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インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

何に旅情を感じるかについて

先日台湾へ出張した際、ホテルで朝食券をもらったんですが遠慮して、近くの「早餐店」に出かけました。このホテルには前にも泊まったことがあって、朝食はバイキング形式で豪華でもあるんですけど、なにかこう「いまひとつ」なんですよね。特に「台灣特色」と銘打って「擔仔麵」や「餛飩」なんかもあるんですけど、正直、化学調味料の味ばかりが突出していて。

で、「早餐店」。台湾に限らずアジアの国々には実に魅力的な朝食の選択肢がありますよね。早朝から個人経営の小さなお店や屋台、あるいはチェーン展開のお店まで、様々な朝食を提供しています。その場で食べることもできるし、テイクアウトもできる。出勤や登校前の現地の人達が次々に買い求めていくのを横目で見ながら、できたての朝ご飯を食べるときほど「旅情」を感じる瞬間はありません。

留学生や旅行客からよく聞く「不満」ですけど、日本はこういう「早餐店」の文化に乏しいですね。立ち食いそばかファストフードかコンビニくらいしか選択肢がなく、屋台はほとんど皆無。警察や保健所の規制もきびしいですし、場所も都会ではなかなか見つからないのでしょうか。立ち食いそば、私は大好きですけど、外国のみなさんはどうかなあ。これはあまり知られていないんですけど、特にチャイニーズは立ち食いに抵抗がある人が多いんですよ(全部じゃありませんけど)。

今回私が食べたのは「蛋餅油條加燒餅」と「鹹豆漿」です。

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前者は「蛋餅(薄焼き卵とクレープが一緒になったようなもの)」と「油條(お粥にも刻んで入れたりする代表的な揚げパン)」と「燒餅(地方によって差はありますが、さくさくした生地の食事パン)」という代表的な朝ご飯用の主食を全部一緒にしちゃったという「粉もん」大好き人間にはたまらない最強の食べ物。このお店では「全套(全部乗せ的な意味)」と呼ばれていました*1

後者はこれも朝ご飯でポピュラーな食べ物ですが、少量の薬味や調味料と油條の刻んだもの、それに酢が入っているドンブリに温かい豆乳を注ぎ入れたものです。酢の作用で豆乳がすぐにおぼろ豆腐状になったところを、先ほどの主食系「粉もん」と一緒に食べるのが定番中の定番。味つけや具材はお店によっていろいろで、好みでラー油のようなものを入れたりもします。

お店の横(といっても二階部分が貼り出している南の地方特有の「騎樓」というアーケード部分に簡易なテーブルと椅子を置いただけのスペース)で、どちらも作りたてを食べることができます。その場で食べることを「內用」といい、テイクアウトは「外帶」といいます。このお店はかなりの人気店のようで、朝六時過ぎに訪れたのですが、すでに出勤前や通学前と思しき地元の方々が「外帶」するために行列を作っていました。

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いやもう、評判通り最高の味でした。「全套」はさくさく+もっちり+ふかふかの食感のハーモニーが絶妙ですし、「鹹豆漿」もまた「豆腐腦」とは違う味わいで「粉もん」に合う合う。

この人気店をどうやって見つけたかというと、もちろんネットです。泊まるホテルはあらかじめ分かっていたので、その付近でいいお店や屋台がないかなと検索してみれば……地元の人達や日本人旅行客がSNSやブログなどでオススメしている記事がたくさん見つかりました。台湾にも「食べログ」のような★で評価するSNSがあって、そこでも高評価でした。昔は海外で評判のお店を探すとなったら『地球の歩き方』か『ロンリープラネット』みたいな本にたよるしかなかったですけど、本当に便利な時代になりました。

そう、旅行者や訪問者にとっていま一番必要とされるのは、そういう情報を自由に検索することができる十全なネット環境なんですよね。ハッキリいって、それに尽きるといってもいいくらいです。充実したWi-Fi環境があれば、お仕着せではない、その人の好みに応じた様々な旅行の楽しみ方ができる時代になったのです。

たぶん行政などの観光案内やサービスに頼るだけでは、今回のようなお店はまず紹介されないと思います。あまりにも庶民的で普通で、ヘタをしたら「いや、このようなところに外国のお客様を案内するわけには……街一番のレストランはこちらですから」と高いところ紹介されちゃう。

でもね、これだけ価値観が多様化し、いわゆるロングテールが重要視されている昨今、いかにも観光地的な名所をこれまでと同じようにオススメしても喜んでもらえないのです。京都を訪れる若い外国人観光客は、清水寺金閣寺平安神宮ももちろん好きだけど、それ以上に左京区のコアなスポットに出没して、地元の人さえ気づかなかった楽しさや魅力を次々に発掘しているんだそうですよ。ましてやリピーターのお目が高い観光客ならなおさらです。

参考:左京都男子休日
https://seikosha.stores.jp/items/55c176c02b3492a8900007fa

煩雑なサインシステムはいらない

いま東京では、近年の外国人観光客の激増と2020年の東京五輪を踏まえて、「おもてなし」の施策が官民挙げて進められています。例えば駅や道路などのサインシステム。「国会前」の英語表記を「Kokkai」から「The National Diet」にするなんてのはまあいいと思うんですけど、それ以外にハングルや中国語(それもご丁寧に簡体字繁体字の両方!)を併記しているケースも見かけるようになりました。最近はタイからの観光客も急増中だそうですが、そのうちタイ語も併記されるようになるのかしら。

サインシステムはその存在理由からいってもなるべくシンプルであるべきです。私は日本語と英語(ローマ字)の二種類だけでじゅうぶんだと思うのですが……ふだんは英語中心のグローバリズムに内心面白くないものを感じている私ですが、まあ外国人旅行客の便を考えれば英語表記が妥当かつ必要ではあるでしょう。でもそれ以上増やすのはサインシステムが煩雑になって、一瞬の可読性を低下させるだけだと思うのです。

ネットでは「嫌韓」や「嫌中」の立場から「あんな文字を街中で見たくない!」などと吠えてらっしゃる方がいますが、私はそれは論外だと思うものの、全く違う理由から中国語やハングルの表記は不要だと考えています。それは「旅情を削ぐから」です。

私自身、海外に旅行して何が一番がっかりするって、現地で日本語を見たり聞いたりすることを措いて他にありません。日本人観光客の多い場所ではサインシステムに日本語が入っていることがありますが、あれはすごく旅情を削がれるんですよね。でもって、せっかく遠路はるばるやって来たのに日本語で「オニイサン、ヤスイヨ、ヤスイヨ」などと話しかけられでもした日には……もう、ほんとにやめてほしい。

日本語表記があった方が便利じゃないかって? 違うんですよ、ガイドブックやスマホを片手に、自分であれこれ調べたり、判断したり、時には賭けるような気分で冒険してみたり……が旅の醍醐味なんじゃないですか。旅という非日常では「不便さ」や「失敗したこと」さえ極上の思い出になることもあるのです。

フランスへ行った時など、まあ英語に対抗意識バリバリのお国柄でもあるでしょうけど、メトロなんかフランス語表記しかなく構内アナウンスなども全くないそっけなさ(超有名な観光スポットには英語が併記されていましたが)。それでもガイドブックや辞書をひきひき、「たぶんこれはこういう意味でしょ」的にドキドキしながら歩き回ったのがとてもいい思い出として残っています。旅情の感じ方は人それそれでしょうけど、私のようにパックツアー旅行が苦手で、バックパック背負って自由に旅をしたいタイプの人はおおむね同感していただけるのではないかと思います。

「おもてなし東京」の愚

その意味で、私が一番愚かだと思っている*2のは東京都が展開しようとしている「おもてなし東京」なるボランティアサービスです。詳しくはこちらをあたっていただくとして、要するにこのサービスは、お揃いのユニフォームを着た二人組が東京の繁華街を徘徊し、困っていそうな外国人観光客を見つけたら声をかけて種々の情報提供を行おうというものらしいです。

ネットで話題になったユニフォームのデザインはまあよしとしましょう。外見だけで外国人だと判断することの不可思議さもこの際つっこまないでおきます。問題はこの発想がいかに「時代遅れ」であるか、外国人観光客のニーズに合致していないか、です。考えてもごらんなさい。東京の街を散策していたら、奇抜なユニフォームに身を包んだ二人連れが「めいあいへるぷゆう?」などと言って近づいてくるのですよ。私が非常勤で奉職している学校の留学生数十名に聞いてみましたが、彼らは異口同音にこう言っていました。「まず詐欺だと思う」。

この「おもてなし東京」の発想は、いまから半世紀以上前の1964年、東京オリンピックが開催された時に展開され、その後も続けられてきた「グッドウィル・ガイド(善意通訳普及運動)」と同根のものです。そのボランティア精神やよし。参加されている方の誠意や熱意を疑うものでもありません。でもね、こんなことにお金をかけるより、無料Wi-Fiなどネット検索環境の充実に力を注いだ方がよほど喜ばれると思いませんか。

無料Wi-Fiを広範囲で提供するためには、プライバシーの確保など技術的な問題、そして金銭的な問題も多々あるとは聞いています。だからといって、こんな半世紀以上も前の発想がまたまた鳴り物入りで展開されるなんて、都の偉い方々は何を考えているんでしょう。もう少し外国人観光客や留学生などから直接話を聞けばいいのにね。「おもてなし東京」に対して「詐欺だと勘違いする」と言っていた留学生達は、私が「それよりWi-Fi環境の充実だよね」と言ったら、みんな机を叩かんばかりに盛り上がって「そう! そう!」と言っていました。

旅行客の旅情を削ぐことなく、しかしさりげなく利便性だけは最大限に高めてあげる——それこそが、日本らしい「おもてなし」だと思います。

*1:焦げ目が見える生地が「蛋餅」で、その中に「油條」が巻かれているんですけど、写真が下手で見えません。一番外側から全体を挟んでいるのが「燒餅」です。

*2:失礼、職業上の憤慨——通訳案内士の仕事と真正面からバッティングするサービスを無料のボランティアで展開するとは何事ですか——も入ってます。

通訳者の「向き不向き」

先日仕事の現場で、十数年ぶりの懐かしい方に再会しました。某企業のインハウス(社内)通訳者として働いていた頃ご一緒したことのある、他の企業のエンジニアさんです。当時を振り返って、こんなことを言われました。

門外漢だけど、ずっと同じ現場で同じ技術について通訳していらしたから、なまじ新参の社員よりも詳しくて、客先からの質問に直接答えていることもありましたね。

どきっとしました。もちろんその方はほめてくださったのですが、そもそも通訳者が訳すことを端折って自分で話してしまうのは「タブー」だからです。もちろん、インハウス通訳者の場合、効率のために通訳者自身が話すこともないとは言えないんですけど。

現場で漏れ聞く、通訳者に対する苦言でよくあるのは「通訳者が勝手に端折って訳してくれていないようだ」「通訳者が自分を差し置いて勝手に喋ってしまう」というものです。

これ、統計を取ったわけではないから確かなことは言えませんが、私がクライアントから直接聞いたケースを総合してみると、申し訳ないけれど日本企業で働かれている華人で、大学や通訳スクールなどで通訳訓練を受けたことがない方に多い現象のようです。通訳者はあくまでも原発言者に成り代わって喋っているだけで、自分の判断で自分の意見を喋ってはいけないという本質的な部分がどうしても分からないという方がいるんです。

たとえ自分が熟知している内容で、いちいち訳さなくてもいいじゃん、訳していると非効率じゃん、と思ったとしても、通訳者が、自分の雇い主の理解できない言葉で相手側と話し始めてしまったら、雇い主は混乱状態に陥ります。通訳者は、どんなにわかりきった内容であってもいちいち律儀に訳出し、それ以外は一切付け加えも差し引きもしない、という自律・自制が効いていなければならないと思うのです。

まあ実際には、通訳という作業は単なる言葉の変換ではないので、付け加えたり差し引いたりするさじ加減はむしろ不可欠なのですが、それでも相手側が質問してきた時に、その質問内容を自分側の雇い主に伝えず、通訳者自らが答えてしまうのは「タブー」だと思います。でもその勘所が分かっていない人が一定数いるんですね。だから現場での苦言となって我々の耳にも伝わってくるのでしょう。

具体的な例がないと分かりにくいかも知れません。ちょうど先日、テレビ東京の『Youは何しに日本へ?』という番組を見ていたら、そのものズバリのシーンがありました。

【世界に誇るニッポンの○○にYOU大集結SP】
http://www.dailymotion.com/video/x3a7imy

47分53秒からの場面をごらんください。日本の「カワイイ」大好きな台湾人が「ロリータパーティ」へ参加するために来日し、その方に雇われたという通訳者の女性がそばについています。

インタビュアーの「お仕事、何されてるんですか」という質問に対して、通訳者が直接「大きな会社の社長秘書」と答えています。それは事実なのでしょうし、時間の節約にもなるのでしょうけど、ここはインタビュアーの日本語の質問を律儀に中国語に訳して、雇い主の台湾人に伝えなければいけません。

たったこれだけなら大したことはないように思えるかも知れません。でも、これが続けばこの台湾人の女性はどんどん不安な気持ちになることが予想されます。そして、そういう予想ができるか、そういう想像力が働くかどうかが、サービス業としての通訳者の「向き不向き」に関わると私は思っています。

そして、学校で教えていて一番困難を感じるのが、この「サービス業としての通訳者の本質」部分なんですよね。なぜだかは分かりませんが、こういった部分がどーーーしても分かってもらえない種類の方が、たまにいらっしゃるのです。もちろん「向き不向き」なんて言い出したら「商売」にならないので、理を尽くして説明しますけど。

なぜ稽古をするのか

夏の研修会に参加して来ました。内輪で行う発表会みたいなものです。私が舞ったのは「猩々」の舞囃子。その他に仕舞と舞囃子地謡をいくつか仰せつかりました。「羽衣」「三輪」「竹生島」「半蔀」「飛鳥川」。

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謡はiPodの再生回数がそれぞれ100を超えるほどヘビーローテーションで聞いて覚えましたが、それでも結局当日まで「これは確実に謡える!」という仕上がりにはなりませんでした。ううむ、年のせいかしら。当日は、今転んだら詞章が頭からこぼれ落ちそう的な状態で会場に向かいました。

みなさんはどうやって謡の詞章を覚えるんでしょうね。師匠にうかがうと、玄人の能楽師も紙に書く方、ひたすら聞く方と人それぞれだそうですが。私はというと、画面というか映像というか、とにかくビジュアルな物が脳内に立ち上がると比較的容易に覚えられるような気がしています。実際に絵に描いてもいいし想像だけでもいいんですけど、目の前に映像としての風景があれば、それを心の目で追いながら謡っていける。

だから修羅物の合戦のさまを描いたところなどのように、ビジュアルがハッキリしているものは覚えやすいです。上記の曲で言えば「竹生島」などがそうですね。あと以前のエントリでも書いた「三輪」なども、ストーリーが分かりやすいので覚えるのも比較的容易です。逆に「羽衣」のようなとにかく美しい言葉が織物のように連なっているような詞章は覚えにくいような気がします。

研修会の会場についたら着物と袴に着替えてすぐに番組(プログラム)開始。例によってどなたも発声練習やら準備運動やらストレッチやらをしません。これも以前書きましたが、能楽というのは演劇の一種ではあるものの、他のジャンル、特に西洋的なソレとは随分違う発想によって組み上がっている芸能のような気がします。

この件に関して、立命館大学能楽の研究をされ、金剛流のお稽古もなさっているイタリア人のディエゴ・ペレッキア氏が国際交流基金の「をちこちMagazine」に寄せられていた一節がとても興味深いと思いました。

 能の厳格さと流派主義のおかげで、役者たちは高い完成度をもった能の様式を実現してきた。それとともに極めて洗練された美しい言葉がつくりあげられたが、それを話せるものはごくわずかしかいない。そしてその大部分は、決して完全には習得し得ないこの言葉を、時間とお金をかけて学んでいる素人弟子たちである。


 こうした事実は能の世界以外ではほとんど理解されていない。能界で修業するというのは、師匠が体現する伝統への服従を意味し、その師匠もまた各流派の頂点に立つ指導者、家元に従属している。素人弟子にとって修練した芸を発表する場である演能は、習得した型を再現する場であり、創造的な行為ではない。このように従属した存在である素人弟子たちは、演じるために常に師匠にお伺いを立てる必要がある。芸術表現の形として芸能に興味を抱く若者が、伝統的しきたりの尊重よりも創造性や個性を重んじる能以外の芸能に心を惹かれやすいとしても不思議ではない。


能の中核をなす「素人」:新しい時代の挑戦 | をちこちMagazine http://www.wochikochi.jp/relayessay/2014/01/noh-amateur.php

一読、何だか否定的な見解のように読めるかもしれません。けれどペレッキア氏の主張のベースはまず、そういう特殊な性質を持つ能楽という「お稽古事」が今とこれからを生き延びていくためにはどうすればよいかという視点に置かれたものです。本来「そういうもの」である能楽が、この娯楽に満ちあふれた現代でいかに素人の「稽古者」を獲得していくのかという問題意識であるわけですね。

そしてここで氏が述べていることはまた、内在化された型を再現するのが演能の真面目(しんめんもく)であり、「本番」に自身の表現の最高潮を持っていくことを能楽はそも目的としていないのではないかという分析をも踏まえたものだと思います。もちろん実際の公演で、演者は他の演者との協働を通してその場限りの達成を作り出すのですが、それは他の演劇等における「本番」とはやや違った趣のものであるらしい。

やはり能のお稽古は、とても「ヘン」なところがあるのです(あくまでも現代の私たちからすれば、ですが)。そして私などはその「ヘン」なところになぜか惹かれるんですね。他のお弟子さんたちも、もしかしたらそうなのかも知れません。

能の稽古だって、最初は簡単で短いものから始めて、徐々に難しく複雑なものに移っていきます。その点では他のお稽古事と選ぶところはないのですが、どうもそれだけではない。技術が上がればより高度なワザが駆使できるようになる、ソレをここ一番の大舞台で遺憾なく発揮することがすなわち「成功」であり「達成」であり「進歩」であるという、現代の我々に当たり前のように備わっている世界観とは何か違うものが組み込まれているような気がするのです。特に我々のような、ペレッキア氏言うところの「決して完全には習得し得ないこの言葉を、時間とお金をかけて学んでいる素人弟子たち」にとっては。

今のところ「気がする」というレベルですけどね。

オリジネイターに対する敬意

先週と先々週、通訳スクールの教材にこの映像を使ってみました。


魅蓝note2发布会全程视频- YouTube

中国のスマホメーカー魅族(メイズ)の新製品「魅藍note2」の発表イベントです。6月2日に開催されたばかりの映像がもうYouTubeに公開されていて、それを早速使用してみたというわけです。通訳教材は鮮度がよくないと訳出時のモチベーションが落ちるので、こうやってなるべく新しい素材を手に入れるべく日々アンテナを張るようにしています。

前の学期では同じ中国のスマホメーカー小米(シャオミ)の新製品発表会を教材に使ったんですが、小米といい、今回の魅族といい、その製品のデザインから、発表会のスタイルから、宣伝や広告の意匠から、販売店のインテリアから、ひとつひとつがはっきり申し上げて「Appleの真似っこ」。いやもう、ここまで模倣し倒していると、いっそ清々しく思えてくるくらいです。

もちろん小米も魅族も、AppleiPhoneでこの世に送り出したイノベーションを土台にして、独自のアイデアを盛り込み、さらには本家iPhoneを超える使い勝手の良さや心躍るユーザ体験を作り出しているんですけど、そしてそもそも世に数多あるAndroidスマホのほとんどが「iPhoneの真似っこ」であることは誰もが知っていることなんですけど、私がこの動画を見て感じたのは「凄いな、面白いな」という感覚*1と同時に、この人達にはここまで真似させてもらっているご本家に対する敬意、あるいはもっと言っちゃうとある種の「疚しさ」みたいなものが微塵も感じられないなということでした。

まるで一から自分たちが創造したかのように話しているこの「どや顔」的たたずまい。この映像では、iPhoneにおいてあるアプリの起動中に前画面に戻る際、スマホの左上隅の「戻る」を押さなければならないという使い勝手の悪さに学んで、ホームキーの半押しで「戻る」を実現した「mBack」という機能が声高らかに紹介されているんですけど、その目の付け所が素晴らしいなと思う一方で、「iPhone」と同じネーミング方法で「mBack*2」と名付けちゃう、その「果たしてプライドがあるんだかないんだか全く分からないなこの人達は」的ふるまいに眩暈がしてしまうわけです。

あ、もちろん発言者の「たたずまい」がどんなものであろうと、通訳は通訳。全く切り離して訳出に取り組むべきなのは言うまでもありませんが。

内田樹氏が『街場の中国論』でこんなことを書かれています。

 ご存じのようにかの国においては他国民の著作物の「海賊版」が市場に流通しており、コピーライトに対する遵法意識はきわめて低い。
 それによって、現在のところ中国国民は廉価で、クオリティの高い作品を享受できている。
 国際的な協定を守らないことによって、短期的には中国は利益を得ている。
 けれども、この協定違反による短期的な利益確保は、長期的には大きな国家的損失をもたらすことになると私は思う。
 それは「オリジネイターに対する敬意は不要」という考え方が中国国民に根付いてしまったからである。
(中略)
 「オリジネイターに対する敬意」を持たない社会では、学術的にも芸術的にも、その語の厳密な意味における「イノベーション」は起こらない。


増補版 街場の中国論』「グーグルのない世界」
グーグルのない世界 (内田樹の研究室)

世の中に全くのゼロから創造されるものなどほとんどなく、すべては先人の模倣から新しいものが生み出される、それは分かっているつもりです。でも小米や魅族、あるいは先般ネットでも話題になっていたユニクロをそっくり「真似っこ」した「メイソウ」のような企業に代表される、ある種無邪気なまでの「オリジネイターに対する敬意」の欠如は、明らかに度を超していると私は考えます。こうした「貪便宜(虫のいいことをする)」な行為がやがて回り回って、中国という国の衰退につながるのではないか。この点で私は内田樹氏の見立てに共感を覚えます。

ところで。じゃあYouTube動画を無断で教材に使用しているお前はどうなんだ、「オリジネイターに対する敬意」を欠いているんじゃないのかという内なる声が聞こえてきました。そう、これ、教材を作るたびにいつも引っかかっている問題です。著作権とか知的財産権的にはどういう扱いになるんでしょうか。

……と、Twitterでつぶやいたところ、こう教えていただきました。


それでも、YouTubeに動画をアップした方自体が配信の権利を持っていなくて勝手にアップロードした場合は問題がありそうですが、とりあえず出典を明らかにすれば特に問題はなさそうでほっとしました。ご教示、まことにありがとうございます。

*1:だからぜひとも教材に使おうと思ったのです。

*2:mはメイズのmですね。

「エロ」くて「オヤジギャグ」な古典

夏の「研修会」でいくつか仕舞の地謡を仰せつかったので、謡をせっせと覚えています。iPodに入れた謡をエンドレスで聞きながら詞章や拍子や節を身体に覚え込ませるんですけど、基本は学生時代に最も苦手としていた「古文」の世界ですから、なかなか身体に入ってきません。

私がお稽古に通っている社中では、本番は「無本」(謡本を見ないで謡う)が不文律になっていて、先輩諸氏はみんな無本で謡われるものですから、私一人がアンチョコ的に見るわけにも行かず、必死で覚えています。

ただ、謡を聞いているだけでは埒があかないので、詞章を一度書き出してみて、その意味するところを情景として思い描きながら覚えて行きます。人によると思いますが、私は目の前にビジュアルな情景が広がっていると比較的簡単に覚えられるような気がしています。マンガに慣れ親しんで育ってきた世代だからかもしれません。

今日は『三輪』という曲を覚えていたのですが、まずは「the 能.com」の解説を読みました。ここは能楽に関するありとあらゆるコンテンツが集められていて、主な曲(演目)の詞章を現代語訳と英語訳で読むことができます。

三輪』の仕舞は、こんなふうに始まります。

されども此の人/夜は来れども晝(昼)見えず
或る夜の睦言に/御身如何なる故に因り/かく年月を送る身の
晝をば何と鳥羽玉(うばたま)の/夜ならで通い給はぬは/いと不審多き事なり
唯同じくは長(とこしな)へに/契(ちぎり)を籠むべしとありしかば

「うばたまの(ぬばたまの)」って「夜」にかかる枕詞でしたっけ、とか遠い学生時代の記憶がわずかによみがえってきますが、何だかよく分かりません。現代語訳はこうです。

しかしこの方(男)は、夜には通ってくるけれど、昼には来ない。
そこで女は、ある夜の睦言に「あなたはこんなに長い年月を送っているのに、
なぜか昼を嫌がり、 夜しか通って来られないのは、まったく不審なことです。
ただ夜も昼も同じように ずっと一緒にいたいのです」と語った。

おお、通い婚ですね、通い婚ですね! 睦言(むつごと)って、要するにピロートークですね。……こんなことを書いていると師匠に思いっきり怒られそうですが、いきなり「そういうハナシ」というのがすごいですよね。伝統芸能はともすればお上品で高尚なものと敬遠されがちですが、実はそこに描かれているのは、ときに現代と変わらぬ人間の様々な営みなわけでして、それがまた面白いんですね。

そして、こんなストーリーを、地謡というコーラスをバックに伝統的な型でもって舞うわけです。極めて真面目に。私だけかもしれませんけど、こういう秘めたギャップというか落差というかコントラストに、たまらぬ魅力を感じます。

ともあれ、女性は男性の行動を「不審」に思ったと。問い詰められた男性は、こう答えます。

彼の人答え云うやう/げにも姿は羽束師(はづかし)の/洩りてよそにや知られなん
今より後は通うまじ/契も今宵ばかりなりと/懇ろに語れば

すると男は答えて「まったく私の姿は恥ずかしいものだが、それが世の中にもれて知られてしまうのではないか。これから後は通うのをやめよう、愛を交わすのも今宵限りだ」としみじみと語った。

なんだか怪しくて、それにちょっと「エロい」ですよね。こんなことを書くとさらに師匠から怒られそうですが、私、高校生の時分から古文の授業って「エロとオヤジギャグのてんこ盛り」だと思っていました。出てくる話のおおかたが愛だの恋だので、この人達はいつ働いてるんだろうと思うくらい色恋にひた走っていて、何かというと契っちゃうし、契れないと寂しいからってんで艶っぽい歌をやりとりしては悲嘆に暮れたりしてるし、いや、多感な高校生にはちょいと危険ですよ。

加えて、かけことばが重層的に積み上がるさまは要するにダジャレの連続。能の詞章にもかけことばがふんだんに使われています。日本人はこういうのが大好きなんでしょうかね*1コクヨ「たのめーる」のCMはこういう所に源流があるのだと思います。


たのめーるCM集 5連発 - YouTube

で、「今宵限り」と言われた女性は、こんな策に打って出ます。

さすが別れの悲しさに/帰る処を知らんとて
苧環(おだまき)に針を附け/裳裾(もすそ)にこれを綴じ附けて
後を控えて慕い行く

さすがに別れは悲しく、女は男が帰っていくところを知ろうと思い、苧環(糸を巻いたもの)に針をつけ、男の着物の裾に縫い付けた。そして、糸が伸びていった先を尋ねて追いかけた。

このストーカー的執念、怖すぎます。伊藤理佐氏の『おるちゅばんエビちゅ』に出てくる「浮気発見機」と全く同じ発想ですね。というか、伊藤氏はこの『三輪』のお話をご存じだったのかもしれません。
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ぱあふぇくと版 おるちゅばんエビちゅ : 9 (アクションコミックス)

で、追跡していった先で、件の男性は実は神様だったということになって、お話は一気に幻想的で神話的な展開になっていくんですけど。

ともあれ、以上のような作業で取っつきにくい詞章が一気に強烈なビジュアルを帯びてくれたので、何とか覚えてしまえそうです。こんな覚え方でごめんなさい。師匠と世阿弥*2にお詫び申し上げます。

*1:日本人だけじゃないですね。中国語にも「歇後語」みたいなのがあるし、人間は、言葉の音が思いがけないところで偶然に一致することに、何かえも言われぬ快感を覚えるもののようです。

*2:作者不詳ですが、一説に世阿弥作と言われているそうです。

大雑把な質問

報道ステーション』を見ていたら、ワールドカップの決勝で負けたことについて記者が岩清水梓選手に「サッカー人生の中で何番目の悔しさですか」とインタビューをしていました。岩清水氏は困惑しつつも「三番以内には入りますね」と答えていました*1が、こんな質問をすることにどんな意味があるのかなと思いました。その答えを聞くことで、この記者は何を「報道」しようとしているのでしょうか。

僭越ながら、私が岩清水氏だったら「失礼なことを聞かないでください」と怒っちゃうと思います。あるいは「別に……」とでも言っちゃいますか。どうしてこのような中身のない、よしんば「最も悔しいです」という回答が戻ってきたとしてもだから何なんだ的な質問が繰り返されるのでしょうか。

実はこれ、今に始まった現象ではありません。政治学者の岡田憲治氏は、元サッカー日本代表の中田英寿選手が日本のメディアにおいて評判が良くなかったことを取り上げて、中田氏を擁護した上でこのように書いておられます。

インタビュー、とくにスポーツ中継におけるインタビューを見ていて、本当にやり切れなくなる最大の理由は、インタビュアーが、話し手から何かを「引き出す」のではなく、もう当然あるだろうと勝手に判断した選手の「気持ち」を確認するためだけに尋ねる、予定調和を促す、例のあの大雑把な質問が延々と続くからです。(強調は著者ご自身による)
言葉が足りないとサルになる

岡田氏は、「言葉で表現することの持つ、たくさんの可能性を無視し、考えようとも、探ろうともしない」こうしたありようを「言葉をめぐる精神の怠惰」と厳しく批判しています。ワールドカップの決勝戦にまで進んだ一流のアスリートがどのようなことを考え、私たちはそこからどんな新しい発見ができるか。記者のみなさんにはぜひ、そういった創造的なスタンスでのインタビューをお願いしたいと思います。

一方で、インタビューされる側のスタンスも大切だと思います。日本サッカー協会では、自分の考えを明確に説明し、創造的なプレーを行える選手を育成するために必要なのは論理力と言語力であるとして、「言語技術」のトレーニングを若年層の選手に課しているそうです*2

今度「何番目の悔しさですか」などと聞かれたら、「悔しさの順位をつけることに意味があるとは思いません。今回のワールドカップで得られた達成はこれこれで、教訓はこれこれ、特にここが今後最も強化が必要だと思います」などと言葉を駆使することで失礼な記者を諫めてほしいですね。それが果たしてオンエアされるかどうかは保証の限りではありませんけど。

そして自分がここから学ぶべきは何でしょうかね。まあ家族や友人との他愛ない会話はさておき、少なくとも他の場面では「やばい」とか「うざい」とか「ぱねえ」とか「きもい」とか「まじ」とか「がち」とか……に頼らず、自分の考えをできるだけ丁寧に言葉として組み立て、発していくことかな。

*1:録画していないので、質問・回答とも記憶に依ります。

*2:「言語技術」が日本のサッカーを変える田嶋幸三著・光文社新書

仮案件とリリース

先日、Twitterでこんなことをつぶやきました。

「仮案件」というのは要するにクライアント(通訳者の依頼主)が複数のエージェント(通訳者の派遣業者)に対して「相見積もり」をとるため、エージェントから通訳者に対して「この日時、空けておいてね」と要請されることです。「仮」ですから確実に仕事になる保証はありませんが、これが「本」決まりになるまで、他の仕事を入れることはできません。ダブルブッキングになっちゃいますから。

で、複数のエージェントが競って見積もりで負けると、その案件は「リリース」になります。釣りで言う「キャッチ・アンド・リリース」の「リリース」。つまり「解き放たれる」ことですね。空けておいてもらった日時はもう解放しますから、別のクライアントなりエージェントなりから仕事が入ったら、どうぞ入れちゃってください、ということです。

……と、言われても、そうそううまく別の仕事が入ってくるわけじゃありません。多くの場合、上記のTwitterでつぶやいたように、結果として「虻蜂取らず」、つまりわざわざ他の仕事を断ってまで入れずに空けておいたのに、当のその仕事がリリースになっちゃった、ということがたびたび起こります。そしてその補償は……まずありません。しくしく。

今日も今日とて、同じような羽目に陥って、ダブルで仕事を失いました。いえ、誰が悪いというわけじゃないんです。ただ、一番弱い立場である末端のフリーランスたる私たちに「しわ寄せ」が来るというだけのことなのです。そして、それを承知でこうしてフリーランス稼業に就いているわけです。誰にも文句は言えません。

とはいえ……これじゃ通訳者として食べていくのは至難の業ですよね。私はこの業界の駆け出しですから仕事が少ないのは当たり前としても、聞けばこの道何十年の大先輩でさえ同様の「仮案件・アンド・リリース」には悩まされている由。みなさん通訳業の他に翻訳業や講師業やその他の業務を兼任しながら生活を維持されている。もちろん私もそうです。

私はそれでも、曲がりなりにも飢え死にしないくらいには何とか稼ぎを維持していますが、この先どうなるかは分かりません。通訳者という仕事はとても面白くてやり甲斐のある、世のため人のためにもなる素敵な仕事だと私は信じていますけど、これじゃ新しく参入してくる方はどんどん減って行くんじゃないかなと思います。そして「素敵な仕事です」などと吹聴しつつ通訳学校で講師をしていること自体も、何だか申し訳ないことのように思えてきます。

クライアントが「相見積もり」を取るのは、少しでも安い値段で通訳者を雇いたいからですね。競争原理とコスト削減が至上命題の市場にあっては当然のことです。ただ低コストにはそれに見合った質のサービスしか得られないこともまた当然のことなので、質の悪いサービスに頼った結果生まれるかもしれないリスクというものもあり、それが回り回ってコストの上昇を招くことは十分にあり得るんですけど、なぜかそのリスクは多くのクライアントにおいては前景化しないようです。

残念だけど、それが現状だとすれば、できることはふたつ。ひとつは大量の「リリース」にも負けないくらいたくさん仕事の種を播き続けること、もうひとつは質の悪いサービスに頼るリスクを知悉したクライアントにご指名頂けるような技術を身につけること、ですね。はい、精進いたします。

あ、以上は主に中国語通訳の業界についてのお話です。他言語の状況についてはあまり知らないので、当てはまらないこともあるかと思います。