こういう表現はあまり適切ではないかもしれないけれど、ある種「好々爺」然とした風情を醸し出されていました。

とはいえ通訳訓練ではとてもエネルギッシュで、生徒を指名して訳させる時には「うん、そうね。それから? ふんふん、で?」とこちらが訳語を考えて文章を紡ぎ出す間もなく先を促され、しまいには「うん、『志を同じくする』だからここは“志同道合”、で『新たな一頁を開く』だから“揭開新的篇章”だね。というわけで“我想和志同道合的朋友們共同揭開中日友好關係的新篇章”かな」などと、ご自分で全部訳しきっちゃうのでした。

きっと、生徒の中国語訳があまりに“不成體統(なっちゃいない)”なので、まどろっこしいというか、うずうずしちゃって、つい自分で訳されちゃうんでしょうね。そう、先生は日本語も中国語もとても流暢でまさに「バイリンガル」でした。でも、日本語にはわずか、ほんのわずかながら不自然な点があり、どちらかといえば中国語ネイティブに近いのではないかと私は拝察していました。

そんな先生の授業は、だから生徒を手取り足取り教えるというものではなく、むしろ「背中を見て覚えろ」的なスタイルでした。というか、当時の(今はどうだか知りません)サイマル・アカデミーの授業は、他の先生方もみなそういうスタンスだったと記憶しています。生徒をまんべんなく指名するわけではなく、むしろ「指名されないのはアンタがそれだけの実力ということ。指名されるようになるまで頑張りなさい」という感じです。

というわけで、教室の空気は割合ピリピリとしたものがありました。“志同道合(志を同じくする者同士)”というよりは“貌合神離(表面上は仲良しだけれどお互いに牽制し合っている)”という感じで、先生方の指導が絶対、特に塚本先生はその頂点という印象でした。

「破門」される

そんな中で私は、ひとつの「事件」を引き起こすことになります。ここに、当時書いたブログの記事があります。

qianchong.hatenablog.com

要は、授業の内容や進め方について担任の先生に意見を具申したら(個人面接で意見を求められたのです)、その内容が主任講師の先生に伝わり、いわば「破門」に等しい宣告をされたのです。

当時私はクラスメートから「先生方が怒っている*1」という連絡をもらい、すぐに学校に電話しました。電話口に出た主任講師の先生は非常にご立腹で、「スクールの授業に、それも特に塚本先生の授業に文句をつけるとは何事か。そういう人はうちにふさわしくない」とはっきり言われました。

私は大きなショックを受けると同時に、とても不可解かつ残念に思い、結局サイマルはその学期限りでやめて他のスクールに移りましたが、当時は、もうこの業界では生きていけないかもしれない……とかなり不安でした。だって業界の「大御所」の塚本先生に睨まれてしまったんですから*2。また、なぜ担任の先生は自分で対応することなく上層部へ意見を丸投げしたのか、生徒とはいえ高い授業料を払っている立場からの意見をなぜ頭ごなしに批難するのか……など、スクールや先生方に対する疑問も膨らんだままでした。

意外な言葉

それ以来、塚本先生にお目にかかることはありませんでしたが、後年、先生が杏林大学で教鞭を執られるようになったあと、大学主宰のシンポジウムか何かでスタッフとして参加した友人の通訳者から、「塚本先生がね、私が徳久君の旧友だと知って『彼はなかなかよくできるでしょう。私の教え子なんだよ』って言ってたよ」と聞かされました。意外でした。

たった半年、しかも数回の授業でしかお目にかかっていなかった*3のに、覚えていてくださったことに驚きました。そして、あの時の「破門」は塚本先生というより、先生の「取り巻き」の方々の意向だったのかもしれないと思いました。中国語通訳者の草分け的存在であり、サイマル・アカデミーの「名物講師」でもあったがゆえに、まわりからこうやって持ち上げられてしまったことを、先生ご自身はどう感じてらっしゃったのでしょうか。

後年、雑誌などのメディアで何度か先生をお見かけしました。第一人者としての自覚がそうさせたのでしょう、雑誌のインタビューでも語学講座の出演でも、かなり堅くて生真面目な(悪く言えば面白みがなくて、フォーマルすぎる)お話しぶりでした。『中国語通訳への道』に対訳として出てくる中国語もどちらかといえば堅い文体で、現在私が担当している中国語ネイティブの留学生も「堅すぎて取っつきにくい」とすぐに音をあげます。でも私自身はこの本でかなり勉強させてもらいましたし、堅くてフォーマルな教材で一時期みっちりと訓練することも意味があるとは思っているのですが。

未来について

日本における中国語通訳者の未来については、先生はあまり楽観的ではなかったようです。

日中間の「パイプ」を育成 塚本慶一教授_人民中国

「Aクラスの日中同時通訳者は日本と中国にはそれぞれ10人程度しかいない。将来、この分野では日本が中国から人を『輸入』するしかないだろう」


「以前は、中国と日本の間では政治、経済の交流が中心だったが、いまは社会、医学、芸能、科学から原発まで、あらゆる分野に広がっている。だが、Aクラスの英語同時通訳者が日本に約200人いるのと比べ、日中間の『パイプ』はあまりにも細すぎる」


杏林大学修士課程の通訳コースは3期生を迎えたが、毎期10人ほどの学生のうち、日本人は1人から2人程度で、残りは中国からの留学生だという。

うん……私の恩師もかつて言っていたのですが、昨今「石にかじりついても通訳者になる!」という気概の生徒はとても少ないです。通訳業界や翻訳業界の一部が「安かろう悪かろう」に傾き、荒れ始めていることもあって、私自身からして業界から少し距離を置いて副業的に他の仕事を模索し、実際に稼働させつつあります。先生が予見された通り、未来の見通しはあまり明るくないのかもしれません。

何だか湿っぽい締めくくりになってしまいました。塚本先生、ごめんなさい。そして、ありがとうございました。

*1:それも「なんで先生方の授業にケチをつけたのよ! 私たちもあんたと同じ意見だと思われてスクールから睨まれるじゃないの!」という主旨の批難でした。当時の、スクールや講師に対する絶対的忠誠ぶりが垣間見えますし、結果的に生徒をそのように分断するやり方にも大きな疑問を覚えました。

*2:「実力本位の世界だから大丈夫」と励ましてくださったのは、かつて別の通訳スクールでお世話になった恩師のY先生でした。

*3:クラスは担任の先生と塚本先生、それにもうお一人、三名の先生が担当していました

『七里香』を紹介したテレビ番組に対する違和感

Twitterのタイムラインで、こんなツイートに接しました。

秋刀魚の漁獲量をめぐる今朝のモーニングショーの報道で、中国で秋刀魚が人気になっている理由のひとつとして周杰倫ジェイ・チョウ)氏のヒット曲『七里香』が取り上げられたというのです。

「なぜ今になって」という思いもさることながら、「中国の福山雅治」とか「しゅうけつりん」や「しちりこう」というルビとか……私はリツイートで「どこから解きほぐして差し上げればよいのか分からないこの軽い絶望感はなんですかw」と書きました。

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『七里香』といえば、もうずいぶん前の曲です。ブログにこの曲のことを書いた覚えがあって、さっき検索してみたら2004年でした。14年前ですね。

qianchong.hatenablog.com

そこで、私もさっそくその番組を見てみました。

youtu.be

これは……。映像を見ているうちに、少々不愉快な気分になってきました。キャスターやコメンテーターの取り上げ方が、どこか小馬鹿にしたような口調であること、アーティストやその作品に対するリスペクトに欠けているのではないかということなどがその理由です。

詳細はぜひ映像をご覧いただきたいのですが、「中国の通訳さんの主観も多分に入っている」とした上で「中国で人気があるイケメンのアーティスト」と紹介して笑いをとるところから始まり、歌詞を解説しながらこんなコメントが続きます。

「どういうこと?」


「秋刀魚の香りが初恋の香りということ?」


「たぶん推測だけど、僕らにとって秋刀魚って、昔から食べているどっちかって言うとアレだけど、伝統の味ってことだけど、(中国の人にとっては)新しいものっていう感覚があるからなんじゃないの? その、流行り物というかさ。最近食べるようになった、ね、ちょっとおしゃれ感が残っている食べ物なんじゃないの」


「(この秋刀魚が書かれた)三行目、要らないと思うんですよね」


「急に秋刀魚と猫が出てくる」


「これたぶんね、先に曲を作っちゃったんだよね。で、一行足らなくて、う〜んどうしようかなあって、その時たまたま秋刀魚を食べてたんだよ」


「全くちょっと理解はできないですけれども」

大手メディアのモーニングバラエティ番組に目くじらを立てても始まらないかもしれませんが、これはアーティストに対して失礼ではないかと思います。

14年も前の曲に触発されて現在急に中国で秋刀魚の消費量が増えたわけでもないでしょうし*1、もとより周杰倫氏は台湾のアーティストです。羽鳥氏はじめ日本の出演者はこの点に疎いとしても、この話題を提供した「中国の通訳さん」は何をしていたんでしょう。「中国のフクヤマ」などというフレーズを「主観」で伝えるだけじゃなくて、きちんと文化背景も伝達してほしかったと思います。

しかも、『七里香』の作詞者は方文山氏です。こちらのインタビュー記事を読めば、「秋刀魚」は小津安二郎氏の映画からインスピレーションを受けて、繊細な感覚を描写したものであることがわかります。

https://kknews.cc/entertainment/z6lzgja.html

周到君:“秋刀鱼的滋味,猫跟你都想了解”这些歌词中出现的动物,是一种有特别意味的设定么?


方文山:秋刀鱼的滋味其实源于小津安二郎的电影,(周到君查了一下:在1962年,小津安二郎执导了由冈田茉莉子、杉村春子主演的剧情片《秋刀鱼之味》,这也是他过世前最后执导的作品,获选日本《电影旬报》年度十佳影片。想了解秋刀鱼的可以看看。)看了电影之后很有印象,写歌词的时候觉得,诶,秋刀鱼很特别,那猫想吃秋刀鱼,所以接下来“猫跟你都想了解”就是一种感情细腻的描写。

台湾の周杰倫氏と方文山氏が『七里香』というこの曲に「秋刀魚」を持ち出したのは、歴史的な経緯から日本文化を受容してきた(せざるを得なかった)台湾ならではの背景が潜んでいると私は考えます。

周杰倫氏はかつて東京で行われたコンサートで「桃太郎」の歌を歌い、これは自分が子供の頃におばあさんが歌ってくれたものだと日本の聴衆に紹介しました。桃太郎といえば、政治的な文脈では「侵略者」として捉えることもできる「微妙」な存在。ましてや台湾は、かつて日本によって50年間に及ぶ植民地統治を受けました。おばあさんが「桃太郎」の歌を日本語で歌えたのは、まさにそうした統治下で行われた日本語教育の成せる技だったわけです。


www.youtube.com

そんな歴史的な経緯のある台湾の周杰倫氏が、その歌を逆に日本の聴衆に対する親密さの証として歌ってくれた。いわば、侵略の歴史をあちらから乗り越えて私たちに語りかけてくれたわけです。私はその姿勢に感銘を受けましたし、日本的なアイコンとしての「秋刀魚」を歌詞に取り入れた『七里香』もそれと同じ文脈で捉えるべき、つまり日本人にとってはまさに秋刀魚のように滋味深い味わいとして捉えるべきだと思うのです*2

そんなこんなの背景をいっさい知らず、知ろうともせず、軽い笑いのうちに紹介してしまった番組に不快感を覚えた次第です。羽鳥氏は「どういう音楽なのか聞いてみたい」とおっしゃっていましたが、ぜひ聞いてみていただきたいと思います。

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*1:しかもこの報道は中国や台湾が漁獲量を奪っているのではないかという見立てが前段にほのめかされています。

*2:ちなみに『七里香』のMVは日本でロケが行われています。

消えていく句読点と新しい文体

スマホやパソコンの既読メールを整理していてふと思ったんですけど、華人の中国語メール、特にショートメールやLINEのトークでは、みなさん句読点などの記号(標點符號)をほとんど使わないんですね。面白いです。私は「ガイジン」だから中国語を書く=作文の練習なので、どんな短いメッセージでも記号をきっちり使っちゃいます。

結構長いメールでも句読点などを一切使わない方もいて、じゃあどうしているのかというと半角スペースをそのかわりにしているのです。中国語も古文は句読点などなかったから、中国語ネイティブのみなさんは全く気にならないのかもしれません。

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日本語は漢字かな交じり文で何となく意味の切れ目が浮かび上がって見えるけれど、中国語は「漢字ばかりが、ずらずら」と並んでいるだけなので私たちは切れ目を読み損ねて誤読しがちです。それで私などはより句読点にこだわっちゃうんですけど、中国語ネイティブのみなさんは、その辺りは軽くクリアされるのでしょうか。

また蛇足ながら、私たちは「漢字ばかりが、ずらずら」にとてもお堅い印象を受けるけれど、当の中国語ネイティブはその漢字ばかりの文章でおちゃらけたことも、もちろんお堅いことも表現するのだという点を自覚しておくのが大切かと思います。日本語母語話者の中→日方向の翻訳文が必要以上に「こわもて」の文章になりがちなのはこのせいかも知れません。

閑話休題

華人からのメールやショートメッセージに句読点が極端に少ない(か全くない)問題を解明するため、華人留学生たちに聞いてみたところ「句読点を打つと堅すぎてお喋りっぽくない」「短いメッセージをどんどん発信して、改行がマル(句点)のかわりになってる」などの意見が寄せられました。なるほど、確かにLINEのトークでは皆さん、改行を多用していますね。

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私はひとつの文章を丸々ひとつの「吹き出し」に入れるのですが、若い皆さんはフレーズごとに切って発信してる。この改行、ないしは発信が文章の息継ぎみたいな感覚なんですね。この感覚は、私には備わっていないです。ワープロやパソコンやスマホがない時代から字を書いていたから、書くという行為自体の感覚がかなり違うのかも知れません。こういうのも「デジタル・ディバイド」なのかしら。

そんなことをTwitterでつぶやいたら、英語圏の若い方も似たような傾向ですよと教えていただきました。


日本語の場合は?

では本邦の若い方々はどうなのかしらと検索してみるに「こんなLINEしてないよね…?『おっさん乙www』と思われるLINEの特徴4つが明らかに」なる記事を発見しました。いわく「文章すべてに『。』がつく/一文が長く、句読点で区切っている」のは「おっさん臭さを増長している」だって。わはは、私は全てにあてはまりますね。

www.appps.jp

ただまあ、自他共に認める「おっさん」である私は「おっさん臭さを増長している」というフレーズからして気になっちゃって、そこは「助長」ではないかと突っ込みたくなるのですが、それこそが「おっさん臭い」と返り討ちにされそうなのでやめておこうと思います。

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https://www.irasutoya.com/2014/10/sns.html

かつて本多勝一氏が『日本語の作文技術』で、句読点、なかんずく「テン」の打ち方について縷々説明されていて、私など大いに影響を受けたクチなのですが*1、当今のLINEやショートメールではそのあたりを軽々飛び越えて新しい文体が生まれているんですね。その良し悪しや好悪は別にして。

この点について、先日の東京新聞に載った特集がとても興味深かったです。この記事で武田砂鉄氏の仰る「分かりやすさ第一の風潮=手短な説明の要請」と佐々木正洋さんの仰る「感覚的な言葉に終始し文章になっていない」というのは、上述のメールやショートメッセージに句読点がないのと通底しているような気がします。

www.tokyo-np.co.jp

LINE執行役員の稲垣あゆみ氏は「中高生や若いカップルには帰宅後、寝ている間もずっと通話状態にしておく人もいます。何を話すわけでもなく“つながっている”感覚を得る。今までの常識からは外れる通話の形です」と。こうなるともう話は電話かLINEかを飛び越えて、まったく別の次元に移行しつつありますよね。

*1:日本語とテンの打ち方』という本も、とても参考になりました。