インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

しまじまの旅 たびたびの旅 44 ……二崁古厝群聚

澎湖の西嶼をバイクでゆっくり南下し、“二崁”という村にやってきました。ここは伝統建築の集落が保存されている地区です。

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夏の観光シーズンですし、村の佇まいも観光客向けの看板などがあちこちにあるのですが、ご覧の通りほとんど観光客を見かけません。まあお昼のいちばん暑い時刻ですからね。

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こういう路地や、石積みの壁に「萌え」ます。

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「夏の台湾へ旅行に行く」と言うと、台湾の留学生からは「とにかく暑いですよ〜! なんでまた夏に?」と返されることが多いです。確かに暑いですけど、東京の酷暑、特にあの蒸し暑さに比べたら数段マシだと思います。台湾は、中国の北方のように湿度が低いというわけでもないのですが、なぜか東京のような不快な暑さではないのです。しっかり真正面から暑い、というか。

あとはまあ服装のせいでもありますね。東京だと多かれ少なかれ仕事モードですからそんなにラフな格好ができません。でもスーツは論外として、ビジネスカジュアルでも東京の夏はもう乗り切れません。東京はすでに亜熱帯か熱帯、いや、それとは全く違う独自の気候に突入していると思います。

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一軒だけお店が開いていて、冷たいお茶などを売っていました。たぶん夕方になって気温が下がってくれば、また観光客がどっと押し寄せるのだと思います。

外語や外国とは「健全」につきあいたい

フリーランスライターのふるまいよしこ氏がnoteに寄稿された、翻訳家・天野健太郎氏へのインタビュー、とても興味深く読みました。有料記事ですが、こういう出費は惜しんじゃいけません。

note.mu

天野健太郎氏の翻訳で私が最初に読んだのは、龍應台氏の『台湾海峡一九四九(大江大海1949)』でしたが、原著と読み比べてみて、その自由闊達で読みやすい訳文に驚いた記憶があります。例えば冒頭のこんな部分。

她才二十四歲,燙著短短的、時髦俏皮的鬈髮,穿著好走路的平底鞋,一個肉肉的嬰兒抱在臂彎裡,兩個傳令兵要護送母子到江蘇常州去,美君的丈夫是常駐常州憲兵隊長。


彼女は二十四歳。パーマをかけた短い髪はとてもファッショナブルだった。歩きやすいぺたんこの靴を履いて、腕には丸々と太った赤ん坊を抱いていた。二人の伝令兵がこの親子を江蘇省常州まで送っていく。彼女の夫がそこで憲兵隊隊長を務めているのである。


台湾海峡一九四九

ふるまいよしこ氏のインタビューに登場する天野氏の語り口は、自分が勝手に思い描いていたイメージとはちょっと違って「おれ」とか「〜なんだよね」と、いたってフランクです。有料記事ですからあまり引用するのは差し控えてここだけにしようと思います(ぜひ購入して読んでみてください)が、「自分のことを台湾に関わる日本人の「サードウェーブ」(第3の波)と呼んでいます。といっても、おれ一人なんですけど(笑)」とおっしゃるのも非常に興味深かったです。

今こうやって台湾と日本をつなぐ仕事についてるけれど、やっぱり日本と台湾の関係性とか全然興味ないんですよ。台湾人が何を考えてるかだけが直接知りたいの。特に日本が好きな台湾人とか、正直言って全然興味ないんです。

以前、台湾で“反服貿”の学生を中心とする運動が盛り上がった頃に、日本のネット空間で繰り広げられていた「中国憎し・台湾ラブ」ほんでもって「日本はダメダメ」的な、どこか上ずった主張の多さに違和感を覚えたことがあります。それとはまったくちがって、天野氏のこうしたある意味で「自分本位」な関わり方は、とてもストレートで素直で軽やかで、ちょっと口はばったい言い方になりますけど「健全」だと思います。

qianchong.hatenablog.com

以前、フランス哲学の専門家である内田樹氏が、かつて自分がフランス語の習得を志したのは「六〇年代の知的なイノヴェーションの過半がフランス語話者によってなされているように見えたから」であり「市井のフランス人に特段の興味があったわけではありません(今もありません)」と書かれていました。「台湾人が何を考えてるかだけが直接知りたい」とおっしゃる天野氏とは若干スタンスが違いますが、これも「健全」な関わり方だと感じました。

http://www.rpkansai.com/bulletins/pdf/025/097_104_Tableronde.pdf

もっとも内田氏は、上述の“反服貿”に関しては、かなり高揚した、かつての左翼学生運動のメンタリティを引きずったような現地からのレポートを無批判に支持していたりして、「あららら?」とずっこけちゃったのですが。

え〜、話を戻しまして……。

私も中国や台湾に長く(といってもまだ二十数年ほどですが)関わってきて、仕事でも色々な方とやり取りをする中で、少しずつ少しずつ天野氏や内田氏のような、自分の興味に素直に従い、なおかつ半歩ないしは一歩引いて冷静に対象とおつき合いするような態度を心がけるようになってきました。それは、こと中国や台湾となると、また外語となるとやたらに熱くなったり、建設的なお話がしにくいなと感じたりする方々に「うんざり」した結果でもあります。

ましてや中国や台湾や、その他広い華人社会・漢字文化圏の実相をほとんど知らないのに、ときに差別的であったりときにファナティックであったりする言動を、実社会やネット上で弄する日本の人々とはさらに距離を置きたいと思います。

私がいま日常的に顔をつきあわせている華人留学生のみなさんは、お若いだけあってそうした古くさい「弊」はあまり見られませんが、それでも時折「少々こじらせちゃってるかな〜」的な方がいらっしゃいます。私はそういう方を含めて留学生のみなさんに、せっかく「第三者的」な日本に留学しているのだから、この際いろんな見方を(賛同するにせよ批判するにせよ)試してみましょうよ、というスタンスで、授業を通して向き合いたいと思っています。

余談ですけど、これも天野氏が翻訳されて評判になった(2016年の本屋大賞「翻訳小説部門」で第3位に入っています)呉明益氏の『天橋上的魔術師(歩道橋の魔術師)』ですが、私が読んだ中国語版の帯には、天野氏の訳書の写真が惹句とともに載せられています。こういう形で「逆輸出」されるのも面白いですよね。

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しまじまの旅 たびたびの旅 43 ……人影のない風景とウニの含有率に癒やされる

二度目の澎湖旅行ではバイクを借りました。馬公空港近くのレンタルバイク屋さんが空港まで車で迎えに来てくれて、とても便利です。連絡している間にどこでどう間違ったのか「ドイツ人観光客」だと思われていて、なかなかレンタルバイク屋さんと落ち合えなかったというちょっとしたハプニングはありましたが(私の名前に「德」の字が入っているのが、「德国人(ドイツ人)」と間違って伝わった模様)……。

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夏の観光シーズンで、観光客も多いのですが、郊外に出ると人影はあまり目立ちません。

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内海の向こうに馬公の市街地が蜃気楼のように見えています。

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とにかく360度見渡す限り人影がないというこの風景が、いつも満員電車に揺られて通勤している身体にとことん沁みます。

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昔は海外旅行といえばとにかく雑踏が好きで、猥雑な雰囲気が好きで、人混みに紛れるのが好きだったんですけど、いまはこういう誰もいないところばかり好んで行くようになりました。台湾の留学生にその話をしたら「何が面白いんですか」と言われましたが。

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澎湖跨海大橋を渡って、西嶼鄉のいちばん北にある小門嶼まで来ました。

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ここでお昼ご飯。ちょっと早い時間だったので、唯一営業していたこのお店に入ってみました。

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メニューを眺めていると、“小管乾滷肉飯”というのがありました。台湾B級グルメの代表格“滷肉飯”の豚肉を“小管”と呼ばれる小ぶりのイカに換えたものです。珍しいのでこれを注文。それと“海膽炒蛋(ウニのタマゴ炒め)”。

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イカの“滷肉飯”もなかなか美味しかったですが、このタマゴ炒めがもう……全体に黄色くて何だかよく分かりませんが、ウニの「含有率」が半端ではありません。とても贅沢なタマゴ炒めでした。

しまじまの旅 たびたびの旅 42 ……澎湖の「石滬」

台北松山空港から澎湖の馬公空港まで、かわいいイラストのプロペラ機で飛びました。近くの席に日本人の親子四人家族が座っていましたが、ここんちの子供がとても行儀が悪く、騒いだり椅子の背を蹴ったり物を投げたりやりたい放題。それでも若いご夫婦は旅のプランの検討に余念がなく、まったく注意しません。まわりの台湾人乗客も迷惑そう。ついに私が意を決してたしなめましたが、ご夫婦は「ふん」と言っただけで改善が見られませんでした。

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ひとさまの国にやってきたら「旅先の恥はかきすて」とばかりに羽目を外すのではなく、逆に日本にいる時の七掛けか八掛けくらいに行動を自制しましょうね。

……と、窓の外に澎湖諸島が見えてきた途端、おバカ一家(失礼)のことなど脳裏から吹っ飛んでしまうほどの絶景が目に飛び込んできました。“石滬”です。これは遠浅の海と潮の満ち引きを利用して、魚を袋小路状になった岩の壁の奥深くに誘い込んで捕るという、この地方独特の「しかけ」です。

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雙心石滬

上にある写真は七美島の「それ」で、ダブルのハートに見えることからカップルが記念撮影をすることで有名ですが、プロペラ機の窓から見えたのは、それより遙かに巨大で、しかもおびただしい数が集まっている光景。こんなに大規模な「施設」だとは知りませんでした。

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こちらの写真は、國立澎湖科技大學が「石滬」の詳細な調査を行った報告書にあるものです。
拓展台灣數位典藏 » Blog Archive » 國立澎湖科技大學「數位典藏-澎湖石滬形式與文化(Ⅲ)」數位化工作流程

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こちらは「石滬」の見学ツアーや海上アクティビティなどを提供している民宿によるもの。
北海水上活動、石滬體驗 | 野居渡假民宿

いずれもその巨大さが分かると思いますが、実際にはもっとおびただしい数の「石滬」が海の上に並んでいます。その風景はもちろん、人力でこれを作っちゃうという点も含めてあまりにすごいので、写真を撮るのを忘れました。

上記の國立澎湖科技大學によると、澎湖諸島周辺にはこれだけの「石滬」が点在しているそうです。

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國立澎湖科技大學「數位典藏−澎湖石滬形式與文化(�V)」數位化工作流程 - Google 検索(pdfファイルです)

七美島にはまだ行ったことがありません。次の旅ではぜひ行ってみたいと思います。あと上にある民宿の「石滬ツアー」も参加してみたいです。

おじさんとキツネのにおい

満員電車が苦手です。あの他人と身体が密着して身動きできない状態になるのが何とも苦しいのです。物理的に身体が接していなくても、人が多い場所に行くと「人圧」とでもいうべき人の圧力を感じて息苦しくなるので、これは若干心の病も入っているのではないかと思っています。

加えて、これも心の病の範疇かもしれませんが、最近は「におい」にも敏感になって少々まいっています。若い頃からタバコの煙がきらいで、これはまあどなたも同じかもしれませんが、私は何十メートルも離れたところで座れているタバコ臭にも敏感に反応してしまいます。だもんで、ずいぶん前方にいる方が「歩きタバコ」をしている場合、そこまで走っていって追い抜き、しばらく走ってからまた歩く……という、大変に疲れる行為を繰り返しています。

こんなに敏感なのはやっぱり「ビョーキ」なのかしら、と思っていたら、先日の東京新聞にこんな投書が載っていました。

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いえいえ、信じられますよ。私もそうだもの。タバコのにおいで不快な思いをしたくないがゆえにタバコのにおいに敏感になり、感覚が研ぎ澄まされ、ますます遠くのにおいまで「察知」できるようになってしまったという悲しい結果に。

感覚を研ぎ澄ますといえば、かつてワインの勉強をしていた頃、ワインの香りをかぎ分けてその特徴を分析するという訓練を行っていました。そのために様々な果物や植物や鉱物や、さらには悪臭まで、何十種類もの香りのサンプルセットを購入し、香りの特徴を身体に覚えさせ、様々なワインをブラインドテイスティングし……ということを繰り返していたのです。

wineac.jp

そこまで訓練して資格まで取ったワインでしたが、なんと、歳を取ってあまり飲めなくなってしまいました。その一方で「研ぎ澄ませちゃった」香りに関する感覚だけはしっかり残っていて、それがいま「におい過敏」で自分を悩ませているという……なんとも皮肉なものです。

「におい過敏」でもうひとつ困っているのが「体臭」です。体臭なんて多かれ少なかれ誰でもあるもので(日本の方は比較的少ないと聞いたことがありますが真偽のほどは定かではありません)、プライベートな空間はともかく往来に出たら仕方のないことかもしれませんが、これも昔からかなり苦手でした。

若い頃、一時期勤めていた出版社を辞めたのは、もちろん転職して他の仕事に就くという目的もあったのですが、もう一つ、上司の体臭が我慢できないほど強烈だったのも理由のひとつでした。たぶん「わきが」と「タバコ臭」が混じったものだったと思います。同僚ともその件では「におうよね」と確認し合っていたので私だけが気にしていたわけではないと思いますが、他の同僚は会社を辞めるほどではなかったところを見ると、やはり私が過敏だったのかもしれません。

しかし最近は、満員電車はもちろん、駅の構内やスーパーなどの人が多い場所でも、他人の体臭が気になるようになってきてしまいました。最近気になるのは「わきが」と「タバコ臭」に加え、いわゆる「加齢臭」というやつです。

加齢臭なんて、ここ十数年ほどの間に人口に膾炙してきた言葉ですから、言葉ができたためにその存在を意識するようになったという、うんこれは極めて哲学的な課題であり、ハイデガーが言うところによると……とぶつぶつ言っていたら、細君が「あたし、何十年も前から、そう子供の頃から『加齢臭』を感じてたよ。電車通学だったから。『おじさん臭』って言ってたけど」。おじさん臭! 子供の頃にそれを意識したことはありませんでした。女性の方がにおいには敏感なのかしら。

閑話休題

ともかく、そのあちこちから漂う加齢臭が敏感に察知されるようになってしまったのです。ふとしたすれ違いざまに、角を曲がったとたんに、エレベータの扉が開いた瞬間に……。ひょっとして、当の自分から「加齢臭」がしているのではないかとさえ疑いましたが、どうやらそうではないもよう。

さらに先日など、全席指定の映画館(しかも満員)で、お隣に座った紳士が「加齢臭holder」でした。最初は我慢していたのですが、映画に集中できず、かといってその紳士に何かを申し上げてもどうなるものでもなく、仕方なく途中で退席してしまいました。

「わきが」もかなり苦手です(得意な方はあまりいないと思いますが)。特に夏に向かうこの時期から、私の「わきがsensor」(どんどん新しい言葉が紡ぎ出される)はその感度を大いにあげてくれちゃいます。これはなぜか女性が多くて、でも見知らぬ他人はもちろん、身近な人びとにだって「それ」を指摘するのはまず無理ですよね。往来ならともかく、会議室とか教室で一定時間同じ場所にいなければならない状況で、「それ」の方がいらっしゃるとかなりしんどい。でもまあ、タバコ同様、「持ちつ持たれつ」の人間社会ではある程度仕方がないことなのかもしれません。

ちなみに、ワインの香りを勉強した時に知ったのですが、ワインの香りの一種に「狐臭(foxy flavor)」というのがあります。ワインの原料になる葡萄の品種には大きく分けて「ヴィティス・ヴィニフェラ種」と「ヴィティス・ラブルスカ種」があって、前者はシャルドネ種やピノ・ノワール種など主にワイン用の品種で、後者はコンコード種やキャンベラ種など主に生食用の品種です。

基本的に、ワイン用品種の「ヴィニフェラ」は生食するとあまり美味しくなく、逆に生食用の「ラブルスカ」はワインの醸造にはあまり向かないとされています。そしてよくない香りに分類されている「狐臭」は実は、この生食用の「ヴィティス・ラブルスカ種」の葡萄で醸されたワインに特徴的な香りなのです。

この香り、市販の葡萄ジュースなどでも「ああ、これこれ」と分かるくらいはっきりしています。しかし「わきが」のにおいとはまったく別物です。なぜ「狐臭」というのかも不思議ですよね。キツネを実際に嗅いでみたら、ヴィティス・ラブルスカ種の葡萄で醸したワインの香りがするのかしら。それとも「イソップ童話」にある「キツネと酸っぱい葡萄」の話に何か関連があるのでしょうか。

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https://www.irasutoya.com/

ところが。中国語では「わきが」のことを“狐臭(húchòu)”というのです。彼の地のキツネは、葡萄やワインの香りではなく「わきが」のにおいがするのかしら。中国語の“狐臭”と、ワイン用語の“foxy flavor”は関係があるのでしょうか。……う〜ん、混乱してきました。

ネットを検索してみたら、こんな文章が見つかりました。

www.storm.mg

かいつまんで言うと、“狐臭”はかつて“胡臭(húchòu)”と言われていたこともあり、古代中国の人々が異民族の体臭として認識していた言葉だったようです。確かに“胡”は古代中国においては北方・西方民族(広く外国人)に対する蔑称ですもんね*1。要するにこの記事にもあるように異民族の体臭を忌避するという「民族への蔑視」的なところから生まれてきた言葉で、それが同じ発音の“狐臭”に変化したということなのかな。

満員電車の「人圧」から、なんだか思いもよらない所に流れ着いてしまいました。

*1:現代には“胡”という姓の方はいっぱいいらっしゃるので申し訳ないんですけど、この字はわりとネガティブな(それも異民族蔑視の結果でしょうね)響きを持っています。日本語でも「胡乱(うろん)」とか「胡散(うさん)臭い」などという言葉がありますね。

しまじまの旅 たびたびの旅 41 ……阿給と雪花冰

馬祖列島にお別れして、今度は澎湖諸島へ飛びます。とはいえ直行便はないので、いったん台北へ戻ってきました。眼下に基隆の街が見えます。馬祖から一直線に台湾本島へ近づいたプロペラ機は、基隆の上を通り越した先で大きく迂回し、松山空港へ着陸するようです。

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澎湖へ飛ぶプロペラ機の離陸時間まで半日あったので、淡水へ出かけました。勤務先にいる淡水出身の台湾留学生から「アゲ、食べてください、アゲ!」とお勧めされていたからです。

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アゲは“阿給(アーゲイ)”と書かれる食べ物ですが、日本語の「揚げ(油揚げ、厚揚げの揚げ)」から来ているそう。がんもどきのような外見で、中に春雨を中心とした具がたっぷりつまっており、甘辛いタレがかかっています。

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このお店はジェイ・チョウ周杰倫)が通っていた淡江高中(高校)のそばにあって、かつてジェイ・チョウもよく食べに来ていたとかなんとかで有名なお店だそうです。というわけで、地元の方の他に観光客もかなり詰めかけていました。それでも回転が速いので、すぐに食べることができました。

もうひとつ、夏の台湾といえばマンゴーかき氷でしょ、ということで、こちらのお店へ。かき氷とはいえ、ただの氷ではなくて、ミルクアイスを削った“雪花冰”です。氷もマンゴーもかなりのボリューム。さらに上にマンゴーアイスまで。お隣に座っていた台湾人の若い男性二人組は、一つ注文してスプーンを二本とり、仲良く分けて食べていました。こういう食べ方、台湾の方はよくやりますよね。

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美的センスに欠けた写真ですが、こちらは“冰果天堂”というお店。かき氷などの甘味の他に、麺類などの軽食も出しています。日本でも甘味屋さんでラーメンなど食べられるところがありますが、そんな感じ。でも店内のインテリアはとてもおしゃれな現代風です。

こちらのお店は「にじいろ台湾」さんのサイトで知りました。こちらのサイト、ほかにも楽しい台湾情報満載で、いつもお世話になっています。おすすめです。

台北在住6年で出会ったおすすめマンゴーかき氷ベスト5!
kazukimae.com

かくも脆くかつ強靱な知性

那覇潤氏の『知性は死なない』を読みました。與那覇氏といえば、六年ほど前に当時話題になっていた『中国化する日本』を読んでとても興奮したことを思い出します。何というか、たたみかけるような勢いというか「グルーヴ感」みたいなものがあって新鮮だったのです。


知性は死なない 平成の鬱をこえて

その後、氏が「うつ」を発病し、長い闘病生活に入っておられたことは知りませんでした。本書には、その闘病の記録とともに、「うつ」についての基本的な知識や、世間に流布されているよくある誤解についても一章が割かれています。

とはいえ、この本の白眉は書名にもあるように、精神の病である「うつ」を患ってもなお尽きることのなかった「知」への欲求と、その結果示された厳しくも優しいまなざしです。昨今、天皇の退位をめぐって「ひとつの時代の終わり」というくくり方で世相や社会情勢を切り取るものいいが散見されるようになりましたが、この本ではその「平成時代」の総括が、氏自身のかつてと現在を自ら比較検証するような形で示されています。

そしてその射程は、平成の三十年間にとどまらず、戦後のからの世界秩序、民族と宗教、言語と身体、政治思想、反知性主義、さらには「ポスト平成」のゆくえにまで及んでいます。かつての自分に対する批判も含めて展開されるそれぞれの論考からは、まさに書名通りの強靱な知性が脈打っているのを感じることができます。

正直に申し上げて『『中国化する日本』は、面白くはあったけれど、どこか高みから睥睨するような、でもそれを軽い口調で糊塗しているような、一種の“書呆子(本の虫、というか頭でっかち、というかインテリを軽く揶揄するようなニュアンスの中国語です)”臭を感じました。でもこの書ではそうした雰囲気は消え、より深く、繊細で、落ち着きを持った語り口になっています。

とはいえ決して難渋というわけではなく、とても分かりやすく論旨が伝わってきます。あとがきに、「もういちど自分が本を書けるようになるとは、思いもしませんでした」と書かれていますが、自らの知をここまでの高みに「再構築」された氏の営為に心から敬意を表したいと思います。

以下、本書の「メインストリーム」の論議ではないのですが、個人的に心に残って付箋を貼った箇所をいくつか。

「言語は理性に近く、感情は身体に近い」という先の結論について、もういちど考えてみましょう。教育や研究のような「理性」を標榜する生業にかかわっているばあいはとくに、こう聞くと言語のほうが身体より高尚なもので、人間の営みとして一段上だと感じるかもしれません。
 しかし大学の教員をしてみてわかりましたが、ことばというのはじつにたやすく理性をうらぎります。(中略)要するに、何となくあいつムカつく、という身体的な感情が先にあれば、それを正当化してくれることばなんて、いくらでも後からあふれてくるのです。

これはTwitterなどのSNS上でもよく見られる光景です。言葉にすることで感情がどんどん昂ぶり、理性を失っていく。それでも與那覇氏は「言語か身体のどちらかを悪者にしたてても、問題は解決しない」と言っています。「両者の関係が機能不全におちいるメカニズムを探求することでしか、私は私自身の病を理解できないのではないか」と。

また、かつて「大学で学べるいちばん大事なこと」という問いについて「私のばあいは、それは『日本語だ』」と答えていたという部分。

 いまさら日本語かよ、ときみたちは思ったかもしれない。でも考えてみてほしい。ここに30人くらいの人びとがいるわけだが、そのなかでいますぐすっと手をあげて、どうどうと私に質問ができるという人が、どれだけいるか。(中略)
 つまり大学とは「日本語上級」の専門学校だ。それにつきる。しかし、そうはいってもずっと語学の授業つづきというのでは、きみらもげんなりだろう。
 だから、日本語のスキルをあげるためにつかう材料は、自分の趣味にあうものを選んでもらっていい。アメリカ政治でも、英文学でも、フランス絵画でも、ドイツ哲学でも、中国経済でも日本史でもいい。自分のいちばん好きな素材で、議論をさせてくれる学部や学科に入ったらいい。
 だけど、それらはあくまでも材料であり、手段なんだ。目的は、「自分が正しいと思う意見を、人前でもビビらずにいえる」・「しかしちがう意見も聞いて、まちがえたと思ったら修正できる」・「自分を卑下することなく、わからないことについては質問できる」、そういった意味での日本語能力の習得だ。それを忘れないでほしい。

現在の與那覇氏は、こうした言語への掛け値なしの信頼を自ら諌めてもいるのですが、私も語学業界に片足をつっこんでいる者として、このある意味大胆で思い切った指摘はどこか胸のすく思いでした。後段で「目的」として例示されている日本語能力は、いわば自らの物の見方や考え方をきちんと構築する、ということですよね。語学に限らず、大学での学業がなかば就職のためのスキル獲得という側面に強く引っ張られつつある昨今、この指摘は本当に大切だと思います。

“語言天才”の“語言精華”に接して

先日の東京新聞朝刊に、こんな記事が載っていました。

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“相聲”は中国版漫才と紹介されていますが、二人で演じるものの他に一人や三人以上という場合もあります。いわば「ピン芸」や「スタンダップコメディ」や「コント」などを包括した話芸のひとつですが、芸能のスタイルとしては「なんでもあり」よりは「伝統的」なスタンスが強い、とても高度な言葉の芸術で、中国人はよく“語言精華”などと形容します。

ネットの動画サイトには西田氏の映像が数多く上がっているので視聴してみたら、すごく流暢な中国語です。外語として中国語を学んでこんなレベルに達するというのは、ご本人の並々ならぬ努力もさることながら、これはもう、やはり中国人がよく口にする“語言天才(語学の天才)”でもありますね。持って生まれた音感などの才能も大きく寄与していると思います。

外語として中国語を学んで、“相聲”で“語言天才”といえば、押しも押されぬ第一人者であるカナダ人の大山(Mark Henry Rowswell)氏がいます。この方は私が中国に留学していた二十年ほど前でもすでに大人気で、その極めて流暢かつ“地道(本格的)”な中国語に圧倒されました。

youtu.be

もうお一人、外国人として中国語を学んで、芸能の世界で活躍している方といえば、京劇俳優の石山雄太氏がいます。以前某所で氏の講演を聞いたことがありますが、この方も極めて流暢な中国語を話されていました。

japan.people.com.cn

また「経歴詐称」などと報道された後は表舞台から退かれてしまったようですが、かつて「中国で一番有名な日本人」として講演やテレビ番組への出演、中国語による著作などで活発に活動されていた加藤嘉一氏も並外れた中国語の遣い手です。

youtu.be

日本人が中国語を学ぶと、とかくその発音の拙さが「笑いのネタ」になる(実際に“相聲”で「それは日本人の発音だよ」という突っ込みに遭遇したこともあります)のですが、こうした「達人」のみなさん(大山氏はカナダ人ですけど)の活躍に接すると、おお、自分も頑張ろうと思えてくるではありませんか。

ただし……これらの「達人」は努力の人でもありますが、一種の芸術家でもあり、“語言天才”でもあります。私たち(と他の方を一緒くたにするのも失礼ではありますが)凡人が真似をして到達できる境地ではなく、また必ずしもそこを目指さなくてもよいのではないかと思います。

語学は、もちろん流暢であるに越したことはありませんが、流暢さや、あるいはもっと卑近な言葉でいえば「ペラペラ」を目指す前にもっと大切なことがあります。それは自分の中に自分なりの「物の見方や考え方」が母語によって培われていることです。その「物の見方や考え方」が、語学の学習を通してより深く豊かになり、多層的多面的になる……というのが外語学習の最大の「実利」ではないかと思うのです。

英米文学翻訳者の泰斗であり、訳文の闊達さでも知られてい」た(ウィキペディア中野好夫氏は「外国語の学習は、なにも日本人全体を上手な通訳者にするためにあるのではない」と書き、そのあとにこう続けています。

それではなんだ。それは諸君の物を見る眼を弘め、物の考え方を日本という小さな部屋だけに閉じ込めないで、世界の立場からするようになる助けになるから重要なのだ。諸君が、上手な通訳になるのもよい。本国人と区別のつかないほどの英語の書き手になるのもよい。万巻の知識をためこむもよい。それぞれ実際上の利益はむろんである。しかし結局の目標は、世界的な物の見方、つまり世界人をつくることにあるのである。
(英語を学ぶ人のために:1948年)

とかく「ペラペラ」とか「ネイティブ並み」という言葉が惹句に使われる語学業界ですが、上掲の「達人」のような努力をせずにへたに真似ると「大火傷」をするかもしれません。皮相的な流暢さと本当の意味での外語の達成は似て非なるものであり、それは大変僭越ながら「達人」の方々にとっても達成し続けることが必ずしも容易ではない、引き続いての課題であり続けるのだと思います。

qianchong.hatenablog.com

「泣いて/笑ってごまかす」について

先週日曜日、TBSの番組『サンデーモーニング』で、評論家で多摩大学学長でもある寺島実郎氏が、元財務省事務次官福田淳一氏のセクハラ問題に関してこんなコメントをされていました。YouTubeに音声が上がっていた(https://youtu.be/xi2tcFmy7uo)ので、ちょっと長いですがGoogleドキュメントの音声入力を使って書き取ってみました(変換間違いと思われる部分を修正し、読みやすいように改行を入れてあります)。

あの僕はね、女性に公正な機会を与える事ってのはもう当然のことだと思うしね、日本がその男性中心社会だってこともまあ事実だと思うし、そのジェンダーっていうことで疎外されてきた人がいるっていうことをしっかり踏まえ…まあ要するに受け止めなきゃいけない立場なんだけども。


ただですね、その組織を率いマネジメントしてるっていう立場からする人がね、たぶん心の中で思ってることはね、前向きに女性活用したくてもですね、例えば今まで阻害されてたから女性もそうなっちゃってるんだっていう部分もあるんだけども、この残念なことにね、例えば愁嘆場に近いところで頑張って戦わなきゃいけないっていう仕事の現場ってあるわけですね。


で、そういって何かリスクが起こったりね、難しい問題にぶつかった時にね、男性は良くて女性はダメなんて一切言いませんよ、だけど一つの傾向としてですね、例えばその、女性がやっぱりそういう阻害されてたからだとも言えるんだけども、えー甘えの構造っていうかですね、例えば泣いてごまかす、笑ってごまかすなんていうところでね、結局マネジメントやってる人間からしたらですね、やっぱりダメなんだよなって思うような事例にぶつかっちゃったりするんですよ。


で、そこに悩みながらね、やっぱりそれでもやっぱり女性が力出して行くチャンスを作ってかなきゃいけないっていうふうに思いながらね、やってるってのがまあ現状ですね。

私はこの意見を聞いて、いや、そういう頑迷な意識こそ、内省が求められているんじゃないかと非常な違和感を覚えました。そもそも、女性だ、男性だという立て分けそのものがもはやまったく意味をなさない、そういう意識のありようが求められているというのに。

寺島氏は「今まで阻害されてたから」とか「男性は良くて女性はダメなんて一切言いません」など数多くのエクスキューズを入れながら話していますけど、結局は「女性は泣いて/笑ってごまかす」という粗雑で陳腐で旧態依然とした一般化にすり寄っています。

この件に関してはネットでも一部で「炎上」していて「いや、男性だって泣いて/笑ってごまかす」「男性の方が多い」などの意見も散見されましたが、それも不毛な議論に思えます。そんな個人の特質ないし特性を、性別やジェンダーで語ろうとすることそのものにまったく意味がないのですから。

想像するに、かつて寺島氏の周辺にそうした反応をする女性が実際にいたのかもしれません。それでも、冷静になって一歩引いた視線で世の中を見渡し、自分の意識を見つめ直してみれば、それが本当に女性に特有の性質なのか、そうした予断を開陳することが、こうして声にならなかった声がようやく表面化しつつある現代に果たして有効なのか、内省することは可能じゃないですか。

福田元事務次官の問題については『ハフィントンポスト』で作家の雨宮処凛氏が「日本語が通じているから意味も通じてると思ったら大間違いなのだ」と述べていました。

www.huffingtonpost.jp

何というか……確かにこの「分かっていない」感には、どこから解きほぐし学んで行ってもらえばいいのかという軽い絶望さえ覚えます。私は、人は年齢に関係なく自分の意識を刷新していけると信じているし、未熟な自分もそうありたいと思っているけれど、2018年のこの世の中になってもやはり無理な人はいるのかと、重く、やるせない気持ちにさせられる寺島氏のコメントでした。そして一週間後の今日、また『サンデーモーニング』を見ましたが、残念ながら番組でこの件に関するコメントはありませんでした。

華人留学生の「鬼門」単語攻略のために

新学期が始まったばかりのこの時期、華人留学生の通訳入門クラスではまず人名や地名の「クイックレスポンス」から始めます。クイックレスポンスは、二人ひと組になって、出題側が日本語か中国語の単語を言い、回答側が即座にその訳語を言う訓練です。もし回答側が「う〜んと……」と答えに窮したら、出題側がすかさず答えを言い、次の単語に移ります。こうして、出題側に答えを言われちゃう前にその単語の訳語を言う、というプレッシャーを感じながらゲームのように行う訓練です。

クイックレスポンスは、通訳業務の前に専門用語や技術用語(テクニカルターム)、業界用語などを身体に馴染ませるために行います。なぜこんなことをするかというと、それらの用語は日常生活ではほとんど馴染みのない言葉のため、現場で「う〜んと……」となって訳出に窮することがあるからです。いわば「にわか仕込み」というか「一夜漬け」というか、そんな感じで身体に叩き込んでおいて現場で通訳し、業務が終わったら即座に忘れて(忘れなくてもいいけど)次の業務の単語を覚えるのです。

特に人名や地名は、前後の文脈に関係なく出現する「独立した固有の情報」です。「私は明日『北京』に行きます」という文章と「私は明日『台北』に行きます」という文章を比べても、「北京」か「台北」かは前後の文脈からは判断できないですよね。つまりそこを聞き落としたら、もしくは訳せなかったら、文章全体の訳出が「アウト!」ということになってしまいます。人名もしかり(あとこれはクイックレスポンスの対象ではないけれど、数字も「前後の文脈から独立した固有の情報」です。ですから通訳の際には必ずメモすべし、と教えられます)。

というわけで、一般常識的に知っていなければならない人名や地名を、日本語と中国語の両方で身体に叩き込んでおき、訳出の際には「う〜んと……」と考えることなく、ほとんど「脊髄反射」のように対応できるよう、こうしたクイックレスポンスの訓練を行うわけです。まあほんとはこんなに大仰にいわなくても常識として知っているべきなんですけど、ここ十年くらい華人や留学生(加えて日本人)の通訳訓練を行ってきて感じるのは、この人名や地名が意外に「鬼門」というかウィークポイントだということです。

例えば“毛澤東”を「もうたくとう」、“蔣介石”を「しょうかいせき」あたりでも、人によってはかなりあやしい感じです。また日本と中国や台湾、あるいは日本と韓国は、こうした名前の読み方に「相互主義」を取っていて、中国語・日本語はそれぞれの国の漢字の読み方で、韓国語・日本語はお互いの国の読み方で、というのが一般的です。つまり……

中国・台湾側は「安倍晋三」を“Anbei Jinsan(アンベイジンサン)”と読み、日本側は“習近平”や“蔡英文”を「しゅうきんぺい」「さいえいぶん」と読みます。そして韓国側は「安倍晋三」を“아베 신조(アベシンゾウ)”と読み、日本側は“문재인”を「ムンジェイン」と読むのです。

まあこれは一般常識の範囲で、個人的にはあらためて学校で教えるほどのものでもないような気はしていますが、そこはそれ、よく分かっている方がいる一方で、驚くほどこの辺りの知識が入っていない方もいるので、いちおう確認という意味で授業に取り入れています。まあ今のところ“毛澤東? 這是什麼東東?(もうたくとう? なにそれ?)”とのたまような方にはまだお目にかかっていませんが。

それから地名もけっこうな「ウィークポイント」です。北京や台北などはともかく、地方の都市や省名などになると、日本語で正確に発音できない方がほとんどだと言ってもいいくらいです。中国語の人名や地名が日本語になると、基本的には「日本語の漢字の音読み」が適用されますが、音読みが複数ある漢字も多いですし、また音読みの知識自体があやしい方もいますし、さらには例えば“広東省”は「こうとうしょう」ではなく「かんとんしょう」、“西蔵”は「せいぞう」ではなく「チベット」など、習慣的に音読みではない読み方をする地名も多く、こうしたところまできちんと押さえている方は、通訳訓練を始めた段階の方では皆無です。でも仕事の現場でこういう部分を間違えると、かなり恥ずかしい&能力を疑われる結果になるので、ひとつひとつ確認しながら、知識を補強していくのです。

昨年まではこの「クイックレスポンス」、Excelでグロッサリー(単語帳)を作って、それをみんなでシェアして、PowerPointのスライドショーを使って次々に投影しつつ訳してもらったり、二人ひと組の練習を重ねたりしてきたのですが、今年はQuizletのサービスを使って、スマホで練習してもらうかなと思っています。ご多分に漏れず、華人留学生のみなさんもスマホは“愛不釋手(片時も手放せない)”ですから、いっそのことそのスマホを使えば、少しは訓練にも身が入るのではないかと。

quizlet.com

地名・人名もさることながら、日本語の外来語(カタカナ用語)も華人の皆さんにとっては「鬼門中の鬼門」です。これは留学生のみならず、来日何十年という日本通で日本語の達人ような華人の方であっても、例えば“里約熱內盧”を「リオデジャネイロ」とか“共識”を「コンセンサス」など、きちんと発音できたり、書けたり(あるいはパソコンで打ったり)という部分が意外なほど弱い方が時折おられます。「リーユエルーネイル—」などと中国語の干渉受けまくりな発音になったりするので、私が「そうジャナイロ!」などとウケを狙ったりしています。

閑話休題

というわけで、いくつか試験的に作ってみたQuizletの「学習セット」を公開しておきますので、ご興味のある方は遊んでみてください。Quizletの利用自体は無料、スマホアプリもiPhoneAndroidともに無料で使えます。

quizlet.com

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……それにしても。本来ならこういう部分の補強は、学習者自らが黙々と営々と積み重ねるべきものなんです。諸先輩方もそうしてこられたはず。私は仕事の一環ですからこういう教材も作りますけど、作りながら“You can lead a horse to water, but you can't make him drink(馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない)”ということわざが脳裏をかすめます。留学生のみなさんが、楽しんで練習してくれたら本望なんですけど。

電話での営業は迷惑です

昨日の午後、仕事の出先にいたところ、スマホにあやしい着信がありました。見知らぬ番号なのでネットで検索してみると、三菱UFJ銀行の私が口座を持っている支店からでした。もうここ十年以上ネットバンキングしか利用していないのに、実店舗からどんな緊急連絡が!? と心配になって折り返してみたら、代表電話が出て、名前を聞かれて、待つことしばし。ようやく電話口に出た先方からは「住宅ローンのご案内で……」。

往来で歩きながらスマホで聞いていましたが、「ご案内で……」のところで思わず「いりません!」と声を荒げてしまいました。ちょっとみっともなかったですね。ごめんなさい。でもね、そういう営業はメールでやっていただきたいです。メールやショートメール、LINEなどのSNSがここまで普及した昨今、直接電話をかけるのは相手の時間を強引に奪うという意味ですでにかなり失礼な行為になっていると思うのですが、三菱UFJ銀行のみなさんはどう思っていらっしゃるのでしょう。

style.nikkei.com
www.businessinsider.jp

私は基本的に電話には出ないことにしています。通訳や翻訳の派遣会社さんは必ずメールで連絡をしてこられますし、緊急でかかってくる電話でのオファーはたいがい「今日の午後からできますか」的「無茶ぶり」なことがほとんどなので、申し訳ないけれど応じないのが吉ですし。それにどうしても連絡が取りたい場合には、留守番電話を入れてくださるはず。不在着信があって留守電が残ってないのは、まずどうでもいい電話だと考えることにしています。

固定電話の時代から、私は不意にかかってくる電話が大嫌いでしたから、本当にいい時代になったと思っています。もちろん自分から電話をかけることもほとんどなくて、かけるのは実家の両親くらいです。ただ今回は、自分の口座がある銀行の支店だったので油断しちゃいました。銀行の担当者さんには「こういう電話は迷惑です」とハッキリ申し上げました。

それにしても、ブログに、住宅ローンは組みません(組めません)というエントリを上げたその日にこんな電話が掛かってくるとは。なんというシンクロニシティかと、ちょっと気味悪くなりました。

qianchong.hatenablog.com

そういえば、細君がくも膜下出血で緊急搬送された朝にも、めったに電話が掛かってこない私のスマホに、まったく知らない人からの留守電が入っていたんですよね(間違い電話でした)。

qianchong.hatenablog.com

やっぱりなんというか、私は電話というものと、とことん相性が悪いようです。

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ローンで家は買えませんでした

いま、東京都の世田谷区に住んでいます。持ち家ではなく、賃貸のアパートです。ここを選んだのは、単純に私と細君の職場から均等に近かったこと、毎月の家賃がうちの家計状況に照らして見合っていたこと、部屋の大きさ(狭さ)の割には収納が多かったこと……などを勘案した結果です。

ところが、住み始めてからのここ三年ほど、「世田谷区に住んでいます」というと「へええ、それは羨ましいですね」とか「高級住宅地ですよね」などとおっしゃる方がとても多いことに気づきました。確かに世田谷区にはいわゆる「高級住宅地」と呼ばれるような場所もありますが、私のアパートの周辺はハッキリ言って、いたってフツーの住宅街です。

それどころか、最近「この街は大丈夫なんだろうか」と思うことがよくあります。私は健康のために家から数駅ほど歩いて電車に乗ることや散歩をすることが多いのですが、その間に目にする住宅の中には、明らかに人が住んでいる気配のないものがけっこうあるのです。雨戸がいつも全部閉まっていたり、門扉が施錠されていたり。そういえば、街にも近くのスーパーにもお年寄りの姿が目立ちます。要するに街全体がどことなく高齢化しているような印象があるのです。もちろん若い方や子連れの方がいないわけではありませんし、むしろ空き家の多さを意識し始めてから改めて観察したがゆえの「認識バイアス」がかかっているのかもしれませんが。

先日、都内某所で参加した対談形式の講演会で、講師の先生がおっしゃっていたひとことが印象に残りました。いわく「私たちが若い頃は(この講師はだいたい還暦前後だと思います)、大企業に入って、バリバリ稼いで、世田谷あたりにマイホームを持つのがひとつのステイタスだったんですよね」。なるほど、さするにいわゆる「団塊の世代」の方々が、高度経済成長期にこぞって世田谷に家を求め、その世代がそのまま持ち上がるような形で住み続け、家が古くなり、亡くなる方が増え始め……その結果、街の空き家とお年寄りの割合が高くなっている、ということなのでしょうか。一時期、郊外の大規模団地で進んでいると話題になった住民の高齢化が、都心近くの住宅地まで広がってきたということなのでしょうか。

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https://www.irasutoya.com/

ここに、世田谷区が2016年に策定した「第三次住宅整備後期方針」という資料があります。詳細はリンク先にあたっていただきたいですが、資料のひとつに同区の「空き家率」の推移があって、それによると世田谷区の空き家率は緩やかな上昇傾向にあり、2013年の段階で約10%。東京23区全体の11.2%よりは低い数字ですが、それでも10軒に1軒は空き家になっているとのことです。

www.city.setagaya.lg.jp

ここには集合住宅も含まれていますから、私が通勤や散歩の途中で目にする「明らかな空き家」的一軒家の多さを直接裏づけるものでもないでしょうけど、それでも正直、人口減少に転じた日本でもいまだ人口の微増が続いている東京都の、かつてはマイホームを持つことが「ステイタス」とまで言われたこの世田谷区でもそんなに家が余っているのか……と、個人的には少々驚きの数字でした。

私は若い頃から長い間収入が安定していなかったので、マイホームを買うことなど夢にも考えませんでした。加えて、昨日のエントリでも書いたように、簿記の初歩で学んだ資産と負債の考え方を用いれば、少なくともこの日本という国の東京という都市でマイホームを買うことが、割に合う出費だとはまったく思えなかったということもあります。

欧州などでは、家が資産となって親から子へ、子から孫へと引き継がれ、その歴史が積み重なるほど資産価値が増すという文化が一部にあるようですが、この地震大国日本で(しかも関東地方は過去の周期を大幅に超えて「次」の大地震がまだ来ていません!)、しかもこれだけ社会の価値観や人々の働き方や世界の情勢が揺れ動く中で、不動産を買うという発想がどうしてもできませんでした。

もちろん不動産は自分で住んだり使ったりするだけでなく、他人に貸すこともできます。人生のあり方は人それぞれで、仕事の形態や家族構成など様々な要因で家や土地を買うこともあるでしょう。それでも新築時から資産価値は急速に落ちる一方で上がることはまずないのがここまで明らかなのに、マイホームを、未来の数十年というスパンを見越してローンを組み、買うなどということは私にはできなかったのです。即金で買えるほどお金を持っていたら、あるいは購入したかもしれませんけど。

昨日ご紹介した『お金で損しないシンプルな真実』という本には、「『家を買うかどうか』は投資の観点から考える」という一章があり、そこにはこう書かれていました。

不動産屋はよく、「家賃はいくら払っても、何も自分のものにはなりません。でも購入すればローンを払い終わった時、この物件があなたのものになります」などと言って家の購入を迷っている人の背中を押します。よく使われるセールストークですが、「自分のものになる」という点を過大評価しないように注意しましょう。

そして、いくつかのリスクを指摘します。

・ローンの返済を将来何十年にもわたり続けることができるのか。
・新築から古物件へと価値が下がり続けていく事実。
金利や諸経費を含めると、実際の購入額よりもかなり余計なお金が必要になること。
・家族の事情や自分の働き方が大きく変わる可能性。
・人口減少時代に入った日本では、不動産への投資が「需要と供給」の観点からは非常に不利な勝負になること。

この本の筆者は家を買うという選択を完全に否定はしていませんし、もとよりこれは個人の価値観の問題でその方の自由でもありますが、「世田谷に住んでいる」と言った時の周囲の反応と日頃何となく気になっていたご近所の空き家の多さというギャップから、以上のようなことをつらつら考えました。

こちらに、TEDxTokyoで堀江貴文氏が話している映像があります。ここでのトークすべてに共感するわけではありませんし、特に最後は「なんだこれ?」的な感想を持ちましたが、堀江氏が人生の中で何にお金を使うかを極端すぎるほどの例で提示している部分にはそれなりの説得力があると思いました。


イノベーションを生み出す仕組み

上記の本にはこうも書かれています。

不動産の購入は、株式投資で言うと、ある土地に立っている家という1つの銘柄に、何千万円もの資産を、全額投資することと同じです。しかも、自己資金が1000万円しか無くても、住宅ローンによって、たとえば5000万円という額を投資することになります(「レバレッジをきかせる」、と言います)。株式投資で言うなら自己資産の何倍もの信用取引に相当します。

これ、かつてFXでレバレッジをきかせることで大金を「すっちゃった」ことのある私には、とても耳の痛い記述です。

「持ち家か、賃貸か」でかつて友人や同僚と激論を交わしたことが何度かあり(なにやってるんだか)、その際には必ずといっていいほど「家賃はいくら払っても、何も自分のものにはなりません」的な反論に遭い、正直自分でも煮え切らないものを感じていたのですが、このトシになって、そして先日、昨年亡くなったお義父さんの持ち家を不動産鑑定士さんにお願いして売りに出した結果を見て……ハッキリと答えが出たように思います。

「カネの話は汚い、はしたない」と決めつける前に

山崎元氏の『お金で損しないシンプルな真実』を読みました。題名が題名ですし、装幀も薄くて活字が大きい割には大仰なハードカバーで、とかく「カネの話は汚い、はしたない」と考える方々は手に取りにくいかもしれませんけど、いやいや、健全なお金のリテラシーを身につけることができる、とても有益な本でした。全世代が参考にできますが、特に若い方には心からおすすめです。


人生を自由に生きたい人はこれだけ知っていればいい お金で損しないシンプルな真実

なぜとくに若い方におすすめかというと、そもそもお金とは何か、社会に出て稼ぐということ、稼いだ結果手にするお金の本質、そのお金をどう理性的に使うかなどについて、この本には簡潔にまとめられているからです。

私たち日本人は、とかくお金の話を正面切ってしたがりません*1。本音ではお金に執着していても、積極的に語るのはどこか「はしたない」とする心性が強いのではないでしょうか。かくいう私もそうでした。「お金に頓着しないのが上品」というスタンスを根拠なしに信奉していたのです。でもそれは裏を返せば、お金に対するリテラシーの欠如ともいえます。

私は何度も転職して、失業したことも何度かあり、収入はそのたびに乱高下を繰り返してきました。分不相応なほど稼いだ「バブリー」な時期もあれば、貯金がゼロで、駅から会社に向かいながら「この通りを歩いている人々の中で自分がいちばんお金を持っていないだろうな」などと自虐的な悲嘆にくれていた時期もありました。そんな中、ある職場で、その会社の命令で簿記の資格を取らせてもらったことが、とても勉強になりました。

簿記の資格といっても、日商簿記三級といういちばん易しいものですが、それでも貸借対照表損益計算書のイロハを学べたことは、お金に対するリテラシーの基礎の、そのまた基礎を築いてくれました。結局その職場からは、ほとんど解雇のような形で去る結果になりましたが、簿記を学ばせてもらったことはいまでも感謝しています。

簿記を学ぶと、自分の人生におけるお金の動きに対して、それが自分にとってどういう意味を持つのかを考える「拠り所」ができます。例えばマイホームや車を買う時、それが果たして「資産」なのか「負債」なのかを、その時の自分のお金にまつわる状況、長期的な展望を加味しながら考える……といったような癖がつくのです(もっとも、そういう癖を自覚したのは、資格を取ったあとかなり経ってからでしたが)。

私はこの「癖」に従って、マイホームは買いませんでした(買えなかったともいえますが)。車も、家族の介護などがいらなくなった時点ですぐに手放しました。闇雲に入っていた保険を見直して、最終的にすべて解約しましたし、結婚した時に細君が抱えていた返還義務のある奨学金をすぐに返すよう勧めましたし、長い目で見れば厖大な出費になると判断した固定費をできるだけ減らすように心がけてきました。こうした行動は特に明確に意識してというほどのものでもなかったのですが、振り返ってみれば簿記に教えられた思考方法が後押ししてくれたものではないかと思います。

上記の本には、「借金はできるだけしない」「保険はできるだけ節約しよう」「『家を買うかどうか』は投資の観点から考える」といった、個人的にはとても共感できる内容の記述がたくさん含まれています。加えて、運用に関して、特に運用のプロ(銀行や証券会社など)による恣意的な誘導に対する注意喚起、ギャンブルと依存症の問題、アラフォー・アラフィフからのセカンドキャリア、ひいては近未来におけるお金のありようまで、よくこの薄い本にまとめられたものだなあと驚く充実の内容です。

qianchong.hatenablog.com

特に若い方へおすすめしたいのは、冒頭すぐに登場する、この記述。

私は、大学生が勉強ではなく、部活やアルバイトに時間と体力を費やすことに対して、疑問を持っています。

大学時代、まさに部活やアルバイトに「ばかり」時間と体力を費やしていた私が言っても説得力ゼロですが、山崎元氏の主張は「教育に対する投資は、より早い時点で行う方が有効」という点。「投資」とか「有効」とか言っちゃうとなんだかまた「カネの話は汚い、はしたない」的な心性がうずきそうですが、つまりは「きちんとお金を稼いで、それをどんどん社会に還元しよう」ということ。

低賃金のバイトを、時間や体力を浪費しながら積み重ねても、結局は企業のみが得をして自分が得られるものは(皆無とはいいませんが)少ないのです。それより、学業に励んでより価値のある人材になり、たくさん稼いでそれをどんどん社会に還元した方がよい*2

人生はつねに不可逆的ですから、自分でも何とももどかしいですが、若い頃の自分はこうした理屈を理解しようとしませんでした。でも、いまではその意味がよく分かります。この本の副題には「人生を自由に生きたい人は……」とあります。そう、根拠もなく頭から「カネの話は汚い、はしたない」と決めてしまわず、より自由な生き方を目指すためにもお金のリテラシーを育むべきだと思うのです。特に若い方にこの本をお勧めするゆえんです。

*1:と一般化してしまうのは乱暴かもしれません。例えば東京の人はそうでも、関西の方はけっこうお金に素直だという気はします。

*2:ただ、筆者もきちんと補足されていますが「お金をたくさん稼げるからといって、その人が人間的に偉いわけではありません。価値のある人材であることと、人間として尊敬できるかどうかはまったく別のことです」。

月額制レンタルファッションの「leeap」を試してみた

以前Marichanさんが書かれていたこの記事にとても興味を持ちました。

marichan.hatenablog.com
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いいなあ、こういうサービス。私は若い頃から洋服のセンスがまったくなくて、スーツなどはまだしも(あれはもう固定化された「制服」みたいなものですから)、カジュアルの洋服選びに難儀してきたのです。特に色のセンスに乏しくて、いきおい同系色(それもブルー系ばかり)でまとめてかなり地味〜な格好ばかりしています。

でも、もともとファッションで目立ちたいという「野望」はないので、この際地味を推し進めて「ノーム・コア」で行ってみようかと、同じ色とサイズのシャツやニットやパンツばかり、それこそ制服のように着ていた時期もあるんですけど、さすがにこれも飽きちゃいます。

というか、あれはスティーブ・ジョブズ氏だからサマになっていたんであって、私がやっても単に毎日同じ物着てる=着替えてないんじゃないか(実際には着替えてますが)疑惑を周囲に抱かせるだけで。いちおうこれでも人前に出たり立ったりする仕事なので、もうちょっと違う格好もしてみたいなと、このトシにして色気づいていたのです。

そこでネットを検索してみると、同様のサービスはレディスではいくつかあるんですが、メンズはないみたい……と思っていたら、ひとつだけありました。このleeap(リープ)です。

leeap.jp

「ジャケパンコース」と「カジュアルコース」があって、後者はもちろんカジュアルですが、前者もややカジュアルよりのジャケットスタイルで選んでくれるとのこと。最初に体型や身体のサイズなどだいたいのデータを入れて登録すると、担当のスタイリストさんが決まります。その後、そのスタイリストさんとLINEでやり取りをしながら、毎回コーディネートを提案してもらうのです。届いた服が気に入った場合は購入することもでき、返却時には洗濯不要でそのまま届いた時の箱に戻して着払いで送る(ちょっと抵抗ありますけど)、というシステム。

服はひと月に一回、宅配便で届きますが、最初の月は二回。これは初回なのでサイズや好みが極端に違っていた場合に調整をすることを見越してなのだそうです。で、「ジャケパンコース」に申し込んで、少しフォーマル寄りのカジュアルで頼んでみた結果、届いたのがこれらの服。

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ちょっと写真が小さいので見にくいですが、紺のジャケットにグレーのパンツ、ストライプと水色のシャツ。かなりオーソドックスなコーディネートです。う〜ん、正直、こういう服はすでに持っているので、あまり「わ〜っ」という高揚感はありませんでした。冒険する勇気がなくて「フォーマル寄り」と言っちゃったのが裏目に出たのかもしれません。そこで、LINEでやり取りして「もう少し遊んでもいいです」と伝えたところ、次はこれらが届きました。

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これも写真が見にくいですが、いちばん左のジャケットは紺地に色とりどりの糸がちりばめられているという、かなり「攻めた」感じのする、でも遠目には無地に見えるという、なかなかおしゃれなものでした。チェックのシャツもカジュアルだけど上品な感じで、スリムフィットにホリゾンタルカラーという、大好きなスタイル。

一方でニットはLサイズでかなり「ぶかぶか」、パンツは逆にちょっと腰回りがきつかったです。ニットはふだんSサイズを着ていること、持っている靴の種類や色や形など、いろいろとLINEで伝え、次の月にとどいたのは、これ。う〜ん、この回のニットもLサイズでした。伝えているのになぜ同じようなオーバーサイズを送ってくるのかな。この時点で「これはダメかな」と思いました。デニムのパンツも、ありふれたもので、これで月に一万円以上も使うのはちょっとコストパフォーマンスが悪いかな。

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いちおう「カジュアルプラン」も試してみようと思いました。プランが変わると担当のスタイリストさんも変わり、またLINEでやりとり。ただし、以前のスタイリストさんとのやり取りはすべて伝わっているとのことでした。切り替えたあとに届いたのはこちら。

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む〜ん。これも、かなりありふれたラインナップですよね。これだったらユニクロで揃えても間に合うかなあ。このサービスには、自分では絶対に選ばないような服を選んでくれる「ワクワク感」を期待していたのですが、やはりなかなか難しいですね。

あと薄いグリーンのパンツは膝がすり切れていました。服はすべて新品ではなく、クリーニングして繰り返し使っているというのは最初から了承済みですが、それでもこれはちょっと危うい。こちらが着ているうちに破損したと取られてしまう(そうなれば買い取らなければなりません)怖れもあります。というわけで、ここで退会しました。

スタイリストさんはお二人ともとても丁寧な対応でしたが、実際に自分が着ている写真を送らないと細かいコーディネートをしてもらいにくいようです。それはまあそうですよね。体型や、その人の雰囲気などによって、選ぶサイズ感やデザインなどもずいぶん違ってくるでしょうから。

私は自分の写真を送らなかったので、その点はスタイリストさんもやりにくかったのではないかと思います。やはりこちらもそれ相応の働きかけをしないとダメなよう。この点、もとより服選びにセンスとスキルがない(だからこういうサービスに頼るのです)私には荷が重かったです。でも、最初に細かい体型のデータを出していますし、毎回着心地やサイズ感なども伝えていたので、Lサイズのニットを二度も送ってきたのは、ちょっと疑問でした。

というわけで残念な結果に終わった今回のチャレンジでしたが、Marichanさんが書かれているように「待っている間のワクワク感」は確かにたまらないものがありました。ただ「ジャケパンプラン」にしろ「カジュアルプラン」にしろ、ひと月に四アイテムしか借りられないのはちょっとさびしいかな(ただし、leeapの「カジュアルプラン」にはひと月に何度でも借り換えられるプランもあります)。今後しばらく経って、アメリカのようにAIも駆使したような新たなサービスが登場したら、また試してみたいと思います。

PH5について

自宅の食卓の上にある電灯はUFOみたいな形をしています。PH5という「ペンダント」です。

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けっこうお高いので、買った当初は「いくら人気の定番商品だからといって暴利じゃないかなあ」と思っていました。でも、天井から吊して、スイッチを入れた瞬間に納得してしまいました。とにかく光が、そしてその光に包まれたペンダントが美しいのです。

www.louispoulsen.com

デンマークのデザイナー、ポール・ヘニングセン氏が1958年に発表したもので、現在では様々なバリエーションの製品が売られていますが、オリジナルは白い塗装です。ただ、重層的に組み合わされたいくつかの「羽根」にはオレンジ色とスミレ色が施されていて、これに反射した光と、白熱灯の光が相まって、何とも言えない優しい光に見えるのです。

また下だけでなく、若干上にも光が反射されるので、部屋全体がほどよく間接照明に包まれたようになります。このペンダントひとつだけだとちょっと寂しいですが、他の室内照明を組み合わせると、とてもくつろげる雰囲気になります。

そういえば昔の日本の家って、部屋の真ん中に照明器具が、それも蛍光灯がひとつだけ、というのが多かったですよね。私は学生の頃からあれがイヤでイヤでたまらなくて、アパートの部屋に備え付けられていた蛍光灯(ドーナツ型の)を外して、裸電球をいくつかぶら下げていました。友人からは「暗黒舞踏の舞台装置か!」とつっこまれましたけど。

とても気に入っているPH5ですが、ひとつだけ不満があります。それは電球がペンダントの奥深くに設置されているため、100Wの電球ではかなり暗くなり、150Wの電球を使わなければならないことです。LED電球は150Wがないので白熱電球です。あんまり「エコ」じゃないですね。

また上記のオフィシャルサイトには、PH5を設置する際の注意事項としてこう書かれています。

卓上をしっかりと照らし、テーブルを囲むひとびとの顔を柔らかく美しく照らすためには、卓上60センチの位置に吊り下げてください。

卓上60センチというのは、やってみると分かりますけどかなり低い位置です。テーブルに着くと、ちょうど頭の高さくらい。ちょっと低すぎるので、私は80センチくらいの位置に吊っています。でも先般北欧を旅した際にあちこちで見かけたのですが、確かにあちらのペンダントは、かなり低い位置に吊られています。アルヴァ・アアルト自邸でも、こんな感じでした。

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このグランドピアノの前にあるペンダントの吊り位置もかなり低いですね。部屋の中に立つと、ペンダントは上から見下ろすような位置にあります。こうしてみると、北欧の人々のペンダントに対する考え方は、部屋全体を照らすものというより、食卓と、食卓を囲んだ家族を包み込むように照らすもの、なのかもしれません。そうやって暖かい光に包まれるのも、デンマーク人がいとおしむ「hygge」のひとつなのでしょう。

もっとも、高温多湿の日本の夏だと、白熱電球の熱がかなりツラいかもしれませんけど。