インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

何に旅情を感じるかについて

先日台湾へ出張した際、ホテルで朝食券をもらったんですが遠慮して、近くの「早餐店」に出かけました。このホテルには前にも泊まったことがあって、朝食はバイキング形式で豪華でもあるんですけど、なにかこう「いまひとつ」なんですよね。特に「台灣特色」と銘打って「擔仔麵」や「餛飩」なんかもあるんですけど、正直、化学調味料の味ばかりが突出していて。

で、「早餐店」。台湾に限らずアジアの国々には実に魅力的な朝食の選択肢がありますよね。早朝から個人経営の小さなお店や屋台、あるいはチェーン展開のお店まで、様々な朝食を提供しています。その場で食べることもできるし、テイクアウトもできる。出勤や登校前の現地の人達が次々に買い求めていくのを横目で見ながら、できたての朝ご飯を食べるときほど「旅情」を感じる瞬間はありません。

留学生や旅行客からよく聞く「不満」ですけど、日本はこういう「早餐店」の文化に乏しいですね。立ち食いそばかファストフードかコンビニくらいしか選択肢がなく、屋台はほとんど皆無。警察や保健所の規制もきびしいですし、場所も都会ではなかなか見つからないのでしょうか。立ち食いそば、私は大好きですけど、外国のみなさんはどうかなあ。これはあまり知られていないんですけど、特にチャイニーズは立ち食いに抵抗がある人が多いんですよ(全部じゃありませんけど)。

今回私が食べたのは「蛋餅油條加燒餅」と「鹹豆漿」です。

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前者は「蛋餅(薄焼き卵とクレープが一緒になったようなもの)」と「油條(お粥にも刻んで入れたりする代表的な揚げパン)」と「燒餅(地方によって差はありますが、さくさくした生地の食事パン)」という代表的な朝ご飯用の主食を全部一緒にしちゃったという「粉もん」大好き人間にはたまらない最強の食べ物。このお店では「全套(全部乗せ的な意味)」と呼ばれていました*1

後者はこれも朝ご飯でポピュラーな食べ物ですが、少量の薬味や調味料と油條の刻んだもの、それに酢が入っているドンブリに温かい豆乳を注ぎ入れたものです。酢の作用で豆乳がすぐにおぼろ豆腐状になったところを、先ほどの主食系「粉もん」と一緒に食べるのが定番中の定番。味つけや具材はお店によっていろいろで、好みでラー油のようなものを入れたりもします。

お店の横(といっても二階部分が貼り出している南の地方特有の「騎樓」というアーケード部分に簡易なテーブルと椅子を置いただけのスペース)で、どちらも作りたてを食べることができます。その場で食べることを「內用」といい、テイクアウトは「外帶」といいます。このお店はかなりの人気店のようで、朝六時過ぎに訪れたのですが、すでに出勤前や通学前と思しき地元の方々が「外帶」するために行列を作っていました。

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いやもう、評判通り最高の味でした。「全套」はさくさく+もっちり+ふかふかの食感のハーモニーが絶妙ですし、「鹹豆漿」もまた「豆腐腦」とは違う味わいで「粉もん」に合う合う。

この人気店をどうやって見つけたかというと、もちろんネットです。泊まるホテルはあらかじめ分かっていたので、その付近でいいお店や屋台がないかなと検索してみれば……地元の人達や日本人旅行客がSNSやブログなどでオススメしている記事がたくさん見つかりました。台湾にも「食べログ」のような★で評価するSNSがあって、そこでも高評価でした。昔は海外で評判のお店を探すとなったら『地球の歩き方』か『ロンリープラネット』みたいな本にたよるしかなかったですけど、本当に便利な時代になりました。

そう、旅行者や訪問者にとっていま一番必要とされるのは、そういう情報を自由に検索することができる十全なネット環境なんですよね。ハッキリいって、それに尽きるといってもいいくらいです。充実したWi-Fi環境があれば、お仕着せではない、その人の好みに応じた様々な旅行の楽しみ方ができる時代になったのです。

たぶん行政などの観光案内やサービスに頼るだけでは、今回のようなお店はまず紹介されないと思います。あまりにも庶民的で普通で、ヘタをしたら「いや、このようなところに外国のお客様を案内するわけには……街一番のレストランはこちらですから」と高いところ紹介されちゃう。

でもね、これだけ価値観が多様化し、いわゆるロングテールが重要視されている昨今、いかにも観光地的な名所をこれまでと同じようにオススメしても喜んでもらえないのです。京都を訪れる若い外国人観光客は、清水寺金閣寺平安神宮ももちろん好きだけど、それ以上に左京区のコアなスポットに出没して、地元の人さえ気づかなかった楽しさや魅力を次々に発掘しているんだそうですよ。ましてやリピーターのお目が高い観光客ならなおさらです。

参考:左京都男子休日
https://seikosha.stores.jp/items/55c176c02b3492a8900007fa

煩雑なサインシステムはいらない

いま東京では、近年の外国人観光客の激増と2020年の東京五輪を踏まえて、「おもてなし」の施策が官民挙げて進められています。例えば駅や道路などのサインシステム。「国会前」の英語表記を「Kokkai」から「The National Diet」にするなんてのはまあいいと思うんですけど、それ以外にハングルや中国語(それもご丁寧に簡体字繁体字の両方!)を併記しているケースも見かけるようになりました。最近はタイからの観光客も急増中だそうですが、そのうちタイ語も併記されるようになるのかしら。

サインシステムはその存在理由からいってもなるべくシンプルであるべきです。私は日本語と英語(ローマ字)の二種類だけでじゅうぶんだと思うのですが……ふだんは英語中心のグローバリズムに内心面白くないものを感じている私ですが、まあ外国人旅行客の便を考えれば英語表記が妥当かつ必要ではあるでしょう。でもそれ以上増やすのはサインシステムが煩雑になって、一瞬の可読性を低下させるだけだと思うのです。

ネットでは「嫌韓」や「嫌中」の立場から「あんな文字を街中で見たくない!」などと吠えてらっしゃる方がいますが、私はそれは論外だと思うものの、全く違う理由から中国語やハングルの表記は不要だと考えています。それは「旅情を削ぐから」です。

私自身、海外に旅行して何が一番がっかりするって、現地で日本語を見たり聞いたりすることを措いて他にありません。日本人観光客の多い場所ではサインシステムに日本語が入っていることがありますが、あれはすごく旅情を削がれるんですよね。でもって、せっかく遠路はるばるやって来たのに日本語で「オニイサン、ヤスイヨ、ヤスイヨ」などと話しかけられでもした日には……もう、ほんとにやめてほしい。

日本語表記があった方が便利じゃないかって? 違うんですよ、ガイドブックやスマホを片手に、自分であれこれ調べたり、判断したり、時には賭けるような気分で冒険してみたり……が旅の醍醐味なんじゃないですか。旅という非日常では「不便さ」や「失敗したこと」さえ極上の思い出になることもあるのです。

フランスへ行った時など、まあ英語に対抗意識バリバリのお国柄でもあるでしょうけど、メトロなんかフランス語表記しかなく構内アナウンスなども全くないそっけなさ(超有名な観光スポットには英語が併記されていましたが)。それでもガイドブックや辞書をひきひき、「たぶんこれはこういう意味でしょ」的にドキドキしながら歩き回ったのがとてもいい思い出として残っています。旅情の感じ方は人それそれでしょうけど、私のようにパックツアー旅行が苦手で、バックパック背負って自由に旅をしたいタイプの人はおおむね同感していただけるのではないかと思います。

「おもてなし東京」の愚

その意味で、私が一番愚かだと思っている*2のは東京都が展開しようとしている「おもてなし東京」なるボランティアサービスです。詳しくはこちらをあたっていただくとして、要するにこのサービスは、お揃いのユニフォームを着た二人組が東京の繁華街を徘徊し、困っていそうな外国人観光客を見つけたら声をかけて種々の情報提供を行おうというものらしいです。

ネットで話題になったユニフォームのデザインはまあよしとしましょう。外見だけで外国人だと判断することの不可思議さもこの際つっこまないでおきます。問題はこの発想がいかに「時代遅れ」であるか、外国人観光客のニーズに合致していないか、です。考えてもごらんなさい。東京の街を散策していたら、奇抜なユニフォームに身を包んだ二人連れが「めいあいへるぷゆう?」などと言って近づいてくるのですよ。私が非常勤で奉職している学校の留学生数十名に聞いてみましたが、彼らは異口同音にこう言っていました。「まず詐欺だと思う」。

この「おもてなし東京」の発想は、いまから半世紀以上前の1964年、東京オリンピックが開催された時に展開され、その後も続けられてきた「グッドウィル・ガイド(善意通訳普及運動)」と同根のものです。そのボランティア精神やよし。参加されている方の誠意や熱意を疑うものでもありません。でもね、こんなことにお金をかけるより、無料Wi-Fiなどネット検索環境の充実に力を注いだ方がよほど喜ばれると思いませんか。

無料Wi-Fiを広範囲で提供するためには、プライバシーの確保など技術的な問題、そして金銭的な問題も多々あるとは聞いています。だからといって、こんな半世紀以上も前の発想がまたまた鳴り物入りで展開されるなんて、都の偉い方々は何を考えているんでしょう。もう少し外国人観光客や留学生などから直接話を聞けばいいのにね。「おもてなし東京」に対して「詐欺だと勘違いする」と言っていた留学生達は、私が「それよりWi-Fi環境の充実だよね」と言ったら、みんな机を叩かんばかりに盛り上がって「そう! そう!」と言っていました。

旅行客の旅情を削ぐことなく、しかしさりげなく利便性だけは最大限に高めてあげる——それこそが、日本らしい「おもてなし」だと思います。

*1:焦げ目が見える生地が「蛋餅」で、その中に「油條」が巻かれているんですけど、写真が下手で見えません。一番外側から全体を挟んでいるのが「燒餅」です。

*2:失礼、職業上の憤慨——通訳案内士の仕事と真正面からバッティングするサービスを無料のボランティアで展開するとは何事ですか——も入ってます。

通訳者の「向き不向き」

先日仕事の現場で、十数年ぶりの懐かしい方に再会しました。某企業のインハウス(社内)通訳者として働いていた頃ご一緒したことのある、他の企業のエンジニアさんです。当時を振り返って、こんなことを言われました。

門外漢だけど、ずっと同じ現場で同じ技術について通訳していらしたから、なまじ新参の社員よりも詳しくて、客先からの質問に直接答えていることもありましたね。

どきっとしました。もちろんその方はほめてくださったのですが、そもそも通訳者が訳すことを端折って自分で話してしまうのは「タブー」だからです。もちろん、インハウス通訳者の場合、効率のために通訳者自身が話すこともないとは言えないんですけど。

現場で漏れ聞く、通訳者に対する苦言でよくあるのは「通訳者が勝手に端折って訳してくれていないようだ」「通訳者が自分を差し置いて勝手に喋ってしまう」というものです。

これ、統計を取ったわけではないから確かなことは言えませんが、私がクライアントから直接聞いたケースを総合してみると、申し訳ないけれど日本企業で働かれている華人で、大学や通訳スクールなどで通訳訓練を受けたことがない方に多い現象のようです。通訳者はあくまでも原発言者に成り代わって喋っているだけで、自分の判断で自分の意見を喋ってはいけないという本質的な部分がどうしても分からないという方がいるんです。

たとえ自分が熟知している内容で、いちいち訳さなくてもいいじゃん、訳していると非効率じゃん、と思ったとしても、通訳者が、自分の雇い主の理解できない言葉で相手側と話し始めてしまったら、雇い主は混乱状態に陥ります。通訳者は、どんなにわかりきった内容であってもいちいち律儀に訳出し、それ以外は一切付け加えも差し引きもしない、という自律・自制が効いていなければならないと思うのです。

まあ実際には、通訳という作業は単なる言葉の変換ではないので、付け加えたり差し引いたりするさじ加減はむしろ不可欠なのですが、それでも相手側が質問してきた時に、その質問内容を自分側の雇い主に伝えず、通訳者自らが答えてしまうのは「タブー」だと思います。でもその勘所が分かっていない人が一定数いるんですね。だから現場での苦言となって我々の耳にも伝わってくるのでしょう。

具体的な例がないと分かりにくいかも知れません。ちょうど先日、テレビ東京の『Youは何しに日本へ?』という番組を見ていたら、そのものズバリのシーンがありました。

【世界に誇るニッポンの○○にYOU大集結SP】
http://www.dailymotion.com/video/x3a7imy

47分53秒からの場面をごらんください。日本の「カワイイ」大好きな台湾人が「ロリータパーティ」へ参加するために来日し、その方に雇われたという通訳者の女性がそばについています。

インタビュアーの「お仕事、何されてるんですか」という質問に対して、通訳者が直接「大きな会社の社長秘書」と答えています。それは事実なのでしょうし、時間の節約にもなるのでしょうけど、ここはインタビュアーの日本語の質問を律儀に中国語に訳して、雇い主の台湾人に伝えなければいけません。

たったこれだけなら大したことはないように思えるかも知れません。でも、これが続けばこの台湾人の女性はどんどん不安な気持ちになることが予想されます。そして、そういう予想ができるか、そういう想像力が働くかどうかが、サービス業としての通訳者の「向き不向き」に関わると私は思っています。

そして、学校で教えていて一番困難を感じるのが、この「サービス業としての通訳者の本質」部分なんですよね。なぜだかは分かりませんが、こういった部分がどーーーしても分かってもらえない種類の方が、たまにいらっしゃるのです。もちろん「向き不向き」なんて言い出したら「商売」にならないので、理を尽くして説明しますけど。

なぜ稽古をするのか

夏の研修会に参加して来ました。内輪で行う発表会みたいなものです。私が舞ったのは「猩々」の舞囃子。その他に仕舞と舞囃子地謡をいくつか仰せつかりました。「羽衣」「三輪」「竹生島」「半蔀」「飛鳥川」。

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謡はiPodの再生回数がそれぞれ100を超えるほどヘビーローテーションで聞いて覚えましたが、それでも結局当日まで「これは確実に謡える!」という仕上がりにはなりませんでした。ううむ、年のせいかしら。当日は、今転んだら詞章が頭からこぼれ落ちそう的な状態で会場に向かいました。

みなさんはどうやって謡の詞章を覚えるんでしょうね。師匠にうかがうと、玄人の能楽師も紙に書く方、ひたすら聞く方と人それぞれだそうですが。私はというと、画面というか映像というか、とにかくビジュアルな物が脳内に立ち上がると比較的容易に覚えられるような気がしています。実際に絵に描いてもいいし想像だけでもいいんですけど、目の前に映像としての風景があれば、それを心の目で追いながら謡っていける。

だから修羅物の合戦のさまを描いたところなどのように、ビジュアルがハッキリしているものは覚えやすいです。上記の曲で言えば「竹生島」などがそうですね。あと以前のエントリでも書いた「三輪」なども、ストーリーが分かりやすいので覚えるのも比較的容易です。逆に「羽衣」のようなとにかく美しい言葉が織物のように連なっているような詞章は覚えにくいような気がします。

研修会の会場についたら着物と袴に着替えてすぐに番組(プログラム)開始。例によってどなたも発声練習やら準備運動やらストレッチやらをしません。これも以前書きましたが、能楽というのは演劇の一種ではあるものの、他のジャンル、特に西洋的なソレとは随分違う発想によって組み上がっている芸能のような気がします。

この件に関して、立命館大学能楽の研究をされ、金剛流のお稽古もなさっているイタリア人のディエゴ・ペレッキア氏が国際交流基金の「をちこちMagazine」に寄せられていた一節がとても興味深いと思いました。

 能の厳格さと流派主義のおかげで、役者たちは高い完成度をもった能の様式を実現してきた。それとともに極めて洗練された美しい言葉がつくりあげられたが、それを話せるものはごくわずかしかいない。そしてその大部分は、決して完全には習得し得ないこの言葉を、時間とお金をかけて学んでいる素人弟子たちである。


 こうした事実は能の世界以外ではほとんど理解されていない。能界で修業するというのは、師匠が体現する伝統への服従を意味し、その師匠もまた各流派の頂点に立つ指導者、家元に従属している。素人弟子にとって修練した芸を発表する場である演能は、習得した型を再現する場であり、創造的な行為ではない。このように従属した存在である素人弟子たちは、演じるために常に師匠にお伺いを立てる必要がある。芸術表現の形として芸能に興味を抱く若者が、伝統的しきたりの尊重よりも創造性や個性を重んじる能以外の芸能に心を惹かれやすいとしても不思議ではない。


能の中核をなす「素人」:新しい時代の挑戦 | をちこちMagazine http://www.wochikochi.jp/relayessay/2014/01/noh-amateur.php

一読、何だか否定的な見解のように読めるかもしれません。けれどペレッキア氏の主張のベースはまず、そういう特殊な性質を持つ能楽という「お稽古事」が今とこれからを生き延びていくためにはどうすればよいかという視点に置かれたものです。本来「そういうもの」である能楽が、この娯楽に満ちあふれた現代でいかに素人の「稽古者」を獲得していくのかという問題意識であるわけですね。

そしてここで氏が述べていることはまた、内在化された型を再現するのが演能の真面目(しんめんもく)であり、「本番」に自身の表現の最高潮を持っていくことを能楽はそも目的としていないのではないかという分析をも踏まえたものだと思います。もちろん実際の公演で、演者は他の演者との協働を通してその場限りの達成を作り出すのですが、それは他の演劇等における「本番」とはやや違った趣のものであるらしい。

やはり能のお稽古は、とても「ヘン」なところがあるのです(あくまでも現代の私たちからすれば、ですが)。そして私などはその「ヘン」なところになぜか惹かれるんですね。他のお弟子さんたちも、もしかしたらそうなのかも知れません。

能の稽古だって、最初は簡単で短いものから始めて、徐々に難しく複雑なものに移っていきます。その点では他のお稽古事と選ぶところはないのですが、どうもそれだけではない。技術が上がればより高度なワザが駆使できるようになる、ソレをここ一番の大舞台で遺憾なく発揮することがすなわち「成功」であり「達成」であり「進歩」であるという、現代の我々に当たり前のように備わっている世界観とは何か違うものが組み込まれているような気がするのです。特に我々のような、ペレッキア氏言うところの「決して完全には習得し得ないこの言葉を、時間とお金をかけて学んでいる素人弟子たち」にとっては。

今のところ「気がする」というレベルですけどね。

オリジネイターに対する敬意

先週と先々週、通訳スクールの教材にこの映像を使ってみました。


魅蓝note2发布会全程视频- YouTube

中国のスマホメーカー魅族(メイズ)の新製品「魅藍note2」の発表イベントです。6月2日に開催されたばかりの映像がもうYouTubeに公開されていて、それを早速使用してみたというわけです。通訳教材は鮮度がよくないと訳出時のモチベーションが落ちるので、こうやってなるべく新しい素材を手に入れるべく日々アンテナを張るようにしています。

前の学期では同じ中国のスマホメーカー小米(シャオミ)の新製品発表会を教材に使ったんですが、小米といい、今回の魅族といい、その製品のデザインから、発表会のスタイルから、宣伝や広告の意匠から、販売店のインテリアから、ひとつひとつがはっきり申し上げて「Appleの真似っこ」。いやもう、ここまで模倣し倒していると、いっそ清々しく思えてくるくらいです。

もちろん小米も魅族も、AppleiPhoneでこの世に送り出したイノベーションを土台にして、独自のアイデアを盛り込み、さらには本家iPhoneを超える使い勝手の良さや心躍るユーザ体験を作り出しているんですけど、そしてそもそも世に数多あるAndroidスマホのほとんどが「iPhoneの真似っこ」であることは誰もが知っていることなんですけど、私がこの動画を見て感じたのは「凄いな、面白いな」という感覚*1と同時に、この人達にはここまで真似させてもらっているご本家に対する敬意、あるいはもっと言っちゃうとある種の「疚しさ」みたいなものが微塵も感じられないなということでした。

まるで一から自分たちが創造したかのように話しているこの「どや顔」的たたずまい。この映像では、iPhoneにおいてあるアプリの起動中に前画面に戻る際、スマホの左上隅の「戻る」を押さなければならないという使い勝手の悪さに学んで、ホームキーの半押しで「戻る」を実現した「mBack」という機能が声高らかに紹介されているんですけど、その目の付け所が素晴らしいなと思う一方で、「iPhone」と同じネーミング方法で「mBack*2」と名付けちゃう、その「果たしてプライドがあるんだかないんだか全く分からないなこの人達は」的ふるまいに眩暈がしてしまうわけです。

あ、もちろん発言者の「たたずまい」がどんなものであろうと、通訳は通訳。全く切り離して訳出に取り組むべきなのは言うまでもありませんが。

内田樹氏が『街場の中国論』でこんなことを書かれています。

 ご存じのようにかの国においては他国民の著作物の「海賊版」が市場に流通しており、コピーライトに対する遵法意識はきわめて低い。
 それによって、現在のところ中国国民は廉価で、クオリティの高い作品を享受できている。
 国際的な協定を守らないことによって、短期的には中国は利益を得ている。
 けれども、この協定違反による短期的な利益確保は、長期的には大きな国家的損失をもたらすことになると私は思う。
 それは「オリジネイターに対する敬意は不要」という考え方が中国国民に根付いてしまったからである。
(中略)
 「オリジネイターに対する敬意」を持たない社会では、学術的にも芸術的にも、その語の厳密な意味における「イノベーション」は起こらない。


増補版 街場の中国論』「グーグルのない世界」
グーグルのない世界 (内田樹の研究室)

世の中に全くのゼロから創造されるものなどほとんどなく、すべては先人の模倣から新しいものが生み出される、それは分かっているつもりです。でも小米や魅族、あるいは先般ネットでも話題になっていたユニクロをそっくり「真似っこ」した「メイソウ」のような企業に代表される、ある種無邪気なまでの「オリジネイターに対する敬意」の欠如は、明らかに度を超していると私は考えます。こうした「貪便宜(虫のいいことをする)」な行為がやがて回り回って、中国という国の衰退につながるのではないか。この点で私は内田樹氏の見立てに共感を覚えます。

ところで。じゃあYouTube動画を無断で教材に使用しているお前はどうなんだ、「オリジネイターに対する敬意」を欠いているんじゃないのかという内なる声が聞こえてきました。そう、これ、教材を作るたびにいつも引っかかっている問題です。著作権とか知的財産権的にはどういう扱いになるんでしょうか。

……と、Twitterでつぶやいたところ、こう教えていただきました。


それでも、YouTubeに動画をアップした方自体が配信の権利を持っていなくて勝手にアップロードした場合は問題がありそうですが、とりあえず出典を明らかにすれば特に問題はなさそうでほっとしました。ご教示、まことにありがとうございます。

*1:だからぜひとも教材に使おうと思ったのです。

*2:mはメイズのmですね。

「エロ」くて「オヤジギャグ」な古典

夏の「研修会」でいくつか仕舞の地謡を仰せつかったので、謡をせっせと覚えています。iPodに入れた謡をエンドレスで聞きながら詞章や拍子や節を身体に覚え込ませるんですけど、基本は学生時代に最も苦手としていた「古文」の世界ですから、なかなか身体に入ってきません。

私がお稽古に通っている社中では、本番は「無本」(謡本を見ないで謡う)が不文律になっていて、先輩諸氏はみんな無本で謡われるものですから、私一人がアンチョコ的に見るわけにも行かず、必死で覚えています。

ただ、謡を聞いているだけでは埒があかないので、詞章を一度書き出してみて、その意味するところを情景として思い描きながら覚えて行きます。人によると思いますが、私は目の前にビジュアルな情景が広がっていると比較的簡単に覚えられるような気がしています。マンガに慣れ親しんで育ってきた世代だからかもしれません。

今日は『三輪』という曲を覚えていたのですが、まずは「the 能.com」の解説を読みました。ここは能楽に関するありとあらゆるコンテンツが集められていて、主な曲(演目)の詞章を現代語訳と英語訳で読むことができます。

三輪』の仕舞は、こんなふうに始まります。

されども此の人/夜は来れども晝(昼)見えず
或る夜の睦言に/御身如何なる故に因り/かく年月を送る身の
晝をば何と鳥羽玉(うばたま)の/夜ならで通い給はぬは/いと不審多き事なり
唯同じくは長(とこしな)へに/契(ちぎり)を籠むべしとありしかば

「うばたまの(ぬばたまの)」って「夜」にかかる枕詞でしたっけ、とか遠い学生時代の記憶がわずかによみがえってきますが、何だかよく分かりません。現代語訳はこうです。

しかしこの方(男)は、夜には通ってくるけれど、昼には来ない。
そこで女は、ある夜の睦言に「あなたはこんなに長い年月を送っているのに、
なぜか昼を嫌がり、 夜しか通って来られないのは、まったく不審なことです。
ただ夜も昼も同じように ずっと一緒にいたいのです」と語った。

おお、通い婚ですね、通い婚ですね! 睦言(むつごと)って、要するにピロートークですね。……こんなことを書いていると師匠に思いっきり怒られそうですが、いきなり「そういうハナシ」というのがすごいですよね。伝統芸能はともすればお上品で高尚なものと敬遠されがちですが、実はそこに描かれているのは、ときに現代と変わらぬ人間の様々な営みなわけでして、それがまた面白いんですね。

そして、こんなストーリーを、地謡というコーラスをバックに伝統的な型でもって舞うわけです。極めて真面目に。私だけかもしれませんけど、こういう秘めたギャップというか落差というかコントラストに、たまらぬ魅力を感じます。

ともあれ、女性は男性の行動を「不審」に思ったと。問い詰められた男性は、こう答えます。

彼の人答え云うやう/げにも姿は羽束師(はづかし)の/洩りてよそにや知られなん
今より後は通うまじ/契も今宵ばかりなりと/懇ろに語れば

すると男は答えて「まったく私の姿は恥ずかしいものだが、それが世の中にもれて知られてしまうのではないか。これから後は通うのをやめよう、愛を交わすのも今宵限りだ」としみじみと語った。

なんだか怪しくて、それにちょっと「エロい」ですよね。こんなことを書くとさらに師匠から怒られそうですが、私、高校生の時分から古文の授業って「エロとオヤジギャグのてんこ盛り」だと思っていました。出てくる話のおおかたが愛だの恋だので、この人達はいつ働いてるんだろうと思うくらい色恋にひた走っていて、何かというと契っちゃうし、契れないと寂しいからってんで艶っぽい歌をやりとりしては悲嘆に暮れたりしてるし、いや、多感な高校生にはちょいと危険ですよ。

加えて、かけことばが重層的に積み上がるさまは要するにダジャレの連続。能の詞章にもかけことばがふんだんに使われています。日本人はこういうのが大好きなんでしょうかね*1コクヨ「たのめーる」のCMはこういう所に源流があるのだと思います。


たのめーるCM集 5連発 - YouTube

で、「今宵限り」と言われた女性は、こんな策に打って出ます。

さすが別れの悲しさに/帰る処を知らんとて
苧環(おだまき)に針を附け/裳裾(もすそ)にこれを綴じ附けて
後を控えて慕い行く

さすがに別れは悲しく、女は男が帰っていくところを知ろうと思い、苧環(糸を巻いたもの)に針をつけ、男の着物の裾に縫い付けた。そして、糸が伸びていった先を尋ねて追いかけた。

このストーカー的執念、怖すぎます。伊藤理佐氏の『おるちゅばんエビちゅ』に出てくる「浮気発見機」と全く同じ発想ですね。というか、伊藤氏はこの『三輪』のお話をご存じだったのかもしれません。
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ぱあふぇくと版 おるちゅばんエビちゅ : 9 (アクションコミックス)

で、追跡していった先で、件の男性は実は神様だったということになって、お話は一気に幻想的で神話的な展開になっていくんですけど。

ともあれ、以上のような作業で取っつきにくい詞章が一気に強烈なビジュアルを帯びてくれたので、何とか覚えてしまえそうです。こんな覚え方でごめんなさい。師匠と世阿弥*2にお詫び申し上げます。

*1:日本人だけじゃないですね。中国語にも「歇後語」みたいなのがあるし、人間は、言葉の音が思いがけないところで偶然に一致することに、何かえも言われぬ快感を覚えるもののようです。

*2:作者不詳ですが、一説に世阿弥作と言われているそうです。

大雑把な質問

報道ステーション』を見ていたら、ワールドカップの決勝で負けたことについて記者が岩清水梓選手に「サッカー人生の中で何番目の悔しさですか」とインタビューをしていました。岩清水氏は困惑しつつも「三番以内には入りますね」と答えていました*1が、こんな質問をすることにどんな意味があるのかなと思いました。その答えを聞くことで、この記者は何を「報道」しようとしているのでしょうか。

僭越ながら、私が岩清水氏だったら「失礼なことを聞かないでください」と怒っちゃうと思います。あるいは「別に……」とでも言っちゃいますか。どうしてこのような中身のない、よしんば「最も悔しいです」という回答が戻ってきたとしてもだから何なんだ的な質問が繰り返されるのでしょうか。

実はこれ、今に始まった現象ではありません。政治学者の岡田憲治氏は、元サッカー日本代表の中田英寿選手が日本のメディアにおいて評判が良くなかったことを取り上げて、中田氏を擁護した上でこのように書いておられます。

インタビュー、とくにスポーツ中継におけるインタビューを見ていて、本当にやり切れなくなる最大の理由は、インタビュアーが、話し手から何かを「引き出す」のではなく、もう当然あるだろうと勝手に判断した選手の「気持ち」を確認するためだけに尋ねる、予定調和を促す、例のあの大雑把な質問が延々と続くからです。(強調は著者ご自身による)
言葉が足りないとサルになる

岡田氏は、「言葉で表現することの持つ、たくさんの可能性を無視し、考えようとも、探ろうともしない」こうしたありようを「言葉をめぐる精神の怠惰」と厳しく批判しています。ワールドカップの決勝戦にまで進んだ一流のアスリートがどのようなことを考え、私たちはそこからどんな新しい発見ができるか。記者のみなさんにはぜひ、そういった創造的なスタンスでのインタビューをお願いしたいと思います。

一方で、インタビューされる側のスタンスも大切だと思います。日本サッカー協会では、自分の考えを明確に説明し、創造的なプレーを行える選手を育成するために必要なのは論理力と言語力であるとして、「言語技術」のトレーニングを若年層の選手に課しているそうです*2

今度「何番目の悔しさですか」などと聞かれたら、「悔しさの順位をつけることに意味があるとは思いません。今回のワールドカップで得られた達成はこれこれで、教訓はこれこれ、特にここが今後最も強化が必要だと思います」などと言葉を駆使することで失礼な記者を諫めてほしいですね。それが果たしてオンエアされるかどうかは保証の限りではありませんけど。

そして自分がここから学ぶべきは何でしょうかね。まあ家族や友人との他愛ない会話はさておき、少なくとも他の場面では「やばい」とか「うざい」とか「ぱねえ」とか「きもい」とか「まじ」とか「がち」とか……に頼らず、自分の考えをできるだけ丁寧に言葉として組み立て、発していくことかな。

*1:録画していないので、質問・回答とも記憶に依ります。

*2:「言語技術」が日本のサッカーを変える田嶋幸三著・光文社新書

仮案件とリリース

先日、Twitterでこんなことをつぶやきました。

「仮案件」というのは要するにクライアント(通訳者の依頼主)が複数のエージェント(通訳者の派遣業者)に対して「相見積もり」をとるため、エージェントから通訳者に対して「この日時、空けておいてね」と要請されることです。「仮」ですから確実に仕事になる保証はありませんが、これが「本」決まりになるまで、他の仕事を入れることはできません。ダブルブッキングになっちゃいますから。

で、複数のエージェントが競って見積もりで負けると、その案件は「リリース」になります。釣りで言う「キャッチ・アンド・リリース」の「リリース」。つまり「解き放たれる」ことですね。空けておいてもらった日時はもう解放しますから、別のクライアントなりエージェントなりから仕事が入ったら、どうぞ入れちゃってください、ということです。

……と、言われても、そうそううまく別の仕事が入ってくるわけじゃありません。多くの場合、上記のTwitterでつぶやいたように、結果として「虻蜂取らず」、つまりわざわざ他の仕事を断ってまで入れずに空けておいたのに、当のその仕事がリリースになっちゃった、ということがたびたび起こります。そしてその補償は……まずありません。しくしく。

今日も今日とて、同じような羽目に陥って、ダブルで仕事を失いました。いえ、誰が悪いというわけじゃないんです。ただ、一番弱い立場である末端のフリーランスたる私たちに「しわ寄せ」が来るというだけのことなのです。そして、それを承知でこうしてフリーランス稼業に就いているわけです。誰にも文句は言えません。

とはいえ……これじゃ通訳者として食べていくのは至難の業ですよね。私はこの業界の駆け出しですから仕事が少ないのは当たり前としても、聞けばこの道何十年の大先輩でさえ同様の「仮案件・アンド・リリース」には悩まされている由。みなさん通訳業の他に翻訳業や講師業やその他の業務を兼任しながら生活を維持されている。もちろん私もそうです。

私はそれでも、曲がりなりにも飢え死にしないくらいには何とか稼ぎを維持していますが、この先どうなるかは分かりません。通訳者という仕事はとても面白くてやり甲斐のある、世のため人のためにもなる素敵な仕事だと私は信じていますけど、これじゃ新しく参入してくる方はどんどん減って行くんじゃないかなと思います。そして「素敵な仕事です」などと吹聴しつつ通訳学校で講師をしていること自体も、何だか申し訳ないことのように思えてきます。

クライアントが「相見積もり」を取るのは、少しでも安い値段で通訳者を雇いたいからですね。競争原理とコスト削減が至上命題の市場にあっては当然のことです。ただ低コストにはそれに見合った質のサービスしか得られないこともまた当然のことなので、質の悪いサービスに頼った結果生まれるかもしれないリスクというものもあり、それが回り回ってコストの上昇を招くことは十分にあり得るんですけど、なぜかそのリスクは多くのクライアントにおいては前景化しないようです。

残念だけど、それが現状だとすれば、できることはふたつ。ひとつは大量の「リリース」にも負けないくらいたくさん仕事の種を播き続けること、もうひとつは質の悪いサービスに頼るリスクを知悉したクライアントにご指名頂けるような技術を身につけること、ですね。はい、精進いたします。

あ、以上は主に中国語通訳の業界についてのお話です。他言語の状況についてはあまり知らないので、当てはまらないこともあるかと思います。

通訳の道具1・バング&オルフセンのイヤホン

通訳の現場は毎回緊張の連続。しかもそれが、一緒にチームを組んで仕事をする「パートナー」のいる現場であればなおさらです。まだまだ駆け出しの私にとって、現場でご一緒するパートナーはいずれもこの業界の大先輩ばかりだからです。先輩通訳者のパフォーマンスに聞き惚れ、圧倒され、我が身を振り返って打ちのめされることがほとんどですが、訳出そのもの以外にも、先輩方が使っている道具に興味を惹かれることが多く、とても参考になります。

例えば同時通訳のブースで使用するヘッドホンやイヤホン。同時通訳者が会場備えつけのものをそのまま使うことは少なく、みなさんそれぞれの「マイヘッドホン」や「マイイヤホン」を持参されることが多いようです。一瞬の油断もできない訳出作業においては、やはり普段から使い慣れ、耳に馴染んでいる私物の方が、よけいなストレスを感じずにすみ、それだけ作業に集中できるということでしょうか。

私はというと、普段の語学学習にも使用している比較的安価で小ぶりなヘッドホンを持ち込んでいたのですが、ある時先輩通訳者から、ご自身が長年愛用されているというこのイヤホンを紹介されました。デンマークの「バング&オルフセン(Bang & Olufsen)」というメーカーの「A8」という製品です。

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先輩いわく「音の粒立ちが違う」。正直に申し上げて、このイヤホンはかなり懐が痛んでしまう最高級品ですが、それで少しでもスピーカー(発言者)の声がクリアに聞こえ、訳出の精度向上に資するのであれば、それに見合う投資ではないかと先輩はおっしゃるのです。弘法も筆を選ぶのですね。私はその「プロ意識」、「プロ根性」に驚き、「聞こえるなら何でもいいでしょ」などと思っていた自分を反省したのでした。

というわけで、私も先輩に倣ってすぐに購入しました。音の違いもさることながら、耳に掛けるタイプのこのイヤホンは、音が聞こえてくる部分の位置を自由に調整することができます。縦のシリンダー部分が伸縮することに加えて、シリンダーから伸びた「腕」の部分が回転することで、耳に密着させることもできれば、耳から少し離す(浮かせる)こともできるのです。

この「耳から少し離すこともできる」というのが重要です。音楽を聴くのであればそんな使い方はしないと思いますが、同時通訳の場合はスピーカーの発言を聞きながら自分の訳出する声もモニターしているので、片方のヘッドホンを少しずらしたり、イヤホンをゆるく装着したりすることが多いからです。このイヤホンは細かい部分の作りがとてもしっかりしていて、そのような使い方を簡単に、そしてとてもスマートに実現できます。もちろんメーカーは、そんな使い方をされるとは想像もしていなかったでしょうけど。

もちろん最高級のイヤホンを使ったからといって、訳出のできばえも最高級になる保証はありません。これからも道具におぼれず、精進を重ねたいと思います。

ISSのスクールブログに寄稿したものです。

「ナマリング」のすすめ

かつて毛沢東主席や周恩来総理といった要人の通訳をつとめ、文化部副部長などを歴任された劉徳有氏がこんなことを仰っています。

  在学校里你听惯了某一个老师的中文课,那个中国话可能是标准话,普通话。突然进入社会,接触各色人等,再听那些你所不习惯的中国话,你有时甚至会丧失信心。“怎么? 我怎么听不懂了!?” 但是,我劝这些朋友,不要丧失信心,要多创造条件,努力多听,不断地训练耳朵。如果能过好这一关,我相信对你提高外语水平将会起关键的作用。

 あなたが学校の授業で、ある先生の中国語を聞き慣れていたとします。その中国語はおそらく標準語であり共通語であることでしょう。ところが突然社会に出て、さまざまな人と接し、なじみのない中国語に接すると、ときに自信を失うことがあるかもしれません。「ええっ? なぜ聴き取れないんだろう!?」 でもそういう方には、自信をなくさないよう励ましたいのです。もっと機会を作って、たくさん聴くようにつとめ、たえず耳を鍛えましょう。この難関を突破できれば、あなたの外国語レベル向上に決定的な意味をもたらすと思います。

中国語通訳トレーニング講座東方書店)より

宮仕えをしていた頃、ディクテーションした大量の素材を使って「ナマリング」という授業を担当していました。「ナマリング」というのは四半世紀ほど前に出ていた伝説の教材『中国語なまりングコース』(中国語情報サービス・絶版)へのオマージュです。この教材は中国の様々な地方で実際に収拾された「訛り」のある中国語を聴き取ろうという唯一無二のユニークな教材でした。

音声教材といえば教科書の文章などを声優さんやアナウンサーさんが吹き込むのが普通です。特に語学の初中級段階ではそういった「標準的」な音声で学ぶことも大切だと思いますが、実務レベルに近づくにつれ、それだけでは物足りなくなってきます。市井のネイティブスピーカーは、まずアナウンサーのようにはしゃべってくれないからです。そこでこうした実際に様々な場面で話している音声を収拾した「実況録音」の教材が必要になります。

今でこそYouTubeや优酷などの動画投稿サイトへ行けば、様々なネイティブスピーカーが話している動画と音声に触れることができますが、以前はそうした「ナマの声」に触れるのはとても貴重なことだったのです。上記の『中国語なまリングコース』の他には、中国で出版された『实况听力教程』という初級・中級・高級の三分冊があって、これには私も大変お世話になりました。

この『实况听力教程』はその後『原声汉语』という名前で再編されて、今でも出版されているはずです。またその日本語版も近年出版されています。

街なかの中国語―耳をすませてリスニングチャレンジ

ただこれらの教材、内容は非常に興味深いのですが(おもしろくて何度も何度も聴きました)、いかんせん録音された時代が古く、録音状態もあまりよくありません。リスニングというのは同時代に生きているからこそ分かる背景知識などもその理解を後押ししてくれるものですし、少しでも声に集中したい時に雑音や音質の悪さはかなり非効率的です。というわけで「ナマリング」というクラスでは、私がネット動画などからディクテーションしたものを教材に仕立て直して使っていました。生(ナマ)音声で時には訛(ナマ)りも混じるネイティブスピーカーの発言を正確に聴き取ることで、実戦力のある耳を鍛えようというわけです。

「実況録音」の特徴

今はYouTubeなどがあって、とても簡単に「耳を鍛える機会」が得られる、本当にいい時代になりました。こうした「実況録音」には、教科書などの音声と比べて以下のような違いや特徴があります。

●「イキイキ」している。
●老若男女、さまざまな人がしゃべっている。
●“啊”“喔”“這個”“那個”“完了之後呢”……などなどの「冗語(間投詞)」やその人の口癖が入っている。
●言いよどみ、言いかえ、言いまちがい、言いなおし……などがある。
●必ずしも文法的に正しいとは限らない。
●必ずしも論旨が明確とは限らない。
●必ずしも標準的な“普通話”とは限らない(中国語世界の広さを実感する)。
●雑音が入っていることがある。
●録音状態などによって、時には物理的に聴き取れないこともある。

総じてとてもライブ感とリアリティのある音声だというわけです。こうした音声をディクテーションしたり、ディクテーションしないまでも聴き取って、どんなことを言っているのか想像するのはとても楽しい作業です。

聴き取るために

1.最初から一字一句聴き取ろうとせず、まずは話の大意を追う。

 知らない単語、聴き取れない単語がでてくると、とたんに頭がフリーズ……ということがあります。ひとつでも分からない単語にぶつかると、その先が全然聴けなくなるんです。これはもったいないです。だいたい私たちは、母語で会話する時だって相手の言葉を100%聴き取ってないことが多いのです。それでもコミュニケーションが進むのは、要点を押さえて聴いているからだと思われます。まずは知っている単語、聴き取れた単語から全体を類推してみる、完璧主義を捨てて、いい加減でも大雑把でもいいとゆったり構えることが大切です。

2.自分が知らない言葉や自分で話せない言葉は、なかなか聴き取れない。

 要するに語彙量を増やし、自ら発音してしゃべることをやらないと語学は向上しないということです。語彙量を増やすために単語を一つ一つ覚えていくのもいいですが、だったらディクテーションをしながら「あ、こんな言い方もあるんだ」と気づきを増やしていくのが楽しくてオススメです。自ら発話することについては、中国語の音読やリピーティングやシャドーイングが役立ちます。ただしこれ、初中級段階では「実況録音」ではなく、標準的な発音のものを使うほうがよいかも知れません。 

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3.日本語に訳しながら聴いていると、なかなか聴き取れない。

 よく、「あ、これは要するに日本語の○○ですね」とすぐ日本語に訳して理解しようとされる方がいますが、できれば中国語を中国語のまま理解するほうがいいですね。頭を常に「中国語モード」にしておくため、授業ではできるだけ日本語を使わないようにしていました。もちろんこれは中級から上級クラスの場合ですが。また授業中は辞書を引かないようにとも言っていました。中日辞典を引くと、とたんに頭が「日本語モード」になってしまうんですね。日本語モードのまま中国語を聴き取ったり話したりというのは同時通訳者レベルで非常に高度なスキルが必要です。

4.背景知識もリスニング力をバックアップする。

 上述しましたが、すでに知っていることがらは、その背景知識が後押ししてくれて聴き取りやすいものです。現代中国(のみならず、幅広いチャイニーズの世界)に関する広く浅い雑学知識を増やすようにするといいです。語学は語学単体で存在しているのではなく、その時代のその地域の状況や世界全体の現況と不可分に結びつき、日々千変万化の変化を遂げているものですから。

教材の例


林俊杰优酷独家专访自曝暂无结婚打算0001 - YouTube

まずは、林俊杰氏の背景知識を入れておきます。

林俊杰(JJ):新加坡华人,祖籍福建,著名男歌手,作曲人、作词人、音乐制作人,偶像与实力兼具。2003年以《乐行者》出道,2004年一曲《江南》红遍大江南北,凭借其健康的形象,迷人的声线,出众的唱功,卓越的才华,迅速成长为华语流行乐坛极具指标性的唱作天王。迄今为止共创作数百首音乐作品,唱片亚洲总销量逾1000万张。亦积极参与游戏和电影配乐。2007年成立个人音乐制作公司JFJ,2008年主演偶像剧,同年创立潮流品牌SMG,2012年推出故事影像集《记得》,成功跻身畅销书作家行列,跨界发展身兼数职,在诸多领域均有所成就。(百度百科)

視聴に入ります。ところどころ質問があるので、その部分を口頭で答えます。話者の話している通りに再現する必要はありません。大体どんなことを言っていたのか、自分が使える範囲の中国語でいいので、簡単に説明してみます。最終的には全部ディクテーションするのもいいですね。

林俊杰:Hello优酷网的网友们,你们好,我是JJ林俊杰,好久不见。

00:23〜 ①他这次专辑的创作理念是什么?
林俊杰


林俊杰:因为要男人去,去…真的去了解一个女生,女人的心,我觉得那是…不怎么容易。不怎么容易。然后我觉得那个用心,然后希望这次找了燕姿来一起合作,就是希望跟…能够透过她的角度,能够透过她的心…她的内心的故事,来说出这样的一个故事。

気分転換に穴埋めなども行っていました。

01:36〜
林俊杰:所以说这种我内心希望说________________。我觉得两个人在一起或者是感情中的,感情中沟通是很重要的。感情中,如果没有对方用心听你说,___________________ ,或对她说这个___________的,对啊。所以我希望可以有一个女性的代表来发挥她的…来__________ ,它是内心的,很真实的,_________的一个…一个__________。

聴き取りを続けます。

02:14〜 ②这张专辑的内容是如何?
林俊杰


林俊杰:那其实作品专辑里面还有一些歌曲,我是希望更大力地去推,让大家听这样。因为每首歌都是新的创作的方式,包括像《只对你有感觉》是非常摇滚的一种…一个尝试,跟之前的原本就不太一样。然后还有《心墙》。这两首歌其实是我非常偏爱的,然后我希望可以多多让大家听的。

03:22〜 ③他希望歌迷怎样听这张专辑?
林俊杰

03:38〜 ④他如何介绍自己的近况?
林俊杰


林俊杰:也不用太担心了。因为我其实我状况是…是还蛮可以,还蛮健康的了。只是说要注意一下,因为健康…就是说肝脏不是很好,那需要去调整一下。就是…没有到很严重,还没有倒需要去很急…很严重的状况。那,当然是要找到一个平…就是刚说到的就是找到一个好的平衡点,然后照顾一下就好。就是…其实我每天在生活还是OK了,还是挺…挺愉快的。

04:46〜 ⑤今后他希望往什么方向发展?
林俊杰

05:04〜 ⑥他想扮演什么样的角色?
林俊杰


林俊杰:我这几年一直在音乐上就是拍MV的过程,其实有很多自己的想法,有很多自己的…加入包括《她说》这些脚本。那我希望再拍电影的话,我觉得跟一些新的员力,一些能量来擦撞来摩擦,我觉得那个,那个会擦出更多的火花。

06:01〜 ⑦今后他还希望做什么样的工作?
林俊杰


林俊杰:因为如果我是我专辑找他来做,或者他的专辑我去帮他夸道,那种感觉比较小规模,我希望这个规模可以是大的。我是说这规模可以是更有,更大的意义的。那我觉得还蛮期待有一天可以这样子。

06:49〜 ⑧最后他谈到什么样的话题?
林俊杰


どうでしょう。かなり骨が折れますよね。だけどこうして最初はまさに「五里霧中」という感じだったのが、だんだん霧が晴れるように聞こえてくるのは本当に楽しいものです。ディクテーションなどしていると、何度聞いても分からなかった部分が急に分かる時があって、その時は「あっ、いま脳内でシナプスがつながったのかしら」などと想像しています。そうやってシナプスがつながった言葉を次に聴いてみると、もうその言葉にしか聞こえず、なぜこれが聴き取れなかったのだろうと思えるくらいですから不思議なものですね。

答え合わせ

各パラグラフで、大体どんなことを言っているのかが分かればよしとします。

00:23〜 ①他这次专辑的创作理念是什么?
今回のアルバムのコンセプトを問われて、“用一个女性的角度来创作”と言っているのが聴き取れたでしょうか(BGMが少々邪魔ですが……)。そしてそれは男性である自分にとって“一个很大的挑战”だとも言っています。

02:14〜 ②这张专辑的内容是如何?
アルバムの具体的な中身ですが、全部で11曲収録されており、そのうちの10曲は“之前的作品”、残りの1曲が『她说』という、このBGMでかかっている曲だと言っています。でもって、本当は他にも収録したい曲はたくさんあるけど、限界もある。でも自分が歌いたい、思い入れのある曲ばかり選んだ、というような内容です。

03:22〜 ③他希望歌迷怎样听这张专辑?
“主打”というのは、そのアルバムでメインとなる「イチオシ」の曲、代表曲です。でもアルバム全体のコンセプトを味わうためには、やっぱり全曲聴いてほしいなというようなことを言っています。

03:38〜 ④他如何介绍自己的近况?
デビューから8〜9年、無我夢中でやって来たけど、数年前からちょっと体調が悪くて“健康状况好像有出了一点警报,出了一点红警报的感觉”、健康に赤信号が点灯しちゃったと。そして今年のコンサートが終わったら身体を休めたいと言っています。

04:46〜 ⑤今后他希望往什么方向发展?
“影视”、つまり映画やドラマなどの演技に興味があるようですね。で、ドラマは出たことがあるけど、映画は未経験で、“最近有很多的单位来一起邀我拍电影”、いろいろなところから映画出演のオファーがあると言っています。

05:04〜 ⑥他想扮演什么样的角色?
“我觉得古装很辛苦”だそうです。“古装”は古い衣装、つまり時代劇のことですね。それよりは“能够马上融入的角色…比较接近我本色的角色”、実際の自分に近い役のほうがいいかなと。“生活一点”、要するに(現代の)生活感がある、軽めのラブストーリーがいいんだそうです。

06:01〜 ⑦今后他还希望做什么样的工作?
男性歌手とのコラボに興味があると言っています。“比如说我跟力宏,或者是杰伦”、つまりワン・リーホンジェイ・チョウとコラボしたいと。“创作歌手”、自分で歌を作っているアーティスト同士のコラボに期待しているようですが、“最重要就是找一个很好的机会”、まずはその機会を探るのが大切と。

06:49〜 ⑧最后他谈到什么样的话题?
結婚について聞かれたんですね。でも両親もまだ心配してないし、“一直都在忙着工作,忙着在打理自己工作上的事情”、今は自分の仕事に忙しいから、“感情这块还没有到那个阶段”、恋愛とか結婚とかいう段階じゃないと。“感情”はここでは恋愛ごとを指しています。でもってお兄さんが最近“订婚(婚約)”したそうですが、自分は“漫漫来吧”、ぼちぼち行くよと煙に巻いています。

華人である林俊杰氏が華人向けに話しているので、日本のメディアに登場する時よりも総じて何というか……飾りがないというかある意味テキトーというか、気さくでフランクな感じがしますね。

ディクテーションのすすめ

先日の通訳スクールでは、台湾の江宜樺行政院長の記者会見映像を訓練に使いました。その晩に統一地方選惨敗の責任をとって辞任されちゃいましたけど。いえ、単なる偶然ですが。でもって今朝の新聞には馬英九大統領(総統)も国民党の主席を辞任というニュースが載っていました。

それはさておき、日本語母語話者の中には台湾人の発言や、中国でも南方の方の発言が苦手という方が多いです。リスニングが難しいのだそうで。圧倒的多数の方が北方一辺倒の中国語教育で学んできているので仕方がないんですが(私もそうでした)、意識していろいろな地方の方の発言を聴き、できればディクテーションなどして慣れて下さいと申し上げました。

日本人としては「全部取り」が正しい

教師の中には台湾の中国語(ってのもナニですね…まあ華語ですか)、例えば「和」を「han4」と発音したりするのを極端に排する方がいます。まあ初中級レベルだったらかえって混乱するでしょうから仕方ないと思いますが、実務レベルになったら北方も南方も関係なく幅のある中国語全体に分け隔てなく馴染んだ方がいいですよね。進んで仕事の幅を減らすことはないじゃない? 当事者であるチャイニーズ同士であれば教師も、「han4」なんて言わんとか、繁体字は無駄が多いとか、儿化音なぞ気持ち悪いとか、「漢語」なんて言わん「中文」だとか言いあってても仕方ないかなと思いますけど、外野の日本人はどちらにも与せず「全部いただきます」が正しいと思うんです。

南方や台湾の中国語を「訛ってる」「標準的じゃない」とおっしゃる方もいますが、確かに中華人民共和国の標準語としての「普通話」からすれば訛ってるのかもしれませんけど、それもこれも全部中国語なんですよね。そして仕事の現場では様々な地方の訛った「普通話」が飛び交ってる。どれが標準でどれが訛りだなんて立て分けはあまり意味をなさなくなるんです。みんながみんなCCTVのアナウンサーのように話さなくてもいいですし、よしんば自分は「標準的」な発音で話すとしても、様々な相手の様々な「訛り」を聴き取れなければコミュニケーションにならないでしょう?

江(前)行政院長の話しぶり

日本人が台湾華語に慣れるという意味では、江宜樺(前)行政院長の発言は絶好の教材でした。行政院開麥啦というこちらのチャンネルなどにたくさんありますが、言語明晰で理路整然としていて、冗語が一つもないの。ああ、こんなふうに話せたらいいなとほれぼれするくらいで、ディクテーションにも最適です。また台湾行政院のオフィシャルサイトにも多数の映像があって、こちらも勉強に使えます。ちょうど江院長の辞職会見がアップされていました。


行政院長江宜樺辭職聲明記者會- YouTube

江宜樺氏の政治的立場や業績について特に何かを言う立場にありませんし言うべきでもないと思いますが、氏の「話しぶり」についてはファンでした。たとえ原稿を読み上げる会見でも、自らの言葉として消化して話してるのが分かるから。日本の政治家との違いを感じますし、頭いいんだなあと思います。

ディクテーションのすすめ

ディクテーションは、リスニング力向上と語彙力増強にとても役立つ学習法だと思います。手書きじゃなくてパソコン入力でOK(ピンインで打つから発音の確認になります)。画面にWordなどのワープロソフトと音声(もしくは映像)の再生ソフトを立ち上げておいて、聴きながらどんどん入力していくのです。

ただ作業が面倒くさいと長続きしないので、まずはYouTubeなどの映像をダウンロードして再生ソフト(QuickTimeとかWindows Media Playerとか)から再生するようにし、なおかつキーボードから手を離さず続けられる環境にしておくことが大切です。再生ソフトの再生ボタンと停止ボタンをいちいちマウスで操作するのは面倒ですから。YouTube映像のダウンローダーはネット上にたくさんあります(フリーソフトも)から、検索して探して下さい。

でもって再生。QuickTimeなど、スペースボタンで再生と停止が操作できるものもありますが、ディクテーションなのでできれば聴き取りにくい箇所を何度も繰り返し再生したい。つまり停止したら少し戻ってもう一度再生……というのをなるべくストレスなしで実現したいところです。そこでWindowsの方は「おこしやす2」を、Macの方はとあるマクロを使うのがお勧めです。以前このブログにまとめたことがあるので、ご参考まで。

Windowshttp://qianchong.hatenablog.com/entry/20091221/p2
Machttp://qianchong.hatenablog.com/entry/2013/04/02/091409

私はもうかれこれ15年くらいディクテーションを趣味と実益を兼ねてやってます。趣味というのは、ディクテーション自体が楽しいから。特に聴き取れなかった部分を前後関係から辞書やネットで調べて「ああ、こう言っていたんだ!」と腑に落ちる瞬間が快感です。そうやって調べがついた部分は本当に自分のリスニング力として身についたような気がします。実益というのは、こうしてディクテーションした素材を学校の教材などに応用できるからです。特に「実況録音(原稿を読み上げる教材的な音声ではなく、生身の人間が自由にしゃべっている音声)」の教材はあまり多くないので、中級以上のクラスで使うのに最適な教材になってくれます。

能と「互動」

先週末の能楽堂でのお稽古会(発表会)も終わり、暮らしも仕事も通常モードに戻りました。今回は連吟で「敦盛」「紅葉狩」「枕慈童」を謡い、初の舞囃子で「賀茂」を舞いました。終わってみれば「まだまだ」とため息ばかりの結果ですが、まあ何とか間違えずに、途中で止まらずに、最後までつとめおおせることができてよかったです。

舞囃子はコーラスである「地謡」の他に、オーケストラである「囃子方」の笛、小鼓、大鼓、太鼓が加わります。地謡は大先生(おおせんせい)のところの、この道数十年というお弟子さん方、囃子方はプロの能楽師の先生方です。ハッキリ言って不釣り合いですが、仕方がありません。

完全にすり合わせない

能という演劇は(便宜的に演劇と言っちゃいますが)ちょっと特殊で、リハーサルが一回しかありません。通常、演劇なら台本の読み合わせから始まって、立ち稽古、通し稽古、本番と全く同じ照明や衣裳や音楽のもとでおこなうゲネプロまで、何度も調整を行いますよね。それが、直前に一度だけ。それもタイミングを確認する程度の簡易なもの。

要するに(とまとめてしまうのも強引かつ粗雑ですが)、俳優もコーラスもオーケストラもそれぞれ日々稽古に励んで技術を極限まで高めておいて、本番でお互いの技術を発揮しつつも相手との微妙な間合いをとってその時だけの達成を作り出すという……。それだけ古来からの型が継承されて内在化されている、だから何度も調整する必要はないということなんでしょうけど、逆に全部型どおりにすり合わせちゃったらかえって面白くない、ということなのかもしれません。

さらに驚くのは、舞台へ出る前に準備運動とかストレッチとか発声練習とかをどうやらほとんどしないようなんですよね。これも西洋的な演劇のあり方からすれば、考えられないことかもしれません。どれだけ「技」が身体と同期していて、いつでも「待ったなし」で使える状態になっているんだということですが。*1

初めての申し合わせ

で、そんなプロの能楽師の方々ならまだしも、私のような素人はそういうわけにもいかず、師匠は何度も通しの稽古につき合って下さいました。そして、本番の二日前に、実際の能舞台で、地謡とお囃子も加わった「申し合わせ」というリハーサルに生まれて初めて参加したわけですが……。

いや、もう、とにかくお囃子の音の巨大さにびっくりしました。ふだん見所(客席)から鑑賞している時とは桁違いの迫力です。あれは何だろう、舞台の上にある屋根に反響しているからなのか、音の洪水と言ってもいいほどの怒濤の音量でした。能楽師の方々は普段、こんな音の中で時にあの静かな舞を舞っているのか、と驚きました。

舞囃子「賀茂」では、自分が舞い始める前に地謡が「山河草木動揺して〜」と謡う部分があるのですが、山河草木どころか自分が大いに動揺しちゃって、そのあと立って舞い始めるも、かなりの混乱状態でした。というわけで拍子は踏み外すわ、囃子方のかけ声は聞こえないわで、さんざんな結果に終わりました。

そのあと師匠からいろいろと注意を頂いて、とにかく普段の稽古よりもずいぶんゆったりした流れになること、特に自分が謡う「シテ謡」の部分はもっとたっぷり謡うこと、その中でも緩急をつけ、メリハリを持って舞う必要があること*2……等々を肝に銘じつつ、その日の晩もアパートの屋上で練習しました。

で、本番。初めての「申し合わせ」でようやく得心がいった部分をいくつもおさえたので(太鼓が「シテ謡」に合わせてリズムを刻んでいることすら分かってませんでした)、それほど動揺せずに舞うことができました。それでもいくつかタイミングを間違えましたし、あとから録画を見てみたら、緩急があまり効いてなくて全体的にゆったりした静かな舞になっちゃってました。「山河草木動揺」するくらいの「雷(いかづち)の神」が主人公の、特に強さが必要な舞だというのに。

お互いに動く

反省することしきりですが、ひとつ腑に落ちたことがあります。それは中国語の「互動(hu4 dong4)」ってこういうことかしら、ということです。「互動」は現代の中国語でよく使われる言葉で、まあ「双方向の働きかけ」とか「インタラクティブな動き」とか、もっと平たく「コミュニケーション」といった意味ですけど、能というのはこの「互動」の世界なのかもしれないと。

能が入念なリハーサルは行わずに、ほとんどぶっつけ本番で、しかし深い達成を示すことができるのは、演者もコーラスもオーケストラもお互いがお互いの動きに神経を研ぎ澄ませ、あっちがこう出たからこっちはこう受けるとか、ここを押されたからここを引いてみるとか、そういうことをその瞬間瞬間で緻密に繰り返しているからなのかもしれません。

そして私のような素人が、まだまだ箸にも棒にもかからないのは、その「互動」が立ち上がっておらず、単に自分だけ突っ走ってしまったり、逆に地謡やお囃子の声や音に気圧されてしまったりしている段階だからなんですね。逆にプロの能楽師の舞台に気力や気迫が充満しているのは、絶えず繰り返される「互動」が最大限かつ最適な形で発揮された結果なのでしょう。

また来年の会に向けて、細々とですがお稽古を続けて行こうと思います。伝統芸能の稽古を続けていると、やりようにもよるけれどそれなりにお金がかかるし、だからといって例えば絵画や骨董品のように手元に何か形のある物が残るわけでもありません。単に身体の記憶が積み重なって行くだけ。で、死んだら「遺産」も残らず、全部無に帰しちゃう。でもそれがいいんですよね。

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*1:その証左に、たまたま急用で休まれた方の代演という形で、師匠がサプライズ舞囃子「田村」を舞われたんですけど、そのあまりの迫力に、隣にいた細君が「今まで素人さんのばっかり見てたから私にも分かる。プロの舞は全く違うねえ」と言っていました。

*2:そういえば今さらですけど「序破急」という言葉もありましたね。

母語ではなくても推したり敲いたりできるか

台風が関東地方を直撃した昨日は、朝から都内某所でお仕事でした。私は千葉県の奥地に住んでいて、常磐線が停まってしまったら代替輸送機関を探すのはほぼ不可能な場所なので、万一を考えてお仕事の現場近くに前泊しちゃいました。格安のビジネスホテルですけど、もちろん自前だから辛いところです。

昨日のパートナーは中国語ネイティブの女性でした。通訳のお仕事はこうして二人や三人でチームを組んで行うこともあります。色々な方がいるので毎回緊張して現場に向かいますが、昨日の方は大先輩ですけどとても気さくな方で、いろいろとサポートしてくださいました。

交代で通訳しているんだから、通訳していない間は休んでいるかというと、まあ休んではいるんですけど、そばで数字や固有名詞をメモしてサポートしたり、不測の事態が起こった場合に対応したりと常に「臨戦態勢」ではあります。でも人によっては「我関せず」な方もいたりして、本当に様々な方がいますね。

私はと言えば先輩通訳者の顰みに倣ってなるべくサポートしようとしますけど、人によっては却って煩わしく感じるという方もいて、難しいところです。でもまあ、クライアントに負担を掛けず、仕事を滞りなく終了させることが目的ですから、臨機応変に行くしかありません。

何度も書いていますけど、日本における中国語の通訳業界はちょっと特殊で、中国語ネイティブの方が市場に半数か、ひょっとしたらそれ以上いらっしゃると思います。「思います」というのは根拠になるデータを持っていないからですけど、自分自身が現場でお目にかかる方を見ても、また諸先輩方から聞いた話からしても、中国語ネイティブの割合は高いと思います。

これが日本における英語の通訳業界だと、様相が全く違います。日本国内で、英日通訳に従事されている英語ネイティブ、もちろんいらっしゃいますけど、半数かそれ以上を占めているということはないと思います。中国語に比べればかなり低い割合でしょう。つまり英語通訳業界では多くの場合、日本語ネイティブの通訳者が業務を行っているわけです。

日本では中国語ネイティブの通訳者が多い。では中国や台湾などで日本語ネイティブの通訳者が半数か、それ以上を占めているかと言ったら、そんなことはありません。やはり大半は中国語ネイティブの通訳者でしょう。もちろん背景には経済的な格差とか歴史的・地理的な要因があって、こうした英語と違う様相を呈しているわけですが、少なくとも日本においては、私たち日本語ネイティブも中国語ネイティブを見習ってもっと語学や通訳訓練に奮起しなければいけませんね*1

通訳訓練といえば、通訳学校などでの中国語通訳クラスは、基本的に中→日は日本語ネイティブ、日→中は中国語ネイティブが担当されています。つまり母語方向への訳出を担当するという形です。でも英語通訳クラスでは、かなりの割合を日本語ネイティブの先生が占めています。英→日も日→英も日本語ネイティブの先生が担当されているんですね。

何度か英語通訳クラスを見学させていただいたことがありますが、日本語ネイティブの先生が生徒の日→英訳について「その表現はよくない」「この表現がよい」とはっきり評価し、判断を示されていたのが印象的でした。母語ではなくても、それだけの判断を自信を持って伝えることができるくらい語学に習熟されているわけで。

私など、例えばインタビューなどの訓練で中日日中双方向の訳出に評価を出すこともありますが、母語ではない方向の訳出についてもそれくらい自信を持って見解を指し示すことができるだろうかと考えると、内心忸怩たるものがあります。

それに以前宮仕えをしていた時に、中国語ネイティブが添削した日本人の中文を、その日本人に「どうも納得できなくて……」と乞われて私が更に添削したことがあるんですが、それを知った件の中国語ネイティブは真っ赤になって怒った……というのがトラウマになってまして。わはは。まあその方にすればまさに「面子をつぶされた」というところでしょうね。みなさん自分の母語に関してはプライドがあるものね。

でもね、でもですよ。やはりこれも毎回書いていることですけど、たとえその言語のネイティブであっても、レベルは様々だと思うんです。だからこそ勉強の結果によっては非ネイティブであっても高いレベルで言葉の推敲や判断ができるかもしれない。あの英語クラスの先生方のように。

ただし中国語クラスは、英語クラスと違って生徒も半数かそれ以上は中国語ネイティブなんですけどね。だから中国語ネイティブの前で日→中の訳出についてコメントするのはとても勇気がいります。必要に応じて蛮勇を振るってますけど、正直やっぱり怖いです。

とまれ、非ネイティブだからといって、怖じ気づいてちゃいけない。ネイティブだからといって、自信過剰はよくない。以て自戒としたいと思います。戒めてばかりでは進歩がないので、さしあたってはそうですね、日本語能力試験の一級を受けてみることにしましょうか。

追記

調べてみると、日本語母語話者が日本語能力試験を受けることはできないようです。そのかわり「日本語検定」というものがあるそうです。こちらに挑戦してみましょう。
http://www.nihongokentei.jp/

*1:あと、男性が圧倒的に少ないです。私のような日本語ネイティブの男性が一番奮起しなければいけません。

どんぶり勘定人間への福音

仕事の帰りに日暮里のエキュートにある本屋さんに立ち寄ったら、『正しい家計管理』という本が目に留まりました。帯には「どんぶり勘定は低収入より恐ろしい」とあります。何という秀逸な惹句。「割れ鍋に綴じ蓋」ならぬ「どんぶりにどんぶり」な私たち夫婦にとっては必見の書と、即買い求めました。


正しい家計管理

読み始めてから気がつきましたが、林氏はベストセラーになった『餃子屋と高級フレンチでは、どちらが儲かるか?』の著者だったんですね。同書は立ち読み+マンガ版でぱらぱらと読みましたが、氏のご本をじっくり読んだのは初めてでした。

一読、素晴らしい本でした。この本に従って簡単な財産目録と収支実績表と特別支出予測表を作るだけでも、家計の現状が一目瞭然。私のようなどんぶり勘定人間には特に効きます。ボンヤリと意識していた収支がクリアになり、仕事への活力がわきます。同時に、様々な無駄な支出もクリアに浮かび上がってきます。

林氏の主張で素晴らしいのは、家計管理は「家計簿」をつけて「節約」することがその本義ではないと喝破しているところ。それは後づけの言わば後退戦だと。そうではなくて、企業のような倒産が絶対に許されない家庭の家計にこそ、実は会社経営のような考え方が必要だと。どんぶり勘定人間はそこから逃げてたんですね。

世の中カネじゃないよ、俺はカネに振り回されないぜと吹聴し、宵越しの金は持たねえと威勢のいい啖呵を切りつつ、その実いつも漠然としたお金の不安がつきまとっている「月光族」な方々には福音になるかもしれない本だと思います。あ、「月光族」は中国語ですが、もう古い言葉になっちゃったかもしれません。
参考:http://matome.naver.jp/odai/2139915898315939301

どんぶり勘定人間って、「んな、財産目録とか収支実績とか、大袈裟な。だいたい俺、財産なんてほとんどないから書き出すまでもないし」と思ってるんですよね。私がまさにそれでした。でも騙されたつもりで虚心坦懐に一つ一つ表を埋めてみた効果は抜群でした。分かったつもりと可視化することの差はあまりにも大きいということです。

お金って、特に今の時代はキャッシュレス化が進んでいて、可視化がしにくいんですよね。家計の現状を把握し見直すことは、言わば家計の「断捨離」なんですけど、モノの断捨離と違って目に見えにくいうえに流動性があるので、ずぼらな人間はすぐ投げ出しちゃう。でもこの本で考え方が変わりました。

ハッキリ言って地味な本ですから、「キャリアポルノ」みたいな高揚感は期待しない方がいいでしょう。また、実際の作業はけっこうしんどいので、途中で投げ出したくなることもあると思います。それでも格差が広がり、低成長、あるいは衰退期(いやいや、高度に成熟した安定期とポジティブに表現しておきましょう)に入ったこの国において、今とこれから自分が稼ぎ使える「お金」について冷静な意識を持つことは、ますます必須の教養とでも言うべきものになっていくのではないでしょうか。そんなことを気づかせてくれたこの本と林氏に感謝したいと思います。

拍手とブラボーについて

夏の稽古会は無事に……でもないけど、なんとか終わりました。私は「賀茂」の仕舞と、「野守」「紅葉狩」の連吟と、先輩方の仕舞の地謡をいくつかつとめさせていただきました。

打ち上げの宴会で大先生(おおせんせい)が「最後に向かってどんどん盛り上がっていく熱気がよかった」と仰っていました。最後の番組『紅葉狩』でつとめさせていただいたワキ謡、緊張のあまりがたがたでしたが、少なくとも詞章を間違えたりしなくてよかった、と思いました。

その宴会で大先生に伺ったお話ですが、能の終幕、橋懸かりを渡っているときに客席から拍手が来ると、「ああ、うまく行かなかったのか」とがっくり来るのだそうです。大先生は多くを語られませんでしたが、観客が拍手をする=舞台が終わったと観客の心が切り替わる…くらいではまだまだ、と仰っているのだろうなと思いました。

実は私もつねづね、舞台と客席を仕切る幕がない能舞台において、終幕で拍手をするのが何となくはばかられるような、あるいはシテ方が揚幕の奥に消え、ワキ方が、囃子方が下がり、同時に地謡も切戸口から帰っていく一連の流れの中で、どこで拍手をしたものか……といった、なんとなくもやもやとした気持ちがあったのです。

どなたかが書いていたことの受け売りですが、何もない空間に物語が立ち上がり、時空を超えた世界が広がった後、潮が引くようにふたたび何もない空間に戻っていく、そしてあとには何も残らない……のが能の醍醐味で、拍手による区切りはいらないのではなかろうかとも。

とにかく斯界の泰斗ともいうべき先生から「拍手は、本当は控えていただけると……」との本音を聞くことができて、大いに意を強くしました。これからは私、拍手はしません。余韻を楽しんで、能楽堂を出て帰路に就き、駅のホームあたりまできたら、感動を反芻しながらそっと拍手しようと思います。

余談ですが、大先輩のお弟子さんに伺った「クラシックの演奏会における『ブラボー』は何とかならんのか論」にも苦笑し、首肯することしきりでした。今でもいらっしゃるのね、演奏が終わるか終わらないかの瞬間、誰よりも早く「ブラボる」ことにのみ執念を燃やされてる方。そろそろ「ブラ禁」をアナウンスすべき時代ではないかと先輩は仰っていました。同感です。

母語を学ぶことと外語を学ぶこと

平川克美氏の『グローバリズムという病』を読みました。株式会社をはじめとしたビジネスの論理だけで生き方を考えることに警鐘を鳴らしていて、快哉を叫びました。地域を捨て、文化を捨て、母語を捨て、様々な差異を捨てて「グローバル」なるものに溶け込むことがそんなにいいことなのかと。


グローバリズムという病

でも正直に言うと、かつて自分が中国語を学び、留学を志したのは、家族や地域を捨て、自分の文化や母語から脱却しようとする試みだったと思います。まさにグローバルに溶け込みたいと思っていたんです。でも、外から自分のルーツを見つめ直して、考え方が180度変わりました。

だから留学のように海外に身を置いて言葉を学ぶのはとても貴重な体験になると思います。でも、それは母語でこの世界、あるいは森羅万象を切り取ることが出来るようになってからの方がいいんじゃないかとも思います。例えば昨今「(グローバル化という)バスに乗り遅れるな」とばかりに、子供の母語の獲得もそこそこの段階で英語圏へ移住したりする方がいますが、それは子供を「英語の人」にしちゃうだけ……という可能性もあるのではないかと。

母語で世界を切り取ることは、ほとんど「呼吸ができる」のと同様の死活的能力なので、「バスに乗り遅れるな」に乗せられて幼児から英語教育にのめり込むのは危ないです。「英語の人」になってしまえるならまだマシですが、多くの場合「虻蜂取らず」になります。いわゆる「ダブルリミテッド(セミリンガル)」の問題です。そしてその危険性はあまり知られていません。

ダブルリミテッドの危険性

「ダブルリミテッド」の危険性については、Googleなどで検索してみれば様々な方面から警鐘が鳴らされていることが分かります。「ダブルリミテッド」の特徴は様々ですし、個人差も大きいですが、例えば「どちらのことばを使っても、両方を混ぜても、自分の言いたいことが言い表せない」とか「会話はできるが、教科学習になると(例えば、算数の文章題)、どちらの言語でも学習困難」などの生徒は私も専門学校などの教育現場で実際に目の当たりにしてきました。

こちらで読んだ、帰国子女で「ダブルリミテッド」と思われる中学三年生の男子生徒が書いた作文には、その苦しみの一端を垣間見ることができます。

ぼくは海外に住んでことばの重要性がわかりました。なぜかというと、ぼくはいま、自由にはなしたり、書いたり、読めることばが一つもないからです。ぼくはいま、二つのことばをしっています。それは、英語と日本語ですが、知っているといっても二つとも不完全なので自由につかえません。ことばを自由につかえないというのは大変なことです。この作文一つ書くのでも、ぼくにとっては大変な時間がかかります。ぼくにとっては、不完全なことばが二つあるより、一つの完全なことばがある方がいいのです。(中略)今、ぼくは二つの中途はんぱなことばや考え方のなかで生きています、いろいろ不自由でなさけなくなることがいっぱいあります。
http://www.hakuoh.ac.jp/~katakata/ronbun/1-3.htm


う~ん、外語は何度でも学び直すことができますが、母語はそう簡単にはいかないものなあ。私も勤務先の中国語学校で同じような生徒(いわゆる「帰国子女」と呼ばれるような)に接したことがあるので、本当に悩みの深さが分かります。

帰国子女のなかには、深く悩む「ダブルリミテッド」の生徒がいる一方で、自分は「バイリンガル」だからと慢心してしまう生徒もいました。確かにお喋りレベルでは流暢なので、周りからも一目置かれて。中国語は先生の方がヘタじゃん、くらいに思ってたりして。でもいざ進学や就職となると、文章題などに歯が立たなくて挫折してしまって……。実際には母語と外語の「虻蜂取らず」状態にあるのですが、本人にはその自覚も、また「ダブルリミテッド」がどういう状態なのかについての理解もなくて、深く悩んでいるのです。

どちらの言語も高度に運用できる「バイリンガル」への教育が不可能とは決して思いませんが、保護者や教師にかなりの知識と覚悟と用意周到な計画が必要なのではないでしょうか。だから外語圏に放り込めば何とかなるというのは、かなり危ないと思います。

外語は必要になってから学んでも遅くない

小学校低学年から国民上げて英語に狂奔する(と言うのが大袈裟なら、他の教科を削って英語にウェイトを置く)というのはやめて、まずは日本語で複雑な・高度な思考ができるようにすべきです。外語はその後に、必要になった時点で必要になった人だけが学べばいい。語学には実は向き不向きもありますし。

外語を学ぶなというわけじゃないんです。大いに学ぶべきだし、私もその外語学習者のはしくれです。ただ、母語がほぼ確立した大人は同時に日本文化を学び、自分の母語に慢心しないで更に高みを目指すべきだし、母語が確立していない子供に過度に外語を注ぎ込むのは弊害があるのではということです。親御さんが教育機関と緊密に連携をとってバイリンガルに育て上げた奇跡的な例も見聞したことがありますが、それはまさに「奇跡」なんですよね。もちろん、外語を母語にしようと決心するなら、それはそれでまあ仕方ないとも思うんですが(自分が親ならちょっと寂しいけど)。

言語、特に母語はその人の存在の根本に関わるものなので、もう少し慎重にというか、怖れのようなものがあってもいいと思います。だから例えば「言語なんて単なるツール」という物言いは、母語と外語を混同していてやや危うい。母語が十分に成熟した人が学ぶ外語は「ツール」たりえるでしょうけど……。平川氏も仰るように、英語は必要な人が必要な年齢になったら「専門学校」で学べばいいと思います。

必要な人が必要になった時期から始めて外語がモノになるのか。企業派遣の語学クラスを担当した経験から言えば、なります。本気の企業は語学研修に半端ではない集中度と時間をセットします。大切なのは集中度×時間×本人のやる気で、小学校低学年から週に数時間などというのはすごく非効率な学び方です。……ああでも、大人が語学をゆったりのんびり学ぶのも、もちろん悪くないんですけどね。「非効率」だなんて、私も「グローバリズムの病」にかなり冒されていますね。

補記:日本の文化をどうやって発信するか

日本人は昔から外語を熱心に学び、洋の東西の優れた文化を翻訳して取り込んで来ました。その営みは今もこれからも大切ですし、それを日本語母語話者が担うことも意味のあることですが、それと同時に日本人が日本の文化を深く理解し、自らの日本語を更に高め、ひいては日本語や日本文化の理解者を増やすことも大切だと思います。

日本文化を充実させて、じゃあそれをどうやって外国に発信するのか? 日本語を解する外国人に発信してもらうのです。もっともっと多くの外国人が日本に興味を持ち、日本語を学び、日本の文化を愛してくれる方向に、予算と力を割くべきです。全国民が英語に狂奔するのはほどほどにして。

そんな都合のいいことが起こるのか? 実は中国語圏ではそういうことが起こりつつあります。日本文化が好きで日本語を学んだチャイニーズが大勢いて、中国語圏に発信してくれている。畢竟外語は外語で母語には劣るのが普通ですから、母語話者に発信してもらう方がより深く伝わると思います。

例えば中国で人気になっている雑誌『知日』。日本文化を愛し、日本語にも堪能な中国人の手で、中国語圏に向けて発信されています。私のような日本語母語話者がどれだけ頑張っても、あそこまでのクオリティで中国語を駆使して中国語圏に発信するのは難しいでしょう。だから「知日」者を増やすのが大切。

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こちらに、『知日』の編集主幹である毛丹青氏の講演録があります。日本文化を対外発信することについて、大切な示唆が数多く含まれていると思います。


毛丹青 神戸国際大学教授 2014.5.16 - YouTube

何より『知日』の成功というのは、成功とは言いませんけれども、われわれが少なくとも元気で、ここまでやってこれたということの大きなポイントは、「中国人による中国人のための日本」だったんです。これは日本の方によってつくったものではありません。全て中国人の手によってつくっていくという、これが非常に大きいです。
http://www.jnpc.or.jp/files/2014/05/7dad2af945fb007ef0f21235d3392f72.pdf

そして、こんなことも仰っています。

例えば日本で、果たして中国のライフスタイルをネタにして雑誌をつくれるかというと、つくれないんです。まず、売れないんです。売れない。このギャップを僕は非常に不思議に思っているんです。中国で日本を紹介することでビジネスモデルとして立派にできているのに、一方で日本は全くできていない。日本でできたのは『三国志』『水滸伝』『論語』とか。昔の話です。孔子とか、もう死んで何千年ぐらいの人。
http://www.jnpc.or.jp/files/2014/05/7dad2af945fb007ef0f21235d3392f72.pdf

う〜ん、確かにこれまで中国ブームも「華流」も「台風」も自然発生的にだったり、仕掛けられたりだったりして起こってはきたけど、長続きしていないですもんね。これは私たちに課せられた宿題ですね。

文化侵略ではないかと世界各地で批判も起こっている、中国政府の中国語教育機関孔子学院」。私もいろいろ疑問に思うことはありますが、自国の言葉を世界に広めようとする試みは他国だってやっています。日本ももっとやればいいのにな。なにせ億単位の使用者がいる、世界でも数少ない「巨大言語」なんですから、日本語は。