インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

大雑把な質問

報道ステーション』を見ていたら、ワールドカップの決勝で負けたことについて記者が岩清水梓選手に「サッカー人生の中で何番目の悔しさですか」とインタビューをしていました。岩清水氏は困惑しつつも「三番以内には入りますね」と答えていました*1が、こんな質問をすることにどんな意味があるのかなと思いました。その答えを聞くことで、この記者は何を「報道」しようとしているのでしょうか。

僭越ながら、私が岩清水氏だったら「失礼なことを聞かないでください」と怒っちゃうと思います。あるいは「別に……」とでも言っちゃいますか。どうしてこのような中身のない、よしんば「最も悔しいです」という回答が戻ってきたとしてもだから何なんだ的な質問が繰り返されるのでしょうか。

実はこれ、今に始まった現象ではありません。政治学者の岡田憲治氏は、元サッカー日本代表の中田英寿選手が日本のメディアにおいて評判が良くなかったことを取り上げて、中田氏を擁護した上でこのように書いておられます。

インタビュー、とくにスポーツ中継におけるインタビューを見ていて、本当にやり切れなくなる最大の理由は、インタビュアーが、話し手から何かを「引き出す」のではなく、もう当然あるだろうと勝手に判断した選手の「気持ち」を確認するためだけに尋ねる、予定調和を促す、例のあの大雑把な質問が延々と続くからです。(強調は著者ご自身による)
言葉が足りないとサルになる

岡田氏は、「言葉で表現することの持つ、たくさんの可能性を無視し、考えようとも、探ろうともしない」こうしたありようを「言葉をめぐる精神の怠惰」と厳しく批判しています。ワールドカップの決勝戦にまで進んだ一流のアスリートがどのようなことを考え、私たちはそこからどんな新しい発見ができるか。記者のみなさんにはぜひ、そういった創造的なスタンスでのインタビューをお願いしたいと思います。

一方で、インタビューされる側のスタンスも大切だと思います。日本サッカー協会では、自分の考えを明確に説明し、創造的なプレーを行える選手を育成するために必要なのは論理力と言語力であるとして、「言語技術」のトレーニングを若年層の選手に課しているそうです*2

今度「何番目の悔しさですか」などと聞かれたら、「悔しさの順位をつけることに意味があるとは思いません。今回のワールドカップで得られた達成はこれこれで、教訓はこれこれ、特にここが今後最も強化が必要だと思います」などと言葉を駆使することで失礼な記者を諫めてほしいですね。それが果たしてオンエアされるかどうかは保証の限りではありませんけど。

そして自分がここから学ぶべきは何でしょうかね。まあ家族や友人との他愛ない会話はさておき、少なくとも他の場面では「やばい」とか「うざい」とか「ぱねえ」とか「きもい」とか「まじ」とか「がち」とか……に頼らず、自分の考えをできるだけ丁寧に言葉として組み立て、発していくことかな。

*1:録画していないので、質問・回答とも記憶に依ります。

*2:「言語技術」が日本のサッカーを変える田嶋幸三著・光文社新書

仮案件とリリース

先日、Twitterでこんなことをつぶやきました。

「仮案件」というのは要するにクライアント(通訳者の依頼主)が複数のエージェント(通訳者の派遣業者)に対して「相見積もり」をとるため、エージェントから通訳者に対して「この日時、空けておいてね」と要請されることです。「仮」ですから確実に仕事になる保証はありませんが、これが「本」決まりになるまで、他の仕事を入れることはできません。ダブルブッキングになっちゃいますから。

で、複数のエージェントが競って見積もりで負けると、その案件は「リリース」になります。釣りで言う「キャッチ・アンド・リリース」の「リリース」。つまり「解き放たれる」ことですね。空けておいてもらった日時はもう解放しますから、別のクライアントなりエージェントなりから仕事が入ったら、どうぞ入れちゃってください、ということです。

……と、言われても、そうそううまく別の仕事が入ってくるわけじゃありません。多くの場合、上記のTwitterでつぶやいたように、結果として「虻蜂取らず」、つまりわざわざ他の仕事を断ってまで入れずに空けておいたのに、当のその仕事がリリースになっちゃった、ということがたびたび起こります。そしてその補償は……まずありません。しくしく。

今日も今日とて、同じような羽目に陥って、ダブルで仕事を失いました。いえ、誰が悪いというわけじゃないんです。ただ、一番弱い立場である末端のフリーランスたる私たちに「しわ寄せ」が来るというだけのことなのです。そして、それを承知でこうしてフリーランス稼業に就いているわけです。誰にも文句は言えません。

とはいえ……これじゃ通訳者として食べていくのは至難の業ですよね。私はこの業界の駆け出しですから仕事が少ないのは当たり前としても、聞けばこの道何十年の大先輩でさえ同様の「仮案件・アンド・リリース」には悩まされている由。みなさん通訳業の他に翻訳業や講師業やその他の業務を兼任しながら生活を維持されている。もちろん私もそうです。

私はそれでも、曲がりなりにも飢え死にしないくらいには何とか稼ぎを維持していますが、この先どうなるかは分かりません。通訳者という仕事はとても面白くてやり甲斐のある、世のため人のためにもなる素敵な仕事だと私は信じていますけど、これじゃ新しく参入してくる方はどんどん減って行くんじゃないかなと思います。そして「素敵な仕事です」などと吹聴しつつ通訳学校で講師をしていること自体も、何だか申し訳ないことのように思えてきます。

クライアントが「相見積もり」を取るのは、少しでも安い値段で通訳者を雇いたいからですね。競争原理とコスト削減が至上命題の市場にあっては当然のことです。ただ低コストにはそれに見合った質のサービスしか得られないこともまた当然のことなので、質の悪いサービスに頼った結果生まれるかもしれないリスクというものもあり、それが回り回ってコストの上昇を招くことは十分にあり得るんですけど、なぜかそのリスクは多くのクライアントにおいては前景化しないようです。

残念だけど、それが現状だとすれば、できることはふたつ。ひとつは大量の「リリース」にも負けないくらいたくさん仕事の種を播き続けること、もうひとつは質の悪いサービスに頼るリスクを知悉したクライアントにご指名頂けるような技術を身につけること、ですね。はい、精進いたします。

あ、以上は主に中国語通訳の業界についてのお話です。他言語の状況についてはあまり知らないので、当てはまらないこともあるかと思います。

通訳の道具1・バング&オルフセンのイヤホン

通訳の現場は毎回緊張の連続。しかもそれが、一緒にチームを組んで仕事をする「パートナー」のいる現場であればなおさらです。まだまだ駆け出しの私にとって、現場でご一緒するパートナーはいずれもこの業界の大先輩ばかりだからです。先輩通訳者のパフォーマンスに聞き惚れ、圧倒され、我が身を振り返って打ちのめされることがほとんどですが、訳出そのもの以外にも、先輩方が使っている道具に興味を惹かれることが多く、とても参考になります。

例えば同時通訳のブースで使用するヘッドホンやイヤホン。同時通訳者が会場備えつけのものをそのまま使うことは少なく、みなさんそれぞれの「マイヘッドホン」や「マイイヤホン」を持参されることが多いようです。一瞬の油断もできない訳出作業においては、やはり普段から使い慣れ、耳に馴染んでいる私物の方が、よけいなストレスを感じずにすみ、それだけ作業に集中できるということでしょうか。

私はというと、普段の語学学習にも使用している比較的安価で小ぶりなヘッドホンを持ち込んでいたのですが、ある時先輩通訳者から、ご自身が長年愛用されているというこのイヤホンを紹介されました。デンマークの「バング&オルフセン(Bang & Olufsen)」というメーカーの「A8」という製品です。

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先輩いわく「音の粒立ちが違う」。正直に申し上げて、このイヤホンはかなり懐が痛んでしまう最高級品ですが、それで少しでもスピーカー(発言者)の声がクリアに聞こえ、訳出の精度向上に資するのであれば、それに見合う投資ではないかと先輩はおっしゃるのです。弘法も筆を選ぶのですね。私はその「プロ意識」、「プロ根性」に驚き、「聞こえるなら何でもいいでしょ」などと思っていた自分を反省したのでした。

というわけで、私も先輩に倣ってすぐに購入しました。音の違いもさることながら、耳に掛けるタイプのこのイヤホンは、音が聞こえてくる部分の位置を自由に調整することができます。縦のシリンダー部分が伸縮することに加えて、シリンダーから伸びた「腕」の部分が回転することで、耳に密着させることもできれば、耳から少し離す(浮かせる)こともできるのです。

この「耳から少し離すこともできる」というのが重要です。音楽を聴くのであればそんな使い方はしないと思いますが、同時通訳の場合はスピーカーの発言を聞きながら自分の訳出する声もモニターしているので、片方のヘッドホンを少しずらしたり、イヤホンをゆるく装着したりすることが多いからです。このイヤホンは細かい部分の作りがとてもしっかりしていて、そのような使い方を簡単に、そしてとてもスマートに実現できます。もちろんメーカーは、そんな使い方をされるとは想像もしていなかったでしょうけど。

もちろん最高級のイヤホンを使ったからといって、訳出のできばえも最高級になる保証はありません。これからも道具におぼれず、精進を重ねたいと思います。

ISSのスクールブログに寄稿したものです。

「ナマリング」のすすめ

かつて毛沢東主席や周恩来総理といった要人の通訳をつとめ、文化部副部長などを歴任された劉徳有氏がこんなことを仰っています。

  在学校里你听惯了某一个老师的中文课,那个中国话可能是标准话,普通话。突然进入社会,接触各色人等,再听那些你所不习惯的中国话,你有时甚至会丧失信心。“怎么? 我怎么听不懂了!?” 但是,我劝这些朋友,不要丧失信心,要多创造条件,努力多听,不断地训练耳朵。如果能过好这一关,我相信对你提高外语水平将会起关键的作用。

 あなたが学校の授業で、ある先生の中国語を聞き慣れていたとします。その中国語はおそらく標準語であり共通語であることでしょう。ところが突然社会に出て、さまざまな人と接し、なじみのない中国語に接すると、ときに自信を失うことがあるかもしれません。「ええっ? なぜ聴き取れないんだろう!?」 でもそういう方には、自信をなくさないよう励ましたいのです。もっと機会を作って、たくさん聴くようにつとめ、たえず耳を鍛えましょう。この難関を突破できれば、あなたの外国語レベル向上に決定的な意味をもたらすと思います。

中国語通訳トレーニング講座東方書店)より

宮仕えをしていた頃、ディクテーションした大量の素材を使って「ナマリング」という授業を担当していました。「ナマリング」というのは四半世紀ほど前に出ていた伝説の教材『中国語なまりングコース』(中国語情報サービス・絶版)へのオマージュです。この教材は中国の様々な地方で実際に収拾された「訛り」のある中国語を聴き取ろうという唯一無二のユニークな教材でした。

音声教材といえば教科書の文章などを声優さんやアナウンサーさんが吹き込むのが普通です。特に語学の初中級段階ではそういった「標準的」な音声で学ぶことも大切だと思いますが、実務レベルに近づくにつれ、それだけでは物足りなくなってきます。市井のネイティブスピーカーは、まずアナウンサーのようにはしゃべってくれないからです。そこでこうした実際に様々な場面で話している音声を収拾した「実況録音」の教材が必要になります。

今でこそYouTubeや优酷などの動画投稿サイトへ行けば、様々なネイティブスピーカーが話している動画と音声に触れることができますが、以前はそうした「ナマの声」に触れるのはとても貴重なことだったのです。上記の『中国語なまリングコース』の他には、中国で出版された『实况听力教程』という初級・中級・高級の三分冊があって、これには私も大変お世話になりました。

この『实况听力教程』はその後『原声汉语』という名前で再編されて、今でも出版されているはずです。またその日本語版も近年出版されています。

街なかの中国語―耳をすませてリスニングチャレンジ

ただこれらの教材、内容は非常に興味深いのですが(おもしろくて何度も何度も聴きました)、いかんせん録音された時代が古く、録音状態もあまりよくありません。リスニングというのは同時代に生きているからこそ分かる背景知識などもその理解を後押ししてくれるものですし、少しでも声に集中したい時に雑音や音質の悪さはかなり非効率的です。というわけで「ナマリング」というクラスでは、私がネット動画などからディクテーションしたものを教材に仕立て直して使っていました。生(ナマ)音声で時には訛(ナマ)りも混じるネイティブスピーカーの発言を正確に聴き取ることで、実戦力のある耳を鍛えようというわけです。

「実況録音」の特徴

今はYouTubeなどがあって、とても簡単に「耳を鍛える機会」が得られる、本当にいい時代になりました。こうした「実況録音」には、教科書などの音声と比べて以下のような違いや特徴があります。

●「イキイキ」している。
●老若男女、さまざまな人がしゃべっている。
●“啊”“喔”“這個”“那個”“完了之後呢”……などなどの「冗語(間投詞)」やその人の口癖が入っている。
●言いよどみ、言いかえ、言いまちがい、言いなおし……などがある。
●必ずしも文法的に正しいとは限らない。
●必ずしも論旨が明確とは限らない。
●必ずしも標準的な“普通話”とは限らない(中国語世界の広さを実感する)。
●雑音が入っていることがある。
●録音状態などによって、時には物理的に聴き取れないこともある。

総じてとてもライブ感とリアリティのある音声だというわけです。こうした音声をディクテーションしたり、ディクテーションしないまでも聴き取って、どんなことを言っているのか想像するのはとても楽しい作業です。

聴き取るために

1.最初から一字一句聴き取ろうとせず、まずは話の大意を追う。

 知らない単語、聴き取れない単語がでてくると、とたんに頭がフリーズ……ということがあります。ひとつでも分からない単語にぶつかると、その先が全然聴けなくなるんです。これはもったいないです。だいたい私たちは、母語で会話する時だって相手の言葉を100%聴き取ってないことが多いのです。それでもコミュニケーションが進むのは、要点を押さえて聴いているからだと思われます。まずは知っている単語、聴き取れた単語から全体を類推してみる、完璧主義を捨てて、いい加減でも大雑把でもいいとゆったり構えることが大切です。

2.自分が知らない言葉や自分で話せない言葉は、なかなか聴き取れない。

 要するに語彙量を増やし、自ら発音してしゃべることをやらないと語学は向上しないということです。語彙量を増やすために単語を一つ一つ覚えていくのもいいですが、だったらディクテーションをしながら「あ、こんな言い方もあるんだ」と気づきを増やしていくのが楽しくてオススメです。自ら発話することについては、中国語の音読やリピーティングやシャドーイングが役立ちます。ただしこれ、初中級段階では「実況録音」ではなく、標準的な発音のものを使うほうがよいかも知れません。 

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3.日本語に訳しながら聴いていると、なかなか聴き取れない。

 よく、「あ、これは要するに日本語の○○ですね」とすぐ日本語に訳して理解しようとされる方がいますが、できれば中国語を中国語のまま理解するほうがいいですね。頭を常に「中国語モード」にしておくため、授業ではできるだけ日本語を使わないようにしていました。もちろんこれは中級から上級クラスの場合ですが。また授業中は辞書を引かないようにとも言っていました。中日辞典を引くと、とたんに頭が「日本語モード」になってしまうんですね。日本語モードのまま中国語を聴き取ったり話したりというのは同時通訳者レベルで非常に高度なスキルが必要です。

4.背景知識もリスニング力をバックアップする。

 上述しましたが、すでに知っていることがらは、その背景知識が後押ししてくれて聴き取りやすいものです。現代中国(のみならず、幅広いチャイニーズの世界)に関する広く浅い雑学知識を増やすようにするといいです。語学は語学単体で存在しているのではなく、その時代のその地域の状況や世界全体の現況と不可分に結びつき、日々千変万化の変化を遂げているものですから。

教材の例


林俊杰优酷独家专访自曝暂无结婚打算0001 - YouTube

まずは、林俊杰氏の背景知識を入れておきます。

林俊杰(JJ):新加坡华人,祖籍福建,著名男歌手,作曲人、作词人、音乐制作人,偶像与实力兼具。2003年以《乐行者》出道,2004年一曲《江南》红遍大江南北,凭借其健康的形象,迷人的声线,出众的唱功,卓越的才华,迅速成长为华语流行乐坛极具指标性的唱作天王。迄今为止共创作数百首音乐作品,唱片亚洲总销量逾1000万张。亦积极参与游戏和电影配乐。2007年成立个人音乐制作公司JFJ,2008年主演偶像剧,同年创立潮流品牌SMG,2012年推出故事影像集《记得》,成功跻身畅销书作家行列,跨界发展身兼数职,在诸多领域均有所成就。(百度百科)

視聴に入ります。ところどころ質問があるので、その部分を口頭で答えます。話者の話している通りに再現する必要はありません。大体どんなことを言っていたのか、自分が使える範囲の中国語でいいので、簡単に説明してみます。最終的には全部ディクテーションするのもいいですね。

林俊杰:Hello优酷网的网友们,你们好,我是JJ林俊杰,好久不见。

00:23〜 ①他这次专辑的创作理念是什么?
林俊杰


林俊杰:因为要男人去,去…真的去了解一个女生,女人的心,我觉得那是…不怎么容易。不怎么容易。然后我觉得那个用心,然后希望这次找了燕姿来一起合作,就是希望跟…能够透过她的角度,能够透过她的心…她的内心的故事,来说出这样的一个故事。

気分転換に穴埋めなども行っていました。

01:36〜
林俊杰:所以说这种我内心希望说________________。我觉得两个人在一起或者是感情中的,感情中沟通是很重要的。感情中,如果没有对方用心听你说,___________________ ,或对她说这个___________的,对啊。所以我希望可以有一个女性的代表来发挥她的…来__________ ,它是内心的,很真实的,_________的一个…一个__________。

聴き取りを続けます。

02:14〜 ②这张专辑的内容是如何?
林俊杰


林俊杰:那其实作品专辑里面还有一些歌曲,我是希望更大力地去推,让大家听这样。因为每首歌都是新的创作的方式,包括像《只对你有感觉》是非常摇滚的一种…一个尝试,跟之前的原本就不太一样。然后还有《心墙》。这两首歌其实是我非常偏爱的,然后我希望可以多多让大家听的。

03:22〜 ③他希望歌迷怎样听这张专辑?
林俊杰

03:38〜 ④他如何介绍自己的近况?
林俊杰


林俊杰:也不用太担心了。因为我其实我状况是…是还蛮可以,还蛮健康的了。只是说要注意一下,因为健康…就是说肝脏不是很好,那需要去调整一下。就是…没有到很严重,还没有倒需要去很急…很严重的状况。那,当然是要找到一个平…就是刚说到的就是找到一个好的平衡点,然后照顾一下就好。就是…其实我每天在生活还是OK了,还是挺…挺愉快的。

04:46〜 ⑤今后他希望往什么方向发展?
林俊杰

05:04〜 ⑥他想扮演什么样的角色?
林俊杰


林俊杰:我这几年一直在音乐上就是拍MV的过程,其实有很多自己的想法,有很多自己的…加入包括《她说》这些脚本。那我希望再拍电影的话,我觉得跟一些新的员力,一些能量来擦撞来摩擦,我觉得那个,那个会擦出更多的火花。

06:01〜 ⑦今后他还希望做什么样的工作?
林俊杰


林俊杰:因为如果我是我专辑找他来做,或者他的专辑我去帮他夸道,那种感觉比较小规模,我希望这个规模可以是大的。我是说这规模可以是更有,更大的意义的。那我觉得还蛮期待有一天可以这样子。

06:49〜 ⑧最后他谈到什么样的话题?
林俊杰


どうでしょう。かなり骨が折れますよね。だけどこうして最初はまさに「五里霧中」という感じだったのが、だんだん霧が晴れるように聞こえてくるのは本当に楽しいものです。ディクテーションなどしていると、何度聞いても分からなかった部分が急に分かる時があって、その時は「あっ、いま脳内でシナプスがつながったのかしら」などと想像しています。そうやってシナプスがつながった言葉を次に聴いてみると、もうその言葉にしか聞こえず、なぜこれが聴き取れなかったのだろうと思えるくらいですから不思議なものですね。

答え合わせ

各パラグラフで、大体どんなことを言っているのかが分かればよしとします。

00:23〜 ①他这次专辑的创作理念是什么?
今回のアルバムのコンセプトを問われて、“用一个女性的角度来创作”と言っているのが聴き取れたでしょうか(BGMが少々邪魔ですが……)。そしてそれは男性である自分にとって“一个很大的挑战”だとも言っています。

02:14〜 ②这张专辑的内容是如何?
アルバムの具体的な中身ですが、全部で11曲収録されており、そのうちの10曲は“之前的作品”、残りの1曲が『她说』という、このBGMでかかっている曲だと言っています。でもって、本当は他にも収録したい曲はたくさんあるけど、限界もある。でも自分が歌いたい、思い入れのある曲ばかり選んだ、というような内容です。

03:22〜 ③他希望歌迷怎样听这张专辑?
“主打”というのは、そのアルバムでメインとなる「イチオシ」の曲、代表曲です。でもアルバム全体のコンセプトを味わうためには、やっぱり全曲聴いてほしいなというようなことを言っています。

03:38〜 ④他如何介绍自己的近况?
デビューから8〜9年、無我夢中でやって来たけど、数年前からちょっと体調が悪くて“健康状况好像有出了一点警报,出了一点红警报的感觉”、健康に赤信号が点灯しちゃったと。そして今年のコンサートが終わったら身体を休めたいと言っています。

04:46〜 ⑤今后他希望往什么方向发展?
“影视”、つまり映画やドラマなどの演技に興味があるようですね。で、ドラマは出たことがあるけど、映画は未経験で、“最近有很多的单位来一起邀我拍电影”、いろいろなところから映画出演のオファーがあると言っています。

05:04〜 ⑥他想扮演什么样的角色?
“我觉得古装很辛苦”だそうです。“古装”は古い衣装、つまり時代劇のことですね。それよりは“能够马上融入的角色…比较接近我本色的角色”、実際の自分に近い役のほうがいいかなと。“生活一点”、要するに(現代の)生活感がある、軽めのラブストーリーがいいんだそうです。

06:01〜 ⑦今后他还希望做什么样的工作?
男性歌手とのコラボに興味があると言っています。“比如说我跟力宏,或者是杰伦”、つまりワン・リーホンジェイ・チョウとコラボしたいと。“创作歌手”、自分で歌を作っているアーティスト同士のコラボに期待しているようですが、“最重要就是找一个很好的机会”、まずはその機会を探るのが大切と。

06:49〜 ⑧最后他谈到什么样的话题?
結婚について聞かれたんですね。でも両親もまだ心配してないし、“一直都在忙着工作,忙着在打理自己工作上的事情”、今は自分の仕事に忙しいから、“感情这块还没有到那个阶段”、恋愛とか結婚とかいう段階じゃないと。“感情”はここでは恋愛ごとを指しています。でもってお兄さんが最近“订婚(婚約)”したそうですが、自分は“漫漫来吧”、ぼちぼち行くよと煙に巻いています。

華人である林俊杰氏が華人向けに話しているので、日本のメディアに登場する時よりも総じて何というか……飾りがないというかある意味テキトーというか、気さくでフランクな感じがしますね。

ディクテーションのすすめ

先日の通訳スクールでは、台湾の江宜樺行政院長の記者会見映像を訓練に使いました。その晩に統一地方選惨敗の責任をとって辞任されちゃいましたけど。いえ、単なる偶然ですが。でもって今朝の新聞には馬英九大統領(総統)も国民党の主席を辞任というニュースが載っていました。

それはさておき、日本語母語話者の中には台湾人の発言や、中国でも南方の方の発言が苦手という方が多いです。リスニングが難しいのだそうで。圧倒的多数の方が北方一辺倒の中国語教育で学んできているので仕方がないんですが(私もそうでした)、意識していろいろな地方の方の発言を聴き、できればディクテーションなどして慣れて下さいと申し上げました。

日本人としては「全部取り」が正しい

教師の中には台湾の中国語(ってのもナニですね…まあ華語ですか)、例えば「和」を「han4」と発音したりするのを極端に排する方がいます。まあ初中級レベルだったらかえって混乱するでしょうから仕方ないと思いますが、実務レベルになったら北方も南方も関係なく幅のある中国語全体に分け隔てなく馴染んだ方がいいですよね。進んで仕事の幅を減らすことはないじゃない? 当事者であるチャイニーズ同士であれば教師も、「han4」なんて言わんとか、繁体字は無駄が多いとか、儿化音なぞ気持ち悪いとか、「漢語」なんて言わん「中文」だとか言いあってても仕方ないかなと思いますけど、外野の日本人はどちらにも与せず「全部いただきます」が正しいと思うんです。

南方や台湾の中国語を「訛ってる」「標準的じゃない」とおっしゃる方もいますが、確かに中華人民共和国の標準語としての「普通話」からすれば訛ってるのかもしれませんけど、それもこれも全部中国語なんですよね。そして仕事の現場では様々な地方の訛った「普通話」が飛び交ってる。どれが標準でどれが訛りだなんて立て分けはあまり意味をなさなくなるんです。みんながみんなCCTVのアナウンサーのように話さなくてもいいですし、よしんば自分は「標準的」な発音で話すとしても、様々な相手の様々な「訛り」を聴き取れなければコミュニケーションにならないでしょう?

江(前)行政院長の話しぶり

日本人が台湾華語に慣れるという意味では、江宜樺(前)行政院長の発言は絶好の教材でした。行政院開麥啦というこちらのチャンネルなどにたくさんありますが、言語明晰で理路整然としていて、冗語が一つもないの。ああ、こんなふうに話せたらいいなとほれぼれするくらいで、ディクテーションにも最適です。また台湾行政院のオフィシャルサイトにも多数の映像があって、こちらも勉強に使えます。ちょうど江院長の辞職会見がアップされていました。


行政院長江宜樺辭職聲明記者會- YouTube

江宜樺氏の政治的立場や業績について特に何かを言う立場にありませんし言うべきでもないと思いますが、氏の「話しぶり」についてはファンでした。たとえ原稿を読み上げる会見でも、自らの言葉として消化して話してるのが分かるから。日本の政治家との違いを感じますし、頭いいんだなあと思います。

ディクテーションのすすめ

ディクテーションは、リスニング力向上と語彙力増強にとても役立つ学習法だと思います。手書きじゃなくてパソコン入力でOK(ピンインで打つから発音の確認になります)。画面にWordなどのワープロソフトと音声(もしくは映像)の再生ソフトを立ち上げておいて、聴きながらどんどん入力していくのです。

ただ作業が面倒くさいと長続きしないので、まずはYouTubeなどの映像をダウンロードして再生ソフト(QuickTimeとかWindows Media Playerとか)から再生するようにし、なおかつキーボードから手を離さず続けられる環境にしておくことが大切です。再生ソフトの再生ボタンと停止ボタンをいちいちマウスで操作するのは面倒ですから。YouTube映像のダウンローダーはネット上にたくさんあります(フリーソフトも)から、検索して探して下さい。

でもって再生。QuickTimeなど、スペースボタンで再生と停止が操作できるものもありますが、ディクテーションなのでできれば聴き取りにくい箇所を何度も繰り返し再生したい。つまり停止したら少し戻ってもう一度再生……というのをなるべくストレスなしで実現したいところです。そこでWindowsの方は「おこしやす2」を、Macの方はとあるマクロを使うのがお勧めです。以前このブログにまとめたことがあるので、ご参考まで。

Windowshttp://qianchong.hatenablog.com/entry/20091221/p2
Machttp://qianchong.hatenablog.com/entry/2013/04/02/091409

私はもうかれこれ15年くらいディクテーションを趣味と実益を兼ねてやってます。趣味というのは、ディクテーション自体が楽しいから。特に聴き取れなかった部分を前後関係から辞書やネットで調べて「ああ、こう言っていたんだ!」と腑に落ちる瞬間が快感です。そうやって調べがついた部分は本当に自分のリスニング力として身についたような気がします。実益というのは、こうしてディクテーションした素材を学校の教材などに応用できるからです。特に「実況録音(原稿を読み上げる教材的な音声ではなく、生身の人間が自由にしゃべっている音声)」の教材はあまり多くないので、中級以上のクラスで使うのに最適な教材になってくれます。

能と「互動」

先週末の能楽堂でのお稽古会(発表会)も終わり、暮らしも仕事も通常モードに戻りました。今回は連吟で「敦盛」「紅葉狩」「枕慈童」を謡い、初の舞囃子で「賀茂」を舞いました。終わってみれば「まだまだ」とため息ばかりの結果ですが、まあ何とか間違えずに、途中で止まらずに、最後までつとめおおせることができてよかったです。

舞囃子はコーラスである「地謡」の他に、オーケストラである「囃子方」の笛、小鼓、大鼓、太鼓が加わります。地謡は大先生(おおせんせい)のところの、この道数十年というお弟子さん方、囃子方はプロの能楽師の先生方です。ハッキリ言って不釣り合いですが、仕方がありません。

完全にすり合わせない

能という演劇は(便宜的に演劇と言っちゃいますが)ちょっと特殊で、リハーサルが一回しかありません。通常、演劇なら台本の読み合わせから始まって、立ち稽古、通し稽古、本番と全く同じ照明や衣裳や音楽のもとでおこなうゲネプロまで、何度も調整を行いますよね。それが、直前に一度だけ。それもタイミングを確認する程度の簡易なもの。

要するに(とまとめてしまうのも強引かつ粗雑ですが)、俳優もコーラスもオーケストラもそれぞれ日々稽古に励んで技術を極限まで高めておいて、本番でお互いの技術を発揮しつつも相手との微妙な間合いをとってその時だけの達成を作り出すという……。それだけ古来からの型が継承されて内在化されている、だから何度も調整する必要はないということなんでしょうけど、逆に全部型どおりにすり合わせちゃったらかえって面白くない、ということなのかもしれません。

さらに驚くのは、舞台へ出る前に準備運動とかストレッチとか発声練習とかをどうやらほとんどしないようなんですよね。これも西洋的な演劇のあり方からすれば、考えられないことかもしれません。どれだけ「技」が身体と同期していて、いつでも「待ったなし」で使える状態になっているんだということですが。*1

初めての申し合わせ

で、そんなプロの能楽師の方々ならまだしも、私のような素人はそういうわけにもいかず、師匠は何度も通しの稽古につき合って下さいました。そして、本番の二日前に、実際の能舞台で、地謡とお囃子も加わった「申し合わせ」というリハーサルに生まれて初めて参加したわけですが……。

いや、もう、とにかくお囃子の音の巨大さにびっくりしました。ふだん見所(客席)から鑑賞している時とは桁違いの迫力です。あれは何だろう、舞台の上にある屋根に反響しているからなのか、音の洪水と言ってもいいほどの怒濤の音量でした。能楽師の方々は普段、こんな音の中で時にあの静かな舞を舞っているのか、と驚きました。

舞囃子「賀茂」では、自分が舞い始める前に地謡が「山河草木動揺して〜」と謡う部分があるのですが、山河草木どころか自分が大いに動揺しちゃって、そのあと立って舞い始めるも、かなりの混乱状態でした。というわけで拍子は踏み外すわ、囃子方のかけ声は聞こえないわで、さんざんな結果に終わりました。

そのあと師匠からいろいろと注意を頂いて、とにかく普段の稽古よりもずいぶんゆったりした流れになること、特に自分が謡う「シテ謡」の部分はもっとたっぷり謡うこと、その中でも緩急をつけ、メリハリを持って舞う必要があること*2……等々を肝に銘じつつ、その日の晩もアパートの屋上で練習しました。

で、本番。初めての「申し合わせ」でようやく得心がいった部分をいくつもおさえたので(太鼓が「シテ謡」に合わせてリズムを刻んでいることすら分かってませんでした)、それほど動揺せずに舞うことができました。それでもいくつかタイミングを間違えましたし、あとから録画を見てみたら、緩急があまり効いてなくて全体的にゆったりした静かな舞になっちゃってました。「山河草木動揺」するくらいの「雷(いかづち)の神」が主人公の、特に強さが必要な舞だというのに。

お互いに動く

反省することしきりですが、ひとつ腑に落ちたことがあります。それは中国語の「互動(hu4 dong4)」ってこういうことかしら、ということです。「互動」は現代の中国語でよく使われる言葉で、まあ「双方向の働きかけ」とか「インタラクティブな動き」とか、もっと平たく「コミュニケーション」といった意味ですけど、能というのはこの「互動」の世界なのかもしれないと。

能が入念なリハーサルは行わずに、ほとんどぶっつけ本番で、しかし深い達成を示すことができるのは、演者もコーラスもオーケストラもお互いがお互いの動きに神経を研ぎ澄ませ、あっちがこう出たからこっちはこう受けるとか、ここを押されたからここを引いてみるとか、そういうことをその瞬間瞬間で緻密に繰り返しているからなのかもしれません。

そして私のような素人が、まだまだ箸にも棒にもかからないのは、その「互動」が立ち上がっておらず、単に自分だけ突っ走ってしまったり、逆に地謡やお囃子の声や音に気圧されてしまったりしている段階だからなんですね。逆にプロの能楽師の舞台に気力や気迫が充満しているのは、絶えず繰り返される「互動」が最大限かつ最適な形で発揮された結果なのでしょう。

また来年の会に向けて、細々とですがお稽古を続けて行こうと思います。伝統芸能の稽古を続けていると、やりようにもよるけれどそれなりにお金がかかるし、だからといって例えば絵画や骨董品のように手元に何か形のある物が残るわけでもありません。単に身体の記憶が積み重なって行くだけ。で、死んだら「遺産」も残らず、全部無に帰しちゃう。でもそれがいいんですよね。

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*1:その証左に、たまたま急用で休まれた方の代演という形で、師匠がサプライズ舞囃子「田村」を舞われたんですけど、そのあまりの迫力に、隣にいた細君が「今まで素人さんのばっかり見てたから私にも分かる。プロの舞は全く違うねえ」と言っていました。

*2:そういえば今さらですけど「序破急」という言葉もありましたね。

母語ではなくても推したり敲いたりできるか

台風が関東地方を直撃した昨日は、朝から都内某所でお仕事でした。私は千葉県の奥地に住んでいて、常磐線が停まってしまったら代替輸送機関を探すのはほぼ不可能な場所なので、万一を考えてお仕事の現場近くに前泊しちゃいました。格安のビジネスホテルですけど、もちろん自前だから辛いところです。

昨日のパートナーは中国語ネイティブの女性でした。通訳のお仕事はこうして二人や三人でチームを組んで行うこともあります。色々な方がいるので毎回緊張して現場に向かいますが、昨日の方は大先輩ですけどとても気さくな方で、いろいろとサポートしてくださいました。

交代で通訳しているんだから、通訳していない間は休んでいるかというと、まあ休んではいるんですけど、そばで数字や固有名詞をメモしてサポートしたり、不測の事態が起こった場合に対応したりと常に「臨戦態勢」ではあります。でも人によっては「我関せず」な方もいたりして、本当に様々な方がいますね。

私はと言えば先輩通訳者の顰みに倣ってなるべくサポートしようとしますけど、人によっては却って煩わしく感じるという方もいて、難しいところです。でもまあ、クライアントに負担を掛けず、仕事を滞りなく終了させることが目的ですから、臨機応変に行くしかありません。

何度も書いていますけど、日本における中国語の通訳業界はちょっと特殊で、中国語ネイティブの方が市場に半数か、ひょっとしたらそれ以上いらっしゃると思います。「思います」というのは根拠になるデータを持っていないからですけど、自分自身が現場でお目にかかる方を見ても、また諸先輩方から聞いた話からしても、中国語ネイティブの割合は高いと思います。

これが日本における英語の通訳業界だと、様相が全く違います。日本国内で、英日通訳に従事されている英語ネイティブ、もちろんいらっしゃいますけど、半数かそれ以上を占めているということはないと思います。中国語に比べればかなり低い割合でしょう。つまり英語通訳業界では多くの場合、日本語ネイティブの通訳者が業務を行っているわけです。

日本では中国語ネイティブの通訳者が多い。では中国や台湾などで日本語ネイティブの通訳者が半数か、それ以上を占めているかと言ったら、そんなことはありません。やはり大半は中国語ネイティブの通訳者でしょう。もちろん背景には経済的な格差とか歴史的・地理的な要因があって、こうした英語と違う様相を呈しているわけですが、少なくとも日本においては、私たち日本語ネイティブも中国語ネイティブを見習ってもっと語学や通訳訓練に奮起しなければいけませんね*1

通訳訓練といえば、通訳学校などでの中国語通訳クラスは、基本的に中→日は日本語ネイティブ、日→中は中国語ネイティブが担当されています。つまり母語方向への訳出を担当するという形です。でも英語通訳クラスでは、かなりの割合を日本語ネイティブの先生が占めています。英→日も日→英も日本語ネイティブの先生が担当されているんですね。

何度か英語通訳クラスを見学させていただいたことがありますが、日本語ネイティブの先生が生徒の日→英訳について「その表現はよくない」「この表現がよい」とはっきり評価し、判断を示されていたのが印象的でした。母語ではなくても、それだけの判断を自信を持って伝えることができるくらい語学に習熟されているわけで。

私など、例えばインタビューなどの訓練で中日日中双方向の訳出に評価を出すこともありますが、母語ではない方向の訳出についてもそれくらい自信を持って見解を指し示すことができるだろうかと考えると、内心忸怩たるものがあります。

それに以前宮仕えをしていた時に、中国語ネイティブが添削した日本人の中文を、その日本人に「どうも納得できなくて……」と乞われて私が更に添削したことがあるんですが、それを知った件の中国語ネイティブは真っ赤になって怒った……というのがトラウマになってまして。わはは。まあその方にすればまさに「面子をつぶされた」というところでしょうね。みなさん自分の母語に関してはプライドがあるものね。

でもね、でもですよ。やはりこれも毎回書いていることですけど、たとえその言語のネイティブであっても、レベルは様々だと思うんです。だからこそ勉強の結果によっては非ネイティブであっても高いレベルで言葉の推敲や判断ができるかもしれない。あの英語クラスの先生方のように。

ただし中国語クラスは、英語クラスと違って生徒も半数かそれ以上は中国語ネイティブなんですけどね。だから中国語ネイティブの前で日→中の訳出についてコメントするのはとても勇気がいります。必要に応じて蛮勇を振るってますけど、正直やっぱり怖いです。

とまれ、非ネイティブだからといって、怖じ気づいてちゃいけない。ネイティブだからといって、自信過剰はよくない。以て自戒としたいと思います。戒めてばかりでは進歩がないので、さしあたってはそうですね、日本語能力試験の一級を受けてみることにしましょうか。

追記

調べてみると、日本語母語話者が日本語能力試験を受けることはできないようです。そのかわり「日本語検定」というものがあるそうです。こちらに挑戦してみましょう。
http://www.nihongokentei.jp/

*1:あと、男性が圧倒的に少ないです。私のような日本語ネイティブの男性が一番奮起しなければいけません。

どんぶり勘定人間への福音

仕事の帰りに日暮里のエキュートにある本屋さんに立ち寄ったら、『正しい家計管理』という本が目に留まりました。帯には「どんぶり勘定は低収入より恐ろしい」とあります。何という秀逸な惹句。「割れ鍋に綴じ蓋」ならぬ「どんぶりにどんぶり」な私たち夫婦にとっては必見の書と、即買い求めました。


正しい家計管理

読み始めてから気がつきましたが、林氏はベストセラーになった『餃子屋と高級フレンチでは、どちらが儲かるか?』の著者だったんですね。同書は立ち読み+マンガ版でぱらぱらと読みましたが、氏のご本をじっくり読んだのは初めてでした。

一読、素晴らしい本でした。この本に従って簡単な財産目録と収支実績表と特別支出予測表を作るだけでも、家計の現状が一目瞭然。私のようなどんぶり勘定人間には特に効きます。ボンヤリと意識していた収支がクリアになり、仕事への活力がわきます。同時に、様々な無駄な支出もクリアに浮かび上がってきます。

林氏の主張で素晴らしいのは、家計管理は「家計簿」をつけて「節約」することがその本義ではないと喝破しているところ。それは後づけの言わば後退戦だと。そうではなくて、企業のような倒産が絶対に許されない家庭の家計にこそ、実は会社経営のような考え方が必要だと。どんぶり勘定人間はそこから逃げてたんですね。

世の中カネじゃないよ、俺はカネに振り回されないぜと吹聴し、宵越しの金は持たねえと威勢のいい啖呵を切りつつ、その実いつも漠然としたお金の不安がつきまとっている「月光族」な方々には福音になるかもしれない本だと思います。あ、「月光族」は中国語ですが、もう古い言葉になっちゃったかもしれません。
参考:http://matome.naver.jp/odai/2139915898315939301

どんぶり勘定人間って、「んな、財産目録とか収支実績とか、大袈裟な。だいたい俺、財産なんてほとんどないから書き出すまでもないし」と思ってるんですよね。私がまさにそれでした。でも騙されたつもりで虚心坦懐に一つ一つ表を埋めてみた効果は抜群でした。分かったつもりと可視化することの差はあまりにも大きいということです。

お金って、特に今の時代はキャッシュレス化が進んでいて、可視化がしにくいんですよね。家計の現状を把握し見直すことは、言わば家計の「断捨離」なんですけど、モノの断捨離と違って目に見えにくいうえに流動性があるので、ずぼらな人間はすぐ投げ出しちゃう。でもこの本で考え方が変わりました。

ハッキリ言って地味な本ですから、「キャリアポルノ」みたいな高揚感は期待しない方がいいでしょう。また、実際の作業はけっこうしんどいので、途中で投げ出したくなることもあると思います。それでも格差が広がり、低成長、あるいは衰退期(いやいや、高度に成熟した安定期とポジティブに表現しておきましょう)に入ったこの国において、今とこれから自分が稼ぎ使える「お金」について冷静な意識を持つことは、ますます必須の教養とでも言うべきものになっていくのではないでしょうか。そんなことを気づかせてくれたこの本と林氏に感謝したいと思います。

拍手とブラボーについて

夏の稽古会は無事に……でもないけど、なんとか終わりました。私は「賀茂」の仕舞と、「野守」「紅葉狩」の連吟と、先輩方の仕舞の地謡をいくつかつとめさせていただきました。

打ち上げの宴会で大先生(おおせんせい)が「最後に向かってどんどん盛り上がっていく熱気がよかった」と仰っていました。最後の番組『紅葉狩』でつとめさせていただいたワキ謡、緊張のあまりがたがたでしたが、少なくとも詞章を間違えたりしなくてよかった、と思いました。

その宴会で大先生に伺ったお話ですが、能の終幕、橋懸かりを渡っているときに客席から拍手が来ると、「ああ、うまく行かなかったのか」とがっくり来るのだそうです。大先生は多くを語られませんでしたが、観客が拍手をする=舞台が終わったと観客の心が切り替わる…くらいではまだまだ、と仰っているのだろうなと思いました。

実は私もつねづね、舞台と客席を仕切る幕がない能舞台において、終幕で拍手をするのが何となくはばかられるような、あるいはシテ方が揚幕の奥に消え、ワキ方が、囃子方が下がり、同時に地謡も切戸口から帰っていく一連の流れの中で、どこで拍手をしたものか……といった、なんとなくもやもやとした気持ちがあったのです。

どなたかが書いていたことの受け売りですが、何もない空間に物語が立ち上がり、時空を超えた世界が広がった後、潮が引くようにふたたび何もない空間に戻っていく、そしてあとには何も残らない……のが能の醍醐味で、拍手による区切りはいらないのではなかろうかとも。

とにかく斯界の泰斗ともいうべき先生から「拍手は、本当は控えていただけると……」との本音を聞くことができて、大いに意を強くしました。これからは私、拍手はしません。余韻を楽しんで、能楽堂を出て帰路に就き、駅のホームあたりまできたら、感動を反芻しながらそっと拍手しようと思います。

余談ですが、大先輩のお弟子さんに伺った「クラシックの演奏会における『ブラボー』は何とかならんのか論」にも苦笑し、首肯することしきりでした。今でもいらっしゃるのね、演奏が終わるか終わらないかの瞬間、誰よりも早く「ブラボる」ことにのみ執念を燃やされてる方。そろそろ「ブラ禁」をアナウンスすべき時代ではないかと先輩は仰っていました。同感です。

母語を学ぶことと外語を学ぶこと

平川克美氏の『グローバリズムという病』を読みました。株式会社をはじめとしたビジネスの論理だけで生き方を考えることに警鐘を鳴らしていて、快哉を叫びました。地域を捨て、文化を捨て、母語を捨て、様々な差異を捨てて「グローバル」なるものに溶け込むことがそんなにいいことなのかと。


グローバリズムという病

でも正直に言うと、かつて自分が中国語を学び、留学を志したのは、家族や地域を捨て、自分の文化や母語から脱却しようとする試みだったと思います。まさにグローバルに溶け込みたいと思っていたんです。でも、外から自分のルーツを見つめ直して、考え方が180度変わりました。

だから留学のように海外に身を置いて言葉を学ぶのはとても貴重な体験になると思います。でも、それは母語でこの世界、あるいは森羅万象を切り取ることが出来るようになってからの方がいいんじゃないかとも思います。例えば昨今「(グローバル化という)バスに乗り遅れるな」とばかりに、子供の母語の獲得もそこそこの段階で英語圏へ移住したりする方がいますが、それは子供を「英語の人」にしちゃうだけ……という可能性もあるのではないかと。

母語で世界を切り取ることは、ほとんど「呼吸ができる」のと同様の死活的能力なので、「バスに乗り遅れるな」に乗せられて幼児から英語教育にのめり込むのは危ないです。「英語の人」になってしまえるならまだマシですが、多くの場合「虻蜂取らず」になります。いわゆる「ダブルリミテッド(セミリンガル)」の問題です。そしてその危険性はあまり知られていません。

ダブルリミテッドの危険性

「ダブルリミテッド」の危険性については、Googleなどで検索してみれば様々な方面から警鐘が鳴らされていることが分かります。「ダブルリミテッド」の特徴は様々ですし、個人差も大きいですが、例えば「どちらのことばを使っても、両方を混ぜても、自分の言いたいことが言い表せない」とか「会話はできるが、教科学習になると(例えば、算数の文章題)、どちらの言語でも学習困難」などの生徒は私も専門学校などの教育現場で実際に目の当たりにしてきました。

こちらで読んだ、帰国子女で「ダブルリミテッド」と思われる中学三年生の男子生徒が書いた作文には、その苦しみの一端を垣間見ることができます。

ぼくは海外に住んでことばの重要性がわかりました。なぜかというと、ぼくはいま、自由にはなしたり、書いたり、読めることばが一つもないからです。ぼくはいま、二つのことばをしっています。それは、英語と日本語ですが、知っているといっても二つとも不完全なので自由につかえません。ことばを自由につかえないというのは大変なことです。この作文一つ書くのでも、ぼくにとっては大変な時間がかかります。ぼくにとっては、不完全なことばが二つあるより、一つの完全なことばがある方がいいのです。(中略)今、ぼくは二つの中途はんぱなことばや考え方のなかで生きています、いろいろ不自由でなさけなくなることがいっぱいあります。
http://www.hakuoh.ac.jp/~katakata/ronbun/1-3.htm


う~ん、外語は何度でも学び直すことができますが、母語はそう簡単にはいかないものなあ。私も勤務先の中国語学校で同じような生徒(いわゆる「帰国子女」と呼ばれるような)に接したことがあるので、本当に悩みの深さが分かります。

帰国子女のなかには、深く悩む「ダブルリミテッド」の生徒がいる一方で、自分は「バイリンガル」だからと慢心してしまう生徒もいました。確かにお喋りレベルでは流暢なので、周りからも一目置かれて。中国語は先生の方がヘタじゃん、くらいに思ってたりして。でもいざ進学や就職となると、文章題などに歯が立たなくて挫折してしまって……。実際には母語と外語の「虻蜂取らず」状態にあるのですが、本人にはその自覚も、また「ダブルリミテッド」がどういう状態なのかについての理解もなくて、深く悩んでいるのです。

どちらの言語も高度に運用できる「バイリンガル」への教育が不可能とは決して思いませんが、保護者や教師にかなりの知識と覚悟と用意周到な計画が必要なのではないでしょうか。だから外語圏に放り込めば何とかなるというのは、かなり危ないと思います。

外語は必要になってから学んでも遅くない

小学校低学年から国民上げて英語に狂奔する(と言うのが大袈裟なら、他の教科を削って英語にウェイトを置く)というのはやめて、まずは日本語で複雑な・高度な思考ができるようにすべきです。外語はその後に、必要になった時点で必要になった人だけが学べばいい。語学には実は向き不向きもありますし。

外語を学ぶなというわけじゃないんです。大いに学ぶべきだし、私もその外語学習者のはしくれです。ただ、母語がほぼ確立した大人は同時に日本文化を学び、自分の母語に慢心しないで更に高みを目指すべきだし、母語が確立していない子供に過度に外語を注ぎ込むのは弊害があるのではということです。親御さんが教育機関と緊密に連携をとってバイリンガルに育て上げた奇跡的な例も見聞したことがありますが、それはまさに「奇跡」なんですよね。もちろん、外語を母語にしようと決心するなら、それはそれでまあ仕方ないとも思うんですが(自分が親ならちょっと寂しいけど)。

言語、特に母語はその人の存在の根本に関わるものなので、もう少し慎重にというか、怖れのようなものがあってもいいと思います。だから例えば「言語なんて単なるツール」という物言いは、母語と外語を混同していてやや危うい。母語が十分に成熟した人が学ぶ外語は「ツール」たりえるでしょうけど……。平川氏も仰るように、英語は必要な人が必要な年齢になったら「専門学校」で学べばいいと思います。

必要な人が必要になった時期から始めて外語がモノになるのか。企業派遣の語学クラスを担当した経験から言えば、なります。本気の企業は語学研修に半端ではない集中度と時間をセットします。大切なのは集中度×時間×本人のやる気で、小学校低学年から週に数時間などというのはすごく非効率な学び方です。……ああでも、大人が語学をゆったりのんびり学ぶのも、もちろん悪くないんですけどね。「非効率」だなんて、私も「グローバリズムの病」にかなり冒されていますね。

補記:日本の文化をどうやって発信するか

日本人は昔から外語を熱心に学び、洋の東西の優れた文化を翻訳して取り込んで来ました。その営みは今もこれからも大切ですし、それを日本語母語話者が担うことも意味のあることですが、それと同時に日本人が日本の文化を深く理解し、自らの日本語を更に高め、ひいては日本語や日本文化の理解者を増やすことも大切だと思います。

日本文化を充実させて、じゃあそれをどうやって外国に発信するのか? 日本語を解する外国人に発信してもらうのです。もっともっと多くの外国人が日本に興味を持ち、日本語を学び、日本の文化を愛してくれる方向に、予算と力を割くべきです。全国民が英語に狂奔するのはほどほどにして。

そんな都合のいいことが起こるのか? 実は中国語圏ではそういうことが起こりつつあります。日本文化が好きで日本語を学んだチャイニーズが大勢いて、中国語圏に発信してくれている。畢竟外語は外語で母語には劣るのが普通ですから、母語話者に発信してもらう方がより深く伝わると思います。

例えば中国で人気になっている雑誌『知日』。日本文化を愛し、日本語にも堪能な中国人の手で、中国語圏に向けて発信されています。私のような日本語母語話者がどれだけ頑張っても、あそこまでのクオリティで中国語を駆使して中国語圏に発信するのは難しいでしょう。だから「知日」者を増やすのが大切。

shop-kodensha.jp

こちらに、『知日』の編集主幹である毛丹青氏の講演録があります。日本文化を対外発信することについて、大切な示唆が数多く含まれていると思います。


毛丹青 神戸国際大学教授 2014.5.16 - YouTube

何より『知日』の成功というのは、成功とは言いませんけれども、われわれが少なくとも元気で、ここまでやってこれたということの大きなポイントは、「中国人による中国人のための日本」だったんです。これは日本の方によってつくったものではありません。全て中国人の手によってつくっていくという、これが非常に大きいです。
http://www.jnpc.or.jp/files/2014/05/7dad2af945fb007ef0f21235d3392f72.pdf

そして、こんなことも仰っています。

例えば日本で、果たして中国のライフスタイルをネタにして雑誌をつくれるかというと、つくれないんです。まず、売れないんです。売れない。このギャップを僕は非常に不思議に思っているんです。中国で日本を紹介することでビジネスモデルとして立派にできているのに、一方で日本は全くできていない。日本でできたのは『三国志』『水滸伝』『論語』とか。昔の話です。孔子とか、もう死んで何千年ぐらいの人。
http://www.jnpc.or.jp/files/2014/05/7dad2af945fb007ef0f21235d3392f72.pdf

う〜ん、確かにこれまで中国ブームも「華流」も「台風」も自然発生的にだったり、仕掛けられたりだったりして起こってはきたけど、長続きしていないですもんね。これは私たちに課せられた宿題ですね。

文化侵略ではないかと世界各地で批判も起こっている、中国政府の中国語教育機関孔子学院」。私もいろいろ疑問に思うことはありますが、自国の言葉を世界に広めようとする試みは他国だってやっています。日本ももっとやればいいのにな。なにせ億単位の使用者がいる、世界でも数少ない「巨大言語」なんですから、日本語は。

麻痺のその後2

顔面神経麻痺(ベル麻痺)を発症して約ひと月半ほど。症状はあいかわらず「横這い」ですが、まあ何とか生活しています。

顔面神経麻痺といっても、顔面の麻痺そのものは単に顔の表情筋が動かせないくらいで、別に痛みがあるわけでもありません。抜歯をしたときに麻酔をしますが、その麻酔が一部抜けないで残っているくらいの感覚です。でもそれに伴って発生する諸々の身体的症状がかなり生活に支障をきたします。

まず瞼が閉じにくいことによる、眼の痛み。涙が止まらない、逆に眼が乾く、また涙目になることによって視界がぼやけるなどいろいろと厄介です。それから飲食がしにくくなること。特に液体物や熱い食べ物が苦手です。口を大きく開けるのも、これまた困難。幸い話すことにはあまり影響は出ませんが、それでも長時間話していると滑舌が悪くなります。またこれは最近始まったのですが、麻痺がある方の肩から腕にかけての強い痛みと掌の痺れ。これはかなり辛いです。

そして特徴的なのが、以上全ての症状が、波状的に襲ってくること。一日のうちでも、ほとんど気にならない程度に軽減している時間があるかと思うと、逆に人生降りてしまいたくなるくらいに悶絶する痛みを伴うこともあります。

発症した際に、とても心強かったのは何と言ってもインターネット上の情報です。ホント、ネットがない時代だったらとてつもなく不安になったでしょうね。でも玉石混淆がネットの宿命、色々な方が色々なことを言っており、時にそれが正反対の考え方だったりもするので、そこは混乱の元にもなります。その点で、すぐに近くの大学病院に行ったのはまあ正解だったと思います。受診するのは神経科ではなく耳鼻咽喉科であるのもポイント。

大学病院で処方された薬の服用期間が終わってからは、リハビリ。といっても自分で顔のマッサージをする程度。その他に鍼治療や若い頃から通っているカイロプラクティックや漢方医の処方を受けました。しかし何ですね、ここでも色々な方が色々なことを言っていて、これまた時に正反対の考え方があったりして、やはり混乱しますね。あまつさえ「ベル麻痺は何にもしなくたって九割方は治る」みたいな極端な情報もあったりして。

そんな中で最近この本を見つけました。


顔面神経麻痺が起きたらすぐに読む本

60ページほどの小冊子ですから、すぐ読めちゃいます。そして結果から言えば、なぜもっと早くこの本を読まなかったのかと後悔しました。新しい分野のことを学ぶ時はいつもAmazonで関連書籍を渉猟して片っ端から読むようにしているのに、なぜ今回だけはそうしなかったのか……やはり不安で進むべき方向を見失っていたんでしょうね。

この小冊子には、ベル麻痺の発症の仕組みと原因、治療とリハビリについて、簡潔に分かりやすく描かれています。そのエッセンスをごくごく簡単にまとめれば「症状の程度と回復の度合いに応じた、適切な治療とリハビリが必要」ということになります。至極当たり前のように思えますが、ひとくちにベル麻痺と言っても、発症直後は誰もがほとんど同じ経過をたどるものの、その後の展開はかなり個人差があるようでして、その個人差に応じた対応が必要かつ重要ということなんです。

人口10万人あたりの発症率が1年に20〜30人とされるベル麻痺。特に中高年以降の発症率は高いそうですから、みなさまお気をつけください。主因は誰もが持っている可能性のあるウイルスですが、誘因は生活や仕事上のストレスや免疫力低下だそうですから、ムリをしている方は特に。でもって、万一発症してしまったら、すぐに上記の本を読むことをオススメします。

義父と暮らせば17:ヘルパーさんに来てもらって

細君の実家から車で15分ほどの場所に引っ越して数週間。

我々が同居しなくなったことで、お義父さんは介護保険を利用したヘルパーさんのサービスを受けられるようになりました。現在は週に2回、1時間ずつ、洗濯や炊事や買い物などを手伝ってもらっています。このヘルパーさんのサービス、家族が同居していると受けられないんですよね。それでケアマネさんも以前から「近くに家を借りて住むことができれば一番いいんですけど」と勧めてくださっていたわけです。

これ、同じ家に同居だとダメですが、隣に住んでいるんだったらオーケーなんだそうです。う〜ん、それもなんだか……でも行政的にはどこかで線引きしなきゃ制度がなし崩しになっちゃうから、しかたないのでしょう。でも、同じ敷地内の離れとか、二世帯住宅とかだったらどうなるんでしょうね。

とにかく、ヘルパーさんが入ってくれるようになったことで、我々の負担はずいぶん軽減されました。自己負担率は1割なので、週2回、月に8回来てもらっても、月額2000円。1回1時間で250円という安さです。もっとも介護保険が9割負担してくれるんだから、一時間あたりのコストは2500円、ヘルパーさんの報酬がいくらかは知りませんが、けっこうなお金がお年寄りの介護や世話に投入されていることが分かります。

公的保険で、自らも保険料を払っているんですから何も後ろめたいことはありませんし、すでに介護を経験済みの友人知人も「頼れるところにはできるだけ頼った方がいい」とアドバイスしてくれますし、我々だって自分の人生があるんだから確かにその通りなんですけど、こうやって高齢者のケアに膨大なお金が投入されていくのだなあと考えると、それでなくても財政が破綻しかかっているこの国で……という複雑な思いが(ちょっぴり。偽善だね)いたします。

ヘルパーさんにお願いできるのは基本的にその家の中のことだけです。つまり掃除や洗濯や炊事といった家事ですが、その他に買い物を頼むこともできます。お義父さんも最初は「俺はまだそんな手助けはいらん!」とケアマネさんや我々を困らせていたのですが、お願いしてみればまあまんざら悪くもないと思ったようで、あれこれ買ってきてもらっているみたいです。細君に頼むと「またそんなもの欲しがって! うちにある○○で我慢すればいいじゃない」とか「そんなの食べたり飲んだりしたら身体に悪いじゃない」などと言われてメンドーくさいですからね。

というかね、昨日も実家に行ってきたんですけど、お義父さん、明らかに元気になってる! 我々と同居していたときより、明らかに活き活きしているんです。我々は狭い実家でお義父さんと同居してストレスをためていたわけですが、お義父さんもお義父さんでストレスをためていたんだなあと思いました。かつてお義父さんが「死ぬ前にもう一度お前と暮らしたい」と細君にこぼしたことから我々は同居を決めたんですけど、いざ同居してみたら「娘夫婦と一緒に暮らすの、やっぱ面倒だわ」と思ったっちゅ〜ことですかね。

まあこの先、要支援度・要介護度が高くなっていったらまたどうなるかは分かりませんが、お年寄りが身の回りのことを何とかできるくらいのレベルならば、つかず離れず+行政サービスに頼らせてもらうというのがいいと思います。

国に棄てられた人々

昨日、都内の某大学で、台湾の近現代史に関する簡単なレクチャーを行ってきました。

レクチャーといっても私は台湾近現代史の専門家でも何でもないんですけど、仕事などでその地域に関わっている社会人を講師に招いて話させるという連続講座のひとつということで、私を呼んでくださったのです。毎回の講座ではその地域や歴史に関するドキュメンタリー映画を見ながら話をするというのがひとつのパターンだそうで、私は酒井充子監督の『台湾アイデンティティー』を選びました。


『台湾アイデンティティー』予告編 - YouTube

まず最初に、清朝の時代から日本統治時代、戦後の国民党政府による支配あたりまでをざっくりと説明。これ、全てを網羅しようとか、学術的な無謬性を追求しようなどとすればキリがないし、ましてや専門家でもない私の手に負えるものでもないので、本当にざっくりと。特に、それぞれの時代背景に応じて様々な人たちが台湾にやってきたこと、それ以前からこの土地にいた「原住民」がいたこと、それぞれの人たちの文化、とりわけ言語が様々に入り交じっていること……をポイントにしました。

私たち日本人は、この土地にほぼひとつの民族が、ほぼひとつの言語でもって暮らせてきたわけで、世界的に見ればこれはかなり特異なケースだと思います。だから、例えば台湾のような複雑な民族的・言語的背景を抱えた社会に対してなかなか想像力が働かないんですよね。というわけで、これから社会に出て仕事をしようとしている学生さんが、そういう想像力を働かせながら世界を見てくれたらいいなと思いながら話をしました。

台湾の言語環境について、台湾に住んでいた時にその複雑さを最も身近に感じたのは電車のアナウンスでした。そこでこういう音声を聞いてもらいました。台湾の鉄道では、一般に國語(北京語)、台湾語客家語、英語、場所によっては更に少数民族の言語でもアナウンスが行われます。


台湾の車内放送- YouTube

『台湾アイデンティティー』以外にも、いくつかの映画のトレーラーを見てもらいました。日本統治時代については、『KANO』と『セデック・バレ』を。嘉義農林高校が甲子園で準優勝したのが1931年、台湾統治時代最大の抗日暴動事件である霧社事件が起こったのは1930年。この対照的な映画はほぼ同時代の物語なんですね。


《KANO》六分鐘故事預告- YouTube


『セデック・バレ』予告編 - YouTube

日本が敗戦を迎え、台湾から引き揚げた1945年については『海角七號』を。こうなると、ほとんど監督でありプロデューサーでもある魏徳聖氏の特集ですね。


【台湾映画】『海角七号/君想う、国境の南』日本上映(公開)予告PV - YouTube

でもって、日本人の代わりに大陸からやって来た外省人と、日本統治時代から台湾にいた本省人との抗争である二二八事件を描いた『悲情城市』も紹介しようと準備だけはしていたんですけど、こちらは時間の都合もあって泣く泣くカットしました。それにこの映画、「つまみ食い」する程度だとほとんど何が何だか分からないと思いますし。


悲情城市- YouTube

レクチャーと映画鑑賞が終わった後で、私を呼んでくださった大学の先生が補足の説明をしてくださいました。特に『台湾アイデンティティー』に出てくる、日本統治時代に日本人として教育を受けた世代のお年寄りが発した「日本に棄てられた」「日本人になりたかったけど、なれなかった」という言葉について。

台湾には、日本に棄てられたという思いの人がたくさんいるということ。でもそれは、あの時代の特異な出来事と片づけてしまえるものではなく、現代に生きる私たちにも起こりうる、あるいは既に起こりつつあるのではないかということ。例えば原発事故によって故郷を棄てざるを得なかった福島の人たちに対する政府の対応。さらには格差が広がる中で、ワーキングプアとして棄てられていく若い世代の一部……。

国に棄てられるなんて、今を生きる自分には全く関係のない話で、自らに降りかかってはこないと考えるかもしれないけど、本当にそうかな……と先生は学生さんたちに問いかけていて、へええ、私の拙いレクチャーからここまで引っ張ってこられるなんてすごい、と感嘆しつつ大学をあとにしました。

新聞を読みましょう

通訳学校で、春学期の授業が始まりました。半年間の訓練の最初に行うガイダンスで、いつも「一般常識テスト」を行っています。と言ってもたいしたものではなく、日本と中国語圏の時事や教養に関する語彙について、口頭で簡単に説明してもらうだけです。今春はこの30問でした。

シャドーバンキング/九段線/五毛党/リバランス政策/江宜樺/王毅/服貿・貨貿/BAOSTEEL EMOTION/リコノミクス/岸田文雄/王金平/霧社事件/二二八事件/海瑞罷官論争/梁振英/呉宗憲/大躍進/樣板戲/ジニ係数ビッグデータ/リー・シェンロン(李顕龍)/KANO/李娜陳偉殷ダイバーシティ/微熱山丘/程永華パンチェン・ラマ/小米/胡徳平

ごくごく最近のニュースで流れた言葉もありますし、近現代史*1に関する言葉もありますし、あるいはスポーツやカルチャーに属するもの、少々「カルトクイズ的」、あるいは「オタク的」な言葉もあります。総じて、幅広い分野について日頃からどれだけ広く浅く(ホントは広く深くが理想だけど、限界があるので)関心を向けているか、もし向けていなかったのならこれから意識的に向けるようにしましょうという、まあ自戒も込めての出題なわけです。

通訳の現場に行けば分かりますけど、通訳者が呼ばれるような現場に来ている方々はだいたいがその業界の先端にいる方ばかりで、しかも本当によく勉強されています。そんな中で、その業界に関して一番の門外漢である我々が一番前に出て話を繋がなければいけないんですから、専門知識は逆立ちしても追いつけないにしても、せめて一般常識や時事用語に類する部分だけでも自助努力しておきたいではないですか。

しかもこういう「雑学的」な「オタク的」な幅広い知識って、現場で意外に役立つものなんですよ。ちょっとした話の端々にそういう知識が前提となっている発言が飛び出すんです。そんなときに、日本と中国語圏に関する知識すら「なに?それ」状態だったら、仕事に取り組む姿勢すら疑われてしまいます。「あんた、本当に日中通訳者?」って。

先年亡くなられた英語翻訳者の山岡洋一氏が、『翻訳とは何か』でこんなことを書かれています。私は毎学期、この部分のコピーを生徒さんに配付しています。

(翻訳学校に通う生徒の多くは)講師に教えられた通りにまじめに学習しようとするが、自分で学習しようと考えることはない。


簡単な例をあげよう。大きな書店に行けば,翻訳に関する本はいくつも並んでいる。翻訳書なら小さな書店でも何百点かは並んでいる。翻訳に関心があるのであれば、まして翻訳を学習しようとするのであれば,これらの本を大量に読んでいるのが当然だ。


ところが、翻訳学校の教室ではこのような常識は通用しない。翻訳関する本をいくつかあげて,読んでいるかどうか質問すると,まずほとんど読んでいない。役に立つはずがない入門書を一冊か二冊読んでいるのが精一杯だ。最近読んだ翻訳書をあげるよう求めても、答えはほとんどない。好きな著者の名前をあげられる受講生はほとんどいないし、まして、好きな翻訳者の名前はあげられない。そもそも、翻訳家については名前すら全く知らない。


野球に熱中している少年なら,野球選手の名前はいくらでも知っているし、町のテニス・クラブに通う主婦なら、ウィンブルドンで上位に入る選手の名前はみな知っている。翻訳に関心があり,翻訳を学習しようとしているはずなのに、翻訳家の名前すら知らないのだ。


ここまで受け身の姿勢で、翻訳ができるようになるのだろうか。


山岡洋一翻訳とは何か―職業としての翻訳

通訳学校の開講日にこんな文章を配るなんて、事務方からクレームがつきそうですが、でも山岡氏のこの痛烈な批判、私たちは真摯に受け止めるべきだと思うんです。翻訳や通訳に関心があるなら、翻訳や通訳に関する本を読むべきだし、翻訳や通訳を可能ならしめるための一般常識や教養の涵養にこれつとめるべきだと思うんです。

昨日は春学期の第二回目だったので、懲りずにまた「一般常識テスト」を行いました。二週間前の第一回目で「通訳者は幅広い雑学知識と教養がなきゃ勤まらないですよ〜」とおどしておいたので、この間意識的に新聞を読んだりネットにアンテナを張ったりしてくれたかしら、というのを確かめたかったのです。ホント、いじわるですね。

グレーゾーン事態/メイソウ/ナレンドラ・モディ/亜信会議(CICA)/曹其鏞/張徳江/浦志強/華春瑩/浄網/三江教会堂/若田光一ベンヤミン・ネタニヤフ/パン・ギムン/マララ・ユスフザイ/美味しんぼパラセル諸島

正答率は……一部の方を除いては、あまり芳しくありませんでした。みなさん、新聞を読みましょうね。「紙の新聞オワタ」などと言っている人もいますが、毎朝広げて日本と中国語圏に関する記事があったら片っ端から読むというの、通訳者や翻訳者を目指す方なら必須の日課だと思います。ネットでもいいけど、紙の辞書と同じで、一覧性や教養の広がりという点から、紙の新聞にはまだまだ存在価値があります*2

逆に言うと、既にもうニュース性や速報性などを求める媒体では全くなくなってるんですよね、紙の新聞。でも通訳者や翻訳者に必要な広く浅い知識や一般常識の涵養にはもってこいです。だいたいのとっかかりだけ得て、興味があれば更に他の媒体に当たるから、報道の偏りなども大した問題ではなくなりますし。

生徒さんの中に「これまで新聞取るのもったいないと思ってたけど、月に数千円をけちってる場合じゃないと思った」という方がいて、よかったと思いました。

*1:辛亥革命あたりからこちらの近現代史について語彙を問うと、中国大陸出身の方でもお若い方はほとんど答えられないことがあります。特に文革関係。「黒歴史」だから教わらないのか……でも現在中国社会を動かしている中核にはまだ文革世代も多いから、知っていると役に立つことがあります。

*2:ネットでニュースや記事を読むと、なぜか記憶に残りにくいんですよね。アレはなぜだろう。小さなウインドウの中をスクロールする文章と、大きな視野にばっと入って来る文章とでは、脳への痕跡の残り方が明らかに違うような気がします。私が旧人類だからかもしれないけど。電子書籍も同じ。

義父と暮らせば16:引っ越します。

お義父さんとの同居を初めてわずか半年。いろいろ考えた結果、同居をやめて近くにマンションを借り、住むことになりました。

もともと細君の実家はかなり手狭で、住み慣れたお義父さんはともかく、我々夫婦がほっと一息つける場所が全くありません。それで家にいても心休まる時間がほとんどなかったのですが、このまま続けて、たとえば「うつ」などになってしまったら大変なので、今回の麻痺を一種のアラームととらえ、引っ越すことにしました。

引っ越すと言っても車で10〜15分程度の近所ですから、これからもちょくちょく行くことになるとは思いますが、我々が同居をしないことで初めて受けられる介護サービスもあるんですよね。これについては担当のケアマネさんから強く勧められました。「つかず離れずの方が、お義父さんのためにも良いことかもしれません」と。

確かに、この狭い家に暮らしていれば、お義父さんの方だってストレスは溜まるはず。特に元々は他人の私が、在宅ワークでけっこう家にいますからね。私は私でそれほどストレスに自覚的じゃなかったんですが、今回、麻痺を発症していろんな方の話を聞くに「原因はハッキリし過ぎているほどハッキリしているんじゃないの」と諭されました。

くわえて、エキセントリックなお義父さんの人となりをよく知る弟さん、細君の母方のおじさんとおばさん、私の恩師や友人の多くが、介護と言ってもまだまだそれほど手がかからない段階だし、ここはいったん離れて暮らした方がいいと忠告してくれました。唯一「もっとよく考えたらどうだ。お義父さんも本当は寂しいんじゃないのか」と止めたのは私の両親。まあ、九州にいて、状況がよく見えないですからね。

やっぱり家を出て、近くにマンションを借りて住むことにしましたよ、と告げたら、お義父さんの第一声は「このソファやテレビも、テレビの下の台も持って行くのか」でした。私たちが前の家から持ち込んだやつね。う〜ん、まずはそれですか……と、軽く落ち込みました。