インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

沒想到保健節目超級有趣。

春雨綿綿無事可做,旅社裡一直觀看保健節目。沒想到超級有趣。
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羅東夜市逛了一圈,發現大排長龍的攤位就是這兩家:阿灶伯當歸羊肉湯+臭豆腐三星蔥多餅。在加這家林場肉焿,都合我的口味。
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花蓮街上偶然碰到的這位鵝肉先生,肉有前後兩種:前是瘦肉、後為肥一點。考慮到下次體檢,我選擇了前肉。一點腥味都沒有,讚。
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富有正能量的站名組合。
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到了玉里,終於在區間車廂裡都沒有人了!
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綠油油的池上稻田,可惜天氣不太理想,但在「金城武」樹下果然有這麼多人。
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說起池上,那就要吃便當了。外帶時老闆反覆提醒快點吃、趁熱吃。米飯香甜軟Q,可以說是較硬的口感,我很喜歡。
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沒想到法師講話格外有趣。

晚上下雨無事可做,旅社裡一直觀看法師講話。沒想到格外有趣。
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十幾年前我愛聽楊家成的「妳的理由」,MV拍攝地點原來就是這八斗子附近的復育公園! 海上看到的是基隆嶼。
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楊家成 - 妳的理由 (官方版MV)

福隆便當已在月台停賣,但其美味真是名副其實。
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宜蘭車站已被幾米先生佔領。
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解らない人には解りはしません

白洲正子氏の『お能・老木の花』を読みました。能を紹介する本は色々と読みましたが、ここまで繊細で、かつ一種の気魄というか情念のようなものを帯びつつ迫ってくる文章は初めてでした。間に挟まれた芸談梅若実聞書』も実に読み応えがありました。

梅若実聞書』に、芸事の稽古では師匠(梅若実氏の場合は父上)が単に「そこが悪い、ここがいけない」と言うだけ、ちっとも教えてはくれないという話が出てきます。しかし氏は老境に至ってこう言うのです。

いくら説明しても、解らない人には解りはしません。昔の教え方はいかにも意地が悪いようですが、始めのうちはともかくも、少し上達すると、実際教えようにも教えられない事ばかしです。自分にはよく解っているのですが、さて口に出していう段になりますと、どうも間違った意味にとられるおそれがありまして、ついだまって止してしまうという事になりますが、……能というものは、出来るだけしか出来ないんですからやはりふだんの稽古だけが大切なようでございます。辛抱強く数をかけることですね。

う〜ん、何でもかんでも自分に引き寄せて解釈しちゃいますが、これって語学でも通訳でも翻訳でも同じですよね、いや本当に。

ふだん通訳学校や語学学校では通訳や翻訳の授業を担当しています。自分もかつてそういう学校に通っていたことがあり、なおかつその時の小さな不満は「訳出する時間が少なすぎる」というものでした。例えば通訳だと、ひとクラスに十数名の生徒がいるので、三時間ほどの授業で自分に訳出が回ってくるチャンスは数回しかありませんでした。

そこはそれ、他の人があたっている時でも自分の頭の中で、あるいはごくごく小さな声で訳出の練習をすればいいのですし、もとより週一回三時間程度の授業だけで訓練の成果が出るはずもなく、訓練の大半は自宅での「自主トレ」であることは承知していました。とはいえ、やはり「本番」でドキドキしながら訳出をして、それに対する講師やクラスメートの意見、なかんずく、自分では気づかないでいたポイントを指摘してもらえるのは非常にありがたいことでありまして。というか、通訳学校に通うメリットはひとえに、そこにこそあると言っても過言ではないわけでして。

そこで、自分が講師の立場になったときには、できるだけ訳出の時間を増やそう、それに対するフィードバックもたくさん行おうと思ったのです。

ただし、数時間しかない授業時間で大勢の生徒さんに訳出をしてもらおうと思ったら、いきおいLL(やCALL)で一斉に録音し、それを後で聞いてひとりひとりにコメントを返すしかありません。それは授業以外にも自宅などで延々録音を聴き、レビューを書くという大量の「時間外労働」の発生を意味するのですが、それでも生徒さんのためになるのならば、とそのスタイルを堅持してきたわけです。

ところが。

梅若実氏の顰みに倣って言うならば「いくら説明しても、解らない人には解りはしません、意地悪なようだけど」なんですよね。通訳でも翻訳でも、訳出内容の適否以前に、大きな声でイキイキと話すとか、ホスピタリティを感じさせるとか、「です・ます」で話すとか、「えー」や「あー」などの冗語をなるべく差し挟まないとか、「○○のぉ⤴、○○がぁ⤴」のように助詞や語尾を不必要に上げ調子で強調しないとか、基本中の基本、鉄則があるわけです。翻訳なら「段落の最初は必ず一文字あける」とか「句読点や記号の使い方に留意する」とか。

そうした指摘をうけて、どんどん自分を改善していく方もいます。でも一方で、何度指摘しても同じパフォーマンスを繰り返す方もいる。レビューには毎回同じような指摘が並ぶことになります(実際には「芸がないかな」と思って表現をあれこれ変えますが)。……これは学校の営業的にはタブーの物言いですけど、そういう方はこの仕事に「向いてない」のです。もちろん向いてなくても学ぶ自由はあります。私だって後から考えれば全く向いていなかった分野を、大学では専攻していましたしね(それでもなにがしかの人生の糧になってる)。

以前ならそういう生徒さんに強い口調で迫ったりもしましたが、もうそういうことはやらないようにしました。梅若実氏の仰るように、言ったからといって、解ってもらえるわけでもないんですよね。それよりも「辛抱強く数をかけ」、生徒さん自身の中から何かが醸成されるのを待つべきなのでしょう。いや、むしろ教師の役割はそれを信じて(よい意味での)プレッシャーをかけ続け、励まし続けることだけなのかもしれません。もとより語学は「辛抱強く数をかけ」ることでしか習得できないものですし。

ところで、通勤電車の中で梅若実氏のこのくだりを読んでいたく共感したので、付箋を貼ろうと思うも手元に付箋がありませんでした。仕方がないのでページの端を折ろうとしたら、なんと先に誰かが折った跡がついていました。この本はAmazonマーケットプレイスで買ったのですが、前に読んだ方も、ここで同じようにご自分の仕事に通じる何かを感じられたのかしら。

煙のゆくえ

ぶらりと立ち寄った書店で平積みになっていたこの本、面白そうなので買ってみました。わら半紙のような風合いの紙にコーティングした感じの表紙で、カバーも帯もなく角がカーブの裁ち切りになっている素敵な装幀です。

K氏の遠吠え 誰も言わへんから言うときます。 (コーヒーと一冊)

K氏の遠吠え 誰も言わへんから言うときます。 (コーヒーと一冊)

著者の江弘毅氏はTwitterのタイムラインでお見かけしたことが何度もあるけれど、ご著書を読んだのは初めてでした。関西弁の、ちょっと無頼派風な語り口で「これ、ちょっとおかしいんちゃう?」と世の中のあれこれを論じる本ですが、極私的なお話があちこちに飛ぶので、正直に申し上げて論旨はあまり頭に入ってきませんでした。

まあそれも文体というか芸風であると理解して、この本を含むシリーズのコンセプト「コーヒーと一冊」に従って、気楽に読み飛ばせばよいのかもしれません。しかしながら、喫煙に関する一文だけは気楽に読み飛ばすことができない引っかかりを感じたので、それを書いてみようと思います。

詳しくは同書を読んでいただくしかないのですが、江氏は「『タイトル、まだ決まってません。』的な禁煙の話。」という一文で、喫煙についてこのようなお考えを披露されています。

煙草は酒に比べて害がない。
やめたくてもやめられないのがニコチン中毒の怖さだ。
煙草を吸う理由は、うまいからだ*1
煙草は仕事をしながら吸える。酒はそうは行かない。
煙草を吸いながら車の運転もできる。酒はそうは行かない。
禁煙を真剣に考えているが、ニコチンパッチやニコレットを使うのは「ヘタレのやること」だ。
煙草が原因で喧嘩はしないが、酒は暴力や人格破綻や精神障害や自殺の引き金になる。

以上は本文中の文章そのままではなく、私が抽出したものですから、江氏ご本人のお考えが十全に反映されているとは言えないかもしれません。ぜひ同書を買い求めてお確かめいただきたいと思います。ですが、ここにはひとつだけ、喫煙者特有の思考法が如実に表れているのを見て取ることができます。

それは「他者への視線がほとんど含まれていない」という点です。

これまで喫煙を容認・擁護・賛美・正当化……するあまたの論者の文章を読んできましたが、そこに共通するのはこの「他者への視線の欠如」です。個人の嗜好品なのだから、他者への視線も何も、と思われるでしょうか。いえ、その行為の結果が個人の範囲にとどまらず、周囲の他者をも強引に引き込んでしまう喫煙においては、決して欠かしてはならないポイントだと私は思います。

回りくどい書き方はやめましょう。喫煙最大の問題は煙です。その煙のゆくえが、周囲の人間にとって前触れなくかつ不可避的であるとともに、喫煙行為を行っているご本人さえ制御不能だという点です(やはり回りくどいですね)。他の話題では素晴らしい論旨を展開している賢人や明哲が、こと喫煙の問題、なかんずく煙のゆくえの問題になるとそれこそ人を煙に巻いたような論を繰り返すのはなぜなのでしょうか。養老孟司氏しかり、内田樹氏しかり、池田清彦氏しかり……。

江氏のように、煙草を酒と比較して擁護するのは古典的な論法ですが、そもそも同一に論じること自体がおかしいのではないかと思います。それぞれにメリットとデメリットがある、それは当然のことです。何も煙草や酒だけに限ったものではありません。しかし、煙草の「他者」へもたらす迷惑については、これは他の嗜好品と一列に論じるわけにはいきません。それは煙草が発する煙が広範囲に拡散するからです。

いったん自分の口や鼻や、手にした煙草の先から放たれた煙は、ご本人の意志とは全く無関係に様々な方向へ拡散するのです。拡散した瞬間、個人の責任範囲に押し込めておける問題ではなくなります。「俺は俺の自由と責任において吸っているんだ」と言っても、それは空語に等しいのです。放たれた煙を物理的に制御することができない以上は。

こう言うと、じゃあ車の排気ガスはどうなんだと反論してくる方が必ずいらっしゃいます。これも古典的な問題のすり替えです。車と煙草では、社会における必要性と貢献度が全く違います。もちろん人間社会に完全無欠な理想の状態などありえない。それでもできうる限り公益を増す方向で様々な試みや努力が重ねられています。車の排気ガス抑制のために、ハイブリッド車電気自動車燃料電池車、さらにはカーシェアやカーボンフリーの取り組みなど。

一方で煙草は? 分煙・禁煙・自治体単位での歩行喫煙の制限など様々な取り組みがなされてはいますが、一嗜好品であるにも関わらず、いまだに喫煙者「個人」の思惑と私欲が半ば放置されたままではありませんか。

こう言うと、喫煙擁護派の方々からは、人権無視だ、管理社会だ、余裕のない社会だ、人間としての振り幅や曖昧さを全てカットしようとする現代人の病だ……みたいな反論が寄せられます。そんな難しいことを言ってるんじゃありません。あなたが煙草を吸うのは全く自由、100%自由です。ただし、その煙を私が、時と場所を問わず不意に、一方的に、制限なく吸わされるのは勘弁してくださいということです。それだけ。

それだけを実現するために何をすればいいか? それこそ、その自由を享受しようとする喫煙者自身がまず率先して考えるべきだと思いますが、なぜかそこに触れた喫煙者による喫煙論は見かけません。もし私が喫煙者であれば、いろいろと考えた上で「まず自分個人の部屋の中でしか吸えない、もしくはお互いに吐いた煙を吸い合ってもよいという合意が成立していると考えられる喫煙所のような密閉空間でしか吸えない」という合理的な判断に行きつかざるを得ないと思いますが。

もちろん、様々な人間が一緒に生きている社会の中で、現実的に折り合いをつけていくことは大切でしょう。私だって喫煙という一種の長い歴史を持つ「文化」が、今すぐこの世の中からなくなる、あるいはなくなってしまえ、と思っているわけではありません。少しずつ少しずつみんなが気持ちよく生きていける方向へ持って行くしかないでしょう。ですが、江氏のように、それを単なる個人の芸風に落とし込んで斜に構えるだけで、ちっとも他者に、そして「煙のゆくえ」に想像を向けないのはとても不誠実な態度だと思います。

無頼を気取るのもけっこう、「オレとこは家系がガン体質ちゃう、どっちゅうことあるかい」と強がるのもけっこう、昨今のせちがらい風潮を嘆いてみせるのもけっこうです。でも、拡散する煙という物理的特性を持った煙草という問題に関して、単に「俺はバカだから自分の身体に悪いと思っててもやめられへんねん」とだけ言われてもね……。

総じて江氏のこの喫煙に関する文章は、オレがオレがだけで他者への視線が感じられません。私は江氏とは一面識もありませんから「大きなお世話」と言われればそれまでですが、もうすこし、喫煙という行為の特徴を自覚していただきたいものです。そしてご自分の吐いた煙のゆくえを追い、想像を働かせてみてください。人間は感情の動物ですから、ああこの方は悩みつつも他者のことも考えて吸っているんだな感が行間から伝わってくれば、私だって多少の煙を吸わされても目くじら立てませんよ(というか街で日常的に吸わされてるけど)。

こういうこと、誰も言わへんから言うときます。

*1:「鮨屋でネギトロで締めてアガリを飲みながら吸うピース・スーパーライトの味は、これ以上のものがないと思っている」そうです。

字幕翻訳のレートがあまりにも低い件について

足かけ十年ほど、途中休みをはさみながらも台湾エンターテインメント関係の字幕翻訳を続けてきました。ドラマやバラエティ番組、それにファンの方々が視聴するエンタメニュースなどの字幕を作るお仕事です。毎週しめきりに追われるなかなかタフなお仕事でしたが、先週でめでたく(?)「卒業」することになりました。

クライアントは、翻訳者にとても理解のある会社でしたが、正直に申し上げればそれほど「稼げる」お仕事ではありませんでした。それでも元々台湾エンタメが好きなこともあり、また原文や音声を読み込んだり聞き込んだりして日本語の字幕を作る作業そのものが面白くて、ここまで続けることができました。

最初に提示された翻訳料はかなりお安かったのですが、こちらから「もう少しなんとかなりませんか」と交渉を持ちかけて、結果そこそこのレートに落ち着きました。それでも労働量に見合った報酬かと言われたら、あるいは人にもお勧めするかと言われたら……正直なところ「微妙」です。

字幕翻訳者募集のメール

その仕事を「卒業」した週明けの今日、こんなメールが届きました。字幕翻訳のソフトを開発している会社経由で紹介された、某社からの「字幕翻訳者募集」のお知らせです。

■言語:英語、韓国語、その他各国語
■ジャンル:ドラマシリーズ作品、長尺作品、ドキュメンタリー作品、情報番組 他
■応募条件:字幕の技術をお持ちの方、もしくはスポッティング技術をお持ちの方。
■料金:
【英語作品】
●スポッティング:分/50円~
●字幕作成:分/350~800円
●字幕リライト:分/125円~500円
【韓国語作品】
●スポッティング:分/50円~
●字幕作成:分/130~600円
●ヒアリング~字幕作成:分/200円~600円

この料金は平均的なレートで、案件の条件や翻訳者の実績等に応じて変動するそうです。もとより英語と韓国語のみなので私は「お呼びじゃない」のですが、それにしても驚きのレートではありませんか。実際に字幕翻訳をやってみれば分かると思いますが、これは「超」低賃金です。

初期投資と実際の細々とした作業

現在、字幕翻訳のお仕事を行う場合、基本的には業界標準のとある専用ソフトを使う必要があります。このソフト、最近になって状況は変わりつつあるもののほぼ一社独占の状態で、競争原理が働いていないため非常にお高くなっています。十年ほど前の私の購入時で約四十万円*1でした。

その高価なソフトを用いて、ドラマや映画なら基本的に台本を元原稿として、またバラエティ番組やエンタメニュースなら原稿がないので映像を直接視聴して、音声や場面に合わせてスポッティング*2し、翻訳文を考えて打ち込んでいきます。最終的にはこのソフト独自の形式でデータを抽出し、クライアントに「納品」することになります。

字幕翻訳は一般的な翻訳とはかなり違う世界で、単に正確に訳せばいいというだけのものではありません。長い間の経験から人間が一秒間に読み取れる字数というものが割り出されていて(一秒間に四文字以内)、その字数の範囲内で達意かつ当意即妙な日本語を書かなければなりません。

また現れてすぐに消え、あとから読み直すことができないという字幕の性質から、単独の字幕ないしは最大二つの字幕で文章が完結しなければいけません。一度に画面に乗せることができる最大の字数は、制作会社によって多少の差はありますが、十二文字×二段=二十四文字程度。もちろん訳注などを差し挟むこともできません。

しかも公共の電波、あるいはインターネットに乗ることが前提ですので、あまり難解でマニアックな言い回しも使えません。案件によって多少の調整の余地はあるものの、基本的には老若男女が読み取ることを前提にしなければならないのです。

また演出的な配慮も必要です。基本は話し言葉ですし、会話なのか独白なのかナレーションなのか等々で文体も違ってきます。ドラマでも映画でも、あるいはバラエティでもエンタメニュースでも、その背景を理解し、前後関係を考え、話している人間のキャラクターまで考慮して*3、少ない文字数と格闘しているのです。

この辺りの事情については、先日亡くなられた太田直子氏が書かれたこの本が参考になると思います。

そんな字幕翻訳特有の作業が諸々あって*4上記のお値段。こんな低いレートでも請ける方がいるのかどうかは不明ですが、早晩業界は崩壊するんじゃないかなあと思います。だって、端的に言って食べていけないもの。私はまあ十年のうちにソフト代の「モト」は取り、利益も出ましたけど。

実際には演出や情景描写の関係で全くセリフが入らず、従って字幕を作成する必要がない部分もあったりします。そういった字幕の「粗密」も込み込みで上記のレートが決まっているのですが、セリフがないからといってその部分を飛ばして見るわけにもいかず(前後のセリフに関係のある描写がなされている可能性が高いから)、結局注意深く映像を見るという作業自体は変わりません。翻訳とは単に文字を右から左へ転がすだけの作業ではないのです。字幕翻訳者は、映像全体を誰よりも深く細かく視聴して、いろいろな調べ物をして、その上で言葉を変換して日本語で書くという総合的な技術を提供しているのです。

通訳と翻訳の合わせ技

台本という原稿があるドラマや映画の字幕翻訳もすごく難しくて楽しいお仕事ですが、バラエティやニュースなどの原稿がないエンタメ字幕翻訳も違った楽しさがあります。なにより「今」を感じられる新鮮な表現で外語耳が鍛えられます。私は毎回、何度聴いても聴き取れない場所で呻吟しながらも、いろいろな表現に接することができ、勉強になりました*5。だけど勉強になるからとはいえ低賃金でいいわけじゃないですよね。

上記の募集で韓国語に「ヒアリング~字幕作成」とありますが、これがたぶん原稿のないエンタメ字幕でしょうね。普通翻訳はある原語の文字から別の言語の文字へと行われる作業ですが、原稿がないエンタメ字幕の場合は、聴き取った音声から文字を起こす作業です。入口は通訳的で出口が翻訳的な「合わせ技」なんですね。でも他の国はわかりませんが、我が日本ではこういう作業にあまり報酬という形での敬意が払われないのが何とも残念です。

訛りがあり、雑音があり、時に曖昧な話し方や文法的に正しいとは言えない話し方もあるのがエンタメ字幕翻訳の難しさであり、また楽しさでもあります。物理的にほとんど聴き取れなくても前後の発言から判断したり、ネットの情報*6で裏を取ったりして。でもそれには本当に本当に膨大な作業量が必要です。だからなおさら、上記のような低賃金はないと思います。

十数年前に私が字幕のお仕事を始めた頃からしても、レートは下がり続けています。こんなことを続けていたら、やっぱりこの業界の先行きは暗いんじゃないかなあと思います。ひとり字幕のみならず、翻訳業界全体の問題ですけどね。

*1:仲介に入ってくださったプロダクションのご厚意で、ここから多少割り引いて頂きましたが。

*2:とても大雑把に言うと、セリフの場所と長さを決めること。実際には一秒よりも短い映像のコマ単位で微調整しています。

*3:例えば自分のことを「私」と呼ぶのか「僕」と呼ぶのか「俺」と呼ぶのか……等々で「キャラ」は全く違ってきます。

*4:実際にはまだまだテクニカルな作業内容があり、例えば音声が聞こえる数コマ前から字幕を出し、音声が消えて数コマあとに消すなど、対応しなければならない事柄が多々あるのですが、煩雑になるので割愛します。

*5:台湾のエンタメには時々台湾語が出現して、これがまた翻訳者泣かせです。でもこれも調べたり勉強したりしてなんとか対応できるようになりました。

*6:熱いファンのみなさんがSNSなどでアイドルの一挙手一投足や発言のあれこれを拾って発信していたりするのです。

「ペラペラ」だなんておこがましくてとても言えない

もうずいぶん前のことですけど、毎日新聞に「村上春樹さん、村上文学を語る」という特集記事が載っていました。当時はウェブ版に未掲載でしたが、今はネットで一部が読めるようになっています。例えばこちら。

http://www.47news.jp/smp/47topics/e/264863.phpwww.47news.jp

http://ikomashinwa.cocolog-nifty.com/ikomanoshinwa/files/jp150501monogatari.pdf

この中で村上氏にインタビューした編集者が「外国語を媒介にして、新しい日本語の文体を発見した」と仰っています。外語を学べば、その言語を使う人々と話ができる「実利」があるのはもちろんだけれど、それのみならず母語の世界を広げることにもなるというのがおもしろいと思いました。

そうなんですよね。外語を学ぶ時によく「ペラペラ」とか「ネイティブ並み」などといった形容が聞かれますが、外語を学ぶことは必ずしも外国人と「かっこよく」コミュニケーションすることだけが目的じゃありません。語学の達人と呼ばれるあまたの先人の言に接してみれば分かることですが、外語を学べば、おのずと視線は母語に向かうようです。さらに言えば、外語学習は実は母語との往還作業であり、母語がベースとなって初めて外語という新たで豊かなフロンティアが開けるものなのです。

だから外語を学べば学ぶほど、母語の豊かさが外語の伸びしろを担保しているのだということが分かります。死ぬまで一生懸命に勉強しても母語で言えること以上に高度なことが言える外語の使い手にはなれないという事実*1の前になんだか謙虚な気持ちになり、したがって「ペラペラ」とか「ネイティブ並み」とか「バイリンガル」などといった形容を使えなくなります。とてもじゃないけどおこがましくて。

私はこの十数年ほど、仕事でかなりの時間をディクテーション(音声を文字に書き起こすこと)に割いてきました。それは教材作りであったり、台本のない映像(バラエティ番組やインタビューなど)の字幕作成であったり、時に自分の興味からや語学の基礎訓練のためであったりもしましたが、とにかく様々な年齢層、様々な職業の中国語母語話者の発言を一字一句書き起こす作業を続けてきました。

それらの発言は、ほとんどが原稿を読み上げるのではなく、その場でその方が「フリーハンド」で語っているものばかりです。その何百人もの中国語母語話者の発言を書き起こしていて今さらながらに気づいたのは、母語話者であっても、その母語のレベルは様々であるという当たり前の事実でした。日本語が母語の日本人だって、ほれぼれするような言葉の使い手がいる一方で、「美味しい」も「美しい」も「感動した」も「失敗した」も「気持ちいい」も「気持ち悪い」もすべて「ヤバイ」で済ませちゃう方もいる。

もちろん私は日本語母語話者ですから、基本的にはどんな発言であっても自分にとっては外語の貴重な教材になります。ところが、やっぱり外語であっても「しょーもない」発言は「しょーもない」し、含蓄のある発言はすぐさま座右の銘に加えたいくらい含蓄があるのです。いや、本当に当たり前のことなんですけど。

村上春樹氏は「外国語を媒介にして、新しい日本語の文体を発見した」そうですが、もともとの日本語が貧弱であれば、いかに外国語を媒介にしようとも新たな日本語の文体は生まれ得なかったはずです。日本で生まれて日本に暮らしている日本人なら日本語ができて当たり前、でもそれでは今後グローバル化して行く世界に乗り遅れちゃうからまずは英語ペラペラに……とつい浮き足立つ昨今ですけど、まずは自分の母語を充実させる努力が大切だと改めて思ったのでした。

*1:幼少期の母語が移民などの結果失われて、外語が新たな母語になるというケースはあり得るでしょうけど。

君たちはどう生きるか

久しぶりに吉野源三郎氏の『君たちはどう生きるか』を読み返しました。手元にある岩波文庫版の奥付を見ると「1982年11月16日 第1刷発行」となっています。今の白い表紙に肌色の背*1がついたカバーではなく、パラフィン紙がかかった古い仕様です。

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

初めて読んだ時によほど感動したと見えて、読了日が鉛筆で書き込んでありました。「1982年11月18日」。当時なぜこの本を読もうと思ったのかは記憶がありませんが、とにかく発売後すぐに手に入れて読んだわけですね。ただ、夜に読み始めたら止まらなくなり、深夜まで読み続けて読了し、その後も興奮で眠れずほとんど徹夜で朝を迎えたことを今でもよく覚えています。

それほど感動的な本でした。個人と社会の関係をこれほど平明に説いた本を他に知りません。それ以来この本は、生き方の指針のひとつとして今に到っています。岩波文庫版は1982年の発行ですが、実はこの本、最初の版が出たのは1937年、盧溝橋事件で泥沼の日中戦争に突き進み、ファシズムが日本全体を覆わんとしていた頃でした。吉野源三郎氏自身のあとがきと、岩波文庫版に寄せられている丸山眞男氏の解説によれば、この本はそんな時勢に向き合う気持ちと、次の世代を担うべき大切な子供たちに希望を託したいという切実な願いから執筆されたそうです。

一番思い出深いのは「豆腐屋の浦川君」のエピソードかなあ。主人公のコペル君は、銀行の重役だった父親が早くに亡くなったとはいうものの裕福な家庭の出身で、かたやクラスメートの浦川君は時に家業の豆腐屋を手伝わなければならないために勉強が遅れがちな「貧しき友」。そんな二人が心を通わせていく経緯と、とくにコペル君が浦川君を通して貧困とは、労働とは、そしてまだ若い自分が今後社会に何をなしていくべきかを考え始める……という物語は、時代の異なる現代の私たちもじゅうぶん学ぶに足る内容だと思うのです。

ぜひぜひ、若い方々には特に、おすすめ。

*1:この肌色はかつての岩波文庫の「デフォルト」だった表紙の色を引き継いだものですね。

iPhoneやAndroidは機械通訳の夢を見せるか

「言語の壁は崩壊寸前」という、興味深い記事を読みました。

こういう話題に接すると、商売柄すぐに「食えなくなるかも」といったナマな思考回路が働くのですが、そこをいったん離れてもっと大きな空想をしてみたいと思いました。

jp.wsj.com

三年ほど前に「自動通訳機械の実現は、量子コンピュータでも実現しないと難しいんじゃないか」とやや皮肉まじりに書いたことがあるのですが、この記事を読んで以前は「まだまだ」と思っていた自動通訳機械(自動翻訳+音声による出入力)*1が、意外にはやく実現するのかも知れないと思いました。特に観光ガイドや、見学・買い物等のアテンドなど「難易度」の低い分野ではすでに様々なサービスが登場していますし、その精度も日々向上しているようです。

一方で音声処理技術の進化も日進月歩、私のような門外漢でさえ、その利便性に「こんなこともできるのか!」と驚きの連続です。登場した当初はそのとんちんかんな答えや無反応が笑いを誘ったSiriやGoogle音声認識だって、かなり便利になってきました。今では私も往来で検索するときなど、かなりスマートフォンの音声機能を使っています。

Twitterなどでは、上記の記事に対して「通訳者や翻訳者は失業する」という意見も散見されました。でも私は、複雑な交渉や文化芸術等に関する領域、テクニカルな内容満載の会議通訳では、今後もまだ当分の間は生身の人間が必要とされると思います。型どおりの儀式や会議ならともかく、最先端の知見がぶつかり合う現場でのやりとりは、用いられる言葉の範囲があまりにも広く、予測不可能で展開が複雑に絡み合っているからです。

ですが……それも、この記事が言うように「データ量の増加とコンピューターの能力向上、ソフトウエアの改善」という時間の問題かも知れません。今はまだ不完全な機械翻訳でも、例えばDuolingo*2のように膨大な数の人間が翻訳結果の改善に力を注ぎ、音声による出入力も各国で官民挙げて技術向上が図られていくのであれば。

自動通訳機械が普及した状態とは

実務に耐えうる自動通訳機械なりシステムなりが実現するのが数年先か数十年先か、それとも百年単位の遠い未来かは分かりませんが、もし本当に実現したら人々のコミュニケーション方式は大きく変わるでしょうね。

現段階の自動通訳機械は、パソコンやiPhoneAndroidなどのスマートフォン等のデバイスを介した、訳出にも多少のタイムラグが生じるプリミティブなものですけど、今後ウェアラブル端末がより進化して、コミュニケーションにおけるストレスを感じない装着感とタイムラグで自動通訳が行われるようになるかも知れません。腕時計と同じようなごく普通の身体感覚として馴染んでいくのでしょう。

現在の我々は、自分の発話を理解してくれていると思える相手に向けてでないと、話すときにストレスを覚えるようです。電話でも相手が自分の言語を理解してくれないときはどうしようもない「隔靴掻痒感」に襲われますし、逐次通訳をしているときなど相手側はこちら側の主役ではなく通訳者の我々に向かってコンタクトしてくる傾向があります。

でもこれも、生まれたときから「自動通訳環境」がある人々ならごく自然に「装置」を介したコミュニケーションに慣れ、それに応じた身体作法を身につけていくのかも知れません。生まれたときからインターネットがあって、ラインなどでの会話が「デフォルト」である若者たちのように。異なる言語間の背後にある「自動通訳システム」が、その存在をほとんど感じさせない空気のようなものになって、人類にとって言語の差とか他言語などという概念が徐々に薄まっていくのかも知れません。

そして母語や外語という概念も軽くなり、ひいては通訳者や翻訳者という職業も「かつてはそういうお仕事があったんだってね」と語られるような時代が来るのかも知れません。電話交換手や植字工やキーパンチャーや……などのように。

知は差異に宿る

ですが、ここで大きな疑問があります。異なる言語間のコミュニケーションがすべて自動通訳に置き換わったとして、人類の知見はそれ以上進歩するのでしょうか。自動通訳システムは異なる言語間の膨大な翻訳結果を集積したビッグデータをその基盤としていますが、人々が十全に自動通訳システムを享受するようになったあかつきには翻訳作業、つまり母語と外語との往還なり比較なり分析なりをする人が減っていくという自家撞着に陥ることはないのでしょうか。

人それぞれが、それぞれの母語だけで暮らしていくことができ、母語以外の例えば英語のような「世界共通語」の習得に人生のかなりの時間を割かなくてもよくなる未来は今よりずっと素晴らしい世界のようにも思えます。でも一方で、語学をやった者の実感として、母語と外語の往還にこそ我々の思考を深めるカギが潜んでいるとも思えるのです。人類は絶えず異言語・異文化に目を向け、興味を持ち、それを知りたいと思う欲求こそが学びを起動させ、そこから得られた洞察が人類の「知的コンテンツ」となって蓄積されてきました。異なる者との接触の中で、多様性の中で思考も鍛えられてきたのだと思います。

そうした学びが自動通訳システムで失われた、あるいは大幅に減少した未来社会で、各言語の使い手が単に自分の母語の内側だけでコミュニケーションを行い(だって他言語とのコミュニケーションはストレスのない状態で提供されているのですから、母語のみで聞き話すこととほとんど同じです)、異言語や異文化に対する興味も警戒も共感も反感も怖れも憧れも単に母語の内輪での振幅に押し込められてしまった世界で、知は深められていくのでしょうか。

前出の記事は「理論的には、機械翻訳のおかげでわれわれ誰もがバベルの塔を意のままにできるようになるだろう」という言葉で締めくくられています。私は「神がバベルの塔を破壊し、人々の言語をバラバラにした」という神話の意味は本当に深いと思いました。バラバラになった差異の中にこそ、知は宿ると思うからです。

*1:ネットを渉猟するに「自動通訳」や「自動翻訳」や「通訳機」等、いろいろな言葉が混在しているようです。現段階ではネット翻訳のような文章の変換が「機械翻訳」と呼ばれているようですが、その音声版、つまり「機械通訳」についてはその呼称が定まっていない印象。例えばNTTドコモが取り組んでいるという「みらい翻訳」という事業ですが、その音声版サービスは「はなして翻訳」と名付けられており、文章の変換=翻訳、音声の変換=通訳という概念が「ごっちゃ」になっています。もっとも中国語ではTranslationもInterpretationも“翻訳”と言い、文章の変換(日本語で言う翻訳)は“筆譯”、音声の変換(日本語で言う通訳)は“口譯”なんですけど。ああややこしい。

*2:私もここで英語の学習に取り組んでいますが、学習中に入力する母語方向への翻訳が、翻訳結果の改善に貢献するような仕組みになっています。→Wikipedia

私たちのナイーブな言語観について

台湾の総統(大統領)選挙と立法院(国会)議員選挙が行われ、民進党蔡英文氏が大統領に当選、立法院でも民進党議席の過半数を占めるという「完全勝利」で幕を閉じました。

一昨年、「反服貿」の「ひまわり学運」が立法院占拠という形に発展した際、日本の一部にやや扇情的にそれを支持する声が広がっていたことに対して、私はこう疑問を呈しました*1

民主主義を希求するならば議場占拠ではなく統一地方選や次期大統領(総統)選で馬英九氏を追い詰め撤回というような民主主義のルールを踏むべきだと思います。
http://qianchong.hatenablog.com/entries/2014/04/01

今春から始動する蔡英文政権が「服貿」の見直しを行うかどうかは分かりませんが、こうして民意を動かし、政権を奪還したこと、そういう健全なメカニズムが機能することは素晴らしいと思います。

こちらは、選挙当日の記者会見。


勝選國際記者會 蔡英文:團結、壯大國家,並且一致對外,是我最重要的責任。

「通訳兄さん」登場

ところで、この記者会見について、意外な部分が話題になっていました。


蔡國際記者會 「口譯哥」秀流利英文 網友:戀愛了

記者会見で英語の通訳を務めた趙怡翔氏が人気になっているというのです。「口譯哥(通訳兄さん)」の素敵な声に「耳朵懷孕了(耳が妊娠しちゃった)」とか……ちょっとちょっと。でも、ふだんは裏方であり黒衣的存在である通訳者がこうやってクローズアップされるのは面白いですね。

この件について、さらにTwitterでこんな報道を教えていただきました。

www.storm.mg

もとより蔡英文氏は英語が堪能なのに、なぜわざわざ通訳者を使うのか……について、その疑問に答え、さらには通訳者という職業についての基礎的な知識を提供しています。こういう解説が新聞に載るところが多言語国家ならではというか、一種の「すごみ」ですよね。

【追記】通訳者のささきち(@jiyanY)さんがこの記事を「速攻」で日本語訳されています。仕事はやい〜、素晴らしい〜! ぜひお読みいただきたいと思います。


https://twitter.com/jiyanY/status/689644410741456897
https://twitter.com/jiyanY/status/689644511572557824
https://twitter.com/jiyanY/status/689644591419494400

このブログでも何度も書いていますが、総じて日本の方々は「母語」で話すことと「外語」で話すことの違い、「外語」で話すことの功罪、通訳者が行っている作業について……などなどへの理解が薄いように思います。

それはほぼ単一言語国家と言っていい日本の、ある意味幸せな部分でもあります。侵略や植民地統治の結果、土着の言葉以外に英語もかなりの比重で使わざるを得なくなったインドやフィリピンなどの国々と違い、単一の言語で社会が機能し、文化を成熟させていくことができるのですから。でも逆にそうであったが故に日本人は外語に対して未だにナイーブな感覚のままでいるのだとも言えます。

「誠意があれば通じる」のか

以下、ちょっと「disる」ようで心苦しいですが、「ナイーブ」の例をひとつご紹介してみます。上記の、蔡英文氏による記者会見の映像で、31分25秒あたりからをご覧ください。この記者会見で日本のメディアとしては唯一、読売新聞の記者が中国語で質問しています。……が、私などが言うのも大変おこがましいのですが、この方の中国語はどうひいき目に聞いても拙いと思います。内容はありますが、発音と発話の仕方がとても拙い。

内容があればよいではないか、発音や発話のスタイルなどは二の次だろうと思われますか。私もそう思います。そう思いたい。でもね、相手もそう思うかどうかはまた別の問題なんです。これ、なかなか想像するのが難しいのですが、例えば安倍首相の記者会見で外国の記者が質問に立ち、その方の日本語がひどく聞きづらい(聞き取る際に大きなストレスを感じざるを得ない)ものだったらどう感じますか。

「一所懸命に、慣れない日本語を駆使して質問してくれてありがとう」と思う人もいるでしょう。私もその記者の度胸に賞賛と声援を送りたいと思います。でも世の中には逆に「なんだそんな日本語で質問して、失礼だな」などと思う人もいるのです。ひどい方になると、発話者の知的能力を疑うことさえある*2

ともあれ、あまり「国益」などという概念を持ち出したくはないけれど、蔡英文氏の記者会見は全世界に発信されるのです。何十億という華人も目にし耳にする可能性がある。そんな場で、表面的なこととはいえ拙さ全開の映像が流れることは日本の国際的イメージに影響すると思います。なぜそういう想像力が働かないのでしょうか。

件の記者はメモを見ながら質問していました。たぶん質問内容の中国語を作文しておいて、それを読み上げたのだと思います。だったらもっと中国語が堪能な別の記者か、通訳者を雇って質問させればよいではないですか。日本では皇室から政治家まで、なぜか外語(なかんずく英語)で発信しなければいけないと思い込んでいる節がありますが、日本語で自由闊達に話し、それを優れた語学の使い手に託せばよいと思います。

自ら質問することで誠意を表したかったのかも知れません。でもね、これも通訳の現場でよく目の当たりにすることなのですが「誠意があれば伝わる」わけではないんです。「誠意があれば伝わる」は美しい考え方だけれど、残念ながら国際的なやりとりの場では幻想です。日本人はもう少し「表面的なイメージ」にも注意を払うべきだと思います。虚飾を排する潔さ、そして本質を重んじる日本人的なメンタリティとは相容れないかもしれないけど。「誠意があれば伝わる」や「大事なのは形じゃない、心だ」というスタンスには日本人の言語に対するナイーブな一面が表れていると思うのです*3

さんざん「disって」しまってごめんなさい。でも私は話し方の巧拙という本質的ではない、表面的なことだからこそ、その非本質的・表面的なところで要らぬ誤解を招いたり「国益」を損じてしまったりするのは本当に残念でもったいないと思います。

それに上記の「通訳兄さん」の記事でも指摘されていましたが、特に逐次通訳の場合、通訳者を介することでそのタイムラグを利用して自分の考えをまとめたり、冷静さを取り戻したり、相手の反応を見ながら戦略を考えたりもできるものなんですよ。以前インハウス(社内)通訳者をしていた時、私の上司は外語が堪能な方でしたが、それでも「交渉の時には必ず通訳者を使う」と言っていました。分かっている方は(外国人との交渉や駆け引きに慣れている方は)分かっているのです。

*1:同時に、某大学教授が現地から伝えた「ほとんどの国民、ほぼすべての教授が学生を支持」というレポートにも疑問を呈しましたが、この記事によれば「立法院占拠後には協定を『支持する』と回答した人の割合は25.3%」とのこと。やはり一定数は支持していたわけです。扇情的な伝え方は事実を見誤りますね。

*2:この辺りに想像力を働かせることはとても大切で、「留学生が拙い日本語で話していても、それは言語の技術上の問題であって、知的能力の問題ではない」というのは、私たち留学生に接する職業に従事するものの間では強い戒めとして常に意識されていることです。

*3:中国の「両会(全国人民代表大会と政治協商会議)」が終わった後、国務院総理(首相)が内外記者の質問に答える恒例の記者会見があります。ここでも時々日本の記者が指名されますが、年によって違いはあるものの、やはりハラハラするような日本人記者のパフォーマンスを目の当たりにすることが多いです。去年は朝日新聞の記者が質問に立っていました。今回の蔡英文氏に質問した読売新聞よりは多少よかったけど、もうちょっと高級な中国語を使っていただけたら……中国語は英語同様歴然とした「階級差」のある言語なんですから。

何に旅情を感じるかについて

先日台湾へ出張した際、ホテルで朝食券をもらったんですが遠慮して、近くの「早餐店」に出かけました。このホテルには前にも泊まったことがあって、朝食はバイキング形式で豪華でもあるんですけど、なにかこう「いまひとつ」なんですよね。特に「台灣特色」と銘打って「擔仔麵」や「餛飩」なんかもあるんですけど、正直、化学調味料の味ばかりが突出していて。

で、「早餐店」。台湾に限らずアジアの国々には実に魅力的な朝食の選択肢がありますよね。早朝から個人経営の小さなお店や屋台、あるいはチェーン展開のお店まで、様々な朝食を提供しています。その場で食べることもできるし、テイクアウトもできる。出勤や登校前の現地の人達が次々に買い求めていくのを横目で見ながら、できたての朝ご飯を食べるときほど「旅情」を感じる瞬間はありません。

留学生や旅行客からよく聞く「不満」ですけど、日本はこういう「早餐店」の文化に乏しいですね。立ち食いそばかファストフードかコンビニくらいしか選択肢がなく、屋台はほとんど皆無。警察や保健所の規制もきびしいですし、場所も都会ではなかなか見つからないのでしょうか。立ち食いそば、私は大好きですけど、外国のみなさんはどうかなあ。これはあまり知られていないんですけど、特にチャイニーズは立ち食いに抵抗がある人が多いんですよ(全部じゃありませんけど)。

今回私が食べたのは「蛋餅油條加燒餅」と「鹹豆漿」です。

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前者は「蛋餅(薄焼き卵とクレープが一緒になったようなもの)」と「油條(お粥にも刻んで入れたりする代表的な揚げパン)」と「燒餅(地方によって差はありますが、さくさくした生地の食事パン)」という代表的な朝ご飯用の主食を全部一緒にしちゃったという「粉もん」大好き人間にはたまらない最強の食べ物。このお店では「全套(全部乗せ的な意味)」と呼ばれていました*1

後者はこれも朝ご飯でポピュラーな食べ物ですが、少量の薬味や調味料と油條の刻んだもの、それに酢が入っているドンブリに温かい豆乳を注ぎ入れたものです。酢の作用で豆乳がすぐにおぼろ豆腐状になったところを、先ほどの主食系「粉もん」と一緒に食べるのが定番中の定番。味つけや具材はお店によっていろいろで、好みでラー油のようなものを入れたりもします。

お店の横(といっても二階部分が貼り出している南の地方特有の「騎樓」というアーケード部分に簡易なテーブルと椅子を置いただけのスペース)で、どちらも作りたてを食べることができます。その場で食べることを「內用」といい、テイクアウトは「外帶」といいます。このお店はかなりの人気店のようで、朝六時過ぎに訪れたのですが、すでに出勤前や通学前と思しき地元の方々が「外帶」するために行列を作っていました。

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いやもう、評判通り最高の味でした。「全套」はさくさく+もっちり+ふかふかの食感のハーモニーが絶妙ですし、「鹹豆漿」もまた「豆腐腦」とは違う味わいで「粉もん」に合う合う。

この人気店をどうやって見つけたかというと、もちろんネットです。泊まるホテルはあらかじめ分かっていたので、その付近でいいお店や屋台がないかなと検索してみれば……地元の人達や日本人旅行客がSNSやブログなどでオススメしている記事がたくさん見つかりました。台湾にも「食べログ」のような★で評価するSNSがあって、そこでも高評価でした。昔は海外で評判のお店を探すとなったら『地球の歩き方』か『ロンリープラネット』みたいな本にたよるしかなかったですけど、本当に便利な時代になりました。

そう、旅行者や訪問者にとっていま一番必要とされるのは、そういう情報を自由に検索することができる十全なネット環境なんですよね。ハッキリいって、それに尽きるといってもいいくらいです。充実したWi-Fi環境があれば、お仕着せではない、その人の好みに応じた様々な旅行の楽しみ方ができる時代になったのです。

たぶん行政などの観光案内やサービスに頼るだけでは、今回のようなお店はまず紹介されないと思います。あまりにも庶民的で普通で、ヘタをしたら「いや、このようなところに外国のお客様を案内するわけには……街一番のレストランはこちらですから」と高いところ紹介されちゃう。

でもね、これだけ価値観が多様化し、いわゆるロングテールが重要視されている昨今、いかにも観光地的な名所をこれまでと同じようにオススメしても喜んでもらえないのです。京都を訪れる若い外国人観光客は、清水寺金閣寺平安神宮ももちろん好きだけど、それ以上に左京区のコアなスポットに出没して、地元の人さえ気づかなかった楽しさや魅力を次々に発掘しているんだそうですよ。ましてやリピーターのお目が高い観光客ならなおさらです。

参考:左京都男子休日
https://seikosha.stores.jp/items/55c176c02b3492a8900007fa

煩雑なサインシステムはいらない

いま東京では、近年の外国人観光客の激増と2020年の東京五輪を踏まえて、「おもてなし」の施策が官民挙げて進められています。例えば駅や道路などのサインシステム。「国会前」の英語表記を「Kokkai」から「The National Diet」にするなんてのはまあいいと思うんですけど、それ以外にハングルや中国語(それもご丁寧に簡体字繁体字の両方!)を併記しているケースも見かけるようになりました。最近はタイからの観光客も急増中だそうですが、そのうちタイ語も併記されるようになるのかしら。

サインシステムはその存在理由からいってもなるべくシンプルであるべきです。私は日本語と英語(ローマ字)の二種類だけでじゅうぶんだと思うのですが……ふだんは英語中心のグローバリズムに内心面白くないものを感じている私ですが、まあ外国人旅行客の便を考えれば英語表記が妥当かつ必要ではあるでしょう。でもそれ以上増やすのはサインシステムが煩雑になって、一瞬の可読性を低下させるだけだと思うのです。

ネットでは「嫌韓」や「嫌中」の立場から「あんな文字を街中で見たくない!」などと吠えてらっしゃる方がいますが、私はそれは論外だと思うものの、全く違う理由から中国語やハングルの表記は不要だと考えています。それは「旅情を削ぐから」です。

私自身、海外に旅行して何が一番がっかりするって、現地で日本語を見たり聞いたりすることを措いて他にありません。日本人観光客の多い場所ではサインシステムに日本語が入っていることがありますが、あれはすごく旅情を削がれるんですよね。でもって、せっかく遠路はるばるやって来たのに日本語で「オニイサン、ヤスイヨ、ヤスイヨ」などと話しかけられでもした日には……もう、ほんとにやめてほしい。

日本語表記があった方が便利じゃないかって? 違うんですよ、ガイドブックやスマホを片手に、自分であれこれ調べたり、判断したり、時には賭けるような気分で冒険してみたり……が旅の醍醐味なんじゃないですか。旅という非日常では「不便さ」や「失敗したこと」さえ極上の思い出になることもあるのです。

フランスへ行った時など、まあ英語に対抗意識バリバリのお国柄でもあるでしょうけど、メトロなんかフランス語表記しかなく構内アナウンスなども全くないそっけなさ(超有名な観光スポットには英語が併記されていましたが)。それでもガイドブックや辞書をひきひき、「たぶんこれはこういう意味でしょ」的にドキドキしながら歩き回ったのがとてもいい思い出として残っています。旅情の感じ方は人それそれでしょうけど、私のようにパックツアー旅行が苦手で、バックパック背負って自由に旅をしたいタイプの人はおおむね同感していただけるのではないかと思います。

「おもてなし東京」の愚

その意味で、私が一番愚かだと思っている*2のは東京都が展開しようとしている「おもてなし東京」なるボランティアサービスです。詳しくはこちらをあたっていただくとして、要するにこのサービスは、お揃いのユニフォームを着た二人組が東京の繁華街を徘徊し、困っていそうな外国人観光客を見つけたら声をかけて種々の情報提供を行おうというものらしいです。

ネットで話題になったユニフォームのデザインはまあよしとしましょう。外見だけで外国人だと判断することの不可思議さもこの際つっこまないでおきます。問題はこの発想がいかに「時代遅れ」であるか、外国人観光客のニーズに合致していないか、です。考えてもごらんなさい。東京の街を散策していたら、奇抜なユニフォームに身を包んだ二人連れが「めいあいへるぷゆう?」などと言って近づいてくるのですよ。私が非常勤で奉職している学校の留学生数十名に聞いてみましたが、彼らは異口同音にこう言っていました。「まず詐欺だと思う」。

この「おもてなし東京」の発想は、いまから半世紀以上前の1964年、東京オリンピックが開催された時に展開され、その後も続けられてきた「グッドウィル・ガイド(善意通訳普及運動)」と同根のものです。そのボランティア精神やよし。参加されている方の誠意や熱意を疑うものでもありません。でもね、こんなことにお金をかけるより、無料Wi-Fiなどネット検索環境の充実に力を注いだ方がよほど喜ばれると思いませんか。

無料Wi-Fiを広範囲で提供するためには、プライバシーの確保など技術的な問題、そして金銭的な問題も多々あるとは聞いています。だからといって、こんな半世紀以上も前の発想がまたまた鳴り物入りで展開されるなんて、都の偉い方々は何を考えているんでしょう。もう少し外国人観光客や留学生などから直接話を聞けばいいのにね。「おもてなし東京」に対して「詐欺だと勘違いする」と言っていた留学生達は、私が「それよりWi-Fi環境の充実だよね」と言ったら、みんな机を叩かんばかりに盛り上がって「そう! そう!」と言っていました。

旅行客の旅情を削ぐことなく、しかしさりげなく利便性だけは最大限に高めてあげる——それこそが、日本らしい「おもてなし」だと思います。

*1:焦げ目が見える生地が「蛋餅」で、その中に「油條」が巻かれているんですけど、写真が下手で見えません。一番外側から全体を挟んでいるのが「燒餅」です。

*2:失礼、職業上の憤慨——通訳案内士の仕事と真正面からバッティングするサービスを無料のボランティアで展開するとは何事ですか——も入ってます。

通訳者の「向き不向き」

先日仕事の現場で、十数年ぶりの懐かしい方に再会しました。某企業のインハウス(社内)通訳者として働いていた頃ご一緒したことのある、他の企業のエンジニアさんです。当時を振り返って、こんなことを言われました。

門外漢だけど、ずっと同じ現場で同じ技術について通訳していらしたから、なまじ新参の社員よりも詳しくて、客先からの質問に直接答えていることもありましたね。

どきっとしました。もちろんその方はほめてくださったのですが、そもそも通訳者が訳すことを端折って自分で話してしまうのは「タブー」だからです。もちろん、インハウス通訳者の場合、効率のために通訳者自身が話すこともないとは言えないんですけど。

現場で漏れ聞く、通訳者に対する苦言でよくあるのは「通訳者が勝手に端折って訳してくれていないようだ」「通訳者が自分を差し置いて勝手に喋ってしまう」というものです。

これ、統計を取ったわけではないから確かなことは言えませんが、私がクライアントから直接聞いたケースを総合してみると、申し訳ないけれど日本企業で働かれている華人で、大学や通訳スクールなどで通訳訓練を受けたことがない方に多い現象のようです。通訳者はあくまでも原発言者に成り代わって喋っているだけで、自分の判断で自分の意見を喋ってはいけないという本質的な部分がどうしても分からないという方がいるんです。

たとえ自分が熟知している内容で、いちいち訳さなくてもいいじゃん、訳していると非効率じゃん、と思ったとしても、通訳者が、自分の雇い主の理解できない言葉で相手側と話し始めてしまったら、雇い主は混乱状態に陥ります。通訳者は、どんなにわかりきった内容であってもいちいち律儀に訳出し、それ以外は一切付け加えも差し引きもしない、という自律・自制が効いていなければならないと思うのです。

まあ実際には、通訳という作業は単なる言葉の変換ではないので、付け加えたり差し引いたりするさじ加減はむしろ不可欠なのですが、それでも相手側が質問してきた時に、その質問内容を自分側の雇い主に伝えず、通訳者自らが答えてしまうのは「タブー」だと思います。でもその勘所が分かっていない人が一定数いるんですね。だから現場での苦言となって我々の耳にも伝わってくるのでしょう。

具体的な例がないと分かりにくいかも知れません。ちょうど先日、テレビ東京の『Youは何しに日本へ?』という番組を見ていたら、そのものズバリのシーンがありました。

【世界に誇るニッポンの○○にYOU大集結SP】
http://www.dailymotion.com/video/x3a7imy

47分53秒からの場面をごらんください。日本の「カワイイ」大好きな台湾人が「ロリータパーティ」へ参加するために来日し、その方に雇われたという通訳者の女性がそばについています。

インタビュアーの「お仕事、何されてるんですか」という質問に対して、通訳者が直接「大きな会社の社長秘書」と答えています。それは事実なのでしょうし、時間の節約にもなるのでしょうけど、ここはインタビュアーの日本語の質問を律儀に中国語に訳して、雇い主の台湾人に伝えなければいけません。

たったこれだけなら大したことはないように思えるかも知れません。でも、これが続けばこの台湾人の女性はどんどん不安な気持ちになることが予想されます。そして、そういう予想ができるか、そういう想像力が働くかどうかが、サービス業としての通訳者の「向き不向き」に関わると私は思っています。

そして、学校で教えていて一番困難を感じるのが、この「サービス業としての通訳者の本質」部分なんですよね。なぜだかは分かりませんが、こういった部分がどーーーしても分かってもらえない種類の方が、たまにいらっしゃるのです。もちろん「向き不向き」なんて言い出したら「商売」にならないので、理を尽くして説明しますけど。

なぜ稽古をするのか

夏の研修会に参加して来ました。内輪で行う発表会みたいなものです。私が舞ったのは「猩々」の舞囃子。その他に仕舞と舞囃子地謡をいくつか仰せつかりました。「羽衣」「三輪」「竹生島」「半蔀」「飛鳥川」。

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謡はiPodの再生回数がそれぞれ100を超えるほどヘビーローテーションで聞いて覚えましたが、それでも結局当日まで「これは確実に謡える!」という仕上がりにはなりませんでした。ううむ、年のせいかしら。当日は、今転んだら詞章が頭からこぼれ落ちそう的な状態で会場に向かいました。

みなさんはどうやって謡の詞章を覚えるんでしょうね。師匠にうかがうと、玄人の能楽師も紙に書く方、ひたすら聞く方と人それぞれだそうですが。私はというと、画面というか映像というか、とにかくビジュアルな物が脳内に立ち上がると比較的容易に覚えられるような気がしています。実際に絵に描いてもいいし想像だけでもいいんですけど、目の前に映像としての風景があれば、それを心の目で追いながら謡っていける。

だから修羅物の合戦のさまを描いたところなどのように、ビジュアルがハッキリしているものは覚えやすいです。上記の曲で言えば「竹生島」などがそうですね。あと以前のエントリでも書いた「三輪」なども、ストーリーが分かりやすいので覚えるのも比較的容易です。逆に「羽衣」のようなとにかく美しい言葉が織物のように連なっているような詞章は覚えにくいような気がします。

研修会の会場についたら着物と袴に着替えてすぐに番組(プログラム)開始。例によってどなたも発声練習やら準備運動やらストレッチやらをしません。これも以前書きましたが、能楽というのは演劇の一種ではあるものの、他のジャンル、特に西洋的なソレとは随分違う発想によって組み上がっている芸能のような気がします。

この件に関して、立命館大学能楽の研究をされ、金剛流のお稽古もなさっているイタリア人のディエゴ・ペレッキア氏が国際交流基金の「をちこちMagazine」に寄せられていた一節がとても興味深いと思いました。

 能の厳格さと流派主義のおかげで、役者たちは高い完成度をもった能の様式を実現してきた。それとともに極めて洗練された美しい言葉がつくりあげられたが、それを話せるものはごくわずかしかいない。そしてその大部分は、決して完全には習得し得ないこの言葉を、時間とお金をかけて学んでいる素人弟子たちである。


 こうした事実は能の世界以外ではほとんど理解されていない。能界で修業するというのは、師匠が体現する伝統への服従を意味し、その師匠もまた各流派の頂点に立つ指導者、家元に従属している。素人弟子にとって修練した芸を発表する場である演能は、習得した型を再現する場であり、創造的な行為ではない。このように従属した存在である素人弟子たちは、演じるために常に師匠にお伺いを立てる必要がある。芸術表現の形として芸能に興味を抱く若者が、伝統的しきたりの尊重よりも創造性や個性を重んじる能以外の芸能に心を惹かれやすいとしても不思議ではない。


能の中核をなす「素人」:新しい時代の挑戦 | をちこちMagazine http://www.wochikochi.jp/relayessay/2014/01/noh-amateur.php

一読、何だか否定的な見解のように読めるかもしれません。けれどペレッキア氏の主張のベースはまず、そういう特殊な性質を持つ能楽という「お稽古事」が今とこれからを生き延びていくためにはどうすればよいかという視点に置かれたものです。本来「そういうもの」である能楽が、この娯楽に満ちあふれた現代でいかに素人の「稽古者」を獲得していくのかという問題意識であるわけですね。

そしてここで氏が述べていることはまた、内在化された型を再現するのが演能の真面目(しんめんもく)であり、「本番」に自身の表現の最高潮を持っていくことを能楽はそも目的としていないのではないかという分析をも踏まえたものだと思います。もちろん実際の公演で、演者は他の演者との協働を通してその場限りの達成を作り出すのですが、それは他の演劇等における「本番」とはやや違った趣のものであるらしい。

やはり能のお稽古は、とても「ヘン」なところがあるのです(あくまでも現代の私たちからすれば、ですが)。そして私などはその「ヘン」なところになぜか惹かれるんですね。他のお弟子さんたちも、もしかしたらそうなのかも知れません。

能の稽古だって、最初は簡単で短いものから始めて、徐々に難しく複雑なものに移っていきます。その点では他のお稽古事と選ぶところはないのですが、どうもそれだけではない。技術が上がればより高度なワザが駆使できるようになる、ソレをここ一番の大舞台で遺憾なく発揮することがすなわち「成功」であり「達成」であり「進歩」であるという、現代の我々に当たり前のように備わっている世界観とは何か違うものが組み込まれているような気がするのです。特に我々のような、ペレッキア氏言うところの「決して完全には習得し得ないこの言葉を、時間とお金をかけて学んでいる素人弟子たち」にとっては。

今のところ「気がする」というレベルですけどね。

オリジネイターに対する敬意

先週と先々週、通訳スクールの教材にこの映像を使ってみました。


魅蓝note2发布会全程视频- YouTube

中国のスマホメーカー魅族(メイズ)の新製品「魅藍note2」の発表イベントです。6月2日に開催されたばかりの映像がもうYouTubeに公開されていて、それを早速使用してみたというわけです。通訳教材は鮮度がよくないと訳出時のモチベーションが落ちるので、こうやってなるべく新しい素材を手に入れるべく日々アンテナを張るようにしています。

前の学期では同じ中国のスマホメーカー小米(シャオミ)の新製品発表会を教材に使ったんですが、小米といい、今回の魅族といい、その製品のデザインから、発表会のスタイルから、宣伝や広告の意匠から、販売店のインテリアから、ひとつひとつがはっきり申し上げて「Appleの真似っこ」。いやもう、ここまで模倣し倒していると、いっそ清々しく思えてくるくらいです。

もちろん小米も魅族も、AppleiPhoneでこの世に送り出したイノベーションを土台にして、独自のアイデアを盛り込み、さらには本家iPhoneを超える使い勝手の良さや心躍るユーザ体験を作り出しているんですけど、そしてそもそも世に数多あるAndroidスマホのほとんどが「iPhoneの真似っこ」であることは誰もが知っていることなんですけど、私がこの動画を見て感じたのは「凄いな、面白いな」という感覚*1と同時に、この人達にはここまで真似させてもらっているご本家に対する敬意、あるいはもっと言っちゃうとある種の「疚しさ」みたいなものが微塵も感じられないなということでした。

まるで一から自分たちが創造したかのように話しているこの「どや顔」的たたずまい。この映像では、iPhoneにおいてあるアプリの起動中に前画面に戻る際、スマホの左上隅の「戻る」を押さなければならないという使い勝手の悪さに学んで、ホームキーの半押しで「戻る」を実現した「mBack」という機能が声高らかに紹介されているんですけど、その目の付け所が素晴らしいなと思う一方で、「iPhone」と同じネーミング方法で「mBack*2」と名付けちゃう、その「果たしてプライドがあるんだかないんだか全く分からないなこの人達は」的ふるまいに眩暈がしてしまうわけです。

あ、もちろん発言者の「たたずまい」がどんなものであろうと、通訳は通訳。全く切り離して訳出に取り組むべきなのは言うまでもありませんが。

内田樹氏が『街場の中国論』でこんなことを書かれています。

 ご存じのようにかの国においては他国民の著作物の「海賊版」が市場に流通しており、コピーライトに対する遵法意識はきわめて低い。
 それによって、現在のところ中国国民は廉価で、クオリティの高い作品を享受できている。
 国際的な協定を守らないことによって、短期的には中国は利益を得ている。
 けれども、この協定違反による短期的な利益確保は、長期的には大きな国家的損失をもたらすことになると私は思う。
 それは「オリジネイターに対する敬意は不要」という考え方が中国国民に根付いてしまったからである。
(中略)
 「オリジネイターに対する敬意」を持たない社会では、学術的にも芸術的にも、その語の厳密な意味における「イノベーション」は起こらない。


増補版 街場の中国論』「グーグルのない世界」
グーグルのない世界 (内田樹の研究室)

世の中に全くのゼロから創造されるものなどほとんどなく、すべては先人の模倣から新しいものが生み出される、それは分かっているつもりです。でも小米や魅族、あるいは先般ネットでも話題になっていたユニクロをそっくり「真似っこ」した「メイソウ」のような企業に代表される、ある種無邪気なまでの「オリジネイターに対する敬意」の欠如は、明らかに度を超していると私は考えます。こうした「貪便宜(虫のいいことをする)」な行為がやがて回り回って、中国という国の衰退につながるのではないか。この点で私は内田樹氏の見立てに共感を覚えます。

ところで。じゃあYouTube動画を無断で教材に使用しているお前はどうなんだ、「オリジネイターに対する敬意」を欠いているんじゃないのかという内なる声が聞こえてきました。そう、これ、教材を作るたびにいつも引っかかっている問題です。著作権とか知的財産権的にはどういう扱いになるんでしょうか。

……と、Twitterでつぶやいたところ、こう教えていただきました。


それでも、YouTubeに動画をアップした方自体が配信の権利を持っていなくて勝手にアップロードした場合は問題がありそうですが、とりあえず出典を明らかにすれば特に問題はなさそうでほっとしました。ご教示、まことにありがとうございます。

*1:だからぜひとも教材に使おうと思ったのです。

*2:mはメイズのmですね。

「エロ」くて「オヤジギャグ」な古典

夏の「研修会」でいくつか仕舞の地謡を仰せつかったので、謡をせっせと覚えています。iPodに入れた謡をエンドレスで聞きながら詞章や拍子や節を身体に覚え込ませるんですけど、基本は学生時代に最も苦手としていた「古文」の世界ですから、なかなか身体に入ってきません。

私がお稽古に通っている社中では、本番は「無本」(謡本を見ないで謡う)が不文律になっていて、先輩諸氏はみんな無本で謡われるものですから、私一人がアンチョコ的に見るわけにも行かず、必死で覚えています。

ただ、謡を聞いているだけでは埒があかないので、詞章を一度書き出してみて、その意味するところを情景として思い描きながら覚えて行きます。人によると思いますが、私は目の前にビジュアルな情景が広がっていると比較的簡単に覚えられるような気がしています。マンガに慣れ親しんで育ってきた世代だからかもしれません。

今日は『三輪』という曲を覚えていたのですが、まずは「the 能.com」の解説を読みました。ここは能楽に関するありとあらゆるコンテンツが集められていて、主な曲(演目)の詞章を現代語訳と英語訳で読むことができます。

三輪』の仕舞は、こんなふうに始まります。

されども此の人/夜は来れども晝(昼)見えず
或る夜の睦言に/御身如何なる故に因り/かく年月を送る身の
晝をば何と鳥羽玉(うばたま)の/夜ならで通い給はぬは/いと不審多き事なり
唯同じくは長(とこしな)へに/契(ちぎり)を籠むべしとありしかば

「うばたまの(ぬばたまの)」って「夜」にかかる枕詞でしたっけ、とか遠い学生時代の記憶がわずかによみがえってきますが、何だかよく分かりません。現代語訳はこうです。

しかしこの方(男)は、夜には通ってくるけれど、昼には来ない。
そこで女は、ある夜の睦言に「あなたはこんなに長い年月を送っているのに、
なぜか昼を嫌がり、 夜しか通って来られないのは、まったく不審なことです。
ただ夜も昼も同じように ずっと一緒にいたいのです」と語った。

おお、通い婚ですね、通い婚ですね! 睦言(むつごと)って、要するにピロートークですね。……こんなことを書いていると師匠に思いっきり怒られそうですが、いきなり「そういうハナシ」というのがすごいですよね。伝統芸能はともすればお上品で高尚なものと敬遠されがちですが、実はそこに描かれているのは、ときに現代と変わらぬ人間の様々な営みなわけでして、それがまた面白いんですね。

そして、こんなストーリーを、地謡というコーラスをバックに伝統的な型でもって舞うわけです。極めて真面目に。私だけかもしれませんけど、こういう秘めたギャップというか落差というかコントラストに、たまらぬ魅力を感じます。

ともあれ、女性は男性の行動を「不審」に思ったと。問い詰められた男性は、こう答えます。

彼の人答え云うやう/げにも姿は羽束師(はづかし)の/洩りてよそにや知られなん
今より後は通うまじ/契も今宵ばかりなりと/懇ろに語れば

すると男は答えて「まったく私の姿は恥ずかしいものだが、それが世の中にもれて知られてしまうのではないか。これから後は通うのをやめよう、愛を交わすのも今宵限りだ」としみじみと語った。

なんだか怪しくて、それにちょっと「エロい」ですよね。こんなことを書くとさらに師匠から怒られそうですが、私、高校生の時分から古文の授業って「エロとオヤジギャグのてんこ盛り」だと思っていました。出てくる話のおおかたが愛だの恋だので、この人達はいつ働いてるんだろうと思うくらい色恋にひた走っていて、何かというと契っちゃうし、契れないと寂しいからってんで艶っぽい歌をやりとりしては悲嘆に暮れたりしてるし、いや、多感な高校生にはちょいと危険ですよ。

加えて、かけことばが重層的に積み上がるさまは要するにダジャレの連続。能の詞章にもかけことばがふんだんに使われています。日本人はこういうのが大好きなんでしょうかね*1コクヨ「たのめーる」のCMはこういう所に源流があるのだと思います。


たのめーるCM集 5連発 - YouTube

で、「今宵限り」と言われた女性は、こんな策に打って出ます。

さすが別れの悲しさに/帰る処を知らんとて
苧環(おだまき)に針を附け/裳裾(もすそ)にこれを綴じ附けて
後を控えて慕い行く

さすがに別れは悲しく、女は男が帰っていくところを知ろうと思い、苧環(糸を巻いたもの)に針をつけ、男の着物の裾に縫い付けた。そして、糸が伸びていった先を尋ねて追いかけた。

このストーカー的執念、怖すぎます。伊藤理佐氏の『おるちゅばんエビちゅ』に出てくる「浮気発見機」と全く同じ発想ですね。というか、伊藤氏はこの『三輪』のお話をご存じだったのかもしれません。
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ぱあふぇくと版 おるちゅばんエビちゅ : 9 (アクションコミックス)

で、追跡していった先で、件の男性は実は神様だったということになって、お話は一気に幻想的で神話的な展開になっていくんですけど。

ともあれ、以上のような作業で取っつきにくい詞章が一気に強烈なビジュアルを帯びてくれたので、何とか覚えてしまえそうです。こんな覚え方でごめんなさい。師匠と世阿弥*2にお詫び申し上げます。

*1:日本人だけじゃないですね。中国語にも「歇後語」みたいなのがあるし、人間は、言葉の音が思いがけないところで偶然に一致することに、何かえも言われぬ快感を覚えるもののようです。

*2:作者不詳ですが、一説に世阿弥作と言われているそうです。