インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

しまじまの旅 たびたびの旅 3 ……八斗子

十数年前、台湾に住んでいた頃に見たMV(ミュージックビデオ)の一場面が、なぜか心に残っていました。楊家成(ジェレミー・ヤン)という華人歌手*1の歌う『妳的理由』という曲のMVです。


楊家成 - 妳的理由 (官方版MV)

この背景にぽつんと浮かんでいる小島はどこなんだろうと思っていろいろ調べてみたら、基隆近くの「基隆嶼」らしいということが分かりました。ネットってすごいですね。

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それで、実際の風景を見たくなって出かけてきました。

最寄り駅は「臺鐵(台湾鉄道)」の深澳線にある「海科館」駅なんですけど、この路線は台湾東部の基幹路線である宜蘭線の瑞芳駅から伸びる支線みたいになっていて*2、時刻表を見ると運行本数が極端に少ないです。どうやらもっと先まで伸びていたのが廃線になって、今は二つしか駅がない超ローカル線になっているみたいですね。あまりに電車が来ないので、瑞芳駅から路線バスで海科館(國立海洋科技博物館)に向かいました。

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上の方に「基隆嶼」が載っています。MVに出てきた風景は、海科館駅近くにある、この逆三角形の半島あたりから見たもののようです。もとより、あまり人のいないところをぶらぶらするのが目的ですのでテキトーに歩いて行ったら、半島は公園になっていました。そして小高い丘のようなところまで階段が伸びているので登っていった先にあった風景がこれ。

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おお、まさにあのMVの風景ですね。せっかくなのでスマホYouTubeのMVを呼び出して、風景を眺めながら聴きました。

そしてこれもせっかくなので、その超ローカル線にも乗ってみました。海科館から終点の八斗子まで一駅だけしかありませんけど。海科館駅は國立海洋科技博物館の前にあるわけではなく、商店街を抜け、住宅街を抜けた先にひっそりとありました。GoogleMapで位置は分かるものの本当にあるのか不安になって地元の人に聞くも「駅? さあ……」という感じでした。地元の人もめったに使わない無人駅のようです。

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ようやく列車が来て、ほんの数分乗ると終点の八斗子駅です。この八斗子駅は鉄道ファンや観光客に人気の場所みたいで、けっこうたくさんの方が乗っていました。こちらももちろん無人駅です。

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帰りは、八斗子駅から瑞芳駅まで、超ローカル列車の旅(といっても十分ほどですが)を楽しみました。

*1:アルバムを一枚出しただけで、その後は全然ヒットしなかったみたいです。それでもウィキペディアで検索してみたら、今でもネットなどで活躍しているようですね。

*2:実際には瑞芳駅で平渓線とつながって八斗子駅・菁桐駅間を走っているようです。

代喜先生夫妻のこと

小学生の頃、土曜日の午後に絵を習っていました。

今となってはちょっと信じられない感じがしますが、当時の小学校は土曜日も「半ドン」で授業がありました。給食は出ないので、授業が終わって家に帰り、お昼を食べてからバスに乗って、駅前の団地の公民館で開かれていた子供向けの絵画教室に通っていたのです。

先生は二人いて、とても物静かなおじさんと、おしゃべりで豪快なおばさん。お二人はご夫婦でした。お名前は代喜(しろき)香一郎先生と、代喜郷子先生。子供心にも、このご夫婦は日本人離れしていると思いました。だって、語るお話がイタリアやフランスなどヨーロッパの話題ばかりなのです。確かイタリアに長く住んで絵を描いていたとのことで、絵画教室のお茶の時間には神戸のフロインドリーブのクッキーやケーキが出されたりしていました。

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※写真は「東京フロインドリーブ」のウェブサイトから。

後年、美大を受験して落ち、浪人生活をしていた時に偶然連絡がついて、当時美大受験予備校で描いていたデッサンなどを持って尼崎のご自宅にうかがったことがあります。

お二人の暮らしは、予想通りとても「ヨーロッパふう」でした。公団の古い「文化住宅」的二階建て団地の一室に住んでいらしたのですが、畳の部屋にも絨毯を敷き詰め、テーブルと椅子の暮らし。作ってくださった晩ご飯は豚ヒレとりんごのソテー。ドイツ風の真っ黒いポンパニッケルにバターをまるでチーズかジャムを盛るように載せて食べるのにも魅了されました。

持参したデッサンについては酷評されました。いわく「受験用の絵で、あなた自身の絵じゃない」。当時私は彫刻科を志望していましたが、受験予備校では「彫刻はマッス*1。彫刻は肉体作業。受験でのデッサンはとにかく量感重視のイケイケドンドンでガシガシ描くべし!」という指導を受けていました。だもんで、私のデッサンはとにかく黒々としたボリューミーなタッチに染まっていました。

代喜先生ご夫妻は「そんな描き方をしてはいけない」と言い、対象をよく観察すること、特に自分の視覚が捉える「物質とその周りの空間との境」がどんな構造をしているのかを丹念に観察して表現することを繰り返し説きました。……と書くといかにも難しそうですが、ようするに対象の輪郭をきちんと捉えることを重視していたのでした。輪郭がきちんと生きていれば、その内側の「マッス」は自ずから立ち上がる。なにもハッチング*2を重ねて黒々とそのマッスを強調しなくても。

そのため、私の人体デッサンは大きく変わりました。いや、極端に変わったと言ってもいいと思います。彫刻科志望なのに、とても繊細な、白っぽいデッサンを描くようになったのです。最初に受けた多摩美の課題は人体デッサンだったので、私はこの代喜先生夫妻に教わった描き方で臨みました。周りの受験生がイケイケドンドンの黒々ボリューミーデッサンを仕上げていく中で、まるでレース編みみたいに繊細なデッサンを描いていた私は異様に映ったと思います。

実際、その後武蔵美でクラスメートになった友人からは、「多摩美の入試で、ひとり線の細いデッサンを描いていたから、なんだこいつと思った」と言われました。ま、彼も私も多摩美は落ちて、武蔵美に受かったんですけど。その武蔵美のデッサン課題は自画像でした。私自身、いくばくかの不安があってそれが勝ったのでしょう、今度は代喜先生の教えに背いて、ガシガシと真っ黒に叩きつけたデッサンを提出し、受かりました。受験予備校が教える通りの「武蔵美の彫刻科向き」のデッサンを描いたのです。

そんなふうにして受かったのに、その後私は彫刻にも絵画にも興味を失い、いや、もっと正直に言えば己の才能のなさに気付いて呆然とし、その反動で演劇に没入して行きました。思えば、受験用絵画の軍門にくだった私は、その時点で自分の芸術を放棄したに等しいのではないかと思います。と言っても、それを自覚したのは卒業して*3何年も経ってからでした。受験時に教えを請うてからのち、代喜先生夫妻とは何度かハガキのやりとりをしたと思いますが、再度お目にかかることはついにありませんでした。

それから数十年が経って、美術とは全く関係のない仕事についていた私は、あるときふと代喜先生夫妻のことを思い出しました。試みにネットでお名前を検索してみると、あるアート作品通販のサイトで代喜香一郎先生の銅版画が売られていました。そして作品の下には「物故作家」との解説が。ああ……。郷子先生は検索しても見つかりませんでした。時の流れから考えれば、郷子先生もすでに鬼籍に入られていると思います。

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その通販サイトで購入した銅版画がこれです。イタリアのアッシジの街角でしょうか。遠景に教会らしきドームがあって、手前の運河には石橋がかかっており、その橋のたもとに私の好きなフィアット500*4が停まっています。

イタリアの街並みは日本ほど変化が激しくないでしょうから、ひょっとするとこれと同じ風景がいまでも残っているかも知れません。代喜先生の墓所も知らない私のささやかな夢は、いつかアッシジに行ってこの風景を探し出し、そこで受験時の「背叛」をおわびして、同時に「ありがとうございました」と言うことです。

*1:「ひとつの塊として知覚される部分」ということですが、自分でもよく分かりません。

*2:細かな平行線を重ねて、量感や陰影を表現する描き方です。

*3:留年しながらも卒業したのは、父親から「まだまだこの国は学歴社会だ。大学だけは出ておけ」と言われたからです。

*4:旧式の、ルパン三世が『カリオストロの城』で乗っていたやつ。

しまじまの旅 たびたびの旅 2 ……栄養サンドイッチ

基隆に行くんですけど、おすすめの食べ物はありますか? ……と台湾の留学生に聞いたら、多くの人が推薦してくれたのが“營養三明治(栄養サンドイッチ)”でした。

泊まった旅館がちょうど廟口夜市のそばで、その屋台も夜市の中にありました。ちなみにこの夜市、夜だけじゃなくて昼間から多くのお店が開いています。と、その前にまずは廟(奠濟宮)へお参り。

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雨にもかかわらず、お店の前はすごい行列。それでもどんどん出来上がるので、数分間待っただけでした。あまりに混雑するときは整理券方式になるそうです。

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こちらが「栄養サンドイッチ」。サンドイッチというよりホットドッグですが、揚げパン(カレーパンの中身がないものという感じ)をハサミで開いて、中に台湾風の甘いマヨネーズがたっぷり。そこにトマト・ハム・キュウリ(見えませんが)・煮卵(茶葉蛋みたいなの)が入っています。栄養バランスがよいオール・イン・ワン的な食べ物、というコンセプトなんでしょうね。

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なんだこれ? という見た目ですが、これがもう、ものすごい美味でした。熱々で外はかりかり、中はふわふわのパンにマヨネーズの甘さと具材がよく合っています。あまりに美味しいので、翌日基隆を離れる際にも再度食べに行ったくらいです。

『英子の森』を読んで身悶える

松田青子氏*1の小説『英子の森』を読みました。


英子の森 (河出文庫)

文庫版の帯に、翻訳家の鴻巣友季子氏による解説の一部が惹句として載せられています。

おもしろい。そして怖すぎる。さあ、みなさん、手にとってください、読んでください。「グローバル英語教育」という善人の顔をした魔物の真の恐ろしさがわかりますよ!

その言葉にまさに惹きつけられるように「森」へ迷い込んでみれば……ホントに怖かった。そして「語学業界」に身を置く者としてはなんとも割り切れない、じっとりと寝汗をかいた後のような感覚が残ったのでした。

個人的に「刺さった」部分を抜き出してみますが、物語の雰囲気を先に知ってしまうと興ざめするかもしれません。気になる方はぜひ本作を先にお読みいただきたいと思います。





翻訳について

わからない単語や文法があったりしてすべてが理解できない一文は、にごって見えた。(中略)わからない単語を辞書で引くのは、森の中に分け入るようなもので、木々をかき分け進んでいくと、何も邪魔するものがない野原に出るのだ。それは地道な、けれど壮快な作業だ。

とある著名な文学者にして翻訳家*2が、「外語の原文にあたるときはいつも靄がかかっているような気がする」というようなことをおっしゃっていましたが、この「にごって見え」る感覚、見通しのきかない森の中にいるような感覚は、翻訳をしたことがある方なら共感できるのではないでしょうか。

語学に対する評価の低さについて

「英語を活かせるお仕事☆」
業務:国際会議での受付、クローク係。
時給:1100円

*英語を使わないポジションもございます。お問い合わせください。
時給:1050円

 たった50円。末尾に添えられた一文に今日も力が抜けていくような気持ちになった。英語を使う仕事と英語を使わない仕事、その差50円。なんだこれ。笑ってしまう。でも笑わなかった。一つも笑えなかった。

これはこの小説に出てくる派遣会社からのお仕事紹介メールの文章ですが、実際にこうしたメールは私も日々受け取っています。私は不覚にも笑ってしまいましたが、この語学に対する評価の低さはどうだろうと思います。例えば、かつて私が実際に接したお仕事紹介では、こんなのがありました。

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「仕事内容」に感嘆符つきで書かれている「通訳するだけ!」「商品知識は全く必要ありません!」というのが、通訳という作業への無理解をあますところなく露呈させていて、軽く目眩を覚えるほどです。とはいえ、語学や通訳を「単に口先でちょろちょろっとしゃべるだけ」、ないしは「話せれば訳せる」と思っていらっしゃるクライアント(雇用主)は多いんですよね。

語学に対する評価、あるいは対価の低さについては、ご参考までに、こちらも。

qianchong.hatenablog.com

英語を知らない人は、英語がちょっとでもできる人だとすぐもう英語ができる人だと思う。どれぐらいの程度で英語のできる人なのか見分けることができない。

うんうん、本当にそう。そして英語に限らず、語学の達人と呼ばれる方々は自ら「○○語ができる」とか「ネイティブ並み」とか「ペラペラ」などという形容はしないものです。いみじくも本作の解説で鴻巣友季子氏が「何年か前、日本の翻訳界きっての英語の達人が、『おれ、この一、二年でようやく英語がちょっと読めるようになってきたと思うんだよね』と発言し、周囲が震え上がったことがあった」と書かれているように。

ネットの求人サイトを開いた。「職種」をクリックし、出てきた選択肢から「専門職/その他すべて」をクリックし、「美容師」「エステ・ネイル」「技術者」などの様々な専門職の中から、「通訳、翻訳」をクリックした。「専門職/その他すべて」3326件の中で、「通訳、翻訳」はたった8件だった。(中略)これ以外で、英語を使える仕事となると、今度は「教育」をクリックするしかない。

これも「刺さる」なあ。この描写はまんま、五年ほど前に私がとつぜん失業して、失業保険を受けつつ職安に通っていた時の情景に重なります。英語ですらこのありさまですから、中国語はもっと悲惨な状況でした。就業相談のカウンターで接してくれた職安の職員は例外なくみなさん「あなたの年齡や条件に合う仕事はないです」と顔に書いてありましたもの。

語学学校の功罪について

電車の中には、専門学校や検定、資格取得の案内など、いろんなジャンルのいろんな広告が貼ってあった。その広告も「新しい扉が開く!」「新しい自分に出会えます」と、いろんな理由で疲れた顔たちに魔法の呪文をかけようとしていた。語学学校や海外留学の広告もいくつかあったが、そのほとんどが英語関連だった。いろんな魔法がある中で、自分がかかったのは英語の魔法だった。理由はよくわからないけど、そうだった。英子は、一枚一枚広告を剝がしてまわりたいと思った。これ以上誰のことも騙してほしくない。

講師の人たちも、一線で活躍しているプロの方ばかりですって言われているけど、ほんとは、みんな学校の卒業生なんだよね。高いお金出して、コースの一番上まで上りつめて、結局今度はそこで教える側にまわるしかないってなんかむなしいよね。

この二つは、現在専門学校や通訳学校で通訳や翻訳を教えている私にとってはかなり手厳しい描写です。実際、同時通訳まで訓練する高いレベルの通訳学校であっても、履修後にフリーランスのプロ通訳者になる方は何十人に一人、ひょっとしたら百人に一人いるかどうかという数字だと思います。求められる語学的なレベルの高さもさることながら、もっと大きな理由はフリーランスのお仕事のみで食べていくのが極めて難しいからです。

実際には私のようにいくつかの固定の仕事を掛け持ち(その分フリーランスで仕事を承けにくくなるというジレンマに陥りながら)にするか、インハウス(社内)通訳者として稼働する方がほとんどで、そのインハウスにしても通訳翻訳専業という方は珍しく、たいていは通常業務に通訳翻訳的な作業が含まれているというパターンではないでしょうか。しかも私は、ここでもまんま「コースの一番上まで上りつめて、結局今度はそこで教える側にまわ」っている人間なんです。いやはや。

グローバル化と英語教育への狂奔について

グローバルって本当にあるんですかね? もし本当にグローバル化する社会なんだったら、どうして英語を使う仕事が日本にはこんなに少ないんですか? なんでわたしみたいに、どうにもならない状況の人がふきだまりみたいにいっぱいいるんですか? 英語学校も留学を斡旋する旅行会社もいい部分だけ見せて、後は責任取りませんって感じで、勝手すぎますよ。グローバルなんて都市伝説と一緒。信じた方がバカみたいっていうか。

端的に言って、単一の言語で高等教育まで行える日本という国は、世界の中でもかなり珍しい、ある意味幸福な国だと思います。そして、世界がどんどん相互に影響し合い、国境を越えて流動しつつあるとはいえ、だからといって来年、あるいは数年のうちに一気に世界のグローバル化が完了するわけでもありません。何十年というスパンで物事を見るべきだし、その間にも私たちは働いて食べて生きていかなければならないのです。

この国には英語など使えなくても構わないから豊かな日本語を使って行われるべき仕事、そして若い人に引き継いでいくべきたくさんの仕事があります。英語やその他の外語を使って世界を飛び回る人もある程度は必要ですし、海外からの移民もこれからは増えていくかもしれません。でも一方でそうした人々の数とは比べものにならないほど多くの人が日本語で仕事をしています。今もそうですし、これからも当面のあいだはそうでしょう。医療も、介護も、食糧生産も、公共サービスも、建築も、インフラ整備・保守・管理も、治安も……。

「英子の森」の筆致はとても辛辣ですが、ここに描かれている一種のアイロニカルな喜悲劇は、幼児期から英語に狂奔する多くの日本人に「まあまて、落ち着いてよく考えるんだ。目を覚ませ」と発された警句だと思いました。そして、その「狂奔」にいくばくかの手を貸していると言われてもしかたがない現在の私は、この作品を前に「これからどうすればいいか」と身悶えているのです。

*1:かつて初めて読んだ松田氏の作品は『スタッキング可能』でした。村上春樹作品の英訳者として知られるジェイ・ルービン氏の講演を聞きにいった際、氏が「最近気になる日本の作家と作品」として挙げており、読んでみたのです。一読、その奇妙な物語世界に引き込まれました。

*2:たぶんスラヴ文学者の沼野充義氏ではなかったかと思うのですが、裏を取れませんでした。

しまじまの旅 たびたびの旅 1 ……基隆港の地標

台湾北部の港町、基隆*1。観光写真によく写っている「KEELUNG」の文字が、以前から気になっていました。ハリウッドサインみたいですよね。


2015.7.31 基隆港 KEELUNG 地標

台湾へ行ったらぜひアレを間近で見てみたい。というわけで昨年の春に出かけてきました。基隆駅の「にぎやかでない方」に出ると、目の前に親切な看板が。

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ほとんど人様のお家の裏庭みたいな急坂の路地を登っていくと、文字が見えてきました。

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展望台になっているみたいですね。畑の真ん中や私有地の中だったらどうしようと思っていたんですけど、誰でも文字の足元まで行けるようです。

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文字一つの大きさは五メートル四方くらい。

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文字の足元から見た基隆港。「雨都」の別称がある基隆は、この日も雨でした。

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裏手は運動場で、黒い犬が一匹寝ているだけで誰もいませんでした。とても静かです。

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人の多いところが苦手なので、海外へ旅行するときはこういう誰もいない、ひなびた場所を見て回るのが好きです。

*1:日本ではなぜか習慣的に「きりゅう」ではなく「キールン」と呼ばれるようです。

五輪がスポーツをダメにする

ラグビー元日本代表の平尾剛氏が、五輪への違和感を表明している記事を読みました。

東日本大震災福島第一原発事故からの復興もそこそこに「アンダーコントロール」と宣言した誘致に始まり、裏金疑惑、新国立競技場やエンブレムをめぐる数々の問題……をふまえ、さらにこうおっしゃっています。

競技者の理想を脇に置きつつ、権力者は「レガシー」作りのため、資本家にとっては商機をつかむための巨大なイベントにオリンピックが成り下がっている現状に、一言物申したい。

「競技者の理想を脇に置きつつ」。つまり、アスリートそっちのけで巨大商業イベントとして、あるいは国威発揚の道具として運営されつつある現在のオリンピック・パラリンピックに異を唱えているわけです。ご本人もアスリートとして「反五輪」を掲げるまでには相当の逡巡があったようですが、この問題提起はとても重要だと思います。

この件に関しては、先日の東京新聞にも記事が載っていました。

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過剰な勝利至上主義がスポーツの創造性やアート性を損なってしまっているという指摘は、アスリートならではの視点だと思います。個人的には常々、五輪でのメダルの色や数、それも「国」や「地域」ごとのそれに異様にこだわる報道やファン、さらにはアスリート自身の発言にうんざりしていましたので、平尾氏のこの「宣言」には快哉を叫びました。

この記事を読んで、腰痛肩こり予防のために通っているジムのトレーナーさんが、「僕はプロ野球のドラフト会議がある日が、一年で一番嫌いです」と言っていたのを思い出しました。このジムはプロや社会人、あるいは大学などで野球をやっている方が多く通っている所で、トレーナーさんはそうした選手たちが日々営々と積み重ねる努力を目の前で見てきています。

それでも、ドラフト会議で指名されるのはほんの一握りの選手だけです。積み重ねてきた個々人の努力とは全く異なる論理で(戦力補強という、なかば機械の部品を補充するようなタームを使われつつ)取捨選択される。プロを目指す以上、そうした商業主義本位の選抜や制限や競争があって当然と言われればそれまでですが、くだんのトレーナーさんにしてみれば、抽選によって若いアスリートの未来が強引に決められていくこと、さらにはそれだけがアスリートとしての成功であり王道であるといった捉えられ方への違和感があったのではないかと解釈しました。

「社会的矛盾を覆い隠しながら肥大化する五輪は、選手から喜びを奪っているのではないか」。この問いは、私たち自身はもちろんですが、何よりもアスリート自身が自らに問いかけてみる価値があると思います。その巨大な経済的負担が開催都市の財政を圧迫するとして立候補の取りやめが相次ぎ、そもそも立候補都市がいなくなりつつあると伝えられる五輪。もうここいらで五輪はその歴史的役割を終えたとして、廃止への議論を進めていくべきだと思います。近代オリンピック開催百周年となった1996年のアトランタ大会あたりで「いっせーのせ」でやめておけばよかったですね。

やたら注意喚起されちゃう日本での暮らし

家電つながりでもうひとつ、「SUSONO」のイベント関連で気づいたこと。

家電やパソコンを買うと、やたらシールやラベルが貼られていることがあります。例えば炊飯器だと「圧力IH」とか「本格鉄釜」とか「極め炊き」みたいに機能や仕様をアピールするもの。Windowsのノートパソコンも買ったときには「インテル入ってる」のシールをはじめ様々なシールがそこここに。私は家電を買ったら、こうしたシールやラベルをすぐに全部はがしてしまいます。「SUSONO」のイベント終了後の懇親会でそのことを話したら、『Casa BRUTUS』の松原亨氏も「私も『はがす派』です」とおっしゃっていました。端的に言ってあれ、かっこよくないですもんね。

機能や仕様のほかに、注意喚起のためのシールやラベルもたくさん貼られています。PL法(製造物責任法)で義務づけられているのでしょう、「メーカーがユーザーに何らかの損害を与えた場合、故意または過失がなくても損害賠償の責任を負う」ようになったおかげで、事前にそのリスクを回避しようとメーカーがやたら注意喚起のシールを貼りまくるのですね。

これはうちの洗濯機ですけど、上面はこんな感じで説明と注意喚起で埋め尽くされています。とくにこの、エラー表示が「C21」などとアルファベットと数字で出て、それをわざわざ一覧表から探すために常に家電の上面に貼ってあるというの、何とかならないのかなといつも思っています。最新式のタッチパネルなんかが装備されている洗濯機ではこういう表示はなくなっているのかもしれませんが。

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機能もやたら盛りだくさんで、私が単にずぼらなだけかも知れないけれど、ほとんどの機能を使ったことがありません。洗濯して、時に乾燥機能をつかうだけですから。炊飯器と同じ過ちをここでも犯してしまいました。

洗濯機の横にある洗面台も、やたらシールが貼り付けてあります。

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ごていねいに「このラベルははがさないでください」と書かれていますね。見た目にとてもかっこ悪いしシンプルさに欠けるのではがしてしまいたいんですけど、賃貸物件なのでそう勝手なこともできません。しかも「はがした部分は、跡が残ります」などと警告されてもいますし。

水まわりも、こんな感じ。

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こういうシールやラベル、注意してみると本当に驚くほどたくさんな貼られています。しかもいったん気づいてしまうと、もうその過剰さが気になって仕方がありません。

こういう説明や注意喚起を文字で長々と記さなくても自然に手や身体に馴染み、使い勝手がよいというのが本来のプロダクトデザインのありようだと思うんですけど、日本のこの異様なまでの注意喚起っぷりには軽い絶望を覚えるほどです。外国の方々から「過剰なほど街に溢れているのに日本人の眼にだけは映っていない」と揶揄される電柱や電線の存在にも通じるものを感じます。

注意喚起のどこがいけないのか、親切心で注意してくれているんだからと思う方もいるでしょう。でもこれ、昨日のテーマにも通じますけど、親切そうな顔をしてその実クレームをあらかじめ回避するための方策ですよね。そしてそれは、我々ユーザーがあまりにもクレームをつけすぎ、「あらかじめ言ってくれなかったじゃないか!」と責任を押し付け合い、自立性・自律性を失っているからなのではないかとも思えます。

この件に関して松原氏は対談で、なぜ海外のスイッチパネルは角が立っていてソリッドでカッコいいのか、なぜ日本のスイッチパネルはホンワカ丸い角のデザインになっているのか……について、角が立ったスイッチパネルは施工時にちょっとでも曲がるとすぐに分かり、それに対してクライアントからクレームがつきやすいからだという話を披露されていました。

うーん、そうなのか。日本人はクレームを出し過ぎなのかもしれません。そういえば駅や交通機関内での過剰なアナウンス、注意書きの多さも、あれこれとクレームをつけられるのでその対策ないしは事前回避策としてあそこまでになっているのだという話を聞いたことがあります。でも私がいつも利用している東急田園都市線の「発車しますと揺れますのでご注意ください」なるアナウンスが聞こえてくるのに至っては、ちょっと病的でさえあると思いますけど。

日本をひとしなみに語ることはできないけれど、総じて今の日本人は細かいところにクレームをつけすぎで、それに対して謝罪しすぎで、その事前回避策としての様々な注意喚起やお断り書き的なものが多すぎると感じています。

でも、松原氏はこうもおっしゃっていました。「あのゴチャゴチャ過剰な所が実は日本のセールスポイントで、それが観光客を引きつけているのかもしれない」と。確かに渋谷のスクランブル交差点などで、多くの外国人観光客がうれしそうに撮影しているのをよく見ますよね。日本の過剰なまでの注意喚起やアナウンスも、海外の方にとってみれば「へええ、そんなことまで注意するんだ!」と新鮮な驚きになるのかもしれません。私にとっては単にストレスがたまるだけですけれど。

以前読んで大いに共感した、この本をご紹介しておきたいと思います。


うるさい日本の私

親切そうな顔をしている日本の家電

もうひとつ、先日参加してきた「SUSONO」のイベントでの話題です。対談のなかで松原亨氏が「日本の家電は『親切そうな顔をしている』」とおっしゃっていたのがとても印象的でした。

確かに、日本の家電って、便利な機能が盛りだくさんで、それの説明も盛りだくさんで、取扱説明書を読むのもおっくうになるほどです。だから「親切」ではあるんですけど、そんなにたくさんの機能をすべて使いこなしている方はどれだけいるのかな。どのユーザーにも親切な顔をしようとあれこれ機能を盛り込んだ末に、どのユーザーにとってもあまり使い勝手のよくない製品になってしまっているのかもしれません。

Apple社の諸製品って、箱を開けると取扱説明書さえほとんどなくて、それでもどんどん使っていくことができて、ただ単に製品に触れていけば心地よい使用環境が待っていますよね。iPhoneMacBookなどと生活家電を一緒に語るのも無理がありますが、日本の家電ももう少しシンプルで使いやすい設計思想になったらいいなと思っています*1

実はこれ、義父と一緒に住むようになったときに、私たちが持ち込んだ家電の使い方を説明するのに一苦労したことからも痛感しています。機能をしぼって、分厚い取扱説明書を読まなくても体感的に使っていくことができる家電が一番助かるなあと思ったものです。

例えばうちで今使っている日本製の炊飯器。炊飯モードの選択肢がたくさんあって、まずは普通の白米か無洗米か、次に炊きあがりは「ふつう」か「もちもち」か「しゃっきり」か「熟成炊き」か、さらに炊飯のタイプとして「白米急速」か「炊きこみ」か「すしめし」か「おかゆ」か「おこわ」か「玄米」か「玄米活性」か「玄米がゆ」かを選べるようになっています。

買ったときは「すんごい、これ! いろんな炊き方ができるんだよ!」と興奮しましたが、使って数年、結局「無洗米のしゃっきり」だけしか使ってません。たまに「すしめし」と「炊きこみ」を選ぶことがあるくらい。

こんなに機能が盛りだくさんじゃなくてもいいから、毎日ふつうにご飯炊くだけのシンプルな家電がよかったなと今では後悔しています。次に買うときは、例えば台湾で売っている「大同電鍋」みたいに、オンにするスイッチがひとつついているだけ→炊きあがったら自動的に保温モードへ→切るときは電源コードを抜く、という究極的にシンプルかつ素朴な家電を選びたいと思っています。

matome.naver.jp

先般、こういう本も出ましたしね。


はじめまして 電鍋レシピ 台湾からきた万能電気釜でつくる おいしい料理と旅の話。

でもまあ、よく考えたら保温機能も要らないんですよね、別に。炊飯だけだったらル・クルーゼやストウブの鍋でも簡単なので、もういっそのこと炊飯器自体をなくしてもいいかなとも考えています。

*1:Windowsパソコンは、やたらゴチャゴチャ詰め込まれている割には「誰にとっても要らない」ような機能やデザインが多く、いちいち「ああしますか? こうしますか?」と聞いてくる点でも日本の家電的に「親切そうな顔をして所帯じみている」と感じることが多いです。

台湾や中国のリノベーション物件

先日参加してきた「SUSONO」のイベント、対談の中で佐々木俊尚氏が「日本の観光地で現在、中国人観光客が騒いでいるのに眉を顰めている人がいるけれど、数十年前の日本人もああだった。にぎやかでゴージャスが好きだった」というようなお話をされていました。

qianchong.hatenablog.com

うん、確かにそうだったかもしれません。筒井康隆氏の『農協月へ行く』という小説もありましたね。ただ、最近の華人、それも若い人たちは日本の若い人たちと同じ感覚で同期しているなあと感じることがあります。あるいは日本人よりもさらに先の「心地よさ」を、その鋭い嗅覚で発掘しつつあるとも。

例えば、すでにいささか旧聞に属しますが、『左京都男子休日』という本が話題になったことがあります。台湾に住む男女三人組が京都観光をするのですが、金閣寺平安神宮などの典型的な観光地ではなく、ブランドショップなどの買い物でもなく、左京区の普通の街角にひそむ「ふだんづかい」で心地よい場所の魅力を紹介しているのです。

seikosha.stores.jp

私も、人の多いところに行くと「人酔い」してしまう体質なので、海外へ旅行したときには人がたくさん集まる観光地にはあまり行きません*1。それよりも普通の街並みや、市場やスーパーや、路地裏などをのんびりと歩くのが大好きなので、このお三方の感覚には大いに共感するものがあります。

ところで、「SUSONO」のトークイベント「住む」では、昨今のリノベーション人気も取り上げられていました。伝え聞くところによると、実は中国や台湾でもリノベーションは盛んです。というか、日本とはいささか異なり、マンションやアパートなどは内装がほとんどない状態で手に入れて自分なりのDIYをするという、どちらかというと欧米の人たちの感覚に近い住宅事情のお国柄なので、このあたりは『Casa BRUTUS』でもぜひ特集してくれたらいいなと思います。もちろん『BRUTUS』や『Pen』などでも、中国語圏の新建築に関する記事はたびたび登場してはいますが。

先月台北で一週間ほど滞在したホテルも、MRT大安駅からすぐの場所にあるリノベーションホテルでした。観光のためのホテルというより「住むように旅する」のにぴったりなたたずまい。外観を見ると分かりますが、このどこか懐かしい低層の団地を思わせる建物、かつてはある銀行の社員寮だったそうです。

富藝旅台北大安 Folio Daan Taipei

www.folio-hotels.com

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※上の大きな写真は徳久撮影、下の小さな写真六枚はホテルのオフィシャルサイトから。

内装・外装ともにシンプルで美しいリノベーションが施され、とても居心地のいい、なおかつリーズナブルな宿泊料金のホテルでした。表参道ヒルズの端っこに残されている旧同潤会アパートにもどこか似ていますね。

また中国でも、建築といえば超高層ビルや奇抜なデザインばかりが紹介されますが、こちらの動画のように心地よい空間をリノベーションで作り出している例を見ると、心地よさやくつろぎ、安らぎ、あるいは「ヒュッゲ」的な価値観は、いまや様々な場所で同時進行的に根を下ろしつつあるのかもしれないと思います。

youtu.be
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日本の方も登場しています。こちらなども「明るいナショナルから陰影礼賛へ」を体現したような住まいと暮らし方ですよね。

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余談ながら、この「一条」というYouTubeのチャンネルは大好きで、映像や音楽の美しさもさることながら、内容があまり難しくなく分量もちょうどいいので、よく通訳訓練の教材に使わせていただいています。
www.youtube.com

*1:台湾では中正記念堂や九份にさえ行ったことがありません。さすがに故宮博物院には行きましたが、人の多さにやっぱりちょっと後悔しました。

暮らしの「ゆるい」心地よさを求めて

一昨日、「SUSONO(すその)」のトークイベントに参加してきました。今回のテーマは「住む」。作家・ジャーナリストの佐々木俊尚氏と、雑誌『Casa BRUTUS』編集長の松原亨氏の対談がメインのイベントです。

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susono.life

ハードとしての「家」からソフトとしての「暮らし方」、さらにはITやデザイン、音楽など、話題は多岐にわたって大変面白かったのですが、日本人の住まいや暮らし方、さらには生き方に対するマインドがこの20年ほどの間に変化してきたというお話が特に興味深かったです。

変わる「節目」はどこだったか。それはやはり2008年のリーマンショックと、2011年の震災・原発事故だというのが松原氏の見立てです。このあたりから『Casa BRUTUS』読者のマインドが変化したと感じた松原氏は、その頃編集長に就任したこともあって、編集方針を大きく変えたそう。それはまず「家の外から中へ(年に一度行う住宅特集の表紙も、家の外観から家の中へと変化しました)」、そして「モノを売る」視点から「暮らしのスタイルを売る」視点へ。

確かに以前の日本人は家の中にはあまりお金をかけず(居間に蛍光灯ひとつで照明器具は完結、とか)、その一方で自動車や洋服など人に見える部分によりお金を使っていました。ところが、2018年の今ではまず洋服が売れなくなった。ブランドを追い求めるより、安くて着心地がよくてシンプルなもので十分じゃないかと。

食事も「高級フレンチなどの外食」より「うちごはん」がより魅力的なものとして注目され、家族や親しい人が集まってわいわい楽しみながら料理を作り、食べることができる「アイランド型キッチン」が人気に。家は「新築信仰」いまだ健在ながらも、リノベーション物件も人気になり、さらに一国一城の主的な「マイホーム信仰」よりシェアハウスやシェアコミュニティや、さらには複数の拠点を移動しながらの住み方を模索する人も。

対談では、こうしたマインドの変化を象徴的に捉える言葉として「明るいナショナルから陰影礼賛」へという切り出し方がされていましたが、この表現、個人的にはとてもしっくり来ます。

これに関して、ここ数年の「シンプル」や「ミニマリズム」が究極まで行きつくと、今度は反動で暖かみや複雑さ、ゴチャゴチャ感、落ち着きたい、ひっそり暮らしたい、という感覚が愛されるようになったという視点も面白いと思いました。そういえば「ヒュッゲ」も静かなブームになっていますね。何というのか、暮らしの中に「ゆるさ」とか「隙」とか「完璧でないことの温もり」みたいなものを欲するようになったということかな。

qianchong.hatenablog.com

音楽の聴き方にしても、カセットからCD、ストリーミングとどんどん見えなくなり簡便になってきた流れの中で、デジタルネイティブ若い人たちは逆にカセットやLPレコードのようにリアルで「めんどくさい手順」が面白い、愛おしいと思うようになってきたというのも、通底するマインドは同じではないかと思います。

なにより全員がそのブームに乗っかるという時代から、それぞれがそれぞれの「小確幸」を求めて、暮らし方も多様性とロングテールの時代へ入った(これはこの先も何度も振り子のように双方からの揺り戻しがあるのかもしれませんが)ということですね。かくいう私も、つい最近までは「ミニマリズム」に憧れて、破竹の勢いで家の中を「断捨離」してきたんですけど、最近「ちょっと待てよ」と思うようになりました。

佐々木氏がおっしゃっていた「効率化社会の中で、あえて効率で考えない人たちが増えてきた」という総括は肯けるものがあります。

「こんな家に住みたい!」をテーマに参加者で話し合うワークショップや懇親会もあったんですけど、こちらは少々時間が足りず、参加者がかなり多かったこともあって、そこまで深い話し合いにはなりませんでした。でもまあ「SUSONO」のコンセプトは「ゆるやかにつながる」ですから、これくらいがちょうどいいのかも知れません。

ファッションビジネスにおける「華人率」

先日、とある大学の修士課程研究発表のお知らせに接しました。

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実はこれ、私が嘱託でお邪魔している学校のものなんですけど、発表者名をながめていて、驚きました。お名前から判断するに、13名いる発表者のうち、日本の方はおひとりだけ。あともうおひとり韓国の方がいて、その他はすべて中国や台湾(あるいは中国語圏)の方です。

この修士課程は「ファッションマネジメント専攻ファッション経営管理コース」といって、「ファッションビジネスの経営者・起業家・プロデューサーを育成するコース」とされています。この学校ひとつだけを抜き出して全体を推し量ることはもちろんできませんが、日本の大学院で、ここまで「華人率」が高い修士課程があるなんて、おもしろいと思いました。そして現在、中国語圏のファッションビジネス(アパレルビジネス)がどれだけ「日の出の勢い」なのかもわかるような気がします。

東京では、例えば表参道のファッションブランド店舗が密集する地帯などを歩いていると(私は所用があって週に2~3回歩いています)、そこここから聞こえてくるの中国語、あるいは韓国語の多さに気づきます。ウィンドウの奥に見えるお客さんも、アジア圏の旅行客が多いようにお見受けします*1

学校でファッションのマネジメントや経営管理を学ばれている方々に中国語圏の方が多いのは、これから先、中国語圏でのそうしたお仕事が激増するだろうという予想が背景にあるのでしょう。いっぽうで日本の方が少ないのは、日本ではこの業界はもう成熟し、飽和しきって発展の余地がないと踏まれているからなのでしょうか。あるいは、日本人学生は日本国内の美術系学校では飽き足らず、ニューヨークとかパリとかロンドンとかミラノなどのファッションスクールに大挙して留学している、ということなのでしょうか。

百貨店などの高級ブランドが販売不振という報道にも接したことがありますが、日本ではファストファッション一強が亢進しすぎて、ファッション業界自体が衰退しているのかもしれません。洋服が売れない、というのは新聞などの報道で何度か見聞したことがありますが、確かに安くて、シンプルで、着心地がよければそれでいいじゃない、というマインド、最近は重視されているような気がします。かくいう私だって、ふだんの服のバリエーションは極めてシンプルというか没個性的だもの。そういえば「ノームコア」という言葉もありましたね。

ちょっと興味が出てきたので、ネットで「ファッション 不振」などのキーワードで検索をかけてみると、「国内のアパレル産業が空洞化している」という主旨の記事がいくつか見つかりました。例えばこちら。

business.nikkeibp.co.jp

そしてこの記事で紹介されていたこちらの本、学校の図書館に入っていたのでこれから読んでみるつもりです。


誰がアパレルを殺すのか

*1:外見だけでは特定できないけれど、ファッションの傾向や立居振舞い、あるいはヘアスタイルやメイクの傾向などで結構的中します。二十年ほど前に比べるとかなり見分けにくくなってはきましたが。

日本語読みで呼ばれたい?

昨年の8月、東京新聞の投書欄にこのような意見が載りました。

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確かに、例えば私の苗字である「徳久(とくひさ)」は、英語だと“Mr. Tokuhisa.”と呼ばれる*1のに、中国語では“徳久先生(Déjiǔ xiānsheng)”と「徳久」の漢字が中国語読み(カタカナでは正確に表せませんが「ダァジゥ」という感じ)されます。投書をされた方はそれがイヤ、ということなんですけど、英語の状況を中国語にもそのまま持ち込むのはどうかな、と思いました。

理由は、①「ダァジゥ」のようにカタカナでの「固有の読み方」には限界があり、読んだところで正確でもないし原語尊重にもならない、②人名は様々な例外があり読み方の統一は却って混乱を招く、などです。

中国人名(華人名)の読みのややこしさについては、こちらの記事をご覧ください。「死ぬほど」面白いです。
blog.livedoor.jp

それから十日あまり経った頃でしたか、この投書に対する賛否両論が載りました。

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上の方のような統一性と利便性を説くご意見はTwitterでも多く見られましたが、これはもう、声調の存在をはじめとする中国語の実相や、実際の中国人の言語生活に触れてみてくださいと申し上げるしかありません。

漢字を共有していても、いや、共有しているからこそ、それぞれの文化で異なる音や解釈が生まれ、時に面倒くさくて複雑ではあるけれど豊穣な世界を生み出している。統一性や利便性など気持ちよく斉一な方向に持っていきたいのは分かるけど、もっと現実の人間の営みと言語の実相を見つめるべきではないかと感じました。

ほんとうの国際理解、異文化理解、異文化交流とは、互いに異なり複雑な現実を踏まえつつ、受け入れ、時に清濁合わせ飲みながら落としどころを探ることであって、気持ちよく斉一的な方向に持っていくことではないと思います。

この点、様々な国や地域からの留学生が集まっている学校の、教室での風景には本当に学ぶべきところが多いです。良くも悪くも「グローバル化」しつつある世界で育ってきた若い世代のみなさんは、その多くがオープンマインド、かつ細やかな配慮を知っています。外語を学ぶ意義を如実に体現し、私たちに教えてくれているのです。

この若い方々の寛容さに私たちは学ばなければなりません。例えばこちらのユーチューバーさん、中国語を軸に多様な言語間でここが違うね、ここは似てるねと素直に相手を認めあってるのがいいな〜と思います。

t.co

シャンシャン騒動

ところで、中国語の発音というのはなかなか厄介で、つい最近もこんな「騒動」がありました。騒動というほどのものでもない、どちらかというとほほえましいハプニングですけど。

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……と思っていたら、年が明けた1月5日、なんと去年の8月に最初の投稿をされた方が、この「香香・杉山」問題に再「参戦」。さらにそこから十日ほどして、この投書対する意見が二つも投書されていました。う~ん、みなさんこだわってらっしゃる*2……というか、東京新聞の編集子がこだわってるのかな。

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やはり英語で“My name is イワムラ”というのだから、中国語でも“我姓イワムラ”と言いたい、ということですね。

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「中国人が読める漢字で書け」というのは面白いですね。例えば“伊瓦穆拉”とかね*3華人が聞くと、漢族でも日本人でもなく少数民族の方だと思われるかもしれませんが。

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アルファベットを中国語に混ぜるのはどうだということですね。確かに最近はそういう文章も増えてきましたし、特に若い世代の華人は、中国語の文章にアルファベットを混ぜるの、あまり抵抗はないみたいです*4。でもローマ字だからってお望み通りに読まれるとは限らないですよね。例えば“Sugiyama”だって、「スヤマ」とか「スッグイヤマ」などと読まれてしまうかもしれません。結局はみんな母語の影響から逃れられないんですから。それも無意識のうちに、脊髄反射のうちに。

最初の投書をされた「英会話塾長」氏が繰り返しおっしゃっているのは、要するにアイデンティティの問題なのだと思います。が、お前は確固たる自分というものがないのかと叱られそうだけど、異文化理解や異文化交流、あるいは外語の学習って、アイデンティティを揺さぶられるから面白いんじゃないでしょうか。

中国語の入門クラスを教えていたときも、ときどき「日本語の姓名を中国語読みされるのがイヤ」とおっしゃる方はいらっしゃいました。でも私自身はというと、初めて中国語を学んだとき、単純にもうひとつ読み方ができて楽しい、面白いと思い、アパートの表札にまでピンイン(中国語の発音を表すアルファベット表記)を出しちゃったくらいのお調子者です。

留学生の事務手続きで入管に行き、順番を待っていると「徳(とく)さ〜ん、徳久圭(とく・きゅうけい)さ〜ん」と呼ばれ、嬉々として「はいはい、徳です」と応じたこともあります。この話はその後たびたび授業の「ネタ」として活用させて頂いています。さらには中国名「銭衝」まで自分につけてしまいました*5。そんな私ですから「中国語でも名前を日本語読みして欲しい」と仰るそのこだわりがよくわからないのです。まあ、英語の先生でいらっしゃるからかな。

以上のようなことを複数の華人に話して意見を求めてみたら、やはり華人にとっては漢字と音が分かちがたく結びついているので、母語の音で読まないと何も印象に残らず、深い理解に達することはできないそうです。この点、漢字だけですべてを語る華人の言語世界に我々はもう少し想像の翼を広げてみたいところです。そして華人は漢字だけでおちゃらけたことから難解なことまで語るとのだいう点についても。実はこの点が、我々日本語母語話者が一番体感できていないところではないかと思っています。

最初の投稿をなさった「英会話塾長」氏には、ぜひ中国語を学んでみていただきたいと思います。……と、あれ、すでに学ばれていたんでしたっけ。困ったね……。

*1:実際には“Toku…what?”などとなって、きちんと呼んでいただけたことは皆無ですが。

*2:年配の男性ばかり、というのがなんとも象徴的ではありますが。

*3:これで中国語(北京語)では「イーワームーラー」に近い音に聞こえます。

*4:昔、中国語を学び始めた頃、“东京Dome”(東京ドーム)と書いたら中国人の老師(先生)に「そんな中国語はありません!」とおこられました。

*5:留学していたとき、中国人の友人に「チャイニーズ・ネーム」が欲しいんだけどと言ったら、彼女のお父様が私をじっと見て「うん、君は“銭衝”という顔をしてる」と授けてくれたのです。

カリカチュアの危うさ

昨日書いた「クックドゥ」のCM、その奇妙な中国語の発音について書きましたけど、これ、もしかするとギャグでやっているのかもしれないな、と思いました。

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異文化や異言語を題材にして「カリカチュアライズ(戯画化)」するというの、お笑いの一手法ではありますよね。漫才などでも大阪VS東京みたいなネタはおなじみですし、中国語の漫才にあたる“相聲*1”でも、方言の違いをネタに取り上げるのは古典的な手法です。

例えば、こちら。

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先住民族の会話は情熱的だからそのぶん「長ったらしい」けど、中国語(國語)はそれを四文字、台湾語なら三文字、客家語なら二文字、そして山東方言なら一文字で表現できちゃうと。わはは。こういうのを聞くと、やはり中国語の“相聲”は「言語芸術の精華」だなあと思います。

ただ、この“相聲”はまだしも、こうしたカリカチュアは表現の仕方によっては差別的なニュアンスを帯びる危険性があります。異なる言語のネイティブが見聞きすれば、どこかバカにされたような気になることもあるのではないでしょうか。この点で、くだんの「クックドゥ」CMは少々危ういかなと思ったので、試みに中国語母語話者の留学生にこのCMを見てもらい、感想を聞いてみました。

まずは「なんだこれ〜」という笑いの反応。それにジャニーズの山田涼介氏がカワイイという反応(まあ、それは置いておいて)、続いて、やはり「ちょっと不快」という反応も見られました。中国語とはこんなものという勝手なイメージで、どこか軽く扱われている感じがするようです。確かに、これを逆の構図に置き換えて、例えば諸外国の芸人さんが奇妙な発音で「スーシー、テンプーラー、フジヤーマー、ゲイシャー」などとはしゃいでいたら、ちょっとムッとしませんか? え、しない? そうですか……。

勝手なイメージといえば、先日はTwitterのタイムラインにこのツイートが流れてきました。

この記事ではまず台湾における「日本女性」のステロタイプなイメージを紹介しています。それは、①日本統治下にあった当時に起源があると見られる「淑女」というイメージ。②家事に長け、夫に尽くすといういわば「良妻賢母」的なイメージ。③台湾では「原則的」に販売が禁止されているAV、つまりアダルトビデオに登場するいわば「消費される性」としてのイメージ、です。

こうしたステロタイプなイメージに乗っかる形で、現在台湾で活躍中の日本人女優が男性用避妊具を手に微笑むといった構図の広告を打つのは、日本人女性に対する一面的な見方の助長という点でも、性差やジェンダーの意味や実相の多様性が再認識されつつある現代の視点からも、かなり危ういのではないか、というのが記事の骨子でした。

広告の受け取り方は人それぞれだとはいえ、筆者の栖來光氏がおっしゃる通り、台湾のこの避妊具の広告は日本人女性へのステロタイプな、しかも多分にセクシャルなイメージを利用しているのは明らかではないかと私も感じました。心中穏やかならぬものを覚えます。

実際私自身も、台湾で同僚からこうしたステロタイプに乗っかった物言いを聞かされたことがあります。また台湾の、例えばバラエティ番組などで、出演者が“牙買碟(yámǎidié=やめて)”や“一庫(yīkù=いく)”などの“A片(アダルトビデオ)”を連想させる台詞をベースにした台湾風日本語で下卑た笑いを取るのを見ていて「ムッとした」こともありました。

異文化や異言語に対するカリカチュアは、ある程度まではユーモアとしての笑いをさそい、コミュニケーションの潤滑油にもなるとは思います。また、多少言葉をからかわれても「そっちこそ」と返すくらいの逞しさ*2もあってこその異文化コミュニケーションでもあろうとは思います。

でもやっぱり、そこはそれ、異文化異言語の人と日頃からつながっておいて、少しでも「危ういかな」と思ったらとりあえず意見を求めてみる、という慎重さも必要じゃないかなと思った次第です。この二つの広告からは、異文化や異言語を利用して伝えようとするときのある種のデリカシーのなさを感じてしまったのでした。

*1:シャンション(xiàngsheng/xiàngshēng)。落語や漫談のように一人で行うものから、二人、あるいはコントなどのように三人以上の場合もあります。

*2:例えば「大阪人は『でんねん、でんねん』うるさいな」と言われたら「東京もんかて『じゃん、じゃん』うるさいやん」とか、「日本人は“很好”の“很”がベタベタの『ヘン』で、なんかヘン」と言われたら「韓国人だって“在”が『ジャイ』だから“現在不在”が『シェンジャイブジャイ』で、意味なくカワイイ」みたいに応じる、といったような。分かりにくくてすみません。

チェックしてもらえばいいのにな

海外へ行くときは、たいがいWi-Fiのルータをレンタルしています。先日台湾へ行ったときも、空港で借りて空港で返せるルータを借りました。

台湾では、ホテルやカフェなどでたいがいフリーWi-Fiが使えるので、あまりレンタルする必要もないほどなのですが、街中やWi-Fiがない場所でも紙の地図やガイドブックを持つことなく「ストレスレス」で検索をしてあちこちへ動きたいので、まあそれほど高いレンタル料でもないしということで、必ず借りています。

と、出発前にレンタル会社からDMが届きました。「今回の台湾渡航にカンタン翻訳機iliを持っていきませんか?」と、携帯音声翻訳機*1「イリー」をおすすめする広告です。

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なるほど、このようにレストランで「これが食べたい」と言えば“我想吃這個”と訳してくれると。この「イリー」は、旅行会話に絞って、しかも双方向の通訳ではなく一方向のみ(日本語から英語・中国語・韓国語)に特化し、ネット接続なしにオフラインで使える「ウェラアラブル端末」だそうです。なかなか考えられた開発コンセプトです。これなら確かに、紙の旅行会話集などを持っていくよりはるかに便利そう。

iamili.com

さらにはこの写真のように、頼んだものと違う料理が出てきたときも「イリー」があれば安心です。

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「頼んだ料理と違います」と言えば“你差,我問菜”と訳してくれる。おっと、これは意味不明の中国語です。あえて訳せば「あんたはひどい、私は料理を問う」とでもなりましょうか。

う〜ん……ストレスなく使えるようになるためには、もう少し時間がかかりそうです。でもこうした技術はいまや日進月歩ですから、近い将来にはとても役立つ道具に進化するかも知れません。一日数百円のレンタル代だそうですから、次回は私も借りて色々と試してみようかな。

ところで、音声翻訳機はまだ発展途上だとしても、せっかくのDMに上記のような明らかな「誤訳」を載せてしまうのは商売上よろしくないと思うんですけど、プロの翻訳者やネイティブスピーカーのチェックは入っていないのでしょうか。ほんの少しのコストで広告の信頼度もぐっと上がるのに、もったいないではありませんか。

チェックが入っていないといえば、こちらのCMも。

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この「炒青菜」と「天津飯」の奇妙な発音も、ほんの一日、いや数時間程度でも中国語教師やネイティブスピーカーを雇って発音をチェックし、指導してもらえば、SNSの中国語クラスタを爆笑の渦に巻きこまなくて済んだのに、残念でなりません。

*1:「通訳機」といわず、わざわざ「音声翻訳機」というのがおもしろいです。

江戸前風ばらちらし

よしながふみ氏の『きのう何食べた?』第13巻に登場していた「江戸前風ばらちらし」。

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「お誕生会の定番・ちらしずしをアレンジ」した大人向けのレシピで、煮あなご、マグロの漬け、えびのうま煮、アボカド、「ガッテンの卵焼き*1」、いくらの醤油煮が載っています。

料理マンガながら、ストーリーもなかなか現代的で奥深いと夙に評判の『きのう何食べた?』、ここ十年あまりリアルタイムで読み続け、なおかつもちろん料理本としても日々活用させてもらっています。このマンガのレシピは本当に気をてらわない美味しい家庭料理ばかりで、その信頼度は私の中では小林カツ代氏の料理本と双璧をなします。あまりに好きなマンガなので、知人にプレゼントしたことも何度かあります。


きのう何食べた? 13

このマンガの希有なところを上げれば、ゲイなんだけどカミングアウトはしていない弁護士・筧史朗という主人公の設定や、個性豊かで人間味溢れる周囲の登場人物たち、ごくごく庶民的な材料を使うことがほとんどであるというレシピの実用性など数多あるのですが、それに加えて、現実世界とほぼ同じ時の流れが保たれているというのも、なかなか珍しい点ではないかと思います。

第1巻で、弁護士事務所のスタッフをして「芸能人でもない43歳の男であの若さと美貌ははっきり言って気持ちが悪い!!」と言わしむる筧史朗は、それから約十年経った現在の第13巻では52歳。つまり、連載の進行とほぼ同じ速度で登場人物たちも歳をとっているのです。『サザエさん』や『ちびまる子ちゃん』などの登場人物が何十年経っても同じ年齢であるのとは好対照です(……と引き合いに出しても始まりませんが)。

そして私事ながら、自分も筧史朗とほとんど同じ年齢であり、仕事をしながら家庭では炊事や買い出しなどの家事を担当しているので、何というか、とても共感するところが多いのです。加えて年老いた両親との関係や、身体の状況の変化、忙しい仕事や世間との関わりの中にも自分なりの「小確幸」を大切する生き方……自分の暮らしに重ね合わせるように読めるマンガが同時代にあるというのは、僥倖だと思っています。

作者のよしながふみ氏は、そのグルメエッセイマンガ『愛がなくても喰ってゆけます。』で、どんなに仕事が忙しくても食事は冷蔵庫に残った材料を組み合わせてひと工夫することに余念がないというこだわり——金にものを言わせるグルメではなく、本質的に美味しい物が好きという食への愛情——を垣間見せています。私は、筧史朗を通して表現されている、よしながふみ氏の「食の哲学」に共感しているのだと思います。


愛がなくても喰ってゆけます。

とはいえ、スーパーのチラシを熟読玩味し、少しでも底値の時を狙って「狩り(買い物)」をする筧史朗的な倹約ぶりまでは私には身についていません。生来のどんぶり勘定人間でありまして、この点私は、筧史朗のパートナーで、食べたいときにはコンビニで定価のハーゲンダッツを買って来ちゃうような矢吹賢二に近いと思います。

*1:NHKの旧『ためしてガッテン!』で紹介された作り方。「ガッテン 卵焼き」で検索するとたくさんヒットします。