インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

中国語文法の魅力について小一時間語る

先日、通訳のクラスで文法の話になった際、何人もの華人留学生が口々に「中国語なんて文法がテキトーで、無いも同然です」などと卑下しつつ言うので、驚きました。中には大学や大学院を卒業してから日本に留学してきた方もいるんですよ。私は「アホかー!」と「中国語がどれほど素敵な文法の体系を持っているかーーその汲めど尽きせぬ魅力」について訓練そっちのけで小一時間こんこんと語ってしまいました。

まずは語順。中国語の文法が「テキトー」というなら、どうしてあんなに厳格な語順があるのですか。その点じゃ日本語の方がよっぽど「テキトー」です(まあ語順だけ比べても意味ありませんが……)。“我愛你”を例に取れば“我”と“愛”と“你”の順列組み合わせでできるすべての文章を比べてみたって一目瞭然ではありませんか。「私は/あなたを/愛する」という意味を正しく伝えられる組み合わせは一つしかないほど厳格です。

次に「中国語を学ぶ際の『キモ』は何だと思いますか?」と聞いてみました。複文、成語、発音など様々な意見が出ました。もちろんそれらも大切ですけど、私が考える一番の「キモ」は動詞とそれを巡って展開される「補語」と「相(アスペクト)」です。ここが私たち外国人が中国語を学ぶ際に乗り越えなきゃならない大きな二つの山なんです。

例えばいま私は字を書いていますけど、この“寫/写(書く)”という動詞ひとつを巡っても……

寫過(書いたことがある)
要寫了(まもなく書こうとしている)
寫起來(書き始める)
在寫/寫著(書いているところ)
寫了/寫完(書き終わる)
寫下去(書き続ける)
寫著(書いてある=書き終わった結果が残り続ける)

……などなど、補語と相で縦横無尽に表現しますよね。そのどれにも文法的な説明が与えられています。中国語で物事をより的確にヴィヴィッドに表現しようと思ったら、こうした文法に習熟する必要があります。

f:id:QianChong:20180608135531j:plain

もちろん、ほかにも副詞なんかは重要だし、もっと基本的な“是”や“有”や“在”なども重要ですけど、とにかく「中国語に文法は無い」などと当のネイティブスピーカーが言っちゃいけません。中国語を愛する私が許しませんっっ……と熱く語ったら、みなさん何となく納得してくれて、スマホでホワイトボードの写真を撮る人もいました。

通訳や翻訳を学びつつ、日本語がもっと上手になりたいと思っている華人留学生ですけど、自らの母語ももういちど見つめ直してくれたらいいなあと思います。

あ、上記の補語と相のくだりは、お気づきの通り、私が長年たいへんお世話になっている『Why? にこたえるはじめての中国語の文法書』198ページの図がネタ元です。これまで何度もこういう説明を中国語母語話者にしてきましたけど、たいがい「へええ、そうだったんだ」と驚く方がほとんどです。


Why?にこたえるはじめての中国語の文法書

母語の文法については、それを例えば外国人に教えるものとして再度意識的に学んだことがある方以外はとても無頓着なんですね。かくいう私も日本語の文法は的確に説明できません。でも、日本語は文法がテキトーだとも、逆に日本語ほど文法が複雑で繊細な言語はないなどとも決して言いません。

オリンピックのボランティアと大学連携協定について

参加要件が厳しすぎるとして話題になっていた東京オリンピックパラリンピックのボランティア募集ですが、大会組織委員会が要件を見直したというニュースに接しました。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180607/k10011468441000.htmlwww3.nhk.or.jp

※2018年6月14日追記:上記のニュース、現在は削除されてしまったようです。公式Twitterアカウントからもリンク切れです。

同じ内容の報道が時事通信には残っていますので、リンクを張っておきます。こちらもそのうち削除されるかもしれません。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2018060801193&g=spowww.jiji.com

募集要項の表現をわかりやすく見直した結果、「10日以上が基本で、連続での活動は5日以内が基本」となったのだそうです。交通費についても「一定程度を支給する」とのこと。う〜ん「そこじゃない」感が満載です。炎天下のタダ働きは基本そのままですし、募集要項の表現も依然分かりやすくはないですね。要するに「5日働いて1日休んでまた5日の繰り返し」ということかな?

例えば2020年の東京オリンピックは2020年7月24日(金)~ 8月9日(日)の17日間ですから「5日働く+1日休み+5日働く+1日休み+5日働く」のサイクルでちょうど収まりますね……って、違〜うだろ〜!(古い)

しかもこれが最終案だそうです。これではまたSNSあたりで「炎上」しそうですが、組織委員会はこのまま突き進むでしょうね。一般の方の応募は低迷するかも知れませんが、組織委員会には強い味方、大学がいます。私は今後大学生を中心とした学生への動員がかかるのではないかと危惧しています。実はすでに何年も前からその準備が進められており、組織委員会と連携協定を締結した大学がこんなにあるのですから。
tokyo2020.org

実際に大学が、組織委員会とどんな「連携協定」を結んでいるのか興味があって、ネットで検索してみたところ、たくさんの大学が誇らしげに「協定書」を掲げていらっしゃいました。こちらの画像検索結果はその一例です。

東京オリンピック 大学 協定 - Google 検索

拝見するに、協定書の内容はどの大学もほぼ同じようですね。例えばこちらは法政大学の協定書です。

f:id:QianChong:20140703163755j:plain
2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会 大学連携協定締結式が行われました|法政大学

「連携事項」にはこう書かれています。

1)人的分野及び教育的分野での連携
2)オリンピック・パラリンピック競技大会に関わる研究分野での連携
3)オリンピック・パラリンピック競技大会の国内PR活動での連携
4)オリンピックムーブメントの推進及びオリンピックレガシーの継承に関する連携

大学らしく教育・研究分野での連携も謳われていますが、逆に「オリンピックムーブメントの推進及びオリンピックレガシーの継承」といった抽象的かつ曖昧な表現も盛り込まれています。私が「ボランティアへの動員」について危惧するゆえんです。

しかし学生さんだって生身の人間ですから、酷暑の真夏、炎天下での「タダ働き」にも物理的生理的な限界はあるでしょう。もし学生さんたちが一般の方々同様に消極的な姿勢を示した場合、そしてその規模が予想以上に大きかった場合、大学側はかなりの窮地に立つような気がするのですが、各大学は連携協定の締結時にそれを予測していたのでしょうか。

おそらく各大学は、半世紀以上も前の東京五輪における前例を踏襲しただけという認識でしょう。みんなで五輪を盛り上げる、それのどこが悪いの? 前向きでポジティブで若者にぴったりの「ムーブメント」じゃないですか……って。ですが今は社会通念も学生の意識も全く異なっているのです。ましてや様々なメディアを通してオリパラの裏側も知れ渡っている。大きなお世話かも知れませんが、大学の担当部署はこの先修羅場を迎えると思います。

いや「大きなお世話」などという他人事ではないのでした。今朝、私が勤務している学校に来てみましたら、校舎の前にこのような大きな看板が。

f:id:QianChong:20180608072435j:plain

キタ〜!(超古い)実は、うちの学校も協定をしっかり締結しちゃってるんですよね(私は直接関係ない部門にいるんですけど、学校法人としては同じなんです)。私は前々から少しずつ根回し、もとい、注意喚起を行ってきましたけど、組織委員会が「最終案」を固めたいま、本格的に動員がかかってきたらトップダウンで学生さんたちにハナシが行くかもしれません。

特に私が担当している留学生のみなさんは、そのほとんどがマルチリンガル。「話せれば訳せる」という信憑が根強いこの日本にあって、安易に「通訳ボランティア」として使われないか心配です。もちろん参加不参加は個人の自由ですし、積極的に参加したいという留学生も中にはいるかも知れません。授業で聞いてみたらみなさん「その時期は夏休みで帰省してまーす」「タダ働きはイヤでーす」と頼もしいことを言っていましたが。

でも、気が進まないのに例えば単位などと引き替えにボランティアを、とか、教師も積極的に働きかけを、などという圧力がかからないかが心配なのです。生徒が出ないなら教職員が、とかね。いや、杞憂であれば本当にいいんですけれど。

Twitterでは「#Tokyoインパール2020」というハッシュタグが生まれています。私は今回の東京五輪を「インパール作戦」になぞらえるのは、確かにその無謀さにおいてその通りだなとも思うのですが、よそ様の国に迷惑をかけまくった同作戦でもあることですし、ちょっと不謹慎かなと思って使うのを躊躇しています。

一方で、もし本当に「動員」がかかったなら、これは現代の「学徒出陣」だなとも思います。奇しくも1943年(昭和18年)秋、明治神宮外苑競技場、つまり現在新国立競技場の建設が進むその場所で出陣学徒壮行会が開かれたんですよね。これも不謹慎のそしりは免れないかもしれませんが、私は「教え子を炎天下のタダ働きに送り込みたくない」です。ましてやそれが「話せれば訳せる」「通訳なんてボランティアで充分」という日本の社会通念を強化する類のものであれば、なおさら。

qianchong.hatenablog.com
qianchong.hatenablog.com

ううむ、ブログにこんなことばかり書いていたら、そのうち学校当局にも知れるでしょう。私がこの件に関するエントリを上げなくなったり、Twitterなどでつぶやかなくなったりアカウントが消えたりしたら、「きゃつもダークサイドに堕ちたな」と察してください。

ふたたび「煙のゆくえ」について

タバコを巡るアンソロジー『もうすぐ絶滅するという煙草について』を読みました。


もうすぐ絶滅するという煙草について

ちょっと〜、「タバコごとき」にウンベルト・エーコ様の書名を援用しないでほしいんですけど、写真を「ぐぐって」みると分かるように、当のエーコ様はどうやら愛煙家だったみたいです……ううむ、なんとも悲しいものがあります。

えー、閑話休題

この本には様々な視点・論点・述懐・嘆息……が並んでいますが、私がかねてからご指摘申し上げている通り、共通しているのはやはり「他者への視線の欠如」です。特に、日頃その書を敬愛し、愛読し、ほとんど私淑している数多の先賢明哲が、ことタバコに関してはなぜかくも愚かな論を弄するのかと天を仰ぎたくなります。ああ……おいたわしい限りです。

qianchong.hatenablog.com

とはいえ、物故者の「タバコ愛」には一掬の汲むべき点もあります。その時代の制約というものがあるからです。作家・開高健氏が「たばこ追放は魔女狩りである」とか「僕は身体の健康よりも魂の健康や」などと今となっては稚拙としか言いようのない論を展開していても、哲学者・池田晶子氏が「たばこを喫まず、酒も飲まず、野菜ばかり食べてジムへ通う。そういうツルンとした人々の姿が浮かぶ」揶揄し「その健康な人生は何のためのものなのですか」などと難癖をつけてきても、当時の常識や社会通念からすればある程度は無理からぬところもあるなと客観視して読むことは可能でしょう。

一方で、2018年の今、タバコに関する数え切れないほどの否定的なエビデンスが出揃った現代を生きる人間が、なおも愚にもつかない「タバコ擁護」を、それもひとかけらの他人への視線も憐憫も感じられない自己愛だけを語って正当化するのはちょっと看過できません。多くの筆者がこの本では「僕は身体の健康より魂の健康や」をパラフレーズし、あたかも勇ましい軍歌を高歌放吟するが如くに語り倒しているのは、なんなんすかー?

おっと、つい失礼な筆致になってしまいました。現代に生きる人々の文章も、その初出は必ずしも2018年の今ではないのですが、少なくともこの本への採録を許可した以上、現在も同様のご認識であると推測しつつ、いくつか「高歌放吟」の例を見てみましょう。まずは筒井康隆氏。

だいたい女性の多くには同情心が欠けていて「惻隠の情」なんてことも理解できぬ人が多い。煙草を喫わぬからではないかと思う。というのは嫌煙権を主張する男性にもそのての人物が多いからだ。嫌煙権運動の推進者に女性が多いのもうなずける。勿論小生、女性のすべてにこんなことを言うのではない。小生の見知っている女性はいずれもすばらしいキャラクターばかりであり、他人の喫煙にけちをつけたりしない。おれの吐いた煙をもう一度胸に深ぶかと吸い込んで「ああ。あなたの吐いた煙なのね」といって感激し目をうるませるのは強ち妻だけではない。
(同書125ページ/筒井康隆「喫煙者差別に一言申す」/初出は1994年『笑犬樓よりの眺望』)

「ご乱心」としか言いようのない妄言ですけど、あの筒井康隆氏だからとまるで麻生太郎財務大臣トンデモ発言を「麻生節」などと受容するような大手メディアの轍を踏んではいけません。青春時代に数多の筒井作品を愛読してきた私も、この文章には「ドン引き」ですよ。

この文章では他にも、他の命を食さざるを得ない人間の「原罪」だの、人は健康を気にするかわりに物事を深く考えず「演繹的」になるだの、激しい知的労働や精神的負担から起こる口内炎は喫煙ですぐ治るだの、様々な論を持ち出してタバコを擁護するのですが、すべてが「オレが、オレが」で他人への視線が全く含まれていません。「早死にしてもいいから喫煙を続け」るのは結構ですよ。それが他人への理不尽な抑圧を回避できている、あるいは完全とは言えないまでもできる限り回避しようという意思をお持ちであるならば。

お次は、池田清彦氏。

国民の健康を心配するなら、原発事故の汚染地帯をさっさと除染しろ。
この忙しいときに何を寝ぼけたことを言っているのかね。
私はたばこは吸わないけれど、人は自分の意思でたばこを吸って死ぬ権利があると思う。
余計なお世話だ。
(中略)
たばこを吸って命が縮むのがよしんば本当のことだとしても、それは平均値の話にすぎない。
人間の遺伝子型は人により様々で、ある遺伝子型は肺がんになり難く、ストレスに弱いことはあり得る。このタイプの人はたばこを吸った方が長生きできるはずだ。
こういうデータが出て禁煙原理主義者がオタオタするところを見てみたいね。
(同書139ページ/池田清彦「たばこ一箱を一〇〇万円にしてみたら?」/初出は2012年『アホの極み 3.11後、どうする日本!?』)

データが出ていないのに論を「はずだ」で断じるなど、生物学の博士号をお持ちの科学者とは思えない非科学的な論旨ではありませんか。「たばこを吸って死ぬ権利」と人権問題に持っていくのも常套手段ではありますが姑息な手法です。こっちとしては、何の面白みもありませんが「だったら他人のたばこの煙をムリヤリ吸わされずに死ぬ権利もあります」とお返しするしかありません。斯界の権威がこういう愚にもつかない論を展開するのは、一般人よりもさらにタチが悪いです。

もうお一人、内田樹氏。

私たちの社会からはすでに献酬の習慣が消えた。今また喫煙の習慣も消えようとしている。おそらく、遠からず応接室でお茶を供する習慣も、宴席で隣人のグラスに酒を注ぐ習慣も、煩瑣だから、無意味だから、あるいは健康に悪いからという理由で消えていくことだろう。けれども、共同体の存続よりも個人の健康を優先する人々が支配的になる社会において、人が今より幸福になると、私にはどうしても思えない。
(同書19ページ/内田樹「喫煙の起源について。」/初出は『BRUTUS』2005年3月15日号)

喫煙が「共同体立ち上げの儀礼」の名残などといってクロード・レヴィ=ストロースあたりを援用しつつ「リーダブル」な文章で語る内田氏。なに言っちゃってんのと申し上げるより他ありません。ここにはお茶やお酒を供する際の「他人への視線」が含まれていますが、それとタバコの煙を一緒にされる意味が分かりません。悪いけど、喫煙の習慣は消えても「応接室でお茶を供する習慣」や「宴席で隣人のグラスに酒を注ぐ習慣」は消えて行きはしませんよ。

共同体の存続と個人の健康を天秤にかける論旨にも首をかしげることしきりです。なおかつそれを人々の「幸福」とつなげて語るなど、これももうイデオローグと言ってもいいタチの悪さです。健康で幸福な個人が生きる共同体が存続していけば、それが一番いいに決まってるじゃん。

総じてこの本の多くの筆者は「健康」を嘲い、目の敵にしています。そんなに健康になりたいのか、で、何のための人生なのか、と。それこそ「余計なお世話」です。潤沢な資産も預金も、さしたる社会的な地位も名声もない、ましてや己の短命と引き替えに芸術や革命を語るような「ぶっとんだ」存在でもない市井の一個人にとって、健康はなにより大切ですよ。少なくとも、できうる限り健康でQOLを下げたくないと思っている他人に、制御不能なタバコの煙を吸わせる道理はひとかけらもありません。

上記のエントリにも書いたことですが、様々な人間が一緒に生きている社会の中で、現実的に折り合いをつけていくことは大切でしょう。私だって喫煙という一種の長い歴史を持つ「文化」が、今すぐこの世の中からなくなる、あるいはなくなってしまえ、と思っているわけではありません。少しずつ少しずつみんなが気持ちよく生きていける方向へ持って行くしかないでしょう。

ですが、ここに例示した方々のように、それを個人の芸風に落とし込んで斜に構えるだけで、ちっとも他者に、そして「煙のゆくえ」に想像を向けないのはとても不誠実な態度だと思います。人間は感情の動物ですから、ああこの方々は悩みつつも他者のことも考えて吸っているんだな感が行間から伝わってくれば、私だって多少の煙を吸わされても目くじら立てませんよ。

この本の中で「煙のゆくえ」に焦点を当て、「他人の吐き出したタバコの煙を吸い込む義理はない」ので、煙の出ないタバコを開発し、喫煙者には紫煙をくゆらせるのを我慢してもらえば「喫煙者の健康のためにも、ちょっとだけいいかもしれない」と語っていたのは、ロシア語通訳者で作家でもあった、故・米原万里氏でした。さすが! です。

小学二年生に圧倒されました

先日のお能の「温習会」、番組の一番最初は男性参加者による連吟「猩々」でした。お師匠がFacebookに写真を投稿されていましたが、ずらっと並んだ紋服姿のおじさんたちの前に、かわいい少年が一人座っているのがお分かりでしょうか。


f:id:QianChong:20180605232845j:plain

この少年は小学校二年生、当日が初舞台で「猩々」のシテ謡を謡ってくれました。いや、「くれました」などとエラソーに書いている場合ではありません。後列で謡っていた私は心底たまげました。少年の謡が力強く朗々としていて、それはそれは素晴らしかったからです。

こうした文脈で書かれる「少年の謡が素晴らしかった」に類する記述は、まあ何と言いますか、往々にしてお愛想であったり、微笑ましさを愛でる気持ちであったり、天真爛漫な子供の姿に目を細める大人の余裕であったり、総じて「上から目線」臭を巧みに隠蔽したものでありがちですが、いや、今回に限っては私、掛け値なしに「すごい、素晴らしい!」と思いました。

温習会が終わった後の反省会、もとい、懇親会で大先生(おおせんせい)、つまりお師匠のお父上から明らかにされたいきさつでありますが、くだんの少年は、大先生の出演する能のビデオを見てその虜になり、たまたま自宅が近かったということもあって直接「会いに行ってもいいですか」とのお手紙をしたためたよし。

そののち稽古場をたずねてきた少年に、お師匠が「ちょっとお稽古してみる?」と水を向けるや、嬉々として応じ、わずか数回のお稽古を経て先日の連吟「猩々」のシテ謡をあいつとめ……って、こうやってここまで書いていてもちょっと信じられないくらいの見事な上達ぶりです。

しかも謡だけでなく、彼は仕舞「安宅」も舞いました。私は以前「安宅」の舞囃子を舞って謡を覚えていたので地謡に入らせていただきましたが、冒頭の難しい間合いで始まる足拍子の踏み方からして完璧なその舞を見つつ謡いつつ、「すごいなー、すごいなー」と心の中で繰り返さざるを得ませんでした。

少年は連吟と仕舞を終えると、楽屋でさっさと着物と袴を脱ぎ、持参したリュックから本を取り出して読み始めました。小学二年生が寸暇を惜しんで読んでいたその本は『コロコロコミック』や『名探偵コナン』ではなく、なんと『能百番』でした。書中に大先生の写真を見つけて「あ、これ先生だ」って無邪気に話しかけちゃって、うわあ、オレだってお話ししたいのだ。少年よ、超羨ましいぞ。

実は大先生、先日の会で大曲「小原御幸」を舞われたのですが、その会を「見に行きたい」という少年に大先生は、小原御幸は動きもほとんどなくてとりわけ玄人好みの番組であるため、たぶん寝ちゃうと思われたのでしょう、「およしなさい」と伝えたそうです。ところが少年は最前列の席をおさえてきっちり鑑賞し(こうやって送り出す親御さんのご理解の深さにも感銘することしきり)、なおかつ終演後には「なぜ面は『小面』ではなく『増』なんですか」と質問したというんですから、もうホントですか。

子供が何かに夢中になっている姿を見るのは本当に心和むものですが、この少年の場合はちょっともう並外れています。末恐ろしい、いえ、このままお稽古を続けていった末が楽しみです。次の温習会にも参加してくれたらいいなあ(……っと、またちょっと「上から目線」に戻ってしまいましたね)。才能とご縁が幸運な出会いを果たすのを見ていると、こちらまで幸せな気持ちになります。

フィンランド語 9 …olla動詞の復習

名詞や形容詞の変化で青息吐息ですが、変化のパターンはまだ「ssA(〜中に/で)」「llA(〜の上に/で)」「t(複数)」の三つくらい。これから先もどんどん新しい変化が出てくるそうです。ただ、変化のさせ方は同じパターンなので、規則を覚えてしまえば逆に簡単(ということはないでしょうけど)らしい。また副詞は変化しないので、どんどん暗記していってくださいと先生からアドバイスがありました。

逆に英語のbe動詞にあたる重要な動詞「olla動詞」は主語や代名詞、あるいは過去形*1になった場合に変化し、その変化は必ずしも規則的ではないので、こちらをこそしっかり覚えてくださいともアドバイスが。もういちど復習です。

これ・あれ・それ

Tämä on … . これは…です。
Tuo on … . あれは…です。
Se on … . それは…です。

「これ・あれ・それ」は「私」でも「あなた」でもない三人称なので、olla動詞はすべて「on」。分かりやすいです。否定の場合は「ei ole」になります。

Tämä ei ole … . これは…ではありません。
Tuo ei ole … . あれは…ではありません。
Se ei ole … . それは…ではありません。

疑問の場合は主語とolla動詞「on」をひっくり返して、なおかつ「ko」がつきます。この「ko」は疑問の目印になりそう。

Onko tämä … ? これは…ですか?
Onko tuo … ? あれは…ですか?
Onko se … ? それは…ですか?

もうひとつ、否定疑問という場合があります。中国語の“不是〜嗎?”みたいです。否定文で使った「ei」が前に出て、なぜか「ko」が「kö」になります。この「ei」は否定の目印になりそう。

Eikö tämä ole … ? これは…ではないのですか?
Eikö tuo ole … ? あれは…ではないのですか?
Eikö se ole … ? それは…ではないのですか?

私・あなた・彼/彼女

(Minä) olen … . 私は…です。
(Sinä) olet … . あなたは…です。
Hän on … . 彼/彼女は…です。

一人称の「Minä(私)」と二人称の「Sinä(あなた)」はカッコ書きになっていますが、これはolla動詞の「olen」や「olet」を言えば人称は自ずから明らかなので省略されることが多いからだそうです。「on」は「Hän」以外に「Tämä」「Tuo」「Se」にもつきますから省略できないんですね。否定の場合も同じ理屈で省略が可能です。

(Minä) en ole … . 私は…ではありません。
(Sinä) et ole … . あなたは…ではありません。
Hän ei ole … . 彼/彼女は…ではありません。

疑問の場合は目印の「ko」がつきます。

Olenko (minä) … ? 私は…ですか?
Oletko (sinä) … ? あなたは…ですか?
Onko hän … ? 彼/彼女は…ですか?

否定疑問の場合は目印の「ei」が一人称と二人称でそれぞれ「en」「et」と変わります。私は「n」、あなたは「t」が目印になりそう。

Enkö (minä) ole … ? 私は…ではないのですか?
Etkö (sinä) ole … ? あなたは…ではないのですか?
Eikö hän ole … ? 彼/彼女は…ではないのですか?

複数形

nämä ovat … . これらは…です。
nuo ovat … . あれらは…です。
ne ovat … . それらは…です。

nämä eivät ole … . これらは…ではありません。
nuo eivät ole … . あれらは…ではありません。
ne eivät ole … . それらは…ではありません。

ovatko nämä … ? これらは…ですか?
ovatko nuo … ? あれらは…ですか?
ovatko ne … ? それらは…ですか?

eivätkö nämä ole … ? これらは…ではないのですか?
eivätkö nuo ole … ? あれらは…ではないのですか?
eivätkö ne ole … ? それらは…ではないのですか?

(me) olemme … . 私たちは…です。
(te, Te) olette … . あなたたちは…です。(「Te」は敬称で単数扱い)
he ovat … . 彼ら/彼女らは…です。

(me) emme ole … . 私たちは…ではありません。
(te, Te) ette ole … . あなたたちは…ではありません。
he eivät ole … . 彼ら/彼女らは…ではありません。

olemmeko (me) … ? 私たちは…ですか?
oletteko (te, Te) … ? あなたたちは…ですか?
ovatko he … ? 彼ら/彼女らは…ですか?

emmekö (me) ole … ? 私たちは…ではないのですか?
ettekö (te, Te) ole … ? あなたたちは…ではないのですか?
eivätkö he ole … ? 彼ら/彼女らは…ではないのですか?

過去形

tämä olin … . これは…でした。
tuo olit … . あれは…でした。
se oli … . それは…でした。

nämä olivat … . これらは…でした。
nuo olivat … . あれらは…でした。
ne olivat … . それらは…でした。

(Minä) olin … . 私は…でした。
(Sinä) olit … . あなたは…でした。
Hän oli … . 彼/彼女は…でした。

(me) olimme … . 私たちは…でした。
(te, Te) olitte … . あなたたちは…でした。
he olivat … . 彼ら/彼女らは…でした。

……大変です。でもまあ結構システマチックとも言えますね。「i」が過去形の目印になっていることがわかります。

f:id:QianChong:20180323144446j:plain

Missä te olette töissä ?
Me olemme töissä kirjakaupassa.

*1:フィンランド語には未来形はなく、以降の未来を全部含んだ現在形で表される、というのも初めて知りました。

ホワイトアスパラの炊き込みご飯

もうすぐ旬も終わっちゃいますが、この時期ヘビロテで作って全然飽きない「ホワイトアスパラ」の炊き込みご飯をご紹介します。ネットで色々なレシピが出ていますが、私はほんの少々和風にして「白だし」を隠し味程度に入れました。醤油系の味とバターはとても相性がいいですもんね。

仕事帰りでいつも寄っているスーパーで、極太のホワイトアスパラが売られていました。このかわいいパッケージも魅力的です。オランダ産で、防かび剤などを使っていないものだそう。

f:id:QianChong:20180517200615j:plain

皮は筋があって硬いので、柔らかい穂先を除いてピーラーで削ります。根元の堅い部分も数センチ切り落としました。

f:id:QianChong:20180517202810j:plain

アスパラを乱切りにします。

f:id:QianChong:20180517202924j:plain

白米二合に、白だし(大さじ1くらい)分を引いた水、乱切りにしたアスパラ、バターをど〜ん、さらに削った皮と切り落とした根元も上に載せます。皮から旨みが出るのだそうです。

f:id:QianChong:20180517203103j:plain

中火で炊き始め、沸騰したら弱火に落として10分程度、時々蓋を開けて水がほとんどなくなったら蓋をしたまま10分蒸らして炊きあがり。ル・クルーゼやストウブのような鋳物の鍋でご飯を炊くと、たいがい失敗せず、しかも短時間で炊きあがります。

f:id:QianChong:20180517210302j:plain

旨みのために入れておいた皮と根元を取り去って、下から全体を混ぜ起こします。

f:id:QianChong:20180517210504j:plain

仕上げに粗挽きの黒胡椒をふります(ホワイトアスパラの繊細な香りを楽しむためには、省略してもよいかもしれません)。洋風だけど、白だしのおかげでかすかに和風の炊き込みご飯になりました。このご飯はあれこれ入れず、ホワイトアスパラだけ大量に入れるのが美味しいです。

フィンランド語 8 … 単数と複数、そして「脚韻ふみまくり」

フィンランド語は人称代名詞が単数から複数になると、それに合わせてolla動詞も変化します。まあこれは他の言語でもよくありますよね。

人称代名詞

単数
minä olen … 私は…です。
sinä olet … あなたは…です。
hän on … 彼/彼女は…です。
複数
me olemme … 私たちは…です。
te / Te olette … あなたたちは…です。
he ovat … 彼ら/彼女らは…です。

この時、複数の二人称で人称代名詞が「te」と「Te」の二つ出てきます。この大文字の「Te」は敬称の人称代名詞(あなたさま、という感じですかね)で、なんと単数扱いなのだそうです。olla動詞は複数形でも単数。なおかつ「あなたさまたち」とでも言うべき敬称の複数はないのだとか。面白いですねえ。

疑問詞と指示代名詞

さらに、疑問詞や指示代名詞も単数と複数で形が違い、olla動詞も変化します。

疑問詞
単数
kuka on ? 誰ですか?  mikä on ? 何ですか?
複数
ketkä ovat ? 誰たちですか?  mitkä ovat ? 何たちですか?

「誰たち」「何たち」というのはなかなか新鮮な表現です。

指示代名詞
単数
tämä on … これは…です。  tämä ei ole … これは…ではありません。
tuo on … あれは…です。  tuo ei ole … あれは…ではありません。
se on … それは…です。  se ei ole … それは…ではありません。
複数
nämä ovat … これらは…です。  nämä eivät ole … これらは…ではありません。
nuo ovat … あれらは…です。  nuo eivät ole … あれらは…ではありません。
ne ovat … それらは…です。  ne eivät ole … それらは…ではありません。

名詞など

名詞も、例えば「猫→猫たち」のように複数形があります。複数形の作り方は格変化の「ssA」や「llA」でやったときと同じように、単語の最後に「t」をつけて表されます。

●「tyttö(少女)」に複数の「t」をつけてみる。
tyttö + t
①単語の最後は「ie子」以外なので不変化。
②最後の音節「ttö」に「kpt」があるので変化。t→tt
したがって、tytöt(少女たち)。

●「poika(少年)」に複数の「t」をつけてみる。
poika + t
①単語の最後は「ie子」以外なので不変化。
②最後の音節「ka」に「kpt」があるので変化。k→×
したがって「poiat」になりそうなのですが、「oia」が三重母音になってしまうので、「i」が「j」に変化して「pojat(少年たち)」となります。この「i→j」という変化で一番典型的なのが「poika」だそうです。

●「kissa(猫)」に複数の「t」をつけてみる。
kissa + t
①単語の最後は「ie子」以外なので不変化。
②最後の音節「ssa」に「kpt」がないので不変化。
したがって、kissat(猫たち)。

さらには、何と形容詞まで複数化します。日本語ではなんとも訳しようがないので複数形になっても訳語は同じですが……これもなかなか面白いです。

●「pieni(小さい)」に複数の「t」をつけてみる。
pieni + t
①単語の最後は「ie子」なので変化。外来語ではないので「i→e」。
②最後の音節「ni」に「kpt」がないので不変化。
したがって、pienet(小さい)。

●「kiva(素敵な)」に複数の「t」をつけてみる。
kiva + t
①単語の最後は「ie子」以外なので不変化。
②最後の音節「va」に「kpt」がないので不変化。
したがって、kivat(素敵な)。

こうして、指示代名詞も名詞も形容詞も複数形に変化するので、例えばこうした文ができ上がります。

単数
Tämä pieni kiva kissa on pöydällä.
この小さくて素敵な猫はテーブルの上にいます。

複数
Nämä pienet kivat kissat ovat pöydällä.
これらの小さくて素敵な猫たちはテーブルの上にいます。

kissa(猫)という名詞が複数になったのに呼応して、Tämä(指示代名詞=実は形容詞扱いだそう)、pieni(形容詞)、kiva(形容詞)、さらにはolla動詞ももちろん、それぞれ全部が「右に倣え」で複数形になるというわけです。しかも複数形の語尾「t」がついた部分は「ピエネット・キヴァット・キッサット・オヴァット」……みんな「t」で脚韻をふみまくり! 先生によれば、フィンランド語はこの脚韻を踏みまくるのが特徴的で美しいのだとのこと。

有名なフィンランドの民族叙事詩「Kalevala(カレヴァラ)」でもこの脚韻が美しく展開されるのだそうです。いつか読めるようになるのが楽しみです。

f:id:QianChong:20180321201602j:plain
Nuo monet mukavat kirjat ovat hyllyllä.

お能の稽古における一見相反するような指示

昨日は能の温習会の「申し合わせ」でした。「申し合わせ」については、the能.comの「能楽用語辞典」に簡にして要を得た解説が載っています。

能・狂言の「リハーサル」のこと。通常、上演当日の数日前に諸役が集まり、当日と同様の流れで行われる。面や装束は着けないことが多く、大鼓も楽器を用いず拍子をとるための扇(張扇)で代用する。よほどの大曲か、上演が稀な曲でなければ、申し合わせは一回だけである。略式には、当日の楽屋でシテとワキ、ワキとアイなどが関係する部分だけを申し合わせることもある。
申し合わせ (もうしあわせ)とは:the能ドットコム:能楽用語事典

能のお稽古を始めてから知って驚いたのですが、能の上演に際して、プロの能楽師の方々は出演者全員が集まって稽古したり、リハーサルしたり、公演直前の「ゲネプロ(本番同様に行う通し稽古)」をしたり……はほとんどないんですね。リハーサルやゲネプロにあたる「申し合わせ」は、上記の解説にもあるように衣装はつけませんし、みなさんほとんど稽古着か、ときには私服のまま参加されています。

それも最初から最後まできっちり行うというよりは、「じゃ、始めましょうか」という感じで始まり、時に部分を割愛して重要なところだけとか、いくつかのポイントについて確認して「こうこう、こういう感じで……」と軽く調整するだけとか、そんな「ノリ」です。

さらに言えば、本番当日も特にストレッチとか柔軟体操とか発声練習とか、演劇なら当然行いそうな数々の準備を、プロの能楽師の方々はどうやらほとんど行わないらしいんですね。私は大学で演劇研究部に属していましたが、劇場や舞台にやってきて、着替えてはい本番、という「ノリ」はあり得ませんでした。

これはつまり、プロの能楽師の方々が日頃からそれぞれ稽古を積み重ねていて、本番の際にはいつでも「待ったなし」で技芸を発揮できる状態に持って行っている、常に他の能楽師との「同期」が可能な状態に鍛錬ができているということなのでしょう。能楽は流儀によって細かい型や所作や詞章が細かく定められており、一見ジャズのセッションのようにも見え・聞こえるお囃子の音楽にも、実は精緻とも言えるほどの細かい決まりがあり、それに従って演奏されています。

とはいえ、では能が決まり事でがんじがらめの硬直した芸能かというとまったくそうではないのが至妙なところでありまして、そうした決まり事の大伽藍のような完成された体系の中で、それぞれの能楽師が稽古や鍛錬の末にたどり着いたその人にしかない個性が強烈に発揮されるのです。

いま私は「されるのです」などとしたり顔で書いていますが、正直、私はその「個性」あるいは強烈な何かに接した! と感じることができた体験はこれまでにそんなに多くはありません。ただ、何名かの能楽師の舞や所作に、確かにこちらが揺さぶられるようなある種の感動……というと何だか薄っぺらいですが、なんとも名状しがたい美や強さを感じたことはあります。お能が奥深く味わい深いゆえんでありまして、それをまた感じてみたいがために能楽堂へ足を運ぶのです。

……えー、一方で私たち「素人」の温習会ですが。

地謡がつくだけの「仕舞」は普段のお稽古と同じですから直前の特別なリハーサルは基本的にないのですが、「舞囃子」や「能」に挑む素人さん(私は今回「舞囃子」です)は、会の直前にプロの能楽の方々にもご足労いただいて「申し合わせ」が行われます。ここで師匠から最後の「ダメだし」やアドバイスがあることも多いです。

このアドバイス、常日頃のお稽古でも感じるのですが、一見それまでの指導とは真逆のことを言われることも多いです。例えば、お囃子の音をよく聞いてそこを外さないようにと言われたかと思えば、音を待って歌うのではなくその先で合わせるようにしなさいと言われるとか……。舞にしても、前に出る強さをと求められる一方で前につんのめりすぎることなく後ろに引く余裕をとか、雄大で大きなイメージを持ちつつも大雑把になりすぎず細部をきっちり抑えなさいとか……。

いま私は師匠の言葉を忠実に再現できておらず、一見真逆のことを言われるという一つの例示を行っただけなので実際にはこの通りのことを言われたわけではないのですが、とにかくお稽古をしていると、こうした相反する指示が同時に行われることがとても多いのです。能の舞とは演者が舞台上に単に佇んでいるように見えても、実は前に行く力と後ろに引く力が拮抗してギリギリ止まっていて内部には巨大な力が潜んでいる、それが存在の強さとなってこちらに伝わってくる、というようなものなのかもしれません。

私のような素人はとてもそこまでの身体技法を発揮できませんが、明日の温習会ではとにもかくにもまずはお囃子に乗ってきちんと舞い、拍子が踏めること、すべての型を基本通りに再現できることを目指したいと思います。「個性」? そんなの百年早いという感じです。

f:id:QianChong:20180602111743j:plain

しまじまの旅 たびたびの旅 50 ……シュノーケリングと岩礁ツアー

澎湖の滞在中、いろいろと観光のアドバイスをしてくださった宿のマネージャー氏から「浮潛(シュノーケリング)に行かない?」と誘われました。海で泳ぐのは大好きですが、シュノーケリングは未体験です。二つ返事で申し込みました。

f:id:QianChong:20170810091214j:plain

港に着いてカウンターでチェックインすると、ガイド兼インストラクターの青年(國立澎湖科技大學の学生さんが夏休みにアルバイトでやっているのだそうです)が今日の行程を説明してくれました。「そちらの“大哥”、中国語はわかります?」と唯一の日本人である私を気遣ってくれます。優しいですね。旅行社のウェブサイトはこちら(日本語もあります)。

藍色忘憂島一日遊 - 珊瑚礁旅遊 - 澎湖生態行程
youtu.be

高速クルーザーで、澎湖諸島の南にある将軍澳嶼の、そのまた先の無人島へ向かいます。無人島のそばにこの旅行社専用の「はしけ」が浮いていてツアーの拠点になっています。

f:id:QianChong:20170810094135j:plain
f:id:QianChong:20170810101957j:plain
f:id:QianChong:20170810103517j:plain

ここで各自シュノーケリングの用具やスウェットスーツなどを貸してもらい、まずはシュノーケリングの簡単な練習から。経験がある人はパスして、自由に泳いだり、デッキの上から飛び込みをしたり、泳がないで海風に吹かれながら読書したり、自由に過ごすことができます。

私は初心者なのでシュノーケリングの練習をしましたが、このデッキのまわりだけでも目を見張るような美しい珊瑚礁が展開しています。か・な・り、興奮しました。

ほかにも小さなモーターボートで引っ張るサーフィンや、無人島ミニツアー、景品が当たる抽選大会など、インストラクターのみなさんが盛り上げる盛り上げる。その一方で一人一人の参加者に中国語や英語で話しかけ、みんながそれぞれに楽しめるよう気を配っています。このあたり、台湾や中国の若い青年によく見られる「やさしさ」が遺憾なく発揮されています(うちの学校の留学生も似たような雰囲気)。

f:id:QianChong:20170810122152j:plain

お昼のお弁当が出まして……いよいよ本格的なシュノーケリングの開始です。このデッキからさらに沖へ出て、世界でも屈指の美しさを誇るという澎湖外洋の巨大な珊瑚礁を見に行くのです。スウェットスーツをか・な・り着慣れていない私。

f:id:QianChong:20170810171536j:plain

あいにく水中カメラを持っていなかったので、あのめくるめく「死ぬほど」美しい珊瑚礁の写真は撮れなかったのですが、こんなブルーの珊瑚を始め、色とりどりの熱帯魚や珊瑚が次々に目の前に現れて、本当に素晴らしかったです。

f:id:QianChong:20180601080355j:plain
https://www.excitingpenghu.com.tw/tours/idx_18

珊瑚礁を堪能したあとは、ちょうど引き潮の時刻になって、潮が満ちているときは見られない岩礁に上陸します。

f:id:QianChong:20170810161613j:plain
f:id:QianChong:20170810162755j:plain

岩場のくぼみに、小さな魚や海の生き物が数多く観察できます。インストラクターの青年がヒトデを手に乗せてくれました。

f:id:QianChong:20170810161848j:plain

youtu.be

この岩礁はその景観と学術的な価値の高さから、許可された人しか上陸できないそうです。この旅行社はかなり昔からこうしたツアーを企画・実施していて、その際に岩礁などの自然保護につとめ、ボランティアで清掃活動などをしてきた実績を評価されて、澎湖縣から特別に上陸許可をもらっているとのこと。「他の旅行社は船から眺めるだけですけど、うちはこうやって実際に目の前で体験できますから!」と胸を張っていました。

f:id:QianChong:20170810173452j:plain

帰りの船のデッキで、アイスキャンディーが配られました。疲れた身体に甘い物が沁みます。

f:id:QianChong:20170810181826j:plain

馬公の港に戻る途中、美しい澎湖の夕日を眺めることができました。

インストラクターの青年たちがとても明るくて元気で、こちらも本当に元気になり楽しめました。あああ、仕事をリタイアしたらこういう所で暮らしたいです……。

旅行社の老闆(ボス)が「日本人のお客さんはまだ少ないけど、これから増えるのを期待してる」と言うので、一緒に行った宿のマネージャー氏が私に「あんた、澎湖に移住して、この会社の専属通訳者になればいいじゃん」と言ったら、老闆から即座に「わはは、日本人なんて給料高くて雇えないよ!」と混ぜっ返されました。

フィンランド語 7 … 名詞に格語尾をつける(その2)

名詞に、「所格」の格語尾「-lla / -llä」をつけて「〜の上に/で」、「内格」の格語尾「-ssa / -ssä」をつけて「〜の中に/で」とする続きです。今日もいろいろなパターンを教わりました。

●「osoite(住所)」に格語尾「ssA」をつけてみる。
osoite + ssA
①単語の最後が「ie子」。先生からいただいた表では、最後が「e」の場合、「通常」と「例外」の2パターンがあり、「通常」は「e→ee」、「例外」は最後が「ee/ie/人名」の時で不変化。この場合は「通常」で、この変化の場合「kpt」は「逆転」の変化で「t→tt」らしい……(ややこしい)。というわけで語幹は「osoittee」。
②単語に「aou」があるので母音調和は「ssa」。
③したがって、osoitteessa(住所の中に/で=その住所に/で)。

●「tee(紅茶)」に格語尾「ssA」をつけてみる。
tee + ssA
①単語の最後が「ie子」。今度は最後が「ee/ie/人名」の「例外」で不変化。というわけで語幹は「tee」。
②単語に「aou」がないので母音調和は「ssä」。
③最後の音節「tee」に「kpt」があるけれども「kpt」の後ろの二つが母音の場合(あるいは最後の音節=単語の先頭の場合?)は不変化だそう。
④したがって、teessä(紅茶の中に/で)。

●「Puistokatu(公園通り)」に格語尾「llA」をつけてみる。
Puistokatu + llA
①単語の最後は「ie子」以外なので不変化。
②単語に「aou」があるので母音調和は「lla」。
③最後の音節「tu」に「kpt」があるので変化。t→d
④したがって、Puistokadulla(道の上に/で)。こういう複合語(Puisto/katu)の場合、後ろの単語だけ変化を考えればよく、前は関係ないそうです。

外来語と外国語の違い

●「Islanti(アイスランド)」に格語尾「ssA」をつけてみる。
Islanti + ssA
①単語の最後は「ie子」なので変化だが、「Islanti」は外来語なので不変化。
②単語に「aou」があるので母音調和は「ssa」。
③最後の音節「nti」に「kpt」があるので変化。nt→nn
④したがって、Islannissa(アイスランドの中に/で=アイスランドに/で)。

●「Århus(オーフス)」に格語尾「ssA」をつけてみる。
Århus + ssA
①単語の最後は「ie子」なので変化だが、「Århus」は外国語(≠外来語)なので「i」を足す。従って「Århusi」。
②単語に「aou」があるので母音調和は「ssa」。
③子音で終わっている外国語の場合「kpt」は不変化。
④したがって、Århusissa(オーフスの中に/で=オーフスに/で)。

●「NewYork(ニューヨーク)」に格語尾「ssA」をつけてみる。
NewYork + ssA
①単語の最後は「ie子」なので変化だが、「NewYork」は外国語(≠外来語)なので「i」を足す。従って「NewYorki」。
②単語に「aou」があるので母音調和は「ssa」。
③子音で終わっている外国語の場合「kpt」は不変化。
④したがって、NewYorkissa(ニューヨークの中に/で=ニューヨークに/で)。

外来語と外国語で変化が違うというのも面白いです。さらに「Venäjä(ロシア)」だけは「〜の中に/で」の時もなぜか「llA」を取るそうです(普通はssA)。長年ロシアの脅威にさらされてきた歴史を持っているから、ここだけねじれちゃったのかしら?

●「Venäjä(ロシア)」に格語尾「ssA」、ではなく「llA」をつけてみる。
Venäjä + llA
①単語の最後は「ie子」以外なので不変化。
②単語に「aou」がないので母音調和は「llä」。
③最後の音節「jä」は「kpt」がないので不変化。
④したがって、Venäjällä(ロシアの中に/で=ロシアに/で)。

疑問詞は名詞の格と同じ格をとる

例えば「どの都市?」は「Mikä kaupunki ?」ですが、「どの都市に(いる)?」だと疑問詞「Mikä」も「内格」の「Missä」になると。

Missä maassa Liisa on? どこの国にリーサはいますか?
Hän on Suomessa. 彼女はフィンランドにいます。
Missä kaupungissa? どこの都市にいますか?
Helsingissä. ヘルシンキにいます。

む〜。格変化、面白いけどなかなか複雑です。

f:id:QianChong:20180321163329j:plain

Twitterで起こる「発酵」

もう何年もTwitterを利用しています。理由のひとつは新聞やテレビや雑誌などとはまた違う種類の話題が頻繁に(あるいはそれらのメディアよりはるかに早く)飛び込んでくるのが面白いからです。また140字という字数制限の中で文章を書くことが自分の考えをまとめたり思考を整理したりするのに便利だからです。

f:id:QianChong:20180530084646p:plain
https://www.irasutoya.com/

tweet”は「つぶやき/つぶやく」と訳されていますけど、上記のような理由で私はあまり短い「つぶやき」はしないようにしています。昔はしていたんですけど、せっかくのSNSが単なる自分の感情を発散するだけの場所になってしまうのはもったいないし申し訳ないと思って。もちろん、いろいろと考えて書いたツイートだって、他人から見れば単なる「鬱憤晴らし」にしか見えない可能性はありますが。

Twitterには連続ツイートの機能もあって、これは140字で考えをまとめるというのと一見矛盾するようですが、使ってみるとこれまた考えをまとめるのにプラスの作用をもたらしてくれるような気がしています。私は文章を書くときに、あるテーマに沿って考えを深めて行きたいのに、視点が色々な方向に向き出して散乱・発散する、あるいは支離滅裂になっていく、さらには文がとめどなく長くクドくなっていくということが多いのですが、140字の字数制限がそれに抑制をかけてくれるからです。

というわけで私は、140字を超えて連続ツイートをするときにもなるべく一文がふたつ以上のツイートを跨がないようにしています。ちょうど現れてはすぐに消えていく(普通の文章のように遡って読み返せない)という制限が大きな特徴の字幕翻訳で、長い台詞を乗せるときにもふたつ以上のハコ*1にまたがって文章を書かないというルールに似ています。

以前は(続く)と(承前)を使って長い連続ツイートを書いていたこともあるのですが、これだと「すぐに支離滅裂になる」という自分の悪い癖が出るのでやめちゃいました。

連続ツイートで文章を書いていると、ときどき面白いことが起こります。話が自分でも予想していなかったような所に着地したり、自分自身でさえ新鮮だなと思えるような考えに行きついたりするのです。なんだか「発酵」して、思いがけず美味しいお酒ができちゃいました、みたいな。

コラムニストの小田嶋隆氏が「文章を書いているときの自分は、普段の自分よりちょっと頭がいい」というようなことをおっしゃっていました。頭の中であれこれ文章を練っていてもなかなか深まらないのが、ペンを取って(あるいはキーボードを叩いて)文章を書き進めていると、自分でも思いもよらなかったような視点や切り口やアイデアが紡ぎ出されてくる……といったような主旨だったと思います。

私にとってはこれが、140字制限で常に発散しないように注意しながら書く連続ツイートで起こっているような気がしています。といったって、まあ、別に大した意見を書いているわけでも、ましてや理論を紡ぎ出しているわけでもまったくなく、むしろ自分にとっての新しい発見くらいのものなのですが。

最近あった「発酵」は、語学の文法に関してでした。その日の仕事であったできごとを書いたこのツイートから……

……フィンランド語の先生が何気なくおっしゃっていた言葉をふと思い出してこのツイートに行きつきました。

その日にあったできごとを反芻しながらつぶやいているうちに、日頃の仕事でもやもやと意識の底を漂っていた文法軽視への違和感と、たまたま他の語学の教室で聞いた先生の軽いひとことが結びついただけですが、自分にとっては面白い化学反応のような感じがしました。こういうのが時々、ほんの時々ですが起こることが、Twitterの面白いところです。

このツイートは多くの方がリツイートしてくださいましたが、リツイートが増えると意味不明な、というか話の流れをあまり把握していないうちに「脊髄反射」されたようなリプライも増えます。いわゆる「クソリプ」です。私はクソリプ耐性が低いので、なるべく読まない・気にしないようにしています。Twitterは面白く有用なSNSですが、その影もありますよね、当然。

*1:画面に数秒間現れるひとつの字幕(たいがいは最長でも20文字程度の行が2行まで)をハコと呼び、台詞をハコに落とし込むことを「ハコを切る」と言っています。

お能の温習会

趣味でお稽古をしている「お能」ですが、今年も年に一度の温習会(発表会)が迫ってきました。年に一度ですからそれなりに気合いも入ってはいるのですが、なにせ仕事や家事に追われる毎日で、ろくに自宅で稽古もできません。まあ時間があったってそんなに大した稽古はできないのですが。というのは、自宅があまりにも狭すぎるから……。

f:id:QianChong:20180528215352j:plain

お能の舞台は三間(約六メートル)四方。お弟子さんの中には何とご自宅に練習用の能舞台を持っているという「超弩級」の方もいらっしゃるようですが、そこまで行かなくても温習会が迫ったこの時期、地域の公民館などを借りて「自主練」に励む方は多いそうです。私もかつてはダンススタジオの一室を借りて練習したこともありましたが、なかなか予約が取れませんし、時間に追われて落ち着かないですし、なによりお金がかかりすぎる……ということでもっぱら休日に自宅で練習しています。

自宅でといったって、単にリビングのテーブルや椅子を片付けて、天井から吊っているペンダントも取り外して、ほんの四畳半ほどのスペースを確保するだけですが。それでもまあ床がフローリングなので能舞台っぽい感触は得ることができます。あちらは総檜、こちらは合板ですけど。あ、でも足袋を履いてすり足を繰り返していれば、フローリングの掃除にはなります。

それはさておき、あまりにも狭いので数歩動くともう壁にぶつかります。お能の舞は基本的に直線あるいは曲線を描きながら進んでは曲がるということを繰り返すのですが(というとあまりにも大雑把ですが)、うちは狭いのでその曲がるところしかちゃんと練習できません。何足も進むところはその場で足踏みして「進んだつもり」に。他にも「舞台の隅へいったつもり」「真ん中へ戻ってきたつもり」、足で拍子を踏むところもあまり強く踏むと階下から苦情が来そうなので「踏んだつもり」……こういうのばかり繰り返しています。

自宅ではこれだけ制限があるので、実際に師匠とのお稽古で師匠宅の舞台に上がったり、今回のような「本番」で能楽堂の舞台に上がったりすると、広さや距離などの感覚が全く違うのでかなり戸惑うことになります。なおかつリアルスケールの能舞台には独特の雰囲気も漂っていますし。

普段は仕舞や舞囃子地謡やお囃子などはパソコンなどで音声を再生しているだけですが、本番は大音量の肉声や音が迫ってきます。これ、普段「見所(客席)」で見ている時より何倍も大きく力強く聞こえます。多分能舞台の屋根に反響しているからじゃないかと思いますけど、とにかくこれも独特の雰囲気を否が応でも盛り上げてくれます。

f:id:QianChong:20180510113733j:plain:w300

今回の温習会、私は連吟で「猩々」、仕舞の地謡で「安宅」「天鼓」「三輪」、舞囃子地謡で「羽衣」「清経」「高砂」、能の地謡で「杜若」、それに自分の舞囃子「龍田」で舞台に上がります。すべての謡を間違えずに謡えるかしら……というのもさることながら、舞囃子「龍田」に出てくる「神楽」の舞できちんと拍子を踏めるかしら、一時間以上もある能「杜若」でずっと能舞台に正座して、終演後に舞台から捌ける際、足がしびれずちゃんと立てるかしら、というのがいささか心配です。

番組(プログラム)はこちら。お能にご興味ありましたら、ぜひお出ましください。

qianchong.hatenablog.com
佳門会 | 喜多能楽堂

しまじまの旅 たびたびの旅 49 ……夜市と朝市

街中をあちこちバイクで見て回っていたら、すっかり日が暮れてしまいました。宿へ戻る途中、なぜか急に“鹽酥雞”が食べたくなって、スマホで検索してみると、帰り道によさそうな屋台があることを発見。さっそく向かいました。

f:id:QianChong:20170323185706j:plain

“鹽酥雞”はこんな感じの食べ物。屋台で鶏肉を中心に色々な具材を自分で選び、店員さんに渡すと細かく刻んであげてくれた上に、そのお店独特のスパイスをまぶして渡してくれます。一見「なんだこれ?」的外観ですが、これがビールによく合うのです。

台湾の屋台では、同じように具材を選んで台湾風の「おでんつゆ」で煮てもらう“滷味”というのがポピュラーですが、“鹽酥雞”はその揚げ物バージョンといったおもむきです。結構な人気店で、揚げる順番が回ってくるまで20分くらいかかるといわれたので、たまたまお向かいにあった“文澳祖師廟觀光夜市”をぶらぶらすることにしました。

f:id:QianChong:20170809203651j:plain

ここの夜市は、昔からある伝統的な夜市というより、空き地を利用して屋台を集めた体です。商店街や古い街並みから派生した夜市ではないので、そのお店は飲食店に限らず、服や雑貨や日用品や、様々な物が売られており、こんな「アトラクション」なんかも楽しむことができます。

f:id:QianChong:20170809204614j:plain

翌日の朝は、シュノーケリングに参加するため早起きして朝市に向かいました。

f:id:QianChong:20170810082856j:plain
f:id:QianChong:20170810083024j:plain

ここの朝市は地元の方に教えていただきました。馬公市内の中心部にほど近いですが、ちょっと分かりにくいというか、観光客はまず立ち寄らないだろうなという場所にあります。正式名称は“澎湖縣馬公市公所馬公市北辰公有零售市場”です。

f:id:QianChong:20170810083033j:plain
f:id:QianChong:20170810083017j:plain

ここの「粉もの系」朝ごはんを売っているお店、素晴らしい品揃えでした。これに温かい豆乳があれば、もう何もいりません。一緒に行った友人がここの女将さんと友達で、あれこれ買っていたら“燒餅”を一個おまけしてくれました。

f:id:QianChong:20170810083425j:plain

「もう何もいりません」といいつつ、友人が「ここの屋台の“金瓜麵猴”が素晴らしいの!」というので、ついつい食べてしまいました。“金瓜”はかぼちゃ。“麵猴”は「すいとん」みたいな食べ物です。慌ただしい雰囲気なので写真を取り忘れましたが、こちらのブログに詳しい説明と写真が載っています。

blog.xuite.net

海の街らしく海鮮もたっぷり入っていて、口コミ評価が高いのもうなずけます。澎湖の料理はどれも薄味ですが、この“金瓜麵猴”も「素材の味重視」でとても滋味深いひと碗でした。

筋トレが最強のソリューションである

大変失礼ながら、以前だったら絶対に手に取らないタイプの本でした。タイトル、装幀、イラスト、ぱらぱらっとめくってみたときの内容、ぜ〜んぶ。


筋トレが最強のソリューションである マッチョ社長が教える究極の悩み解決法


超 筋トレが最強のソリューションである 筋肉が人生を変える超・科学的な理由

特に最初に出た上の本など、内容はほとんどTwitterのツイート集です。SNSで評判になったので書籍化しましたという最近よくあるタイプの編集手法。帯には「痩せない 仕事× モテない うつ気味 →筋トレ」などと惹句が書かれていて、も、ホント、以前の私だったら一顧だにしなかった類の本でした。

……ところが。

これがもう、刺さる刺さる。特にこのトシになって原因不明の不定愁訴(いわゆる「男性版更年期障害」)に悩まされ、肩凝りと腰痛に苛まされ、やむにやまれずジムで体幹と筋肉のトレーニングを続けて九ヶ月ほど経とうとしている私にとっては、筆者の、やや芸人さんの「ネタ」に近いような短い言葉の数々が、ものすごい説得力を持って迫ってくるのです。

不定愁訴や肩凝りや腰痛など、絶え間ない不調がもたらすのは単に身体の不調だけではありません。気持ちまで落ち込んできます。暮らしのあらゆることが面倒になり、億劫になり、仕事にも積極的に取り組めなくなります。食事をするのも、本を読むのさえ大儀になってくる……そう、QOL(クオリティ・オブ・ライフ=人生の質・生活の質)が著しく下がってしまうのです。

qianchong.hatenablog.com

著者のTestosterone氏ご自身は、人々が「筋トレ」とか「ボディビルディング」という言葉から想像する人そのもののような「マッチョ」な人物らしいです。でも氏は、みんながみんなそれを目指す必要はないと繰り返し説いています。その人なりの生きる気力を高めてくれるような、そして健康で活き活きと暮らせるようなトレーニングのあり方を模索するように勧めます。

特に最近出た下の本(タイトルに「超」がついているほう)では、ご自身の「筋トレ推し」に科学的なエビデンスを与えるべく、スポーツ科学の研究者の解説に多くの紙面が割かれています。「ネタ」のツイートも入っているので、読んで見ようと思う方はこちらの本だけでもよいかもしれません。

それにしても……若いときは「健康」という言葉をことさら前面に押し出すのさえどこかに恥や衒いの感情があったものですが、今はもうハッキリと自信を持って「健康、大事だよ」と言えますね〜。特にこのトシ以降、今の健康を維持し続けることが「最強のソリューション」ですよ。そう、私のような年代の者にとって、筋トレするのは別に「マッチョ」になりたいわけでも「モテたい」わけでもなくて、ただただ普通に健康に暮らし続けて行きたいからなんです。

そしてそれは、言い換えれば、この先意識的に運動やトレーニングをして行かないと、老化への下降は止めどなく続いていくということでもあります。学生時代に有機農法の野菜を売る八百屋さんでアルバイトしていて、学校の同級生に「そんなに健康になりたいの? 長生きしたいの?」と揶揄されたことがあります。当時は「そんなんじゃねえよ」と混ぜっ返していましたが、今だったら堂々と言っちゃいますね。「そう。健康になりたい。長生きしたい。それが何か?」って。

フィンランド語 6 … 名詞に格語尾をつける

フィンランド語は名詞や形容詞が格変化し、格の数は単数複数合わせて30もあるそうです。おお……。

まずは名詞に、「所格」の格語尾「-lla / -llä」をつけて「〜の上に/で」、「内格」の格語尾「-ssa / -ssä」をつけて「〜の中に/で」としてみます。どう格変化させるのかを判断する手順は……

①単語の最後に「ie*1」があるかどうか。
②単語に「aou」があるかどうか。
③最後の音節に「kpt」があるかどうか。

……です。このほか「i」で終わる単語については、それが外来語であるかどうかの判断も手順に加わります。

●「katu(道)」に格語尾「llA*2」をつけてみる。
katu + llA
①単語の最後は「ie子」以外なので不変化。
②単語に「aou」があるので母音調和は「lla」。
③最後の音節「tu」に「kpt」があるので変化。t→d
したがって、kadulla(道の上に/で)。

●「pöytä(テーブル)」に格語尾「llA」をつけてみる。
pöytä + llA
①語幹の最後は「ie子」以外なので不変化。
②語幹に「aou」がないので母音調和は「llä」。
③最後の音節「tä」に「kpt」があるので変化。t→d。
したがって、pöydällä(テーブルの上に/で)。

Tämä on pöytä. これはテーブルです。
Pöydällä on kirja. テーブルの上に本があります。

●「metsä(森)」に格語尾「ssA」をつけてみる。
metsä + ssA
①単語の最後は「ie子」以外なので不変化。
②単語に「aou」がないので母音調和は「ssä」。
③最後の音節「sä」は「kpt」がないので不変化。
したがって、metsässä(森の中に/で)。

Tämä on metsä. これは森です。
Metsässä on talo. 森の中に家があります。

以下は「i」で終わる単語シリーズ。

●「tuoli(椅子)」に格語尾「llA」をつけてみる。
tuoli + llA
①単語の最後は「ie子」なので変化だが、「tuoli」は外来語なので不変化。
②単語に「aou」があるので母音調和は「lla」。
③最後の音節「li」は「kpt」がないので不変化。
したがって、tuolilla(椅子の上に/で)。

●「kassi(手提げ袋)」に格語尾「ssA」をつけてみる。
kassi + ssA
①単語の最後は「ie子」なので変化だが、「kassi」は外来語なので不変化。
②単語に「aou」があるので母音調和は「ssa」。
③最後の音節「si」は「kpt」がないので不変化。
したがって、kassissa(手提げ袋の中に/で)。

●「posti(郵便局)」に格語尾「ssA」をつけてみる。
posti + ssA
①単語の最後は「ie子」なので変化だが、「posti」は外来語なので不変化。
②単語に「aou」があるので母音調和は「ssa」。
③最後の音節「ti」に「kpt」があるので変化。t→d。だが、kptの前後に「s」がある場合は不変化。
したがって、postissa(郵便局の中に/で)。

●「Suomiフィンランド)」に格語尾「ssA」をつけてみる。
SuomissA
①単語の最後は「ie子」なので変化。i→e。(外来語ではない)
②単語に「aou」があるので母音調和は「ssa」。
③最後の音節「(mi→)me」は「kpt」がないので不変化。
したがって、Suomessa(フィンランドの中に/で)。

●「vesi(水)」に格語尾「ssA」をつけてみる。
vesi + ssA
①単語の最後は「ie子」なので変化。si→te。(外来語ではない)
②単語に「aou」がないので母音調和は「ssä」。
③最後の音節「(si→)te」に「kpt」があるので変化。t→d。
したがって、vedessä(水の中に/で)。

●「Japani(日本)」に格語尾「ssA」をつけてみる。
Japani + ssA
①単語の最後は「ie子」なので変化だが、「Japani」は外来語なので不変化。
②単語に「aou」があるので母音調和は「ssa」。
③最後の音節「ni」は「kpt」がないので不変化。
したがって、Japanissa(日本の中に/で)。

●「Helsinki(ヘルシンキ)」に格語尾「ssA」をつけてみる。
Helsinki + ssA
①単語の最後は「ie子」なので変化だが、「Helsinki」は外来語*3なので不変化。
②単語に「aou」がないので母音調和は“ssä”。
③最後の音節「nki」に「kpt」があるので変化。nk→ng。
したがって、Helsingissä(ヘルシンキの中に/で)。

なかなか大変です。が、とても機械的というか数式的で、これが徐々に身体に染み込んで自然にできるようになったら面白そうです。日本語でも「一本、二本、三本」が「いっぽん、にほん、さんぼん」と非母語話者には複雑怪奇としか思えない音の変化をしますよね。

これで例えば……

Minä olen Helsingissä. 私はヘルシンキにいます。

……という文章が作れます。名詞が格変化することで、日本語の「てにをは」を含んだような名詞になるんですね。

f:id:QianChong:20180323145619j:plain
Minä olen Helsingissä.

*1:iとeと子音。

*2:母音調和によって「lla」になるか「llä」になるか分からないので大文字の“A”を使ってこう書きます。

*3:何と首都名が、支配が長かったスウェーデン語由来なんですね。